罠を張る者、踏み破る者
東海道に古くからある宿場に神奈川宿がある。
北条氏の支配地域だったここは、北条家滅亡後徳川家の直轄地となり、慶長六年(一六〇一年)に『東海道宿駅伝馬の制』が定められたばかりである。
今後、確実に巨大化する江戸の流通の拠点として重要さが増している場所でもあった。
慶長五年(一六〇〇年)の関ヶ原の戦いでは、この神奈川宿の神奈川湊から徳川家康が軍船に乗って出陣し勝利したことから「縁起の良い湊」としての有名になった場所でもある。
徳川家官僚の実力者、大久保 長安 子飼いの若手官僚 夜刀神 長久 は、長安の密命を受け、江戸の裏面で流通する闇金を掌握するため、没落した田舎博徒『無偏辺組』を乗っ取り、資金の流れを追っているところだった。
当面の標的は、博徒。
巨大化が確定している都市『江戸』では銭の匂い嗅ぎつけ、あたかも血の臭いを感じ取った鮫のように、暗い水面下で相州博徒、上州博徒、遠州博徒、武州博徒が遊弋し互いに睨み合っていた。
それを一気にキナ臭くしたのが、夜刀神 の策。
縄張りを分割し統治することでまとまりかけた博徒同士の協定を『横紙破り』することによって、混乱させたのである。
早朝、神奈川湊の絵地図を睨みながら、夜刀神 長久 が朝餉を摂っている。
白米に麦や稗や粟を混ぜた五穀米に、小松菜を刻んだ味噌汁。メザシを炙ったものが三匹。それに古漬けが二切れという質素な膳だった。
小田原の大手博徒、金城一家の資金輸送計画を 蕪 九兵衛 が探り出し、彼の祐筆兼監視役 最年少官僚の 桜井 平八郎 からその計画の報告を受けているところだった。
食事中ということで、「出直します」と 平八郎 は遠慮したのだが、「朝食を摂りながらでも、報告は聞けるよ」と、夜刀神 に言われて、ポリポリと古漬けを齧る音を聞きながら報告を読みあげているのだった。
「罠かも知れない……と、九兵衛殿は言っているのだね?」
白湯を茶碗に注ぎ、こびりついている飯粒を箸でこそげ落としながら、夜刀神 が口を開く。
まるで白皙の学者のような 夜刀神 の背後の刀掛に 平八郎 はどうしても目が行ってしまい困った。
この気鋭の官僚は『どうせ剣術など出来ないのだから、竹光でよい』などと嘯いているらしいが、本当だろうか?
「はい。九兵衛殿は七割方虚報だろうと言っていました」
拵えだけは立派な刀から目線を引き剥がしながら、平八郎 は答えた。
敵の護衛は十名。大金を輸送するにしては、いかにも手薄だ。
ずぞぞ……と、飯粒と一緒に白湯を 夜刀神 が啜る。
こんな下品な所作を 平八郎 がしたなら、姉の鹿及から打擲されるところだ。
だが、学者風の 夜刀神 がやると、そういう作法であるように思えるから不思議だった。
「噂は本当だよ」
箱膳の上に茶碗を置きながら、夜刀神 が言う。
表情が乏しくて分かりにくいが、浅い笑みが口元を掃いていた。
「え? は?」
不意を突かれて、堅苦しい 平八郎 が、彼らしからぬ間抜けな返事をする。
ふふっと笑って、夜刀神 が背後の刀を自分の肩越しに指さした。
「あれ、本当に竹光。私はどうせ剣術など出来ないのでね。刀など、飾りだよ」
剣術に打ち込んできた 平八郎 からすると、全く信じられない事を、この若手官僚は言う。同僚から変人だと聞かされていたが、やはり変人だった。
―― 力の無い者は喰われる
それを思い知らされた 平八郎 は、文武両道に邁進した。
だが、夜刀神 を見ていると、一芸に秀でることもまた『力』なのだと思い知らされる。
「君は奥山神影流の免許皆伝だそうだね。今回は九兵衛殿に従って、戦場にでてみるかい?」
その言葉を聞いて、平八郎の背にブルっと震えが走った。
道場で剣を振るった事はある。
だが、まだ人を斬ったことはなかった。
―― 経験は力
力を蓄える機会をもらったことになる。
「機会を与えて頂き、感謝いたします」
平伏する。その、板間についた平八郎の手は微かに震えていた。
後で、これが『武者震』なのだと気が付いた。
欺瞞作戦である。
なので、実際に金塊は運ばないが、いかにも運んでいるように見せかけなければならない。
神奈川宿という場所を選んだ。
護衛は最低限という情報を流してある。
「地の利はある」
現地視察を行いながらつぶやいたのは金城一家に雇われている密偵、風魔衆を抜けようとしている忍ムササビだった。風魔衆にとって、ここは庭のようなもの。
神奈川宿の近隣の湊の周囲は複雑に入り組んだ地形をしており、十六もの大小の湊があった。
金塊を敵地に運ぶと考えると、この地域の一番大きな湊である神奈川湊は選ばないだろうと、ムササビは思った。
そこで、目を付けたのが塩沢湊。
神奈川宿は神奈川村と青木村の二つからなり、その境には滝野川という大きな川が流れている。
その滝野川の延長に塩沢湊はあった。
目立たない小さな湊であること。
重い金塊を運ぶために川舟を使って神奈川宿に入れること。
密かに金塊を運ぶには『時間』との勝負になることを考えれば、本物の移送作戦ならこの湊を選ぶ。
当然、無偏辺組も塩沢湊がクサいと踏んでくるはず。
無防備だと罠かと警戒される喰いついてこなくなるので、ややこしい事だが欺瞞作戦の欺瞞作戦をしかけなければならない。
塩沢湊から注意を逸らせる仕掛けを『本物の移送作戦』なら立てるはずで、その別働隊を作らなければならなかった。
神奈川湊に目立つ千石船を着岸させ、荷卸しをしている態を装えばいい。
ムササビが、神奈川宿を、薬売りに変装したまま歩く。
敵が襲撃場所に選ぶのは、滝野川の途上か? それとも上陸地点か?
今度は、襲撃側の視点で戦場となる神奈川宿を眺めてみる。
襲撃場所が想定できれば、逆包囲する形で伏兵を置く。
『鋒矢の陣』それが、当方の切り札 斎藤 刀哉 が得意にしていた戦法。
敵の陣形にまるで錐の先のように 刀哉 が斬り込み陣形をかき乱した後に本隊が突っ込むというものだ。
粗野で単純な戦法だが、単純ゆえに型に嵌ると強い。
「あの豺狼を存分に働かせるには、広い場所がいいか」
独り言をつぶやきながらムササビが降りたのは、細かい砂利の河原。
その先に、湾曲した川に削られ淵になっている箇所があった。
こうした地形は水深があり、流れが緩い。
いかにも重い金塊を荷卸するのに適した地形だった。
河岸段丘もある。
その上から、敵の群れに向って、駆け降りるように『逆落とし』を仕掛ければ鋒矢の陣の効果も高い。
あとは、敵を一箇所に集中させる工夫が必要だった。
小規模な戦闘や個人技に強みがあったのが、甲州忍び。
対して、風魔衆が得手としていたのは、集団戦法だ。
「なんとなく、戦場の様子が見えたな」
ムササビは最前線の指揮官として、こうした忍を使った戦を繰り返してきた。
その経験上策がはまる時は、歯車の様な物がカチっと噛合う感覚がある。
今がその時だった。
斎藤 刀哉 は、大きく息を吐いて、手にした剛剣を納刀した。
もう一刻(約二時間)はひたすら刀を振るっており、摺足を繰り返した地面は削れ窪み、滴る汗で小さな水たまりができている。
刀を振るっている間は『無』。体はひたすら刀を振り上げ振り下ろす動作を続けていたが、その眼は何も見ておらず、何も思わず。禅の境地に似ているかもしれない。
金城一家の幹部構成員『出方』のうち、『中盆』『胴師』に次ぐ第三階位『合力』という経理を担当する博徒 政三 から、金城一家と 刀哉 との契約内容である『斬るべき百人』のうちの二人の手配書がもたらされた。
平凡な顔をした男とつるんとした役者風の男二名の人相書き。
一人は 草深 甚吾 、もう一人は 露木 玉三郎 と書いてあった。
「こいつらを斬れば、百人斬りまで、あと二十四人……」
人斬りの腕を金城一家に五百両で売った。契約内容は『金城一家が指定する者を百人斬る』こと。
刀哉の主家である、月夜野家の最後の血統、鈴音を嫁がせ家名を継がせるための持参金なのだった。
「もともと、俺は人殺しの技しか知らぬ。その唯一を売ったのだ」
博徒ごときに使役される屈辱を思うたびに、そう言い聞かせる。
盲目の不憫な少女が、穏やかに暮らせる場所をつくるためだ。五百両を得るまでは死ねない。
井戸から汲みあげた水を頭からかぶる。
熱を持った肌に触れた冷水が、湯に変わるようだった。
密偵を放つ。
金塊の輸送作戦を探り出した。
拷問にかけた男は、嘘をついていない。
思考が出来なくなるまで毀したのだ。
出た言葉は真実しかない。
「それでも……」
と、九兵衛は一人ごちる。
罠の臭いがした。
理屈ではない。長年、闘争の場所に身を置いた結果の危険察知の能力だった。
だが、首領の 夜刀神 は『直感』のような曖昧なものに興味を示さない。
その結果、金を奪取する計画を立てるよう命じられてしまったのである。
九兵衛の本当の上司である 高坂 甚内 には、「夜刀神の言葉は、俺の言葉と思え」と厳命されていた。だから、傲岸不遜の九兵衛といえども逆らえない。
九兵衛に出来る事は、いつもより綿密に現地調査を行う事と、いざという時のための切り札として、甚吾をこの作戦に同行させる事。
この金塊輸送作戦が欺瞞作戦で罠だとしたら、巧妙な点は二点。
敵の有利な場所に誘い込まれること。
襲撃の為の日時が限定されること。
つまり、『地の利』『時の利』が敵側にあると言うことだ。
「くそっ! 敵は策士がいるな。被害を最小限にする。それしかないか」




