深く静かに潜る者
背骨に沿って指を這わす。
ちょっとした体温の差。脈動の違い。筋肉の凝り。そういったモノをこの触診で炉狸の指は患部を探り当てるのだ。
ここは、目黒にある相州博徒・小田原金城一家の江戸支部が本拠地にしている宿坊。
現地を任されている仏の三之丞は、寝る前に新しく雇った炉狸という按摩に背中を揉ませないと眠れなくなってしまっていた。
炉狸が、これという一点を親指で押しこむ。
ゆるく、円を描くように、しかし押し戻されないようきっぱりと。
「ああ、たまらぬ、たまらぬ」
三之丞が呻く。小さくポキポキと背骨が鳴った。
「だいぶ凝ってるようですね」
三之丞の枕元に座ってそう言ったのは、金城一家に雇われている密偵ムササビだ。雇われ密偵といっても、小田原の金城一家とムササビが所属する風魔衆とは古い古い付き合いで、身内みたいなものである。なので、身分制度が厳しい博徒の世界でありながら、こうした砕けた席に同席出来る。
江戸に入る前は、昔からの専属按摩を三之丞は使っていた。その男を随伴させて江戸に赴任したのだが、食中毒であっけなく急死。
それで、新しく雇われた按摩が炉狸なのだが、ムササビは彼を信用していない。三之丞と炉狸を二人きりにしないようにしているのだ。
金城一家は、江戸進出をいち早く決め、土着の博徒を籠絡し、合併し、潰した。
最大勢力だった亀戸の無偏辺組を壊滅寸前まで追い詰め、あと一歩で江戸の博徒を統合するところまで来ていたのだった。
それを邪魔したのが、新しい……そして確実に大きくなることが分かっている江戸の市場に食い込もうとした上州博徒の連合。
この連中の対処に追われているうちに、いつの間にか無偏辺組が組織を一新し、侮れない勢力に急成長し、金城一家、上州連合、無偏辺組という三巴の状態になってしまった。
上州の連中はともかく、無偏辺組の急成長はいかにも不自然である。なので、罠を仕掛け兵力を削ろうと企んだ結果、とんでもない情報を手にしてしまった。
無偏辺組は、徳川の息がかかった組織で、博徒は甲州忍の偽装という情報だ。
三之丞は大きな犠牲を払って得たこの情報を、秘匿した。
そして、金城一家だけが利を得る方策を密偵頭であるムササビと協議を続けていたのである。
同時進行で、表向きの無偏辺組との休戦協定。裏では、甲州忍とムササビ配下の風魔忍との熾烈な暗闘と諜報戦が繰り返されていた。
江戸を拠点としていたのは甲州忍。なので、ムササビは炉狸を警戒していたのだが、炉端で温む狸のような、ぶよぶよと丸い男を警戒するのが馬鹿らしくなってきたところだった。
喋る事も出来ず、目も見えない。偽装かと疑い、何度か試してみたが、どうやら本当だとわかり、警戒度は下がってしまっていた。なので、
「刀哉さんの預かり子、護衛を増やした方がいいと思いますがね」
……という、小田原金城一家江戸支部にとって秘中の秘をうっかりと口にしてしまった。
作戦行動を共にしたことで、ムササビは斎藤刀哉のさっぱりとした気性に、好感を抱くようになってしまっていた。男が男に惚れた状態だが、そうなると、彼から人質をとっていることに忸怩たるものを感じるようになる。
それで、この失策だ。いや、炉狸の粘り勝ちか。
炉狸は、体術、穏行術といった身体能力を完全に切り捨て、敵地への潜入にのみに特化した、甲州忍なのだった。障がいは、全くの偽装。ただし、按摩と鍼灸の技術は本物だ。偽装に真実味を持たせるために、本格的な修行を重ねていた。そして、特に按摩の素質があった。
――ムササビめ、やっと油断しやがった。
一心不乱に三之丞の背中を揉みながら、密かにほくそ笑む。
小田原金城一家の内情は噂の類まで、全て報告に上げている。その連絡は犬を使う。
散歩の途中、野良犬に餌をやるという態を装っているが、実はこの野良犬、江戸甲州忍の副官、喰代左兵衛の忍犬で、炉狸から託された暗号を仕込んだ紙片を、亀戸の無偏辺組にある作戦本部に持って帰っているのだ。
――こいつらの強みは、凄腕の用心棒『豺狼』とやらの存在。どうやら負傷したらしいが……
炉狸が耳を澄ます。
彼の存在を忘れて、幹部連中の護衛の強化、賭場の警備関係の打合せなどをしていた。
無害そのものに見える炉狸を完全に侮っているのだ。
その裏をかき、足をすくうことに昏い愉悦を感じる。この任務につくようになって、すっかり心が歪んでしまった。
それほど、敵の中にたった一人というのは、過酷な任務なのだ。
穢れていないモノを汚すことに執着を感じるようになったのも、この頃だ。
男を知らぬ少女に執着するようになったのは、清純なものを穢す歓びゆえ。攫い、隠し、穢し。馴致させ、依存させ、殺す。
それが、潜入捜査で擦り切れかけた炉狸の神経を慰撫してくれる。
「鈴音様に、腕利き三人をつけます」
ムササビの言葉に、ううむ……と、三之丞が唸った。
「世話役の凪様は、淫蕩の気があるぞ。見目の良い若衆をつけて、ふらふら出歩かないようにさせているが、そろそろ、その若衆に飽きる頃。新顔は、マズいな」
ため息をムササビがつく。
「いっそのこと……」
「いや、江戸に遠避けはしたが、貸元は情け深い。殺っちまったら悲しむ」
「面倒臭いっすね」
「面倒くさいな」
ちゃりちゃりと雪駄の金具を響かせながら、着流し姿の男が歩いていた。
妙に肩幅が広く、腰には長脇差をぶちこんで。
その隣には、眉目秀麗な若者。剃りあげた月代もすっかり伸びて、長髪を後ろにまとめて縛っている。
蕪九兵衛とその祐筆・桜井平八郎だ。
表向きは、無偏辺組の三番代貸とその舎弟だが、その実態は甲州忍と大久保長安の子飼いの若手官僚。
今日は、荒らされた賭場の検分に出向いていた。
無偏辺組の配下に入った零細博徒『蛾人組』が開いていた賭場が、大男七人組に襲撃され、下足番一人を残して皆殺しにされたのである。
幸いなことに、客には一人の被害も出なかったが、確実に評判は落ちた。
通いの下足番だったので、担ぎこまれたのは住居の長屋。
もっとも蛾人組の本拠地は、血だらけで使い物にならない。
わざわざ親団体の幹部が、下っ端の下足番の見舞いに出向くのは、組織内の動揺を抑えるため。
どんなことがあっても「無偏辺組は見捨てない」という外に向けての宣伝も必要だった。
そして、新しい敵対勢力の情報収集という側面もあった。
ただでさえ、風魔衆との抗争で頭が痛いのに、新規参入など冗談じゃないと、蕪九兵衛は思っていた。
「九兵衛殿」
唇を動かさず、桜井平八郎が囁く。
ただのガキかと思ったが、急に使えるようになったと、九兵衛が舌を巻く。
殺気が流れてきていた。
それを、察知したらしい。
下足番一人だけ生き残ったのが不自然だと思ったが、やはりコイツを餌に誰かを誘き寄せる策だったかと気付く。
――風魔では、なかろう……
平八郎に囁き返しながら、九兵衛が思案する。
――小賢しいが、洗練されていない。
諜報戦に慣れた風魔衆なら、もっと巧妙に罠を張る。ひょっとして、こいつは、新勢力か。
肩が凝った風を装って、九兵衛が首を回した。
視界の隅に、子猿の姿が見えた。太郎丸か次郎丸のどちらかが、影守としてついて来ているのを確認する。
「一撃離脱。疾く駆けよ」
敵の尾行なら、喰代左兵衛が仕込んだ猿がやる。
「承知」
平八郎が日向の猫みたいな顔で囁く。
ぬっと長屋の影から現れたのは、六尺を越える巨漢。
この時点、九兵衛たちはその存在を知らないが、巨漢は赤光一家に助っ人に来た大足組一番隊長の吉井金五郎であった。
手には四尺はある赤樫を削った木刀。
それを肩に横たえ、間延びした無表情に目だけを爛と光らせて、ぞるりと歩く。
九兵衛が大脇差を逆手に抜く。
平八郎が、桜井家伝来の備中住青江派の作刀をすっぱ抜く。
南北朝時代に鍛造され、代々桜井家に伝えられた刀である。
「博徒は匂いでわかる。てめぇら、博徒じゃねぇな」
乱暴な上州なまりで吐き出すと、吉井金五郎がずぶりと間境を踏み越える。
まるで薪雑棒をぶん回したような乱暴な一撃を、九兵衛は潜り、平八郎は跳び退いて躱した。
九兵衛が金五郎の左脇をすり抜けながら逆手で逆胴に斬り上げる。
見るからに重そうな木刀だが、まるで質量がないかの様に金五郎は木刀を引き戻し、脇腹を狙ってきた一撃を弾く。
ガチンという木刀らしからぬ金属音がして、九兵衛の大脇差がくの字に折れ曲がる。
「痛っ」
衝撃に手が痺れた九兵衛が大脇差を投げ捨てた。
削れた木刀の刃の下から、鉄の地金が見える。鉄芯仕込みらしい。これを軽々と扱ったというのか。
無表情のまま金五郎が木刀を振り上げ、よろめいた九兵衛の頭蓋に叩き下そうとしていた。
こんなもの金五郎の膂力も加わって当たれば、頭は熟柿のように潰れてしまうだろう。
金五郎が、風を切る音を聞きつけ、頭を振る。
頬を小柄が掠めた。
鞘に付帯する、着脱可能な金具を『小柄』という。
楊枝を削ったりする、日常で使う小さな刃物だが、手裏剣として使うこともある。
平八郎は、博徒に偽装した甲州忍に混じって、左手で手裏剣を打つ鍛錬を重ねていたのだった。
それが、役に立った。
平八郎が作ったこの一瞬で、九兵衛が殺傷圏内から転げ出る。
転がりながら、懐に仕込んだ棒手裏剣を左右の手で二本打っていた。
鉄芯仕込みの木刀との衝撃で手が痺れているので、狙いは定まらないが、牽制にはなった。
「ちぃ」
舌打ちして、金五郎が九兵衛の棒手裏剣を叩き落とす。刀身が霞むほどの素早い動きだった。
そして、木刀を引き戻してズンと腰を沈める。
二人の連携に備えたのだが、平八郎は身を翻し、とっくに遁走を計っていた。
九兵衛は、起き上がりざま、近所の長屋連中が勝手に切削した幅一間あまりの生活用雑排水用のドブ川を飛び越え、平八郎と逆方向に走っている。それが、早い。
「なんでぇ。まるで乱破みてぇな連中だぜ」
ぺっと唾を吐いて、金五郎が木刀を肩にぶらぶらと歩く。
その背後を、二匹の子猿が尾行しているのには、さすがに気付かないまま……。




