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剣鬼 巷間にあり  作者: 鷹樹烏介
勢源の章
39/97

右旋

 気が付けば、もう明け方だった。

 痛みを伴う疲労感が、眼から後頭部に突き抜ける感覚。

 博打に熱中したあとに訪れる、この多幸感が、右旋うせん は堪らなく好きだった。

 運否天賦に任せる骰子さいころ賭博には流れがある。理屈ではない。実際にこの現象はあるのだ。

 勝ちの流れに乗れば、全部上手くいく。

 負けの流に嵌ってしまえば、何をやっても駄目だ。

 大概の奴は、勝の流れを掴むことは出来ない。だが、今夜……もう、朝だが……の右旋は、勝の流れに乗る事が出来た。

 七死党の首領である 無念むねんは、どこから持ってくるのか、『碁石金』と呼ばれる文字通り碁石大の金塊を、偵察を担当している右旋・左転 兄弟への報酬に渡すことがあった。

 碁石金は両替商にもっていけば、小判に替えてくれる。だが、江戸城下で両替商の許認可を受けている商人は、不審な金の流れがあった場合は、江戸の治安を守る『先手組』に届けることが義務つけられており、先手組の配下である『目付』や甲州忍崩れの隠密廻に目を付けられることになる。それは、避けたかった。

 どこかの大店の番頭ならともかく、右旋・左転みたいな、いかにも町人じみた人物が碁石金など持っているのは不自然なのだ。つまり、盗品か、自出の怪しい金ということ。

 番頭風に化けるという手段を使うことも出来るが、この江戸で金塊や割符などを商取引に使用する大きな店の番頭は、だいたい面が割れている。発覚の危険があった。

 だから、右旋は賭場でそれを使うのだった。

 碁石金をその賭場内部だけで通用する賭札かけふだに替え、勝てば小判や粒銀などで受け取る。

 金でさえあれば、その出所など、ここでは問われない。

 そういう意味では、金を洗浄するには賭場はいい場所だ。ただし、らなければ……だが。

「旦那『付け馬』に送らせましょうか?」

 賭場を仕切る代貸だいがし伸兵衛しんべえが、手もみしながら、帰り支度をしている右旋に話しかけてくる。

 組織の代理で金を貸すから『代貸だいがし』という。小田原周辺に本拠地を持つ、博徒組織の江戸支部を代貸として仕切っているのが、この伸兵衛だった。

 元来、『付け馬』は金を払えなくなった客を送り届け、その客の家から金を回収するのが仕事の男たちだ。

 金が無い場合は、金目の物を差し押さえる。年頃の娘がいれば、何日かの猶予を作って女郎屋に売り飛ばす事までする、荒っぽい連中だった。

 それを、「用心棒代わりに使っていい」と、伸兵衛は提案している。

 もちろん、無料ではない。今夜は、大勝されたので、少しでも回収しようという魂胆が透けて見えた。

「いや、結構だよ。気持ちだけ、頂いておくぜ」

 付け馬稼業の連中など、用心棒どころか、送り狼になりかねない。

 借金のカタに攫った娘を、金策の猶予の期間、さんざんに嬲るなど、こいつらは日常茶飯事のならず者だ。

 こんな連中に住んでいる所を特定されるなど、危険極まりない。

「そうですか……では、帰路ご用心なさってくだせぇ。今、ひと財産もっていますからね」

 ニコニコと笑いながら、伸兵衛が右旋の肩についた見えない埃を払いつつ言う。勝ち逃げされるのが、悔しくて仕方ないのだ。

「まぁ、こんな日もあらぁな。だがよ、年間の収支でいったら、俺は赤字だぜ」

 そんな捨台詞を吐いて、賭場になっている荒寺を右旋は後にした。

 その背に

「また、お越しくださいまし」

 という伸兵衛の声が被さってきた。


 朝朗あさぼらけの江戸を右旋は歩く。

 未だ土木作業員の町である江戸の朝は早い。だが、まだ通りに人の姿は疎らだった。

 この寒空の下、こもを被った乞食が、火の消えた一善飯屋の大きな提灯の下で蹲っている。

 店開けの時、彼を追い払うため、幾ばくかの施しがあるのかもしれない。

「こいつをやるから、どっかにいきな」

 というわけだ。

 醜い男だった。薄汚れ、異臭すら漂っている。

 ネズミのように前歯ばかりが発達していて、ひび割れた唇から見えていた。

 下から掬い上げる様な目つきで、右旋を見ている。

「旦那、旦那、お恵みを……」

 節くれだった、手を右旋に伸ばしてくる。差し出してきたのは左手だけだった。菰に隠れて見えないが、戦禍で不自由になったのかもしれない。または、こいつは間抜けな盗人で、とっ捕まった際に利き腕を叩き斬られたのかもしれない。これでは、江戸で土木作業すら出来ないわけだ。

 いずれにせよ、俺には関係のない…… そんなことを右旋は考えていた。せっかく、バカヅキだった運気が落ちちまうと、舌打ちしたい気分だった。

「うるせぇな。こっち見るんじゃねぇよ」

 唾棄して、乞食の横を通り過ぎる。

 乞食が陣取っている店と、その隣の店の間に、小さな路地があるのだが、そこに浪人が立っているのに右旋が気付いたのは、その時だった。

 こんな近くに来るまで、気配すら感じられないのは異様だった。乞食に注意が向いていたとはいえ、誰か居れば気が付く。そういう訓練を受けているのだ。

「何か、ヤバい!」

 そう、考るより早く、右旋は跳んでいた。真横に、二間(約四メートル)もの距離を。

 空中で、グラリと体が傾く。

 体の均衡がおかしかった。目の端で浪人をとらえる。

 いつの間に、踏込み、いつの間に抜いたのか、浪人が抜き身の一刀を掲げるようにしていた。

 その浪人の前に、ポトリと落ちたのは、大根のごとく斬られた右旋の右脚だ。

 跳躍の際に、踏ん張った軸足。それゆえ、一瞬だけ回避が遅れた。

 右旋は元は忍。体術には自信があった。剣術使いの抜き打ちなど、躱せるはずだったのだ。

 だが、斬られた。なんという速さか。まるで、鎌鼬かまいちたちにでも襲われたかのようだった。

 片足では体重を支えきれず、右旋は、乞食が居た店の真向かいの店の戸板に背中を打ちつけて止まる。

 息が詰まったが、この瞬間に、袖口に隠した棒手裏剣を握りこんだ。

 今になって、灼熱の痛みが右脚に走るのを、右旋は感じていた。それを、意識から切り離す。手足の欠損くらいで怯んでいたら、忍は務まらない。


「ははっ! 何の冗談だ?」


 久しぶりに博打で大勝したその日に、こんな化け物と遭遇するとは!

 あまりの間の悪さに、思わずそんな事を、呟いていた。

 滑るような足さばきで、浪人が肉薄してくる。抜き打ちも早いが、間の詰め方も早い。まるで疾風だ。それに迷いがない。向けられた切先が、まるで巨大なまさかりの様に見えるのは恐怖ゆえか?

 加えて、もっと奇妙なのは、その浪人がそっぽを向いたまま、右旋の方を見ていない事だ。

 さぁっと、右旋の肌が粟立つ。


『こいつは、本物の化け物かもしれねぇ』


 右旋は、だらりと下げた手を上に跳ね上げる。

 低い位置から、棒手裏剣が化生のモノの様な浪人に一直線に飛ぶ。

 最も回避しにくい角度がこれだった。

 ロクに見もしないで、浪人が掲げた一刀を僅かに動かす。

 金属が打ち合う音と、火花を残して、棒手裏剣が弾かれた。

 そのまま、ぞぶりと切先が右旋の喉に潜り込んでくる。

 咄嗟に抜き身を掴んだ右旋の指がぽろぽろと落ちる。

 この期に及んで、浪人はまだ右旋の方を見ない。

 ぐいっと、刀身が押し込まれてくる。

 やっと、浪人が右旋を見た。

 相手を殺す昂ぶりとか、苦悩とか、嫌悪とか、そういったモノが一切伺えない無表情で何の特徴もない顔で、その目は単なる黒い石をはめ込んだかのようだった。

 海で、サメを見た事を右旋は思い出した。

 なんだか、その目に似ていると思った。


 ―― こんな野郎に殺されるなんざ、あんまりだ ――


 それが、右旋の最後の思考だった。



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