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剣鬼 巷間にあり  作者: 鷹樹烏介
勢源の章
43/97

高橋 主水

 草深 甚吾が襖を開けると、そこに立っていたのは全裸の巨漢だった。

 名前を 高橋たかはし 主水もんど という。

 浪人である。主家は滅びてもうない。東北の小さな国を汲々と守っていたが、ついに大きな勢力に飲みこまれたのだ。

 高橋は、後輩の 木暮こぐれ 左兵衛さひょうえ を誘って故郷を出奔した。


 『江戸に行けばなんとかなる』


 そんな不確定な情報だけを頼りに、新興の街である江戸に来たのだが、ジリ貧だった。小競り合いの戦ばかりの人生だった。戦に明け暮れていたので生活力などなかった。そして、労働者に混ざって汗する覚悟もなかった。

 窮した末、僧形の胡散臭い男である 無念 に誘われるまま、賊に堕ちた。

 今はただ、荒んだ心を お幸 という美しい人妻で癒すだけのクズになり果てている。

「お前が、俺の 死 か」

 そうつぶやいて、高橋が愛刀の胴太貫どうたぬきの鞘を払う。

 鞘は、そのまま投げ捨てた。

 未練がないといえば、嘘になる。だが、布団の上で天寿を全うするようなことは許されまいという思いが、高橋にはあった。

 斬りすぎた。無念は、生存をかけた戦なのだと言っていたが、無抵抗の町人を多く斬ってしまった。

 こんな事をするために、武を練ってきたわけではないのに。

 虚しさだけが、高橋の胸に木枯らしを吹かせていた。


 甚吾は、無表情のまま、血刀をすっと下向させた。

 構えは下段。刃は霞。霞とは、刃を上に向ける事を言う。

 あからさまに、脛をかっ払うという構えだった。

 ただし、上半身は全くの無防備。

 高橋は、重ねが厚い剛刀を上段に構える。間合いに入ったら、無防備な頭をかち割る。そういった構えだった。

 ゆらり、ゆらりと、甚吾が一足一刀の間合いを出入りする。

 奇妙なのは、のしかかるような殺気を放つ高橋の上段を全く見ない事。

 足元に視線を彷徨わせるだけで、ともすれば途方に暮れているかのような風情。

 深甚流の奥義『うつろ』だった。

 高橋は『虚』を知らない。だが、目の付け所が分からないことに、微かな苛立ちを感じていた。

 自分は業を背負ってしまった。斬られて果てるのは構わない。だが、目の前のこいつのような、気味の悪い剣の化け物に斬られるのは嫌だ。そんなことを、高橋は考えていた。

 鬱陶しい相手だった。

 じりっと間合いを詰めれば、ゆらりと下がる。

 退けば、ゆらゆらと間合いを詰めてくる。

 まるで、幽鬼でも相手にしているかのようだった。

 先が読めない。そっぽを向いているので、狙いが絞れないのだ。

「奴より早く動くしかない」

 高橋は、そう覚悟を決めた。

 敵は誘いの剣。ならば、機先を制して渾身の一刀を送るしかあるまい。『先の先(先制攻撃のこと)』は高橋が得意とするところだ。

 高橋の筋肉が膨れる。蓄えられた力が、巻かれた螺子のようにギリギリと音を立てているかのようだった。


 ―― ゆらり


 甚吾が下がった。まるで、迸るような高橋に闘気に押されたかかのように。

 構わず、高橋が間合いを詰める。

 こちらを見てもいないのに、計ったように間合いを外してくるのが薄気味悪かった。

 踏込む。

 高橋の裸足の足裏が、畳にすれてシュルっと衣擦れに似た音を立てる。

 相手は下段霞。場合によっては、脚一本と引き換えに頭蓋骨を胴太貫で叩き割るつもりだった。

 踏込みと同時に、高橋が上段から渾身の一刀を叩きこむ。

 鍛え抜いた膂力。

 振るうは、重ねの厚い胴太貫どうたぬき

 硬い頭蓋骨をものともせず、頭頂から首まで両断したこともある一撃だった。

 甚吾は、回避行動もとらず、受けの構えも見せず、やや身を低くしただけだった。

 見ていた権太は肝が冷えたが、高橋の刀身はガクンと空中で止まった。

「鴨居か!」

 高橋が舌打ちした。

 甚吾が下段霞に構えたのは、意識を下に集めるため。

 加えて、下段を相手にするときは、上段が定石だ。

 そして、ゆらゆらと躱す態をとりながら、高橋を敷居のところに誘導していたのだった。

 この母屋は天井が高く造られている。刀を振るには十分な余地があると思っていたが、襖のところだけは鴨居がある。上段から叩き下ろした一刀は、鴨居に半ばまで食い込んで止まってしまっていた。

「しゃらくせぇ!」

 そのまま振り抜く。

 バキバキと音を立てて、鴨居が断ち割られていた。

 だが、太刀往きは一瞬遅れる。甚吾にとっては、それで充分だった。

 今まで、そよ風に舞う羽の様だった甚吾の体さばきが一転、疾風と化す。

 低い位置から、掬い上げる様な一撃。

 鴨居を断って叩き下ろされた高橋の胴太貫を、甚吾が潜る。

 二人が交差した。

 ピピッと血しぶきが飛び、部屋の隅で息を忘れている お幸 の顔に飛ぶ。

 高橋は一歩前によろめくと、そのまま俯せに倒れた。甚吾の一刀は、高橋をすり抜けざま、存分に脇腹を斬り払っていた。

 一刀を掲げるように持っていた甚吾が、くるりと振り向いて残心する。

「嫌! 嫌ぁ!」

 絶叫が上がる。お幸 の叫びだった。

 体に巻きつけていた夜具をはねのけ、白い裸身を晒しながら、高橋の死体に縋りつく。

 髪を振り乱し身を揉むその姿は、まるで死体に取りつく亡者の様でもあった。

 意味をなさない言葉を喚き散らしながら、お幸 が、重い胴太貫を引きずりつつそれを肩に担ぐ。

「主水様の仇!」

 これだけは金切声で明瞭に言って、お幸 が 甚吾 に飛びかかる。

 美しいこの人妻の顔があたかも、夜叉の面の様になっていた。

 権太が、いったい甚吾がどうするのか、わくわくしながら見ていたら、甚吾は彼女の方を見もせずに、すいっと刀を横に振っただけだった。

 ドンと重い音を立てて、お幸 の首が落ちる。

 その首は転がり、高橋の死体に行きあたって止まった。


 ―― やはり ――

 権太がひとりごちる。


―― やはり、甚吾さんは剣の鬼だ。殺意を向けられれば、女でも殺す ――

 素晴らしい見世物を見ている気分だった。今日は、いっぱい人が死ぬ。

 ああ……、ああ……、とてもいい日だ。最高だ。


 お幸の絶叫が聞こえた。

 木暮きぐれ 左兵衛さひょうえ の先輩である高橋が、朝から獣のように交情するのは今日に限ったことではないが、なんだか様子がおかしい。

 夜具を剥いで、上半身を起こす。

 寝乱れた寝間着から、小さな肩とすんなり伸びた白い脚を晒した お福 が、朝の冷気に触れて胎児の様に丸まった。

 寝顔はまるで幼い。つい先日まで お福 は、未通娘おぼこだった。木暮は、人妻をおもちゃにする高橋を批判的な目で見ていたが、かく言う自分も、人質の娘を犯してしまったのだ。一線を越えてしまった。

 高橋は荒んでしまった。

 外道に堕ちてしまった。

 そして、自分もまた……

 お福 を起さない様に、そっと木暮が立ち上がった。

 流れてくるのは、殺気。高橋がだれかと闘争している気配がある。

「ついに、来たか」

 木暮がつぶやく。こんな生活をしていたら、恨みを買うし、討伐の対象になる。首領の無念 は、「これは、生存をかけた戦だ」と言っていたが、それは詭弁だ。

 やっている事は、押し込み強盗団。だが、その現実から眼を逸らすため、無念 の言葉に納得するようにしていた。

 鬱屈は澱の様に溜まってゆく。

 高橋はそのはけ口を、人質になっている美しい人妻に求めた。お幸の監禁場所を蔵から母屋に移してからも、獣のような交情は続く。

 木暮は女を知らなかったが、その声を聞いているだけで、頭がおかしくなりそうだった。

 それは、未通娘おぼこだった お福 も同じだったのかもしれない。

 気が付けば二人は抱き合い、口を吸い合っていた。高橋とお幸の狂気に感染してしまったのかも知れない。

 緩んだ下帯を締め直し、素早く着流しを着て、刀掛から刀を取る。

 故郷から持ち出したナマクラは捨てた。今使っている刀は、商家の用心棒が持っていた刀で、高橋の見立てだと相州物らしい。丈夫で、よく斬れる。気に入っていた。長さも重さも、木暮の手には丁度よかった。

「行っては、駄目」

 いつの間にか起きていた お福 が、乱れた寝間着を整え、正座して木暮を強い目で見ている。

 幼さが残る娘だったが、まるで夫婦のような生活を続ける間に、彼女はまるで若妻のようになっていた。

「そうもいかん。高橋を見捨てることは出来ん」

 兵児帯を締め、刀を差す。下げ緒を捌いて、帯に結んだ。

「わかるの。行けば、あなたは死ぬ」

 お福 が立ち上がり、身をぶつけるようにして抱きついてきた。

 そうすれば、木暮を止めることが出来ると思っているかのように。

「すまねぇ。お福。ここまで、殺気がびりびりと流れてきやがる。相手は、きっと凄腕の刺客だ。どうやら、俺はここまでのようだ」

 覚悟は決まっていた。まともな死に方など、出来るわけがない。

「逃げよう。わたしといっしょに、逃げて」

 痛いほど木暮を抱きしめながら、お福 が泣く。だが、逃げる事は出来ない。奪ってきた魂たちが、木暮の逃亡を許さない。

「達者で暮らしてくれ」

 血を吐くような、惜別の言葉。


 『もしも、別の形でお福と出合う事が出来たなら……』


 心に浮かんだ思いを打ち消す。そんなことは、考えるだけ虚しい。

 江戸近郊で、高橋と無念とで農兵を斬った時から、木暮は修羅道に足を踏み入れてしまっていたのだ。

 むりやり お福 の手を引きはがし、背を向ける。

「お願い。あなた無しでは、生きてゆけない。行かないで!」

 背中に お福 の言葉が突き刺さる。

 木暮は無言のまま蔵を出てゆく。今、何かを言えば、未練が頭をもたげてしまう。

 朝の空気。

 埃っぽい風が吹いていた。

 江戸の空気は、未だに好かない。故郷の清冽な空気が懐かしかった。

 その時、母屋から、ひときわ大きな絶叫が聞こえ、ブツリと途切れた。

 ひらりと、枯葉が舞う。

 木暮が抜き付けの一刀を送った。

 枯葉は、音もなく二つに分かれた。

「未練は斬った」

 木暮がつぶやいて、納刀する。

 そして、中庭を横切って母屋に向った。



 その男は、母屋の渡り廊下から中庭に降りて、木暮 左兵衛 を待っていた。右手には血刀。その後方には、小柄で背中の丸まった異相の男が、従僕の様に立っている。前歯が異様に発達していてまるで鼠の様な小男だった。

 甚吾と権太だった。

 権太は後ろに下がり、甚吾が前に出る。

 木暮は、クンッと鯉口を切り、ゆっくりと抜刀する。

 剣術は、道場で習っていた。木刀を使った田舎剣法だったが、その道場では一番腕が良かったのだ。

 高橋は「道場剣術など役に立たん」と馬鹿にしていたが、ここでの鍛錬で基礎は出来ていた。

 だが、実戦で役に立たないというのは、正しかった。

 高橋の言うとおり、基本的な刀の扱い方を覚えた後は、ひたすら斬るしかないのだ。

 江戸郊外で、落ち武者狩りの不逞農兵と斬りあった。初めて、人を斬ったのが、その時だった。

 相手は二十人ほど。こっちは、高橋と無念と木暮の三人。高橋と無念は落ち着いていたが、木暮はちびりそうなほど、怖かったのだ。

 それを見透かされたか、無念 は、

「止まるな。走り続けろ。刃筋も考えるな。とにかく、刀をぶん回せ」

 ……と、助言してくれた。

 その通りにやるしかなかった。

 眼は開いていたが、何も見えていなかった。

 剣術の「け」の字もない、無様な初陣だったが、不思議とかすり傷一つ負うことはなかったのだった。

 剣術の基礎のおかげで、走りながら刀を振り回しても、体勢が崩れる事は無かったらしい。

「これか」

 木暮は、剣理を理屈ではなく、体で理解することが出来た。

 以来、人を斬りながら、剣を磨いてきたのである。


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