喜作
「法螺會」という勉強会の、第三回課題です
競作リストは活動報告に載せてあります。
そちらもご覧ください。
あとがきを利用して、江戸時代の豆知識を載せましたので、そちらもどうぞ。
「喜作」
「それではこれで」
薄茶の羽織を着た男が喜作の両親に軽く会釈をして、まだ幼さの残る喜作の肩をポンポンと叩いた。最後の別れを促す合図である。が、それが何を意味するものか、十二になったばかりの喜作には見当がつかなかった。ただ、しきりとボロ手拭いで涙を拭く母親が、喜作に触れようとしていることは理解できた。父親は、男から受け取った巾着を大事そうに両手で捧げ、ただ口をわななかせていた。
「じゃあ、行こうか」
饅頭笠を被った男は、振り分け荷物を肩にして両親に背を向けた。
少しは加減してくれているのだろうが、男の歩調は子供の喜作にとって楽なものではない。遅れては駆けより、遅れては駆けよりしながら、気付けば村さえ山のむこうになっていた。
そうだった。そうして俺は江戸へ奉公に出されたのだった。
唐突にそんなことを思い出した喜作は、江戸で小間物を行商する廻り商人である。どうして奉公に出された日のことを思い出してしまったのか、奇妙な心地であった。
今にして思えば、そこは小田原だったのだろう。ここで待つようにいわれた旅籠で何日かすごすうちに、喜作と同じようにしてやってくる子供が次々に増えていった。そして十人ほどになると、いよいよ江戸への旅が始まったのである。
お前はあっち、お前はこっち。口入屋では銘々に行く先がきめられ、喜作は小間物屋の丁稚となった。
叱られ、叩かれ、夜明け前から動きづめの毎日ではあったが、江戸は賑やかである。それに、喜作にとって密かな楽しみもあった。別に遊山をしたいという大それたことではなく、江戸の子供のように読み書きを覚え、算盤の扱いを覚えたことであった。
そのほかで、謂れのない苦労をしたということはなかった。相模の生まれであることも、丁稚奉公をしていることも、特に喜作を苦しめたことはない。いくら江戸っ子だと威張ったところで、結局は大なり小なりお店奉公をしているのである。
喜作は特に商才があるわけではない。が、元来が素直であった。叱られたことを直そうと努めた。そんな姿勢が、店の先輩に可愛がられ、お客にも可愛がられていた。
やがて手代に取り立てられたとき、喜作はすでに二十五であった。
それから四年。番頭さんが相次いでお店を去るとともに、持ち上がりで喜作は中堅の働き頭になっていた。
丁稚供を指図して荷を倉にしまったり、品物の目利きや職人との付き合いもぼつぼつ始まっていた。要するに番頭修行というわけである。が、喜作はその頃、初めて恋をした。
店には、奥向きの賄いをする住み込み女中が何人かいたのだが、その中に、みつという無口な娘がいた。歳は十四、喜作とはちょうど十五歳ちがう。陰日向なく働く良い娘なのだが、無口なせいか、ぶっきらぼうと店では評判の娘である。
喜作は、江戸の娘が発する荒い早口の言葉が、本当は大嫌いなのである。キンキン声でまくし立てられると、いい加減に切り上げてその場を離れたいとどれだけ思ったことやら。その点おみつは、喜作にとってとても安らぐ娘であった。
手厳しいことを言いはするが、だからといって騒ぐことも喚くこともない。そのかわり、怒ると口をへの字に曲げて機嫌を直さない強情者でもあった。そのおみつと喜作は、いつのほどにか好き合う間柄になっていた。思いはやがて燃え上がる。
二人で所帯をもとう。喜作とおみつはささやかな夢に縋って仕事に精出し、少しづつ貯えを増やしたのである。その貯えがけっこうな額になり、長屋住まいもできるくらいにまでなった時、辛抱できなくなった喜作は、意を決して主人に許しを求めたのである。
しかし、奉公人同士の色恋沙汰はご法度。それに、女中の嫁ぎ先は主人が決めることが当たり前の世の中である。主人にしてみれば、出入りの商人にでも嫁がせる腹積もりだったのだろう。おみつの気持を知ると、店に留まることを許さないとまで言い出した。
そうとなっては二つに一つ。奉公を続けるか、所帯を選ぶかである。喜作は元気盛り、おみつは強情者であることから、行く末は決まったようなものであった。
意気と張りとでお店を去ることを決めたは良いが、次に考えねばならないのが稼業である。喜作は、丁稚からこっち小間物商いしかしたことがない。どうしたものかと思案に暮れているうちに残された日限が一つ、また一つと減ってゆく。
さすがに番頭修行をさせようと見込んだこともあり、みかねた主人は喜作に一つの提案をもちかけたのである。というのは、小間物の廻り行商で身を立てろということで、品物は店から卸してやるということであった。困りきっていた喜作がそれを拒むことなどできるはずがない。が、そうして地道に商いを続けるうちに芽も出ようということである。店にとっても、むざむざ喜作をよその店に奪われないですむ。一挙両得である。
喜作は喜んだ。行商はおろか小売りの経験すらありはしないが、真面目に働きさえすればなんとかなる。こつこつ銭を貯めて小商いをしよう。そんなことを夢見るようになった。
長屋へ移り住んだ二人は、喜作は行商、おみつは通い女中としてとにかく働いた。
喜作は売った、売った、売りに売った。
「えー、おはようござい、小間物屋喜作でございます。ぁ五倍子粉、歯磨き、房楊枝ぃ。紅白粉から糸瓜水。それ、櫛笄に簪と、なんでもござれの小間物屋。いろいろ取り揃えてございます」
長屋の木戸くぐると路地である。どぶ板を避けて奥へ少し入れば、どの長屋にも井戸がある。そこだけ少し広い場所がとってあって、炊事洗濯もできるようになっていた。そこで声をあげればほとんどの住まいに聞こえるし、必ず誰かがいるので便利である。喜作は、軽妙な節をつけながら路地を入った。
「小間物屋のきささんかえ? ちょうどいいところへ来とくれた」
すっかり顔なじみになった若妻が早速に喜作をみつけた。
「これはご新造、毎度ありがとうございます。で? いったいどんな御用でございますか?」
「嫌だよう、こんな裏長屋でご新造はあるもんか。いえね、鉄漿筆がだめになっちゃってさあ。持ってないかい? ついでに歯磨き粉ももらうよ」
若妻は、喜作を軽くぶつまねをして、ところどころ剥げた歯を見せて笑った。
「はい、喜作に抜かりはございませんよ。そろそろご新造からお声が掛かる頃と見当をつけていましたので……このとおり。それで、歯磨きはいかがしましょうか?」
「そうだねぇ……、何か目新しいのがあるのかぃ?」
「こればっかりは好みでございますから。……では、こういうのはどうでしょう。房州砂に三河の焼き塩。それに山椒を少ぅし混ぜたらどうでしょう。さぞかしさっぱりすると思いますが……」
料紙の上に砂を一掬い。別袋から焼き塩を一掬い。よく混ぜ合わせたものに、山椒の粉を少し混ぜた。
「ちょっとお試しを」
「きささん、この味。初めての味だよ。ちょっと、およねさん、おかつさん、味見してごらんよ、さっぱりした、良ぃ味だよ」
小指の先を湿らせた若嫁は、その指をぺろりと舐めたとたんに他の女房どもに味見を勧めた。たちまち何本かの指が伸びてきて、さらに三人に売ることができたのである。
明けても暮れてもこうして売りまくった。
暮れの六つは日の沈む時刻である。お店者の賄いをすませるまでが通い女中の勤めのために、おみつは毎日六つの鐘より早く長屋に帰ることはない。
夏の間は青空が残る時刻であるが、秋風が吹くようになると薄暗くなってくる。あと一月もすれば、つるべ落としに宵闇に包まれるようになる。それでもおみつの足取りは軽い。
喜作と所帯をもつ夢がかなったのだから。
「ただいま」
おみつはガタピシと建てつけの悪い戸を引いた。
“よろづ こまもの きさく”
軒先に下がる案内札を見るたびに、今の生活が現実なのだとたしかめているのである。
間口が九尺、奥行き二間の割り長屋。つまり、たった六畳の空間である。土間があり、水桶やへっついが据えてあるから、実質は四畳半ほどか。床は板の間、莚敷きである。
小ぶりな茶箪笥、火鉢、行灯が二人の家財道具。夜具をたたみ、行李を載せて衝立で隠してあるから、本当に使えるのは三畳。それでもおみつは満足だった。
「すぐに晩餉のしたくをするから」
上がり框の商売道具をそっと脇へやって、おみつは嬉しそうに言った。
「どうした? ばかに嬉しそうじゃないか。どうかしたのかい?」
裏の障子を開けて帳面付けをしていた喜作は、どこか弾んだ声音をおみつに感じたのである。
「今日はおかずがたくさん残って、持って帰っていいって」
おみつは、薄板で包んだ料理を小鉢に盛り付け、箱膳にそっと添えると、朝の味噌汁を温め直した。
「ねえ、お前。今日は耳寄りなことを番頭さんに教えてもらったよ」
差し向かいで遅めの夕餉を始めたおみつは、小さな口に運ぶ箸をとめ、キラキラ光る眼差しを喜作に向けている。
「いいことのようだね、どんなことだい?」
「表店に空が出るそうだよ。深川でね、店賃が二分二朱だって」
「へぇー、安いねぇ。二間の四間半というところだろうが、それなら手が届くかもしれないよ。これは良いことを聞いてきておくれだよ、おみつ」
「よかったね、おまえ……」
喜作の、今からでも店を見に行きたそうな喜びようを満足げに見つめ、おみつは再び箸を動かし始めた。
喜作は廻り商い、つまりは行商である。もちろん鑑札をいただいた真っ当な行商なのだ。
歯磨き粉はもちろん、白粉、かね、笄……。とにかく長屋という長屋をすべて廻るつもりだから安物ばかりである。それだけに利はわずかだが、どこへ顔を出しても買ってもらえるので、案外の実入りであった。
お店奉公の癖が抜けていない喜作は、几帳面に日々のあがりを帳面に書き付けている。そして、今日の儲けをこれから二人して壷に入れるのである。大きい壷には一文銭。もう一つの壷には四文銭。小さな壷には、一朱銀と一分銀。銭の壷が一杯になると、両替商で交換してもらうのである。神社に掲げられた額縁を小さくしたような一分銀の中に一枚だけ、金貨を混ぜてある。鼠色をした銀貨の隙間にきらりと光る山吹色が、二人の希望である。
そそくさと壷を埋め戻して、煎餅布団を延べると、夜着にくるまった。
所帯をもって五年。どうにか小さな店をもてるようになった喜作は、小物類を作ってもらい、店に並べ始めた。
手代の時に、職人との付き合いをさせられたことが助けになった。腕の良い職人ほど頑固で強情である。口は荒いし、ぶっきら棒だが、同時に一本気でもある。
素直な印象で受けの良かった喜作は、そんな職人たちの応援を得ることができたのである。
櫛ひとつとっても、材質により二両もの値がするものがある。それに模様を細工した。すると、三両の値をつけても売れるのである。さらに象嵌をほどこしてみたところ、一気に五両の値がついた。螺鈿を施しても同じであった。
しかも、木やべっ甲のような柔らかで割れやすい材料に象嵌を施せる職人など、江戸広しといえどもそう何人もいるのではない。そのほとんどを喜作は抱えの職人にしてしまっていた。だから、他の店が真似をしようにも、おいそれとはできない。喜作の独壇場である。
べっ甲の櫛は武家に好まれた。模様をほどこせば大身の武家が競って買った。透かし彫りや象嵌をほどこした櫛は、大名家から注文が次々に舞い込んだ。
喜作が勧めたのは櫛だけではない。笄、簪、はては紅のような高価なものまで商ったのである。
やがて表長屋から自前の店持ちになり、使用人も一人二人とふえていった。中堅の店持ち商人になれたのである。
ところが、潤沢に金を蓄えた喜作は、一般の商人とは別の道をさぐった。それは、御家人株を買って武士になるということである。武士になってどうするかと問われても答が出ないのだが、とにかく喜作はなんとかして苗字帯刀を許されたかった。そして、札差しから教えてもらった相場に驚いた。
与力五百に同心二百。
つまり、与力の身分なら五百両、同心なら二百両で御家人株が売り買いされていたのである。同心程度の身分であれば僅かな額で夢がかなう。その僅かな額を、すでに喜作は持っている。
借財で首が廻らなくなった北川家に養子縁組をしたのは、それから一年の後であった。
抱え席、つまり一代限りではあるが、名目上は北川家の頭領である。貧しい百姓の子倅が、独力で氏族の仲間入りをしたのである。
喜作は満足していた。大いに満足であった。
早速にも相模の両親に出世した姿を見てもらいたい。暮らしが成り立つように金を置いてきてやりたい。おみつの親元にも施しをしてやりたい。喜び勇んだ喜作は旅を願い出たのだが、あっさり刎ねつけられてしまった。いやしくも幕府から扶持を頂戴する身でありながら、勤めを怠って旅をするなど言語道断。一切、まかりならんと一蹴されたのである。
北川家は作事方同心であった。つまり、扶持米のただどりは許さないということなのである。ならば、扶持を返上するともちかけてみたが、そのような前例はないと、これも門前払い。結局、喜作は泣く泣く役所へ通うことになった。
喜作の商才と算盤を重宝がられたのは良いとして、副業を一切禁じられてしまったのが誤算であった。下される扶持米はわずか二百俵。こんなことなら元の商人でいるほうがよほど安穏に暮せるではないか。
喜作は、お役御免を申し出た。が、町人が財力で氏族になろうという魂胆が気に食わんと、無理やり打ち合い稽古に引き出され、さんざん打ち据えられてしまった。
来る日も、また来る日も同じことの繰り返し。
肩といわずわき腹といわず、両の腕はもちろん、尻から背中まで、大小さまざまなミミズバレと黒くなった痣ばかりである。
明けてくれるなという願いも空しく、今日も目が覚めてしまった。
喜作はむっくり起き上がった。肩や背中に鈍い痛みがある。憂鬱になりながら、それでも身支度をと伸びをした。
と、手甲をした手が見える。着古した羽織の、擦り切れた袖が見える。そして見慣れた幟と道具箱が見えた。
慌てて周囲を見回すと、草の褥に一体のお地蔵さんが穏やかな笑みをうかべている。
このところ夜明け前から行商に出ているので、きっと疲れがたまっていたのだろう。たしか今日は練馬村へ行ったのだった。どれだけ眠ったのやら知らないが、ずいぶん長い夢をみていたような気がする。たしか、武士になって、さんざん打ち据えられていたような。
「もういいや! 今日は早仕舞いして、ももんじ屋へでも行こう。なっ、おみつ」
喜作は苦々しく一笑いし、そんな独り言を呟きながら腰をあげた。
すぐにでも掴まえられるささやかな夢を糧に、饅頭笠のあご紐を結び、恋女房との薬食いを想像して、ふっと頬を緩める喜作であった。
草を褥に目を横に、笠を被りて夕まで休め。
夢という字は、案外そんな意味が籠められているのかもしれない。
おわり
江戸時代 物識り帳
*夜着…… 江戸時代も元禄の頃になると布団を使用するようになりましたが、それは敷き布団のこと。上方では掛け布団が少しづつ普及していました。では、どうやって寝るかというと、夜着という大型の着物にくるまって寝たのです。夜着というのは着物の形をした綿入れですから、襟も袖もありました。寒い日には、夜着の下に掻い巻きを着ました。夏は、掻い巻きを掛けて寝ました。
*五倍子粉…… 江戸時代は、女性が既婚であることを示すため、眉を引き、歯を黒く染めました。俗にいうお歯黒です。鉄漿とも、鉄漿さしともいいます。
歯に酸化鉄の溶液を塗るのですが、これは水溶性のためにエナメル質の歯に付着しません。そこで、五倍子粉を接着剤として使ったそうです。止血や鎮痛剤としても使われたとか。
「早く歯を染めさせて……」若い女性が、そう言って男に婚儀を迫ったり、離縁しても鉄漿をさしたままで、再婚の意思がないことを表したりしたそうです。
**簡単なお歯黒のしかた**
味付け海苔を歯に貼り付けるだけで江戸情緒にひたれますよ。
公家は歯を染めていたので、男女揃ってお歯黒ということもありえます。
ただ、場所をわきまえないと大変なことになりますが、宴会芸でいかが? 責任は負いませんよ。
*紅白粉から糸瓜水…… 江戸時代の化粧品。特に、紅は高級品で、紅一匁は金一匁だったとか。安いものだと三十二文とか四十八文。そばが十六文だから……。
糸瓜水は、糸瓜の茎から出る水? のことです。
問題なのが白粉。鉛をたくさん含んでいて、貧血や神経麻痺を招く危険物だったのです。
*櫛笄に簪…… 女性の装身具。笄は、髪を巻きつけたり、留めたりするもの。簪は、野暮天な私にはわかりません。
*ももんじ屋…… 当時、獣肉を食べる習慣がなかったのですが、実は、食べさせる店がありました。ただし、薬として食べさせるのですから、薬食いといいます。
ももんじとは野獣のことで、猪肉を「山鯨」(やまくじら)「牡丹」と、鹿肉を「紅葉」と称しました。天保の頃には登場しました。
ところで、元禄年間から毎年、彦根藩は将軍に牛肉の味噌漬けを献上していたそうな。
ちなみに、獣肉を食べない習慣ができた大元は、天武天皇が出した触れによります。(六七六年)
犬猫牛馬猿のほか、鶏も禁止だったそうです。なら、鹿、猪、狸、狐、兎は良いのか?
怖いことに、人肉は禁止されていなかったとか。とすれば、案外どこかで誰かが……
人を喰った話でした。