山桜
焙烙で豆を炒るような音が聞こえる。
火縄銃の斉射だ。
三十人ずつの小隊が三隊。合計九十人が、弾を込めては撃っている。
川岸から中洲へ、絶え間なく銃弾を送り込んでいるのだ。
中洲に蓄えてあった火薬は、単なる木炭の粉末とすり替えてあった。
浪人衆が持参した火縄銃に込めても、プスプス焦げるだけで爆発はしない。
すり替えた火薬は、川岸の鉄砲隊が使っている。
高価な火薬を使わず、銃撃が存分に出来る。
中洲は死体の山だ。
浪人衆はその死体を盾に、持参した僅かな火薬で反撃している状態だ。
降伏しようとした者も容赦なく撃ち倒されている。
これは、見せしめだ。
指揮官の飯笹は、残酷に殴殺するつもりだった。
浪人が徒党を組んで、騒擾を起そうとするとどうなるか、知らしめなければならない。
水師が予測した通り、江戸湾沖を通過した悪天候の巣が沿岸を離れるにつれ、従来の北風が勢いを増してきた。
冷たく乾いた空気と、湿った暖かい空気とが、上空でぶつかっている。
延々と続く銃声に混じって、遠雷が聞こえた。
風の中に嵐の気配がある。
曽呂利衆は、この吹きすさぶ風に乗せて江戸を焼く予定だった。
だが、火の手は中洲以外、どこにも上がらない。
浪人衆は捕捉され、『赤馬の術』も不発に終わった。
ここは、逃亡の一手だったが、清麿はまだ作戦指揮所になるはずだった古い神社の神域に、未だとどまっていた。
甚吾を斬るため。
ただ、それだけのために。
計画が失敗に終わった今、ここに留まる理由は無い。
しかし、勢 の悪夢の根源が甚吾と分かった時、このまま彼を見逃すという選択肢はなくなった。
『惚れた女のため』
忍がとるべき行動原理としては失格だが、血で血を洗うような非情な世界の住民だからこそ、そんな規格外の者が居てもいい。
清麿はそう考えていた。
鞘ごと、腰の刀を抜く。
泉流の刀術は、本来は試し斬りが基。
本来は、左手に鞘を持ち、右手で片手斬りをする流派だ。
鞘に収まった一刀を掲げるように、持つ。
清麿の鍔元を握る左手の親指が鍔を押し上げて、鯉口を切る。
右手は、柄に沿わせている。
抜刀する時に刀身に出来る傷を『引け傷』という。
泉流は、その引け傷をつけずに抜刀することが深奥となる。
まるで、精緻なカラクリの様に、正確無比な太刀筋なのだ。
清麿が、金丸の斜め後方に廻る。
呼応するように、金丸がじりじりと虫が這うような速度で、間合いを詰めてゆく。
高く天を衝くように構えた金丸の大太刀『物干し竿』に、風が巻き付いてピュルピュルと鳴った。
甚吾は、居合腰のまま、途方に暮れたようにただ、立っている。
深甚流の奥義『虚』。
五感を遮断してなお、我身に触れなんとする刃のみを選別する術が『虚』の正体だ。
相手を見ないのは、視覚に頼らないため。
実は、音も聞いていない。思考も止まっている。
肌に触れてくる殺気に思考を経由せずに反応して最短距離で肉体が動く。それが、甚吾の奇跡ともいえる『寸の見切』を実現させている。
卓抜の剣士、山田 月之介 は、甚吾の方から初手を打たせることで、『虚』を崩した。
『合撃』という 交差法 (いわゆるカウンターの事)で甚吾に手傷を負わせることが出来た。
だが、『虚』を知らない金丸と清麿は、どう戦う?
「おまえは、馬鹿なくせに余計なことを考え過ぎる」
師匠である 鐘捲 自斎 の言葉を、金丸は不意に思い出した。
口が悪い男だったが、面倒見はよかった。
両親の顔を知らない金丸にとって、父親とも呼べる存在だった。
甚吾へ、間合いを詰めながら、雑念が湧いている。
「なぜコイツはそっぽを向いていやがるのか」
「なぜコイツは刀を抜かないのか?」
そんなことを無意識に考えていた。
遠く離れた地から、まるで師匠が叱りつけてくれたようで、喝が入る。
踏み込んで、叩き降ろし、斬り上げる。
たった、それだけの事。
そう思っただけで、無意識に入っていた金丸の肩の力が抜ける。
目の前の、平凡に見える男は、惚れた女の仇。
そんな事も、白く塗りつぶされてゆく。
眼に浮かぶは、富田の里の山桜の風景。
ひときわ枝ぶりがいい山桜に、寄り掛かるようにして、勢 は飽くことなく、谷間を埋め尽くす山桜を見ていた。
それを、守りたい。
あらゆる思考が抜け落ち、最後にその光景が浮かび、それも消えた。
気が付いた時、金丸は一歩大きく踏み込んでいた。
自分でも気づかぬまま振った一刀。
おそらく、生涯最速を叩き出している。
そっぽを向いていたくせに、甚吾はそれに反応していた。
ゆらりと、剣風に押されたかの様に、体を傾けて躱す。
まるで、地面スレスレで蚊を捕えた燕が翻るように、金丸の大太刀『物干し竿』が、斬り上げられる。
甚吾は、その刀の動きを見る事もなく、それを潜る。
そして、やっと、この時点で右手が刀の柄を握った。
抜く手も見せぬ抜刀。
金丸は、腹を薙ぎ払われるのを承知で、更に一歩踏み込み、振り上げられた大太刀を、叩き降ろす。
鋼が擦過する耳障りな音を立てて、金丸の脇腹に食い込むはずの甚吾の一刀が、斜め上に反れた。
清麿が、割り込んだのだ。
甚吾の神速の抜刀の軌跡に沿うように、抜きつけの一刀を送り、甚吾の刀の方向を変えてしまったのである。
泉流刀術の秘剣『浮き草』。その精密な一撃は、金丸を救っていた。
清麿と甚吾の攻防には関わりなく、金丸は渾身の一撃を叩き降ろしていた。
風を裂いて、鋭い笛のような音。
甚吾は更に姿勢を低くして、左手で地面を突き、横に転げた。
高い構えから、まるで雪崩の様に降った金丸の剣が斬ったのは、甚吾の残像。
更に半歩踏み込んで、薙ぎ上げる。
転がり避けたあと、片膝をついて踏みとどまった、甚吾が身をのけ反らせる。
上向いた甚吾の顎の先、間髪の差で『物干し竿』の切先が通過する。
攻めいていたはずの金丸が、跳び下がる。
甚吾が普通に立った。
「斬られた」
その実感が金丸にはあった。
どうやって、斬られたのかは、分からなかった。
のけ反って金丸の薙ぎ上げを躱した時に、片手斬りを送ってきたとしか考えられない。
じわじわと、右脚が血に濡れてゆく。
『攻防一体』
奇妙な間合いの測り方。
そして、虚をつく斬撃。
刃を交わしてはじめて、金丸には甚吾の剣が分かった。
「こいつは、冷徹なまでに効率よく人を斬ることに特化した剣だ」
剣を通じて、道に高めるとか、精神修行とか、そういったモノを削ぎ落して出来たのが、コイツの剣なのだ。
勢 は、この男を『剣の鬼』と言っていた。その通りだと、金丸は思った。
このまま、血を失い続ければ、徐々に弱って斬られる。
まだ、体力が残っているうちに、決着を付けなければ。
金丸が、噛みしめた歯の間から、空気を噴出させながら、再び一足一刀の境を踏み越える。
甚吾は、抜いた刀を鞘には戻さず、下段に切先を下向させ、刃を上向きに構えていた。
『下段霞』
甚吾が好んで使う構えだった。
金丸の決死の踏込みを理解したか、清麿が流れる様な足さばきで、甚吾の右側に回り込む。
定石は左側に廻るのだが、相手の刀身にわが刀身を重ねて、軌道を狂わせる泉流は、あえて相手の利き腕側に陣取るのだ。
金丸は、守りなど考えない。
清麿が勝手にやってくれる。
攻めの金丸と守りの清麿は、抜群の相性なのだった。
それに、金丸は清麿を完全に信頼していた。
迷いが原因の悪手は、この二人には存在しない。
甚吾が、はじめて顔を上げる。金丸と視線が絡む。
短時間で、これほど激しい攻防をしていながら、昂ぶりも、恐怖も、何の感情も浮かばない、能面の様な顔だった。
その眼は、甚吾を通じて深淵に開いたのぞき穴。
あるのは冬の枯れ野より薄ら寒い虚無ばかり。
「どれほど斬れば、こんな眼になるのか」
浮かびそうになる恐怖を、金丸は気合いで跳ね返す。
遥か上空で稲光。
ゴロゴロと雷が鳴った。
炎上する中洲。そこは、血と炎で練り上げられた地獄。
その炎を背に、ゆらゆらと甚吾、一足一刀の境を出入りする。
「斬ってこい」
という無言の圧力だった。
余計な事を考えるなという、師匠の言葉がまた浮かぶ。
大太刀『物干し竿』を高く構える。落雷を誘う様に高く。
思考が、白く消えてゆく。
―― 剣鬼よ 邪悪なモノよ もとの場所に帰してやる
血で濡れた右足で、踏み込む。
金丸の血を吸った草履が湿った音を立てて、赤い足跡を残した。
叩き降ろす。
気合いの絶叫が、自然と漏れた。
ゆらりと、甚吾が揺れる。
どっちに躱そうと、薙ぎ上げる二ノ太刀で仕留める。
走る『物干し竿』は、燕より早いのだ。
寸の見切りを繰り返してきた甚吾は、金丸が始動した瞬間、大きく右に跳んでいた。
金丸の虚をついた動き。甚吾は清麿の方へ。
下段霞の刀を斬り上げる。同じ軌道に沿う様に、泉流『浮き草』が迎撃する。
鋼が擦過する音。
絡み合った刀身が擦れて火花が散る。
甚吾の体が、斬り上げた方向に流れる。
受け流すのが、泉流の剣。流れに逆らえば、体は力んで動きが止まる。そこを、斬る。
泉流で言うところの『死地に誘う』というのは、そういう理屈だった。
だが、甚吾は、流れに逆らわなかった。
むしろ、そのまま流れに乗ったのだ。
いつの間にか、刀は左手に持ち替えていた。
体をつんのめらせる甚吾の首を刎ねるべく、清麿が刀を担ぎ上げる。
甚吾の左手だけが、別の生き物のように、背後に振られた。
「やめて!」
勢 が悲鳴を上げる。
自分と打ちあうとばかり思っていた金丸は、一歩遅れてしまっていた。
出鱈目に振ったように見えた甚吾の刀の切先は、清麿の首筋を裂く。
ストンと、清麿の腰が落ちた。
首にある太い血管が断たれたか、咄嗟に止血した清麿の指の間から、鮮血が噴き出る。
「清麿様!」
絶叫を上げて 勢 が走る。
「いかん!」
勢 は愛用の小太刀を抜くことも忘れている。
淡々と、止めの突きを入れようとしている甚吾に、金丸が突きかかる。
腰も据えず、速度も乗らない一撃だった。
甚吾が、金丸の方も見ずに、その突きを躱す。
また、何処かを斬られた感触が、金丸にはあった。
―― 多分腹を裂かれた
下帯が血でぐずぐずに濡れてゆく。
勢 が、みるみる血の気を失ってゆく清麿に取りすがって泣いている。
―― 勢よ 勢よ 泣かないでおくれ
それだけを想い、金丸が二人を庇うように、甚吾の前に立ちふさがる。
「清麿様を連れて逃げろ、勢」
高く『物干し竿』を構える。
血を失い過ぎたか、その切っ先が震えた。
勢が、清麿を抱えるようにして、走るのが見えた。
―― これでいい
金丸を無視して、勢を追おうとした甚吾の行く手を阻む。
はじめて、甚吾の表情が動いた。眉宇に苛立ちが見える。
「どけ」
ぼそりと、甚吾はそれだけを言う。
「どかぬ」
金丸が答えた。
最後の力を振りしぼる。切先の震えは、ピタリと止まった。
清麿が受けたのは、致命傷だ。見ていてわかった。
―― 今、自分に出来るのは、勢 に別れの時間を作ってやることだけだ
金丸の秘めた思いは届かなかった。
―― それでもいい
目の前に居る、人斬り人形のような男より、堂々と生き切ったと言えるような気がした。
富田の里の山桜を不意に思い出す。
いや、それを見ている 勢 の儚い後ろ姿……を。




