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剣鬼 巷間にあり  作者: 鷹樹烏介
勢源の章
40/97

左転

 江戸に最も近い宿場町である新宿。

 徳川による江戸幕府の成立が噂になってから、急に宿場の規模が大きくなった場所だ。

 少し足を延ばせば、江戸の町に入れるのにもかかわらず、ここに宿屋が多いのは、特殊な経営形態にあった。

 ここで働く『仲居』とよばれる女性は、若くて見栄えの良い娘が多い。なぜか? ここは、彼女らが春をひさぐ場所でもあったからだ。

 特殊なのは、金を積んでも必ず彼女らを買えるとは限らない点。そこが、江戸市内にある売春窟である『岡場所おかばしょ』と異なるところ。

 あくまでも、仲居と客の自由恋愛という建前なのだ。客を選ぶ権利は『仲居』側にある。彼女らが気に入らないのなら、断ってもいいのだ。そこが、素人っぽくていいと、好事家の客を集めていた。

 一方、岡場所は、通称『ちょんの間』といって、男が女を買うと狭い掘立小屋の一室で、尻をめくった女に欲望を吐き出して、さっと帰る。岡場所の前身が、自分が横になるための蓆を抱えて、路上で男を誘っていた街娼だからだろうか。

 新宿は、宿泊が前提。

仲居と交渉が成立すると、彼女らが仕事を終わるのを、酒肴を楽しみながら部屋で待つ。懐に余裕があれば、ゆったりと過ごすことが出来るのだ。


 右旋うせんが博打に入れ込むと、左転さてんは胸がざわついて、妙な気分になる。

 見分けがつかないほど良く似た双子の兄弟である右旋と左転は、胎内で時間を共有していたからなのか、奇妙な共感覚があって、相手の感情が流れ込むとしか表現しようのない現象が起こる。

 博打のような、強い感覚はそういった現象が強く現れ、それを消し去るために、兄が博打に熱中すると、左転は新宿にしけこむことにしていた。

 馴染の仲居が働く宿があり、女の柔肌に触れていると、胸のざわつきが薄れるのだ。

 仕事が終わり、湯殿で汗を流した仲居が、左転の部屋に来る。

 房州の漁村から流れ来た娘で、海辺育ちにしては色白なのが、左転は気に入っていた。

 名前をはつという。顔は十人並みだが、愛嬌があり、多少だらしないところも、万事きっちりしないと気がすまない左転にはかえって新鮮だった。

「ごめんよぅ。待たせちゃったね」

 そう言いながら、初は左転にしなだれかかり、勝手に手酌で酒を注いだ。

 それを、白い喉を見せてくいっと飲み干す。

 酒はあまり強い方ではないらしく、すぐに眼元に朱が掃かれた。これが、色っぽいのだと、自分で理解し充分計算された動きだった。

 浴衣の襟元から、左転が手を滑り込ませた。

「あ……」

 小さく喘いで、初が左転に寄り掛かる。

 左転に抱かれるため、体を磨いてきたのか、米糠の甘い香りがした。そんな可愛いところがある女だった。


『今日は、妙に胸がざわつきやがる。兄者め、勝ちの波に乗りやがったな』


 次第に、切羽つまった喘ぎ声を上げながら、左転の腕の中の初が乱れる。

 浴衣の合わせ目から、すんなり伸びた脚が露わになった。

 どうやら、今日は眠れないかもしれない。右旋の興奮が、いつもより強く流れ込んでくるのだ。

「朝まで、寝かせねぇぜ」

 初の耳に歯を立てながら、左転が囁く。

「あい。うれしい」

 かすれ声で、初が答えた。



 初の寝息を聞きながら、朝の気配を左転は感じていた。

 暗闇の中にいても、きっちりと時間経過を感じる事が出来る。忍としての訓練の賜物だった。

 右旋の興奮の気配は収まった。

 結局、明け方まで右旋は博打に興じていたらしい。珍しい事だ。

 負けた時は、早々に引き上げる。ということは、今回は大勝利だったのだろう。年に何回かこういうこともある。

 大勝したあと、右旋は気前が良くなるので、何か奢らせるのも悪くない。そんな事を、左転は、仰向けに寝ころびながら考えていた。

 初が寝返りを打って、無意識に左転にしがみついてきた。

 はだけた布団を掛け直してやる。何か不明瞭な事を、むにゃむにゃと初が言っていた。

 左転が跳ね起きたのは、その瞬間だった。

 痛みが走る。咄嗟に喉を掴んだ。


「げえ!」


 空えずきをする。何かが、喉を貫いた。そう感じたのだ。

 右旋の身に何かが起きた。激しい感情の流れを感じる。間違いない。これは『死の恐怖』だ。

「くそっ! 兄者!」

 床の間に丸めておいてある着物をひっつかむ。

「何? どうしたの?」

 全裸のまま、初が寝ぼけなまこで、上体を起こす。きれいに結い上げていた髪がおどろに乱れていた。

「すまねぇ、急用だ。行かなくちゃならねぇ」

 初が布団をはねのけて飛び起き、左転の着替えを手伝う。

 巾着袋を懐から取り出し、中身も確かめずに左転は初に渡した。手持ちの全財産だった。

「今回の手当だ。足りなかったら、改めて参上する」

 帯を締め、脇差を差す。

 初には自分の事を『飛脚』であると、左転は伝えていた。

 京・大阪と関東を結ぶ伝令を生業にする者は室町時代から存在している。

 山賊の類を退けるため、そして、走りに邪魔にならないため、彼等は脇差で武装するのが常だった。また、山伏などに擬装したりもする。左転のような、忍が騙るに適した職業なのだった。

「いいよ、いいよ、早くお行き」

 初が言う。そして、まじまじと左転の喉を見た。

「どうしたんだい? おおきなミミズ腫れが、喉に出来ているよ」


 明け方の新宿を走る。

 既に、喉の痛みは消えた。痛みが消えたということは、右旋は死んだということ。

 いつも一緒だった兄が死んだなど、実感がなかった。だが、わかる。右旋は死んだ。

 いや、殺されたのだ。

「馬鹿な奴」

 博打はいつか身を滅ぼす。そう、左転は警告した。

 行動を一定にするな。常に変えろ。そう左転は忠告した。

 だが、右旋は馬鹿にして聞かなかった。愚か者だ。だが、左転にとってはたった一人の肉親で、小さく固まり安定してしまう傾向がある左転にとっての、不確定要素が兄だった。

 兄によって、自分の運命が変わり、その潮目の変りを楽しんでいた自分がいた。

 口では罵ったり、馬鹿にしていた兄だが、好きだった。改めて、それに左転は気が付いた。

 どちらに走ればいいのかは、自然と分かる。

 これもまた、不思議な共感覚で、なんとなく互いの居場所も理解できるのだ。

 左転は子供の頃、山で罠をしかけてウサギやリスを捕まえ、食料の足しにしてのだが、雪庇せっぴを踏み抜いて谷底に転落したことがあった。

 大人たちは、早々に諦めてしまったが、右旋は簡単に左転を見つけ、救助してくれたのだ。

「なんとなく、こっちにいるって分かったんだ」

 その時、右旋はそんなことを言っていたが、思えばあれがこの共感覚を意識した最初の出来事だったのかもしれない。

 要領のいい右旋とは違い、左転は不器用で融通のきかない子供だった。

 忍の訓練は厳しく、理不尽なこともいっぱいある。

 そして、右旋や左転のような下忍げにんは消耗品。

 左転は何度も死にかけたが、その度に助けてくれたのは右旋だった。

「なんだよ、ちくしょう。ちゃんと『兄』をやっていたじゃないか」

 涙が流れた。それを乱暴に袖で拭う。

 もう、一人だ。これから、どうしたらいいのか、左転にはわからなかった。

「兄者を殺した奴を、ぶち殺す。まずは、そこからだ」


 血の跡があった。

 商家の軒先の戸板に、刀が食い込んだ跡と、大量の血痕があった。

 そして、地面にも血痕。

 鼻緒が切れた草履が一つ。

 多分、右旋の履いていた草履だ。

 左転は、右旋が斬られた現場に立っていた。

 涙はもう枯れていた。

 今は、敵を追跡する忍の顔になっている。泣くのはいつでもできる。今は、敵を追い、仕留めることに集中する。左転は、そう思い定めていた。

 巧妙に隠しても、忍の目から見れば痕跡は残る。

 だが、右旋を殺害した敵は、その痕跡を隠す努力すらしていない。

 何か、大八車の様な物に右旋の死体を乗せ、海辺の方に向っているのが分かる。

 おそらく、シデムシ達の領域に死体を捨てに行くのだろう。江戸湾に近い葦原に、死体を捨てると、シデムシと呼ばれる不可侵民が、勝手に死体を処理してくれる。

 血が、点々と続いていた。

 微かに残った足跡でわかる。敵は二人。小男と、中肉中背の男。歩幅でだいたいの身長は分かる。足跡の深さで体重も類推できる。

 小男が大八車を曳き、ぶらぶらと中肉中背の男がその横を歩いている……そんな、姿が足跡から想像出来た。

「なめやがって。仕留めてやるぜ」

 左転は兄の血を辿ってゆく。

 推測通り、その痕跡は葦原に向っていた。

 工事中の横十間川を越え、荒川の河口に向う。

 このあたりは、もう既にシデムシ達の領域だった。

 朝日の中に、大八車がぽつんと置かれていた。

 小男が一人、その大八車の脇に立っている。

 猫背の小男で、前歯が大きく、まるで鼠を連想させる男だった。

 仲間の露木つゆき 玉三郎たまさぶろうが、仕留め損ねた男が、こんな様相の男ではなかったか? とうことは、ずっと付け狙われていたという事なのかも知れない。

 左転が採るべき選択肢は二つ。

 この事を、無念らに知らせる。

 この場で、こいつらを殺害する。

 常識で考えれば前者を選ぶ。だが、左転は激怒していた。半身をもぎ取られたかのような喪失感で、どうにかなりそうだった。

 敵に追いついて、このまま去るなど出来ない。左転の選択は決まっていた。

脇差を逆手に抜く。鞘は、腰の裏に回した。

「どこの誰だか知らねぇが、死んでもらうぜ」

 逆手に持った脇差を、目の前に掲げる。

 走り、跳び、すり抜け様に脇腹をかっ払う。それが、忍の刀術。

 左転が最も得意としていたのが、この刀術だった。

 殺気に押されたかのように、小男が後ろに下がる。その小男を庇うように前に出てきたのは、中肉中背の男だ。

 着流しに、落とし差の塗の禿げた刀。ともすれば、忘れてしまいそうな平凡な顔。

 草深 甚吾 だった。

 迸るような左転の殺気を浴びて、それでもなお、表情一つ変えない。

 甚吾が、裏地のついた羽織を脱ぐ。

 従僕の様に、異相の小男――瓦走りの権太――が、その羽織を受け取り、腕にたくし込む。

「私は、草深 甚吾という。君は左転君だね。恨みは無いが、死んで貰う」

 そう言って、鯉口を切り、右手を刀の柄にかぶせた。同時に、やや腰を落とす。


 『居合腰』


 仲間の露木が居合を使うので、それの意味するところは左転にもわかった。間合いに入れば、抜きつけの一刀が襲ってくる。そういうことだ。

 「しゃらくせえ」

 唾棄して、左転が駆けた。

 速い。

 まるで風の様に走る。

 甚吾の脚が、ぐりっと地面を踏み固めた。

 抜刀。

 いつ抜いたのか、左転には見えなかった。

 だが、予測はしていた。

 十分に間合いに余裕をもって、横に跳んでいる。

 体の動きは右方向に跳ぶ動き。だが、実際は左方向に跳んでいる。

 これが、左転の名前の由来。兄の右旋は逆の動きをする。

 腕のいい剣客でも、この幻惑にかかる。体の流れで動きを予測するような、凄腕の剣士こそ、この詐術にひっかかる。そして、脇腹を裂かれるのだ。

 甚吾も、一瞬だけ左転を見失ってしまったかのように見えた。

 抜刀したまま、あらぬ方向を見ていたのだ。

 「死ね!」

 逆手に持った左転の脇差が奔る。

 その瞬間、そっぽを向いたまま、甚吾の右手だけが、別の生き物のように動き、左転の首を抉ったのだった。

 深甚流の秘剣『うつろ』だった。

 脇差と刀。間合いの差が出た。

 甚吾の切先は届き、左転の一撃は空を斬った。

 「かっ!」

 血塊が喉からせり上がって、左転の気道を塞ぐ。


 ―― せめて一太刀


 そう念じて、左転が踏みとどまる。そして、振り向きざま、脇差を振った。

 その必死の一撃を、甚吾はひょいと潜るようにして躱し、刀を突き上げる。

 左転の腹から背へ、一刀が突通る。

 それが、捩じられて引き抜かれた。

 左転の全身から力が抜け、くたくたと仰向けに倒れる。


 「兄者……」


 つぶやいた左転の目には、冬の江戸の蒼天を走るユリカモメの姿が映り、やがて闇に塗り込められていった。


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