猫足の三郎 と 山田 月之介
「山田の旦那、あいつはいってぇ何者です?」
不満気に口をとがらせたのは、単独犯行専門の盗人『猫足の三郎』だった。
一膳飯屋の中、昼時の喧騒は過ぎ、遅い昼食を摂る者や夜勤明けの疲れた顔した者が何人かいるだけの店内だった。
カチャカチャと音を立てているのは、店の主人。
大量に出た洗い物の皿を洗っているのだった。
「知らん。だから、お前に頼んだのじゃないか」
猫足の三郎に山田の旦那と言われていた男の前には一合徳利が一つ。それを、ちびちびと嘗めるように飲んでいる。
徳利の中には燗をした酒。この店は、冷酒は出さない。酒の嵩を増すため、水で薄めているからだ。冷だとバレるが燗だとバレない。
「あたしゃ、隠形には自信があるんだ。見抜かれたのは、山田の旦那以来ですぜ」
歩いても猫のように足音をさせない。それゆえついた異名が『猫足』だった。
「まぁ、無事に帰ってきてよかったじゃないか。下手したら、斬られていたかもしれんぞ」
そんなことを言いながら、山田がほろ苦く笑う。
猫足の三郎は一瞬だが、その顔に見惚れてしまっていた。
彼には衆道の趣味はないが、目の前の男は役者ばりの美男子だったのだ。本人は全く意識していないらしいが、妖しい『色気』のようなものがあるのだ。
「と……とにかく、また明日尾行しますぜ」
脳裏に浮かびかけた禁断の映像を、慌てて打消しつつ猫足の三郎が言った。
舌がもつれ、顔が赤らんでいた。
それをごまかすかのように、手づかみで焼いたメザシを皿から取って乱暴に噛み千切る。
「いや、尾行はもういいよ。君には、別の仕事を頼みたい」
そう言って、山田が手の中の猪口を煽る。
日焼けしていない山田の白い首が伸び、喉仏がヒクリと動くのが見えた。
首が日焼けしていないのは、肉体労働者ではない証だった。
猫足の三郎は、目を釘付けにしながら、固唾を飲んでいた。どうも、この男を前にすると調子が狂う。
「あの男、草深 甚吾 を殺してくれないか? この 山田 月之介 のために」
ひらりと山田が笑う。無邪気な笑顔だった。
猫足の三郎にとって、その笑顔は陽光に似てまぶしかった。
なぜこの男は、こんな事をこんな笑顔で頼めるのだろう。だが、そこに惹かれる。
人と組まないのが身上の猫足の三郎が、山田 月之介 とつるむのは、自分の理解を超えた圧倒的で純粋な『悪』に痺れているからだと気が付く。
「手段は、何でもいいんで?」
猫足の三郎の得手は、潜み隠れること。侍のように立ち会う事ではない。
「いいね。二つ返事じゃないか。手段はまかせるよ」
山田が、猪口に酒を注ぐ。
それを、猫足の三郎に差しだした。
『月之介 が口をつけた猪口……』
猫足の三郎は、震える手でそれを受け取り、目をつぶってそれに口をつけた。
視覚も聴覚も嗅覚もいらない。
口唇の触覚だけが、今は必要だった。
猫足の三郎と別れ、山田 月之介 は乾物を扱う商家『駿河屋』に足を向けた。
徳川の江戸移封と同時に移ってきた、もともとは岡崎城下の商人だ。
岡崎は徳川の地元であり、その地の商人は優遇されていたのだ。
為政者が便宜を図れば商人は肥え太る。『駿河屋』はそうして力をつけてきた商人だった。
江戸の治安は悪い。それに、勝ち馬に乗ればやっかみも出る。
それゆえ、用心棒は必要経費のようなもので、山田 月之介 は『駿河屋』の用心棒だった。
「山田先生、おかえりなさいまし」
小僧や手代が、山田の姿を見て頭を下げる。
強盗に主人の 岡田 喜平 が襲われているところを偶然通りかかった山田が助けたのが縁で、彼はここの用心棒を務めていたのだ。
山田は、ただの飼い犬ではない。喜平の命の恩人だ。だから、雇われ人であるにもかかわらず、客人のような扱いを受けているのである。
それに、山田は決して尊大ぶらない。
どころか、菓子を買ってきて小僧たちに与えたり、手代のたまり場に酒肴を差し入れたりするので、すこぶる評判がいいのだ。
もちろん、美形であることも加味されているのだろう。
「山田先生、お疲れのところ大変申し訳ないのですが、これから一番番頭の彦造が集金に回ります。護衛をお願い致します」
『駿河屋』には、大番頭を筆頭に三番番頭までいる。中でも彦造は一番度胸が据わっており、彼が集金に回るということは、大物相手か危険な道行ということになる。
取引する額面も大きいのだろう。現金の移動は危険が伴うことから、約束手形で済ますこともあるが、江戸のような新興の町ではそれもできない。
「かまわん、かまわん。これが、私の仕事なのだから、いつでも言ってくれていいのだよ」
山田が笑顔を見せる。喜平が、惚れ惚れとした表情をした。
彼が、同じ笑顔で殺しを依頼するとも知らずに……
乾物を扱う『駿河屋』だが、商店に卸す干物や干し野菜などは、表向きの商い。
本当は、東北地方から干したナマコやフカヒレを仕入れ、海を渡った蝦夷地で昆布の干物を仕入れ、更に海を渡って大陸でナマコとフカヒレを銭に変え、更に海を渡って九州で昆布を売り払う。
九州で安価な米を仕入れ、大阪で売り払い、京ものの装飾品やちょっとした贅沢品を仕入れる。
紀伊半島を回り、駿河の地元で細々とした乾物を仕入れて江戸で京ものや乾物を売り払う。そして、また東北へ……そういった商いをしていたのだ。
近江商人たちが独占していた北前船に大陸への貿易を加えたものだが、もちろんこれら全てが密貿易だ。
発覚すればただ事では済まないが、今のところ為政者と結ぶことによって上手く回転している。
薄々、密貿易について感づいている商売敵もいて、それらの密偵や刺客が放たれることもある。
集金に回るときが、最も危険なのだ。
まさか「密貿易の利益が盗まれました」と訴え出るわけにもいかない。
腕の立つ用心棒が値千金というのは、こうした理由による。