佃島
彦造は番頭なので、主人と同じく屋号の入った羽織を着ることが出来る。
だが、山田 月之介 の前に身支度を整えて現れた彦造は、着流しの裾を端折って、股引をむき出しにした姿だった。
身軽に動く為の出で立ちだ。
「襲撃の情報の確度は、なんとも高そうだねぇ」
腕組みをし、肘を落とし差しにした刀の柄に預けながら、まるで天気のことでも話すかのように、月之介が言った。
「誰が雇ったのか、探りを入れている最中ですがね。その誰かが侍を雇ったらしいんで。えらく、腕が立つそうですぜ」
商人らしからぬ厳つい顔の彦造が、やはり、天気の事でも話しているかのように応える。
なんでも、この彦造、元は紀伊半島の淡輪水軍の頭の一人だったそうで、駿河屋の密貿易などの影の部分を取り仕切る、事実上の大番頭なのだった。
「で、私をご指名ということなのだね? ふむふむ、承知した」
月之介を伴って、彦造が向かったのは佃島であった。
日比谷入江の埋め立て工事はだいぶ進んでいて、今は縦横に走る運河の浚渫が行われはじめているところである。
とはいえ、まだ街は造りかけといった風情で、埋め立てたばかりの日比谷のあたりは、まだ潮の香りがするようだった。
駿河屋があるのは、江戸城に近いこの日比谷だ。
そこから足を伸ばせば、江戸湾にある埠頭に着き、そこには取引相手の廻船問屋がいるはずだった。
彦造はそこを通り過ぎ、江戸湾の埠頭の対岸に向かう。
ここは、葦が茂る無人の野であり、江戸の治安の外とされている無法地帯であった。
彦造が葦をかき分けるようにして奥に進み、何を目印にしたのか不意に立ち止まって指笛を吹いた。
するとキイキイという櫓の音がして、葦の奥から「猪牙船」がぬっとあらわれたのだった。
細身のこの船は、水路などを行き来するのに使われていて、耐波性能はないが、小回りが利く。
もと海賊だけあって、彦造は身軽に猪牙船に飛び移り、月之介も危なげなく飛び移る。
また、もの悲しいキイキイという櫓がこすれる音を立てながら、船は離岸した。
彦造はどっかと船の中心にあぐらをかき、目を閉じている。
月之介は船べりによりかかって、指先を流れる水面に浸していた。
全くの無言のまま、船は沖へと漕ぎ出してゆき、葦の群生を抜けて江戸港の沖にある小島に向かっている。
これが『佃島』と呼ばれる島だった。
佃島は無人島である。
漁師がたまに訪れるくらいで、常駐している者はいない。
猪牙船は、佃島にそってぐるりと回り、自然に出来た入江に入る。
そこには、異形の千石船が係留されていた。
和船の造りとは明らかに異なる船で、帆柱が三本もある。
帆も縦帆ではなく横帆のようだった。
「これは、まるで洋船のようだね」
沈黙を保っていた月之介が好奇心に負けて、思わず彦造に話かけた。
「洋船そのもですぜ。なんでも『からっく』とかいう船らしいです。熊野灘に漂着した南蛮の船ですが、そいつを頂いたわけで」
ごくまれに、海外の外洋船が漂着することがある。徳川家には、そのまま船の技師として日本に留まった水師(航海士のこと)も存在するとか。
「乗組員の南蛮人はどうしたのだね?」
熊野灘に南蛮人が上陸したなどという話は聞いたことが無い。
「積み荷のなかに、豊後の方の離島にいる漁民がいましてね。奴ら、人狩りをしていやがったんでさ」
この時代、人間は商品だ。人狩りを専門にする者もいたのである。
「娘っ子はみな手籠めにされてましてね、奴らはその報いを受けたってぇわけでさ」
実に嫌な笑みが彦造の顔に浮かぶ。
「あ、あ、皆まで言わんでいいよ。残酷なのは好きじゃあないんだ」
月之介が、慌てて手を振った。
彦造は、この異形の船の船長らしき人物と密談をし、船長は何か割符を彦造から受け取り、彦造は何かズシリと重そうな皮袋を船長から受け取っていた。
皮袋の中身は『碁石金』と呼ばれるもので、碁石と同じ大きさの純金の粒が入っていたのだった。
小判は、海外との密貿易には使えない。
こうした金の粒の方が通貨として利用できるのだ。
「月之介さん、帰りますぜ。帰路があぶねぇんで、しっかり頼みますよ」
そういって彦造は、懐から一尺五寸(四十五センチ程度)ほどの木の棒を取り出して、腰の裏に差した。
この木の棒は、中身が空洞になっていて、細引きが折りたたんで入っていた。
木の棒の先端には分銅がついていて、その細引きとつながっている。
この木の棒を思い切り振ると、分銅が飛びだす仕組みだった。
この道具は、本来は海難救助の道具で、遠くまで縄を飛ばすためのものだ。
木の棒の長さの分、遠心力が増して、手で投擲するよりずっと遠くまで細引きを飛ばせるのだった。
彦造はこれを武器として使う。
月之介は、駿河屋の裏庭で、投擲の鍛錬をしている彦造を見た事があった。
「そいつを使っているのを、見たよ。一寸はある杉板をぶち抜いていたじゃないか。それがあれば、私の護衛など要らないんじゃないのかね?」
くつくつと彦造が笑う。
「あたしは、慎重なのでね。金を持っている時は、特にね」




