Ⅱ:赤毛の男
ロッキンライン兵士隊長の駆る栗毛の馬は、雨風を切って進む。
その足元には水が張り、ひづめが蹴るたびに、地面が沈んだ。
「────!!!」
ガトールークの後ろで手綱を引いていたブロスライドが、突如、息を飲んだ。
「…あれは…!」
ガトールークは、前方の暗がりに目をこらした。
すべてを飲みこんでゆく、巨大な泥水の切っ先。
「こっちも決壊したのか…!」
ブロスライドが歯ぎしりする。
「こっちも…?
それ、どういうことなんだ?」
「濁流の来ていないルートから川沿いを進んでいくつもりだったんだが…
やむを得ん、引き返そう」
「じゃ、ここで下ろしてください!」
「…なんだと?!」
彼がかぶりを振った。
「無茶だ、目の前には─────」
「いいから!
兵士隊長さんはそのへんの木にでもしがみつくか、じゃなきゃ逃げろ!」
ガトールークは、両手を組んだ。
「ロー・フロート!」
彼の体が浮き上がる。
風にあおられて軌道を揺らしながら、ガトールークは濁流の先端に向かって飛翔した。
眼前に迫る水の固まり、
ガトールークはそれに向かって手を伸ばす。
彼の指先が、目下の水流に触れる。
─────泥を含んだ水が、凍てついてゆく。
濁流は瞬間、氷の道となってそこにとどまった。
後ろを振り返ると、ブロスライドはもういない。
ガトールークは、氷の上を右手でなぞりながら、この水を放出したロワール川の本流を目指した。
黒く低い空の下、
巨大な流れが、ガトールークの瞳にうつる。
「…ロワール川…」
ガトールークは横殴りの暴風を浴びながら、決壊した場所を探す。
ロワール川。
この近くでは一番の大河だ。
堤防なんか切れた日には、川のそばの村はひとたまりもない。
もっとも昔は暴れ川として有名だったが、技術の進歩にともなって強固な堤防が作られてからは、ずいぶんおとなしくなった。
そう。
ガトールークには、その堤防が破れたということが、信じられなかったのだ。
今までどんな嵐に襲われても破れなかったのに。
今回に限って、という思いが、彼の脳裏を渦巻いた。
やがて、視界の先に、なにかうつりはじめる。
川沿いにたたずむいくつもの人影。
白いマント、銀の鎧。
「ロッキンラインの兵士だ…」
ガトールークは、前方に目をこらす。
秋雨で煙った視野に、ぼんやりと、
─────濁流だ!
さっき凍らせたのより、はるかに巨大だ。
その先端は、もう見えない。
もしかすると、もうロッキンラインの城下が、あとかたもなく消えているかもしれない!
ガトールークは、腕を広げ、一直線に、濁流の根本へと降下していった。
「お…おい、あれ!」
「子供が飛んできたぞ!」
「な、なんだ?!」
「もしかして、あいつが隊長のいう、城下の魔法使いなんじゃ…」
「まさか…だって、魔法だなんて」
兵士たちのそんなどよめきは、ガトールークの耳には入らない。
彼は雨の中を横切り、切れた堤防の真上に出た。
運よく、風が少し弱まってきている。
彼は宙に静止した。
両手を組んで、深く穏やかに、呼吸を繰り返す。
ぼんやりと全身が、光を帯びてきた。
冷たく、青白い輝き。
─────今だ。
「氷壁の炳誡を!
フリジエ!」
ガトールークは詠唱とともに、水を左手でさらっ た。
跳ね上がるしぶきの先に導かれるように、濁流が空にのぼっていく。
それは高みに達したものから順に凍てつき、巨大な氷柱となって、雲の下にたたずんだ。
ロワール川は、表面に氷を張らせ、流れを鈍らせる。
堤防の切れ目は頑丈に凍りついて、川を再びふさいでいた。
眼下に、ナイトたちが群がってくるのが見える。
ガトールークは、ふらふらと、厚い氷の上に着地した。
膝をついて、肩で息をする。
氷上に置いた手から血がにじみ、雨水に溶けだす。
嵐の中を風に逆らって飛んできたうえ、短い間に強力な魔法を二回も放ったのだ。
無理もない。
ガトールークは、こうべを垂れた。
流木や泥の混じった氷がわずかに透けて、その下に、泥の色をした速い流れが見える。
─────と、 そのとき。
ふと、ガトールークは、明らかに異質なものに目を止めた。
氷の向こうにある、何か。
それは赤く、長く揺らめいている。
ガトールークの胸に、鋭く、予感が走った。
彼は重い右腕を氷につくとそれを左手で支え、
─────唱えた。
「ライトニング・パニッシュ!」
純白の閃光とともに氷に大穴があく。
ガトールークは、その中に飛びこんだ。
水中で光を放ち続け、それを動力に、赤いものに近づいてゆく。
ようやく、像がはっきりしはじめた。
─────やはり、人だ!
ガトールークは、可能な限り腕を伸ばす。
そして、それの服と思われる部分を、左手におさめた。
川底に向かって光を照射し、彼は氷上に飛び出した。
ガトールークは、氷の上に倒れこむ。
もはや起き上がる気力さえも失った。
速く浅く呼吸を繰り返し、彼はあえぐ。
「…おい
…大丈夫か」
耳にした声に答える力は、体に残っていない。
──────?
…声…?!
温かい手が、ガトールークの冷えきった肌に触れる。
そして、もう一度。
「…苦しいのか」
…ガトールークは、なんとかまぶたを上げた。
紅の瞳が、彼を見下ろす。
身を包む茶色のマントと赤い長髪から水をしたたらせ、男はガトールークの脇にしゃがんでいる。
呼吸ひとつ乱さず、無表情だ。
「…無事だったんですね」
ガトールークは、口を開いた。
「なんともないみたいで、よかった」
男が、意外そうな顔をする。
…あまりにも男が平然としているのを奇妙に思ったが、
ガトールークは、優先して訊いておきたいことがあった。
「…あの」
「何だ」
「…もしかして、
…アデリーの、フェニックスさん、
…ですか?」
「…!!」
彼は目を一瞬見開いた。
すぐに立ち上がり、ガトールークから離れる。
「…え、あの
ま、待って!」
ガトールークが、しぼり出すように叫んだ。
男は足を止める。
振り向いた彼を見て、ガトールークは体を起こし、ゆっくりと氷の上に立った。
「…あの、
もしお前がフェニックスさんだったとしても、俺、アデリーに無理やり渡したりしないよ」
「何をふざけたことを」
「ほんとだよ。
だって、戦争の最中に抜け出してきたからには、それなりの理由もあるんだろ?」
「なぜ貴様がそんなことを知っている?」
「新聞に失踪事件として載ってたんだ」
「…」
黙りこんだ男に、ガトールークは近寄る。
「…なあ」
「何だ」
「…行くとこ、あるのかよ?」
「貴様には関係ない」
「うちに来なよ」
ガトールークが、長身のフェニックスを見上げる。
「なんか、アデリーとは気まずいみたいだし…
ひとまずどこかに室内に入らなきゃ」
「信用できない」
フェニックスは表情を緩めない。
「私はもう言いなりになるのはごめんだ」
「いいから!
ずぶ濡れのままでずっといたら、風邪ひくだろ?」
「私に構うな」
「俺のうち、教会なんだ。
多分水も来てないし、フラフラほっつき歩いてるよりずっと安全だろ?」
「貴様は関係ないと言っただろう」
「関係なくないよ!」
ガトールークが、フェニックスの手をとる。
「だって今、沈んでたのを助けたんだから」
彼が、体を宙に浮き上がらせる。
ガトールークに左手を握られたフェニックスの身も、それに続くように、風をまとった。
「─────これは…!」
「魔法だよ、この方が歩くより速いだろ?
さ、帰るぞ!」
ガトールークはフェニックスに有無を言わせず、冷たい雨の中、彼を引っ張っていった。
「…すごい」
セレスティーナが、窓の外を見て、ジェニファントに声をかける。
「…もう、水が引きはじめてます」
ジェニファントは満足げにうなずいた。
「この分ならたいしたこともなく済みそうじゃの」
「ガトールーク、がんばったノ」
「うん、頑張ったね、ガトールークさん」
ロコとセレスティーナが顔を見合わせて笑った、
…その瞬間。
居住スペースの方から、物音。
セレスティーナが、はっと顔を上げ、駆けだした。
礼拝堂から廊下へ抜ける。
板張りの床のその先で、
────玄関に、ガトールークが、くずおれていた。
「ガトールークさん、ガトールークさん!」
セレスティーナは駆け寄って、小さな体を腕におさめた。
「…セレスティーナ…
…ただいま」
「こんなに冷たくなって…
早く体を拭いて、中に入ろう?
今、タオル持ってくるから、待ってて」
「…セレスティーナ」
ガトールークが、後ろを振り返る。
「この人の分も、頼む」
セレスティーナはその方向に目をやった。
長身の、赤毛の男が、そこに立っていた。
「う、うん、わかった。
…っていうか、ガトールークさん、この人…」
「…川で助けたんだ。
行くとこないみたいだから、うちに連れてきた」
…セレスティーナは微笑み、黙ってうなずいた。
ガトールークは、よろめきながら立ち上がる。
手が生傷だらけだ。
出血で、薄緑のシャツがところどころ赤くなっていた。
フェニックスが、口を開いた。
「…大丈夫か」
「ああ、平気さ。 いつものことだよ」
ガトールークは、笑顔を見せた。
「…そうか」
彼はまた、口をつぐんだ。
セレスティーナが、分厚いタオルを二枚、抱えてきた。
「ほら、よく拭いて。
…フェニックスさん、も」
フェニックスはタオルを受け取り、
…眉間にしわを寄せた。
「私の顔と名はかなり知れわたっているようだな」
「あ、いいえ」
セレスティーナが首を横に振る。
「僕は、少し前に公用でアデリーに行ったんですけど、そのときに、あなたを見かけて、それで覚えてるんです」
「…新聞の記事は読んでいないと?」
「いえ、僕はちらっと見ました…
けど、この城下の人たち、あまり外のことには興味がないみたいなんで…
その新聞はわりと地元のことは載ってないので、
このあたりでとってるのは多分僕とガトールークさんだけなんじゃないかな」
「ああ、しかも、大雨のせいで地元紙は夕刊出さなかったからな」
ガトールークが、セレスティーナに、頭を拭かれながら言う。
セレスティーナが、フェニックスにつけ加えた。
「ガトールークさん、新聞五紙もとってるから、確かだよ」
「ガトールーク!」
ロコが走ってきて、ガトールークの胸に飛びついた。
ジェニファントが、あとからゆっくり歩いてくる。
彼は、白いひげをなでて、言った。
「おや、お客人かの」
「フェニックスさん。
川にいたから、連れてきたんだ」
ガトールークが、タオルで体をおおう。
「ほう」
ジェニファントは、赤毛の男に、二階への階段を示した。
「遠慮はいらん、とにかく上がってシャワーを浴びなさい。
服も髪も泥だらけじゃ」
「よかった、ぴったりだね!
フェニックスさんのは今洗濯に回してるから、今日のところはこれで我慢してね」
セレスティーナが、食卓にパンを並べながら、フェニックスに笑いかける。
「…ああ」
彼は小さくうなずいて、自分の着ている白い服に目をやった。
「ふう、あっつい」
ガトールークが、さっきまでと同じようなシャツと茶色のズボンに着替えて、風呂場から出てきた。
「ガトールーク、あったかくなったヨ!」
ロコが、ガトールークの髪の毛から顔を上げる。
「ガトールーク、いいにおい」
「シャンプーの匂いだよ、フェニックスさんもおんなじ匂いがするだろ」
「するネ!
しゃんぷー、しゃんぷー!」
ジェニファントが、あきれたように、微笑を浮かべる。
「まったく、ガトールークが帰ってきたと思ったら騒がしくなりおって」
机の上に下ろされたロコが、にこにこしながらうなずく。
ガトールークも、テーブルについた。
「さあ、夕食にしよう」
ジェニファントが、フェニックスに、セレスティーナに、ガトールーク、最後にロコにミルクをついで、その小さなコップにストローを差した。
「わーい、ごはん!」
「いただきます!」
ロコとセレスティーナが、真っ先に手を伸ばす。
セレスティーナが、ためらっているフェニックスの皿に、ポテトサラダとサンドイッチを取り分けた。
「ジェニファントさんのご飯、とっても美味しいんだよ!
フェニックスさんも、食べれば元気になるよ」
「…ああ …
…いただきます」
フェニックスは、温かいスープをすする。
ほう、とため息をつく彼を見て、ジェニファントが得意気に鼻を鳴らした。
「どうじゃ、美味いじゃろ」
「…ああ、とても」
ロコが、ガトールークの袖を引っ張った。
「ガトールーク、ぱん、きって」
…
… 応答がない。
ロコが彼を見上げると、 …
…どこを見るでもなく、ただぼうっとしている。
頬を上気させ、目を半分くらい開けて、頬杖をついている。
「ガトールーク、ガトールーク!」
その声で、ガトールークは、はっと我に返った。
「ガトールーク、かんがえごと?」
「え?
…あ、まあな…
何かあった?」
「まーるいぱん、きってヨ」
ガトールークは、パンのかごに手を伸ばし、白く柔らかいパンをとって、四つにちぎった。
「ほら、これでいいか?」
「ん!ありがとう!」
ロコがパンをひとかけ、抱きかかえるようにして、かじりつく。
セレスティーナが、ガトールークの顔をのぞきこむ。
ジェニファントが、口を開いた。
「ガトールーク」
「あ、何?」
「食べられるか」
彼は少しためらってから、
…答えた。
「…ごめん
…今は、いいや」
「そうか」
ジェニファントは、ゆで卵を頬張りながら言う。
「…なんか、くたびれちゃったなあ。
俺、もう寝るよ」
「ああ、そうせい」
彼が、机に手をついて立ち上がる。
─────次の瞬間、
…ガトールークはよろめき、
────床に、崩れ落ちた!




