日本橋の料理屋
隙があれば、懐の匕首で……と、思っていた、猫足の三郎 だが、三人を斬った甚吾の手際を見て、その気を失くした。
そっと後ずさり、この場を去ることとする。
盗賊の修行を積んだ 猫足の三郎 は、例えこんな葦の生い茂る草むらの中でも、痕跡も気配すら残さず、移動することが出来た。
その足が止まる。
納刀し、釣竿を捧げ持つようにこと切れている男から釣竿を取り返していた甚吾が、肩ごしに振り返ったのだ。
糸のように細く微かな殺気が、葦の間から漂い流れてきて、猫足の三郎 にからみつくかのようだった。
動けなかった。
否、蛇に睨まれたカエルの様に、身体が動かなかったのである。
葦の葉の間から、藪の奥を透かし見る甚吾の顔が見えた。
まるで、能面のように表情が抜け落ちていて、両目はまるで闇に塗り込められているかのようだった。
バタタタ!
羽音がした。
オオヨシキリが、『キョッ キョッ』と鳴きながら、猫足の三郎 の近くから飛び立ったのだ。
能面の様だった甚吾の顔にふと笑みが刷いて、殺気は霧散した。
また、甚吾は何事もなかったかのように、釣竿を担いで、ぶらぶらと家路につく。
「助かった」
どっと、冷や汗が 猫足の三郎 の背中に流れる。
呼吸を忘れていたのか、飢えたように空気を貪る。
へたり込みそうなほど疲労していた。これは、緊張による精神の疲れだ。
何時間も山道を歩いた後かと思えるほど、脚が震えている。これもわかる。
久しく味わうことがなかった感情。
『恐怖』
ようするに、猫足の三郎 ともあろうものが、びびったのである。
「ありゃあ、妖怪の類だぜ。困ったあなぁ、こいつは策を練らないといけねぇ」
人間なのだ。恐怖を感じるのは正常な反応。
それを飼いならせと、風の小太郎 は、彼に教えていた。
そして、今までそれを実践してきたからこそ、猫足の三郎 は、名うての盗賊になったのである。
怖かったのは事実。だが、心は折れていない。
新興繁華街である日本橋。そこの、一膳飯屋よりだいぶ格が上の料理屋に、山田 月之介 は居た。
個室を取っているが、女は呼んでいない。
極端に女性人口が少ない建設途中の江戸だが、例外はある。この料理屋は、その数少ない例外だった。
月之介の真向いには、駿河屋の番頭の一人である彦造。『飛虎』という奇妙な武器を使って刺客を三人屠っている。
ただの番頭ではない。
紀伊を本拠地としていた『淡輪水軍』の残党が彼である。
俗にいう『殺生関白』豊臣 秀次 への粛清に一族が連座し、秀次の側室だった娘を、河原で犬コロの様に殺されるのを、彦造は見ていた。
だから、豊臣家には恨みがある。
徳川の御用商人に加担しているのは、そういう理由があるのだった。
「奴らを集めた『口入れ屋』が判明しましてね。捕えてあります。そいつから、手繰っていって、依頼元を割り出します。多分、カチ込むことになろうかと思いますが、また、是非先生のお力をお貸し頂きたい」
今日は、駿河屋の制服である、屋号付の羽織を着ている。
番頭級でないと、着用が許されない羽織だ。
この羽織を着用している者は、その屋号の代表ということになる。
高級料理屋を使用するには、この類のコケ脅しも必要なのだろう。
「おいおい、彦さん。『先生』はよしてくれ」
上品な朱塗りに鶯の象嵌の茶碗を取り上げ、ぞぶりと啜りながら月之介が言う。
碗の中身は鯛のアラを使った吸い物だった。
月之介は、薄めた酒を嘗める程度にしか飲まない。体質が合わないらしい。
だから、彦造は手酌で酒を注ぐ。
上等な澄み酒だった。
「では、月之介さん。先日の手並みですが、実にお見事でした」
くいっと、一気に猪口の酒を流し込みなら、彦造が言う。もう、一合徳利を七本空にしているが、赤銅色に日焼けした彦造の顔は変わらない。
「義経神明流だった。他流は実に面白い」
ふふっと笑いながら、月之介が答えた。
役者ばりの美形だ。ここに女がいれば、たちまちこの笑顔に熱が上がったことだろう。
「月之介さんの柳生新陰流は、どこで習得されたので?」
器用にスズキの奉書焼きを箸で解体しながら、さりげない様子で彦造が問う。
基本的に、彦造は駿河屋の主人及び直接率いている数人の部下以外誰も信用していない。個人情報を集めるのは習性のようなものだ。
「私のは、新陰流は新陰流でも、『柳生』じゃないのだよ。柳生新陰流の祖、石舟斎の兄弟子にあたる 疋田 景兼 の流れだよ。いうなれば、疋田陰流さ」
史実では、この時代(1600年)疋田陰流という名称はありません。
新陰流の「上泉信綱」の高弟である「疋田景兼」の道統で新陰流が伝わった系統が後年名乗ったのが「疋田陰流」であります。
「疋田陰流」の使い手としては、『柳生武芸帳』で「柳生十兵衛」と死闘を繰り広げた「山田浮月斎」が有名(実在)ですね。
あ、月之介のモトネタが!




