巷間にあり
その男、名を 草深 甚吾 という。
剣聖、塚原 卜伝 と試合をし、『槍で勝ち、剣で負けた』と言われる深甚流の創始者、草深 甚四郎 と名前が似ているが、果たして縁者である。
老境を迎えた 草深 甚四郎 は、養い子として、間引かれそうになっている百姓の子や、戦災で焼け出された子を引き取って面倒を見ていたというが、彼はその一人だった。
一種の天才である、草深 甚四郎 が創始した深甚流だが、これといった後継者はいない。
深甚流の剣理を理解できるものがいなかったのである。
剣の天才が独学で生み出した剣。
草深 甚四郎 のための剣が、深甚流だったのかもしれない。
それゆえ、道統は途絶えてしまうのだが、それを憂いた甚四郎が後進を育成しようと考えたのが、晩年彼が集めた少年少女たちなのだと言われている。
だが、それは事実とは異なる。
深甚流の手ほどきなど、しなかったのである。
命運を賭けた『関ヶ原の戦い』は、東軍の勝利に終わり、徳川は天下に一歩近づいた。
地方の寒村にすぎなかった江戸は、その徳川の新しい本拠地として俄然注目されはじめ、空前の大普請事業に沸くことになる。
利に敏い商人が、いち早く土地を確保し、商館を立てはじめたのだ。
建設の職人も集まった。
土木工事の職人も集まった。
西軍についた主家を失った武士も、浪人となって江戸に集まった。
ここなら、職にあぶれないから。
江戸は、労働者が常に不足している状態だった。
草深 甚吾 も、なんとなく江戸に流れてきた一人……に、見えた。
塚原 卜伝と試合した言われる、草深 甚四郎 だが、そこから逆算すると、年齢不詳とはいえ関ケ原の戦いの頃には、百歳以上の年齢になる。
関ケ原の戦いの際、縁ある上杉家に十数名の若者を率いて陣借り(傭兵のこと)した記録が残っているのだが、その時点で常識外の年齢だったわけだ。
草深 甚吾 は、その若者の一人だった。
その後、養い親であった 草深 甚四郎 が亡くなると、彼の養い子たちはバラバラに各地に散り、巷間に埋もれていった。
そして、不思議な事に誰一人として『深甚流』を名乗らなかったのである。
ただ一人、草深 甚吾 を除いて。
長屋という住居形態の原型が出来たのは、こうした江戸の創成期の頃だった。
同じ現場に行く労働者同士が、同じ場所に掘立小屋を作り、そこで寝起きしたのが始まりだった。
女性人口は極端に少ない。江戸は、妻子を呼び寄せて暮らすにはあまりにも治安が悪く、ここに暮らす人々は荒んでいたのだ。
この普請中の江戸の町に『深甚流道場』という名のみすぼらしい小屋を立てた 草深 甚吾 は、全く剣術の需要がないこともあり、ただぼんやりと過ごす日々が続いていた。
江戸はまだ街も城も大普請の最中であり、剣術に興味を持ってくれそうな徳川家の武士団が入ってくるにはまだ早すぎたのである。
忙しく働く労働者や職人は「やっ! とう!」どころではない。
剣術道場など、商売としては、現時点では的外れもいいところだった。
草深 甚吾 のやることと言えば、釣竿を持って海に行き、魚を釣ってそれを食うことだけ。
多く釣れた時は、近所の一膳飯屋に持ってゆき、一碗の飯と交換などをしているようだった。
それでいて、生活に困った様子などないので、近所に住む者たちは
「あの、侍さんは、いってぇ何やってる人なのかねぇ」
などと、噂をしていたのだった。
かといって、嫌われているわけではない。
この甚吾という男、浮世離れした生活をしている者にふさわしく、覇気が全く感じられず、春風駘蕩というか、のたりとした春の海のような、おっとりした雰囲気をもっているのだった。
苛酷で忙しい労働に身を投じる労働者たちも、甚吾と一緒にいると『ささくれた気』も、なんとなく鎮静するような気がして、いうなれば、地域全体に容認されている野良猫みたいな扱いだった。
労働者たちの朝は早い。
井戸の周辺に集まり、ぱっぱと手早く身支度を整え、道具を抱えて「あらよっ」とばかり町に出て行く。早朝からやっている一膳飯屋か屋台で朝食をかっこみ、仕事に向かうのだ。
だから、甚吾と同じ時間に起きだして、井戸の周りでのそのそと身支度しているような者は、具合が悪いのか、仕事にあぶれたのか、どちらかだった。
「おう、甚さん。今日も太公望かい?」
「何か釣らないと、朝食にもありつけないからね」
相手が武士だろうと、へりくだったりしないのが、この頃の労働者だった。
気さくに話しかけられる甚吾も、別に気にした様子もなく、応じている。
「昨日の残りで良ければ、握り飯があるぜ。まだ饐えちゃあいねぇと思うが、要るかい?」
「それは、ありがたい。だが、表六さんの朝飯じゃあないのかい?」
「昨晩、飲みすぎちまって、飯の匂いを嗅いだだけで、戻しちまう」
「では、私の梅干しと交換しよう」
二日酔いの表六を長屋に置いて、甚吾はぶらぶらと歩く。
落とし差しにした刀。肩には使い慣れた釣竿。帯には魚を入れる竹を編んだ魚籠が結わえつけてある。
懐には、竹皮で包んだ表六の握り飯と、一粒の梅干し。釣竿に括り付けた瓢には、井戸の水が詰めてあった。
酒は飲まない。養い親だった甚四郎は、木の実を漬けこんだ酒を愛飲していて、それが彼の長寿の秘訣らしいのだが、一度、盗み飲みした結果、酒は受け付けない体になってしまっていた。
海に向かって歩く甚吾の足が、一瞬止まる。
「はて、この道でよかったのか?」
と、迷う風だったが、しばしの逡巡の後、再び歩き始めた。
その、飄々としたその後ろ姿を見送る目があった。
「あの野郎……俺に気が付きやがった。今日はここまでだな」
と、つぶやきつつ、竹垣の影から出てきたのは、小柄な男。
『猫足の三郎』との異名を持つ、一人働きの盗人だった。
草深 甚四郎 は、実在の人物で、『深甚流』も存在しますが、名前をお借りしている以外は、フィクションです。
『深甚流』は一度、道統が途絶えましたが、関係者の方々の勉強とご努力で復興されております。
ご興味のある方はググってみてください。
『深甚流』復興に携わった方々すべてに敬意を表しつつ、後書きさせて頂きました。