高橋 主水
草深 甚吾が襖を開けると、そこに立っていたのは全裸の巨漢だった。
名前を 高橋 主水 という。
浪人である。主家は滅びてもうない。東北の小さな国を汲々と守っていたが、ついに大きな勢力に飲みこまれたのだ。
高橋は、後輩の 木暮 左兵衛 を誘って故郷を出奔した。
『江戸に行けばなんとかなる』
そんな不確定な情報だけを頼りに、新興の街である江戸に来たのだが、ジリ貧だった。小競り合いの戦ばかりの人生だった。戦に明け暮れていたので生活力などなかった。そして、労働者に混ざって汗する覚悟もなかった。
窮した末、僧形の胡散臭い男である 無念 に誘われるまま、賊に堕ちた。
今はただ、荒んだ心を お幸 という美しい人妻で癒すだけのクズになり果てている。
「お前が、俺の 死 か」
そうつぶやいて、高橋が愛刀の胴太貫の鞘を払う。
鞘は、そのまま投げ捨てた。
未練がないといえば、嘘になる。だが、布団の上で天寿を全うするようなことは許されまいという思いが、高橋にはあった。
斬りすぎた。無念は、生存をかけた戦なのだと言っていたが、無抵抗の町人を多く斬ってしまった。
こんな事をするために、武を練ってきたわけではないのに。
虚しさだけが、高橋の胸に木枯らしを吹かせていた。
甚吾は、無表情のまま、血刀をすっと下向させた。
構えは下段。刃は霞。霞とは、刃を上に向ける事を言う。
あからさまに、脛をかっ払うという構えだった。
ただし、上半身は全くの無防備。
高橋は、重ねが厚い剛刀を上段に構える。間合いに入ったら、無防備な頭をかち割る。そういった構えだった。
ゆらり、ゆらりと、甚吾が一足一刀の間合いを出入りする。
奇妙なのは、のしかかるような殺気を放つ高橋の上段を全く見ない事。
足元に視線を彷徨わせるだけで、ともすれば途方に暮れているかのような風情。
深甚流の奥義『虚』だった。
高橋は『虚』を知らない。だが、目の付け所が分からないことに、微かな苛立ちを感じていた。
自分は業を背負ってしまった。斬られて果てるのは構わない。だが、目の前のこいつのような、気味の悪い剣の化け物に斬られるのは嫌だ。そんなことを、高橋は考えていた。
鬱陶しい相手だった。
じりっと間合いを詰めれば、ゆらりと下がる。
退けば、ゆらゆらと間合いを詰めてくる。
まるで、幽鬼でも相手にしているかのようだった。
先が読めない。そっぽを向いているので、狙いが絞れないのだ。
「奴より早く動くしかない」
高橋は、そう覚悟を決めた。
敵は誘いの剣。ならば、機先を制して渾身の一刀を送るしかあるまい。『先の先(先制攻撃のこと)』は高橋が得意とするところだ。
高橋の筋肉が膨れる。蓄えられた力が、巻かれた螺子のようにギリギリと音を立てているかのようだった。
―― ゆらり
甚吾が下がった。まるで、迸るような高橋に闘気に押されたかかのように。
構わず、高橋が間合いを詰める。
こちらを見てもいないのに、計ったように間合いを外してくるのが薄気味悪かった。
踏込む。
高橋の裸足の足裏が、畳にすれてシュルっと衣擦れに似た音を立てる。
相手は下段霞。場合によっては、脚一本と引き換えに頭蓋骨を胴太貫で叩き割るつもりだった。
踏込みと同時に、高橋が上段から渾身の一刀を叩きこむ。
鍛え抜いた膂力。
振るうは、重ねの厚い胴太貫。
硬い頭蓋骨をものともせず、頭頂から首まで両断したこともある一撃だった。
甚吾は、回避行動もとらず、受けの構えも見せず、やや身を低くしただけだった。
見ていた権太は肝が冷えたが、高橋の刀身はガクンと空中で止まった。
「鴨居か!」
高橋が舌打ちした。
甚吾が下段霞に構えたのは、意識を下に集めるため。
加えて、下段を相手にするときは、上段が定石だ。
そして、ゆらゆらと躱す態をとりながら、高橋を敷居のところに誘導していたのだった。
この母屋は天井が高く造られている。刀を振るには十分な余地があると思っていたが、襖のところだけは鴨居がある。上段から叩き下ろした一刀は、鴨居に半ばまで食い込んで止まってしまっていた。
「しゃらくせぇ!」
そのまま振り抜く。
バキバキと音を立てて、鴨居が断ち割られていた。
だが、太刀往きは一瞬遅れる。甚吾にとっては、それで充分だった。
今まで、そよ風に舞う羽の様だった甚吾の体さばきが一転、疾風と化す。
低い位置から、掬い上げる様な一撃。
鴨居を断って叩き下ろされた高橋の胴太貫を、甚吾が潜る。
二人が交差した。
ピピッと血しぶきが飛び、部屋の隅で息を忘れている お幸 の顔に飛ぶ。
高橋は一歩前によろめくと、そのまま俯せに倒れた。甚吾の一刀は、高橋をすり抜けざま、存分に脇腹を斬り払っていた。
一刀を掲げるように持っていた甚吾が、くるりと振り向いて残心する。
「嫌! 嫌ぁ!」
絶叫が上がる。お幸 の叫びだった。
体に巻きつけていた夜具をはねのけ、白い裸身を晒しながら、高橋の死体に縋りつく。
髪を振り乱し身を揉むその姿は、まるで死体に取りつく亡者の様でもあった。
意味をなさない言葉を喚き散らしながら、お幸 が、重い胴太貫を引きずりつつそれを肩に担ぐ。
「主水様の仇!」
これだけは金切声で明瞭に言って、お幸 が 甚吾 に飛びかかる。
美しいこの人妻の顔があたかも、夜叉の面の様になっていた。
権太が、いったい甚吾がどうするのか、わくわくしながら見ていたら、甚吾は彼女の方を見もせずに、すいっと刀を横に振っただけだった。
ドンと重い音を立てて、お幸 の首が落ちる。
その首は転がり、高橋の死体に行きあたって止まった。
―― やはり ――
権太がひとりごちる。
―― やはり、甚吾さんは剣の鬼だ。殺意を向けられれば、女でも殺す ――
素晴らしい見世物を見ている気分だった。今日は、いっぱい人が死ぬ。
ああ……、ああ……、とてもいい日だ。最高だ。
お幸の絶叫が聞こえた。
木暮 左兵衛 の先輩である高橋が、朝から獣のように交情するのは今日に限ったことではないが、なんだか様子がおかしい。
夜具を剥いで、上半身を起こす。
寝乱れた寝間着から、小さな肩とすんなり伸びた白い脚を晒した お福 が、朝の冷気に触れて胎児の様に丸まった。
寝顔はまるで幼い。つい先日まで お福 は、未通娘だった。木暮は、人妻をおもちゃにする高橋を批判的な目で見ていたが、かく言う自分も、人質の娘を犯してしまったのだ。一線を越えてしまった。
高橋は荒んでしまった。
外道に堕ちてしまった。
そして、自分もまた……
お福 を起さない様に、そっと木暮が立ち上がった。
流れてくるのは、殺気。高橋がだれかと闘争している気配がある。
「ついに、来たか」
木暮がつぶやく。こんな生活をしていたら、恨みを買うし、討伐の対象になる。首領の無念 は、「これは、生存をかけた戦だ」と言っていたが、それは詭弁だ。
やっている事は、押し込み強盗団。だが、その現実から眼を逸らすため、無念 の言葉に納得するようにしていた。
鬱屈は澱の様に溜まってゆく。
高橋はそのはけ口を、人質になっている美しい人妻に求めた。お幸の監禁場所を蔵から母屋に移してからも、獣のような交情は続く。
木暮は女を知らなかったが、その声を聞いているだけで、頭がおかしくなりそうだった。
それは、未通娘だった お福 も同じだったのかもしれない。
気が付けば二人は抱き合い、口を吸い合っていた。高橋とお幸の狂気に感染してしまったのかも知れない。
緩んだ下帯を締め直し、素早く着流しを着て、刀掛から刀を取る。
故郷から持ち出したナマクラは捨てた。今使っている刀は、商家の用心棒が持っていた刀で、高橋の見立てだと相州物らしい。丈夫で、よく斬れる。気に入っていた。長さも重さも、木暮の手には丁度よかった。
「行っては、駄目」
いつの間にか起きていた お福 が、乱れた寝間着を整え、正座して木暮を強い目で見ている。
幼さが残る娘だったが、まるで夫婦のような生活を続ける間に、彼女はまるで若妻のようになっていた。
「そうもいかん。高橋を見捨てることは出来ん」
兵児帯を締め、刀を差す。下げ緒を捌いて、帯に結んだ。
「わかるの。行けば、あなたは死ぬ」
お福 が立ち上がり、身をぶつけるようにして抱きついてきた。
そうすれば、木暮を止めることが出来ると思っているかのように。
「すまねぇ。お福。ここまで、殺気がびりびりと流れてきやがる。相手は、きっと凄腕の刺客だ。どうやら、俺はここまでのようだ」
覚悟は決まっていた。まともな死に方など、出来るわけがない。
「逃げよう。わたしといっしょに、逃げて」
痛いほど木暮を抱きしめながら、お福 が泣く。だが、逃げる事は出来ない。奪ってきた魂たちが、木暮の逃亡を許さない。
「達者で暮らしてくれ」
血を吐くような、惜別の言葉。
『もしも、別の形でお福と出合う事が出来たなら……』
心に浮かんだ思いを打ち消す。そんなことは、考えるだけ虚しい。
江戸近郊で、高橋と無念とで農兵を斬った時から、木暮は修羅道に足を踏み入れてしまっていたのだ。
むりやり お福 の手を引きはがし、背を向ける。
「お願い。あなた無しでは、生きてゆけない。行かないで!」
背中に お福 の言葉が突き刺さる。
木暮は無言のまま蔵を出てゆく。今、何かを言えば、未練が頭をもたげてしまう。
朝の空気。
埃っぽい風が吹いていた。
江戸の空気は、未だに好かない。故郷の清冽な空気が懐かしかった。
その時、母屋から、ひときわ大きな絶叫が聞こえ、ブツリと途切れた。
ひらりと、枯葉が舞う。
木暮が抜き付けの一刀を送った。
枯葉は、音もなく二つに分かれた。
「未練は斬った」
木暮がつぶやいて、納刀する。
そして、中庭を横切って母屋に向った。
その男は、母屋の渡り廊下から中庭に降りて、木暮 左兵衛 を待っていた。右手には血刀。その後方には、小柄で背中の丸まった異相の男が、従僕の様に立っている。前歯が異様に発達していてまるで鼠の様な小男だった。
甚吾と権太だった。
権太は後ろに下がり、甚吾が前に出る。
木暮は、クンッと鯉口を切り、ゆっくりと抜刀する。
剣術は、道場で習っていた。木刀を使った田舎剣法だったが、その道場では一番腕が良かったのだ。
高橋は「道場剣術など役に立たん」と馬鹿にしていたが、ここでの鍛錬で基礎は出来ていた。
だが、実戦で役に立たないというのは、正しかった。
高橋の言うとおり、基本的な刀の扱い方を覚えた後は、ひたすら斬るしかないのだ。
江戸郊外で、落ち武者狩りの不逞農兵と斬りあった。初めて、人を斬ったのが、その時だった。
相手は二十人ほど。こっちは、高橋と無念と木暮の三人。高橋と無念は落ち着いていたが、木暮はちびりそうなほど、怖かったのだ。
それを見透かされたか、無念 は、
「止まるな。走り続けろ。刃筋も考えるな。とにかく、刀をぶん回せ」
……と、助言してくれた。
その通りにやるしかなかった。
眼は開いていたが、何も見えていなかった。
剣術の「け」の字もない、無様な初陣だったが、不思議とかすり傷一つ負うことはなかったのだった。
剣術の基礎のおかげで、走りながら刀を振り回しても、体勢が崩れる事は無かったらしい。
「これか」
木暮は、剣理を理屈ではなく、体で理解することが出来た。
以来、人を斬りながら、剣を磨いてきたのである。




