走り掛かり
甚吾が鯉口を切ったまま、途方に暮れたように地面を見る。
すぅっと表情が抜け落ち、僅かに体が沈んだ。
抜刀術の心得がある者が見ればわかる。『居合腰』だ。
そして視界も音も遮断して、肌に触れてくる殺気のみに反応する妖剣『虚』。
ずぶ泥の昏い氣が、甚吾の背に翼を広げているかのよう。
刺客は五人。おそらく、人斬りどもだ。甚吾を見て、同じ人斬りなのだと理解しているだろう。
それでも、彼等は甚吾に向って、歩み始めた。
暗天には朧月。
一斉に抜刀した刺客の五本の刀身が淡い月光に鈍く光った。
―― シャン シャン
鳴ったのは、刺客の一人が鳴らした『鍔鳴』。
柄を一定の拍子で揺らしているのだ。
妙に柄が長い変則的な刀の鍔元を左手で握り、右手をだらりと下げていた露木が目を細める。笑ったのかも知れない。
「夜刀神さん、走るのは得意かね?」
珍しい事に、『虚』を解いて、甚吾が言う。
「あら、さすがね」
露木が呟く。『鍔鳴』の意味するところを、彼もまた理解しているのだ。
「検地などで、山谷を歩きましたよ。足腰には自信があります」
夜刀神が答える。
彼が官僚として仕えている大久保長安の仕事は、広大な徳川直轄地の管理運営。
隠し田の摘発なども任務のうちだった。領地の正確な石高を知るために必須なのである。
余計な資金力を領民につけさせないという側面もあった。徳川の方針は「百姓は生かさず殺さず」だ。
家康陣営にとって、一向一揆などで家臣の半数が叛いた恐怖は拭いがたいものらしく、反逆の芽をありとあらゆる手段で摘む。徳川の治世の根幹である。
反逆者の資金源となる隠し田は山深い場所にあるものだ。
検地に従事するだけで、自然と夜刀神の足腰は鍛えられていた。
「そうか。では、走れ」
そう言って、甚吾が身を翻して走る。
権太が先導する。伊達な着流しを尻端折りした夜刀神が続き、露木がその背を守るように走っていた。
甚吾は殿。
「あ、待て!」
五人の刺客が、刀を肩に担いで、追尾していた。
権太が走る。逃げ足には自信があったが、一見、惰弱に見える夜刀神の脚力もなかなかのものだった。
「全力疾走など、隠し田が摘発されて、破れかぶれになった不逞百姓が暴徒と化した時以来です」
などと、息も切らさずに言い、白い歯を見せていた。
殺す気で追いかけてきている浪人者が五人もいるのに、一見マトモに見えて、この男も一種の鬼なのだと、権太は背筋が寒くなった。
走っていた甚吾が、不意にくるりと反転する。
横一列にきれいに並んでいた刺客は、今はバラバラに不規則な一列縦隊になっている。
走る速度は、人によって違う。
足の速い者が、甚吾に追いつきそうな状態だった。
逃げていたはずの甚吾が急に向かってきたので、刺客が担いでいた刀をぶん回してきた。
甚吾がそれを、ひょいと潜る。
そのまま、地面に着く程の低い姿勢のまま、刺客の脇をすり抜けた。
いつの間に抜いたか、甚吾は一刀を掲げる様に持っている。神速の抜き打ち。刺客は腹を斬り割られていた。
「ぐ……む……」
刺客がよろめき、刀を取り落してばったりと倒れた。
無表情のまま、甚吾は血刀をぶんと振って刀身の血を飛ばし、それを担いでまた逃げる。
「なんで、甚吾さんは、あんな面倒な事を?」
走りながら、権太が露木に問う。
夜刀神も、好奇心に目を光らせていた。
「あれはね、暗殺の訓練を受けた動きよ」
一人を囲んで刀で斬ろうとしても、同時に動けるのはせいぜい五人。
しかも、同時に襲ったつもりでも、わずかに速度の差が出る。
この差をついて反撃に出る技法は、疋田陰流の『まがいもの』山田月之介が遣った『八重垣』。別名、『多敵の位』。
だが、歌や音で拍子を合わせ寸分の違いもなく一斉に斬りかかったらどうなるか?
甚吾程の卓抜の剣士でも、迎撃できる回数には限界がある。どれか一本が届いてしまうかもしれない。
慎重な性格である甚吾は、こうした事故を避けたのだ。
故に走った。走れば包囲がバラける。バラけたら、各個撃破すればいい。
「甚吾さんは、こうした技法を知っていたか、体験したかしていたのよね」
ふふふ……と露木が笑った。
甚吾がどれほどの修羅地獄を潜って来たのか、想像したら笑うしかなかった。怖すぎる。
一人が斬られても、刺客は怯むことなく追尾してくる。
甚吾は肩越しに振り返って見ることもあしない。
見ずして距離を測るのは深甚流の真骨頂。相手が殺気を滾らせているなら、尚更。
これを深甚流では『走り掛かり』という。疋田陰流でいえば『多敵の位』みたいなもの。
また、甚吾がくるっと反転する。
先頭を走っていた刺客が、担いだ刀を袈裟懸けに叩き下して来る。
甚吾が、走り抜けながら、刺客の刀身におっ被せるように斬る。
走っていると刃筋を立てるのが難しい。
だが、甚吾は刺客の刀を外側に弾きつつ、ぞぶりと切先を相手の手首に食い込ませていた。
疋田陰流『合撃』の模倣だ。精密な動作が要求される技法だが、甚吾は走りながらこれが出来る。
手首には太い血管が走っている。それが断たれると、大量出血となる。
魂消た表情で、血を噴出させている手首を見ている刺客の首が、斜めに「ズレ」た。
甚吾が走り抜けながら彼を見ずに後ろに振った横殴りの一撃が、皮一枚残して刺客の首を両断したのだ。
反転して甚吾が逃げる。
三人に減った刺客も、鬼の形相で追尾を続けている。
「あらあら、人数減ったら、効果半減ね」
夜刀神の背後を守りつつ、肩越しに振り返って露木が呟く。
刺客は突出して追尾するのをやめ、足並みを揃えたようだ。
だが、そのおかげで、甚吾や夜刀神に追いつけない。動揺が三人に見えた。
その機を計って、三度甚吾が反転。彼我の距離が詰まっていたので、完全に虚を突く動きだった。
甚吾が、平らに寝かせた刀身を先頭を走る刺客の腹にズブリと埋める。
そのまま、押す。
刺された浪人のすぐ後ろを走っていた浪人が、左に跳んで避ける。
最後尾の浪人は、刺された浪人ごと甚吾を刺しに来た。
甚吾は、刺していた浪人を蹴り飛ばして、血刀を引き抜く。
裂かれた腹から、何か異界の生き物のように臓物がぞるりと這い出してきていた。
刺された仲間を跳ね飛ばして、最後尾の刺客が柄を叩く。
―― シャン
鍔鳴りの音。
左に跳んだ刺客と、甚吾と正対している最後尾の刺客が、全く同時に大上段から刀を叩き下してきた。
俯いた甚吾。いつの間にか、彼の左手には、小太刀が握られていた。
腹を刺された刺客の帯から、いつの間にか抜き取っていたのだ。
左手の小太刀を掲げる。
同時に、右手の刀をすいっと突き出していた。
甚吾の左から襲ってきた刃は小太刀に受け止められ、正面の刺客の喉は、甚吾の刀が貫いていた。
小太刀に受け止められた刺客は刀を引き、横殴りに一刀をぶん回してきた。戦場で練り上げた剣なのだろう。
甚吾はそちらの方向を見もしないで、半歩右に動いて空振りさせ、刺客の喉から引き抜いた刀を無造作に振る。
パクンと最後の一人の首筋が裂け、血煙が上がる。
血を浴びるのを避けて、甚吾が一歩更に横に動いた。
そして血刀を下げて残心。
喉を貫かれた刺客が仰向けに倒れるのと、首の血脈を断たれてその場で独楽のように回っていた刺客がつんのめるように倒れるのは、同時だった。
無表情のまま、甚吾が血振りをする。
権太は、この瞬間の甚吾を見るのが大好きだった。
人が死ぬ。血が流れる。甚吾はまるで、仕込みが終わった血まみれの俎板をざっと流すように、血振りする。まるで、何事もない作業であるかのように。
権太は勃起していた。鼠のような面相ゆえ、心無い女には外見をからかわれる。
金で買った女ですら、行為の途中で嘲笑するのだ。
そんな経験の繰り返しは、権太を不能者にしてしまっていた。
甚吾の斬人は例外。愉悦だった。たまらぬ、たまらぬ。血が股間に集まり勃起する。それが、たまらぬ。
ボロ布の刀身を拭いながら、甚吾が歩いてくる。
「さすが、師匠。素敵でした」
うっとりした声で、露木が甚吾を讃えた。
途端に権太のそれは、萎えた。
―― こんな変態衆道野郎と、同じかよ
そう思うと、昂ぶりが冷える。
「気持ち悪いなぁ。しゃべるな、露木」
甚吾が吐き捨てた。
「あん、ひどぅい」
露木が身をくねらせる。露木は甚吾につれなくされると、興奮する傾向があった。
「尋問したかったんですけどね」
尻端折りを解きつつ、夜刀神が言う。
「刺客をどうするかまでは、忖度できんよ。面倒くさい」
納刀しながら、欠伸をかみ殺した声で甚吾が言った。
「それもそうですね」
魚黙過組が本気なのはこれで、夜刀神は理解した。
粛清するのは簡単だ。
だが、それでは無偏辺組の勢力が衰える。
甲州忍の助力と、大久保長安からの資金援助がある限り潰されることはないが、なるべく安い経費で計画を遂行しようとするのは、官僚の性みたいなものだ。
この状況を利用して、相州博徒に痛手を与えたいところ。
江戸上州博徒の首魁、朽縄の五郎左は用心深い男で、隙を見せない。
勘もいいし、頭もキレる。
魚黙過組を獅子身中の虫として、水面下で無偏辺組に仕掛けてきたりするほど果断でもある。
だが、魚黙過組を、二重に裏切らせることが出来れば、「千丈の堤の蟻の一穴」となるだろう。
反抗心を抱える魚黙過組を更に縛る事も出来て、新たに刺客を仕立てるより安上がりだ。
何事も無かったかのように、深夜の江戸を歩く一行の中で、夜刀神は忙しく算盤をはじいていた。




