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楽園をふちどる色彩  作者: 伊那
第二話 カフェを訪れる人々
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第二話 カフェを訪れる人々3

 セヴィーリオと同じ錆浅葱の瞳を持つレオンはその隻眼ですぐに我が子を目に留める。その新しい客は急ぐでもなく、ゆったりとした足取りでセヴィーリオとフェッロが座る席まで歩を進めた。

「パパ……」

 子ども故ではあるが小柄なセヴィーリオとは違ってレオンは上背があり骨格ががっしりとした男性だ。彼に目の前に立たれると、フェッロも思わず彼の過去にはいくつもの戦いがあったに違いないと思わされてしまう。顔の大きな傷と隻腕でそう判断出来るだけでなく、穏やかな日常の中においてもレオンの錆浅葱色の瞳は他者とは異なる深みを持っているようでならない。

 僅かに居心地が悪そうに身じろぎしたセヴィーリオを見下ろすレオンの瞳が、静かに、正面から自身の子どもを捉えた。レオンは感情が表に出やすい性質(タイプ)ではないために何を思考しているかフェッロには分からない。

「やっぱりここだったか」

 レオンの声には呆れのようなものがにじんでいた。こっそり家を抜け出した手前、セヴィーリオは大好きな父親相手でも大喜びで再会を祝う訳にはいかない。容易に口を開きづらいような雰囲気だとフェッロは感じていた。しかし今回のセヴィーリオ脱出にはフェッロが関与している部分が少ないとは言えない。むしろ、唆したのはフェッロだったようにすら思われる。もしかしなくとも、余計な事をしたと見られるだろう。

「レオンさん、今日はおれがセヴィを連れ出したんで……えーと、犯人はおれです」

 話が飛躍しすぎている。片手を掲げてまるで自身を誘拐犯のように自白するフェッロに、レオンは首を動かして視線を与えた。弁明するフェッロ。しかしレオンは、セヴィーリオがフェッロと共にカフェ“エリン”を目指した事をここに来る前から知っていた。セヴィーリオの行方を知る孤児院の子どもディオンが友達とその話をしているところに、レオンは丁度出くわしたのだ。セヴィーリオを頭ごなしに叱りつけるようなつもりはなかったが、フェッロの予想外の対応には――出鼻をくじかれたというか何というか、レオンは苦笑したくなってしまった。

「孤児院の子どもに話は聞いていたから、そう気にする事はない」

 サン・クール寺院での手伝いが終わったのちに、レオンはセヴィーリオに関する話題を聞いたのでそのまま“エリン”に寄ったという。

「そもそも、最初に家を勝手に出て行ったのはうちのだからな」

 話の中心が自分に戻ってきたため視線を逸らすセヴィーリオとは反対に、リューンはセヴィーリオ(あるじ)をかばうかのように「ばう!」と鳴き声を上げる。そんな愛犬の頭をセヴィーリオはそっと撫でる。前髪の下でそれを見つめていたフェッロは、よく考えれば分かる事だというのにレオンに一声かければよかったのだと気がついた。

「でも……ちょうど寺院にレオンさんもいたのに……一言、言うべきでしたね」

 最終的には、事情を知るディオンが伝令係になってくれたので話がややこしくなる事はなかったが、最初からフェッロがレオンに話を伝えておけば良かったのだ。もしディオンの話を聞いていなければ、レオンはセヴィーリオを探してあちこち駆け回る事になっていたかもしれない。フェッロはいつの間にかセヴィーリオ目線になってしまい、親の目をかいくぐるには、などと無意識で考えてしまったらしい。

「断りがあった方が助かるのは確かだが、セヴィにお目付け役がいたのは助かった」

 冗談めかしてレオンは僅かに目元を和らげる。放っておくとリューンと共に一人でも出かけてしまうセヴィーリオだ。セヴィーリオの奔走が止められないのなら誰か大人の目があるのはありがたい。本来セヴィーリオのお目付け役として引き取ったはずのリューンがその役をすべきとは分かっているが――リューンはセヴィーリオの監督よりも遊び相手として振舞う方が性に合ってるらしいのだ。レオンはそんな大型犬を見下ろして、このリューンが立派な監督官になるのはいつなのだろうかと埒もない思いにかられる。

「……帰るぞ、セヴィ」

 吐き出したいため息を堪えてレオンは息子に目を向けた。「はあい」と返事したセヴィーリオの瞳にはもう帰るのかという思いがかすかににじんでいたが素直に立ち上がった。レオンはセヴィーリオの座っていた席にあるグラスを見つけると、「いくらだ」とフェッロに問いかけてくる。別に構わないと言うつもりで首を振ったフェッロだが、律儀なレオンは銅貨を二枚机に置いた。

「フェッロお兄ちゃん、今日はカフェに連れてきてくれて、ありがとうね!」

「世話になったな、礼を言う。よければまたセヴィーリオの相手をしてやってくれ」

 手を振るセヴィーリオと軽く会釈するレオンにフェッロは頷いて、「では、また」とハルト親子を見送った。

 忘れかけていた自分の父親の事をやはりレオンとは違うなと思い出したが、それを打ち消すようにフェッロは一度瞳を閉じた。


 セヴィーリオたちが店を出た後に、入れ違うようしてやって来た新しい客は、二人の少女だった。同じ顔立ちの双子の少女たち――アイリスとクラリスは、会話を交わしながら店内へと進む。桜色の髪も青緑の瞳も首元のチョーカーもお揃いだが、彼女たちには異なる特徴があった。服はそれぞれ全く違うものをまとっているし、アイリスは騎士でクラリスは花売りを仕事にしている。顔立ちもよくよく見ると違いがあった。アイリスは肌が白いためもあって儚げな美しさを秘めているが、クラリスは愛らしい微笑みの持ち主で他者に親近感を与える。そして今、この双子の少女たちは携えているものも異なっていた。アイリスは水色の毛並みのガートを抱きしめ、クラリスは大きな花束を抱えていた。

 そうして異なる点はいくつもあるものの、やはり双子ゆえか彼女たちの間に話題は尽きないようだ。会話の内容に笑いをこらえられない、といった様子で息をつく暇もなく話を進めている。

「じゃあ、アレイくんって結局その服、着せられたの?」

「そうなの。ちょっと面白かった……なんて言っちゃ悪いけど、やっぱりペルサさまには誰もかなわないわ」

 クラリスは、アイリスの同僚の青年の話を耳にして口元を一層持ち上げる。アイリスと同じく騎士である彼は、どうやらなかなか楽しい格好をさせられたようなのだ。クラリスはその姿を想像しては楽しげにアイリスに視線をやった。

「アレイくんは特にそうだろうね。ちょっとその姿、見たかったかも」

 話すうちに、もぞもぞとアイリスのかかえていたものが動き出す。

「あ、ごめんねフルール。行っておいで」

 アイリスが腕の拘束をゆるめると、水色のガート――フルールが、その身にまとう桜のアクセサリーをきらめかせて、走ってゆく。ガートとの触れ合いの場でもあるこのカフェ“エリン”は、客がガートを連れてくる事も出来る場所だ。セヴィーリオ連れていた犬のリューンが入場可能だったのもそのためだ。

「ふふ、フルール楽しそう。リンリンと遊んでる」

 何匹ものガートがじゃれあったり、牽制するかのように睨み合ったりする中で、フルールがアイリスの友人の飼っているガートと鼻をくっつけあっているのが見られた。件のリンリンの主――エリンがやって来て、二人の少女を見つけて穏やかな眼差しで声をかけた。

「二人とも、来てたの」

 エリンとこの双子は友人であり、こうしてエリンの仕事場に訪れる事もよくある。友人のエリンがいるからでもあるが、アイリスとクラリスが可愛がっているフルールを、他のガートたちと触れ合わせてやるために訪れる事もあるのだった。

「今日はフルールを遊ばせにきたの」

 視線でガートのフルールを示すアイリス。その隣りのクラリスは体の後ろに隠すように携えていたその包みを目の前に取り出した。

「それと、わたしはエリンにおすそ分け」

 クラリスの用意したものは人の頭ほどの大きさの花束だった。白い包みの中には瑠璃色と黄色のプリムラ、白いノースポール、薄い桜色のミアハの花がまとめられている。ミアハの花はキルシュブリューテ原産でティル・ナ・ノーグでは少し珍しいが、花売りのクラリスなら花の入手経路はいくらでもありそうだ。

「わあ……きれいなお花。クラリス、ありがとう」

 いずれも彩り鮮やかで美しく、見る者の心を和ませる花ばかりだった。受け取った花束の香りを全身で感じ取ろうとするかのように、エリンは少しの間目を伏せた。かぐわしい香りに目元を細めて、エリンは花々をゆるく抱きしめる。贈り物(プレゼント)を喜んでもらえた事をうれしく思うのか、エリンを見つめるアイリスとクラリス(ふたご)の目元も穏やかだ。しばし花の香りを堪能したエリンは歩き出して戸棚から花瓶を取り出すと、水を入れて早速花を挿した。花束はカウンターに置かれ、カフェに華やかさと香りを提供する要素になった。

 ひとつ任務を終了したクラリスは、もうひとつやりたいと思っていた事を思い出した。アイリスと一緒に近くの席に向かいながらエリンに問いかけた。

「そうだ。エリンにも聞いてみたいんだけど、花のアクセサリーがあれば、どんなものがほしいかな?」

「……クラリスがよく作ってるアクセサリーの話?」

「うん。最近、ちょっと調子が出ないんだ。アドバイスみたいなのがほしくて」

 小首を傾げて考えこんだ様子のエリンは、少し間を置いた後その眼差しをクラリスに向けた。

「白い花は、どうかなあ」

 たとえば――と話しこむうちに、少女たちは紙を取り出して、それぞれに書き込みをはじめる。ああでもないこうでもないとアクセサリーのデザインについて夢中になって話し合う。カフェ“エリン”はいつの間にかひとつの計画について話し合うべき会議室のようになっていた。

 耳に入ってくる少女たちの会議を聞くでもなく、ぼんやりと自身のスケッチブックを眺めていたフェッロは、いつしかあたたかい日差しをその身に受け、瞼を落としては持ち上げる作業を繰り返していた。窓の外を見ると、また太陽が顔を出していて天気はよくなっているらしかった。

「……うん、かわいいかも、シロツメクサのモチーフ。ありがとう、エリン」

「わたしも、クラリスの力になれたのならよかったわ」

 そうして話が一つまとまりかけた頃、慌てた声がカフェ“エリン”に響いて、少女たちは顔を上げた。

「わわ、離して!」

 声を上げたのは、店を入ってすぐの場所、扉の前で立ち尽くすサキュバスの娘だ。白と赤の髪、左右非対称の服に、コウモリのような大きな翼を持つ少女――少々目立つ存在だ。

「フルール、リンリンも、ダメだってば~、噛んじゃダメ!」

 エリンやリベルテ姉妹(アイリスとクラリス)と同じ年頃の少女が一人、数匹のガートに囲まれて立ち往生している。中でも、フルールとリンリンは、少女の長い外套(コート)の端をはむはむと噛んでいた。ガートに強く出られないらしいこのサキュバスの少女は、自分の外套をいくらか引っ張ってフルールたちに制止を訴えるのみで、一歩も動けないらしい。そんな彼女に三人の少女たちは近づいて行って、まずクラリスが声をかけた。

「何やってるの、ミナーヴァ。そんな入り口に立ったままなんて、他の人の通行の邪魔になるよ?」

 ガートに優しいが少し頼りのなさそうな娘――ミナーヴァはクラリスたち三人の友人だった。ミナーヴァはガートを振り払う事が出来ないから立ったままだったのだが――クラリスの忠告は確かに的を射ていた。

「うっ、ごめん」

 反論など出来ないミナーヴァはしょんぼりと肩を落とす。ガートを無下に出来ないミナーヴァの性質を分かっていてクラリスはああ言ったのか――アイリスは苦笑しながらミナーヴァに明るい呼びかけをする。

「フルールがごめんね、ミナーヴァ。ほらフルール、おいで」

 アイリスはしゃがんでフルールを抱き寄せる。リンリンの方もエリンに声をかけられて、彼女の胸の中へと飛び込んでゆく。ほっとした様子のミナーヴァは、はたと思い出したかのようにクラリスに向き直った。

「そうだ、クラリスを探してたんだ!」

 急いでる訳じゃないんだけど、と加えてミナーヴァは話し始める。三人の少女たちは、話を聞きながらミナーヴァを先ほど彼女たちが座っていた席へと誘導する。

「今度、闘技場でお芝居やるんだけど、アレッサさんが本物の花で花吹雪を使いたいっていうから、クラリスにちょっと話聞きたいなあって思ってたところなんだ」

 ミナーヴァは冒険者でありながらハンター稼業もこなし、更にはティル・ナ・ノーグ(このまち)の闘技場でも働いている。町の中心部にある円形闘技場では剣闘士やモンスターたちの激しい戦いが繰り広げられている。そんな命がけの戦いだけではなく天馬騎士団の入団試験の会場になる事もあり、特定の催し物のために貸し切られる事もある。更には、剣闘士たちの体術や武芸の妙技を魅せる演劇を行う事もあるのだ。

「へえ、どんな劇なの?」

 闘技場の劇は荒っぽいところはあるとはいえ、舞台の見世物(ショー)というのは人の気を惹きつけるものだ。花吹雪について問われたクラリスだけでなく、アイリスもエリンも興味深げにミナーヴァを見つめる。

「昔のレーヴェが舞台のお話。いつもみたいにアクション交えたやつで……悲恋ものの話をアレンジしたお芝居だよ」

「悲恋ものかあ……」

「でもね、アレンジしてハッピーエンドに変えちゃったんだ」

「どんなアレンジなの?」

 友人同士が四人集まった店内はかなり賑わってきた。用事がなくとも彼女たちはいつまでもしゃべり続けるだろうと思わせるような、ぽんぽんと弾む会話がとても楽しげに繰り広げられていく――。


 いつの間にか話は変わる、それがおしゃべり好きな女の子たちの常だ。話題は最初のクラリスのアクセサリーの話でも、ミナーヴァの闘技場の劇の話でもなくなっていた。今度の話題はある意味ではカフェ“エリン”の名物でもある動物、ガートについてだ。

「ガートかわいいな、うちで飼いたいな~。でも、アクチェがなあ……」

 ふわふわの毛並みを誇るガートの一匹を眺めながら目元をゆるませるミナーヴァは、ガートに強く出れない――あるいはガートに甘いだけあって、ガートが好きなのだ。ミナーヴァは同居中の恋人が承諾してくれないのだと続ける。

「……アクチェくん、ガート嫌いなの?」

「うーん、なんか、あんまり乗り気じゃないんだよね。つまんないなあ」

「そういえばアクチェくんとは最近どうなの?」

「……ど、どうって、ふつうだよ、ふつー」

 にこにことしたクラリスの様子に、ミナーヴァは半ばうろたえる。彼女の微笑みは華やかで愛らしいというのに、逃げ場がない――そんな気がしてならない。この手の話は照れるというか、恥ずかしいというか、しどろもどろになるミナーヴァはクラリスの瞳が誰かに似ていると気がついた。

「なんか、クラリスの目が司祭様に似てるんですけど……!」

「どういう意味かな?」

 何を指摘されているのか分かっていない様子のクラリスだが、ミナーヴァの方も特にこれぞという明確な類似点を提示出来る訳でもなかった。

 先ほどのミナーヴァの言葉に、アイリスはふと思い出した事がある。以前クラリスと二人でサン・クール寺院に行った時に、クラリスとホープの会話がかなり弾んでいた事があった。その内容はホープの好物である恋愛の話(コイバナ)だったような気がする――。アイリスも恋の話をするのは嫌いではないが、クラリスの方がより興味を示している。以前から分かっていた事だったが、クラリスがホープに似ているとは初耳だ。

「そんな事より、さっきの話の続きは?」

「ええっ、お、終わりだよ?」

 クラリスの追求は止まない。楽しそうな彼女の様子にアイリスとエリンは顔を見合わせて微笑んだ。

 そうして女の子たち三人の話に参加していたエリンだが、男性客が一人入ってくるのを見て、ゆっくりと新たな客の元へと向かって行った。

「いらっしゃいませ、カフェ“エリン”へようこそ。ご注文は何にいたしますか?」

「……ああ、この……ランチプレートを」

 こもった声で答えた男の注文に、エリンは返事をして仕事に戻って行く。いくらか間を置いて、エリンは注文された料理を手にして客のところへと運んで行く。ランチプレートの香ばしいかおりに少女たちも思わず振り返ってしまうしかなかった。湯気の上がるスープが付いてくるランチからは胡椒のかかった鶏肉の焼いたいいにおいがかおった。

 香りほど人の食欲を刺激するものはない。フェッロも何か口にしたくなるが、所持金は銅貨六枚しかなかった。レモネードの代金はレオンが払ってくれたとはいえ、自分の頼んだ紅茶の支払いがまだ残っているとなると、食事の注文は諦めるしかなかった。普段から大金――フェッロにとって銀貨ですら大金になるが――を持ち歩かない彼はこうして何かを我慢するのも珍しい事ではない。胃袋には今回もまた大人しくしてもらおう。そろそろ寺院に戻ろうかなとも考えながら、フェッロはやはり椅子に座ったままだった。

 エリンやアイリスたち――少女四人の会話をフェッロも全て耳にしている訳ではないが、少々大きくなったアイリスの声に、彼はつい顔を向けてしまった。

「あれ、フルールは?」

「フルールなら、あっちみたい」

 エリンの示した先には、テラス席に座る一人の男性がいた。頭部に角のある黒髪の若い男性で、口元が覆われていて顔立ちははっきりとは分からない。ただ、ガートに向けるまなざしは穏やかだった。

 フルールはその有角の男性の足に頭をすりよせていた。フルール以外にも、数匹のガートが彼のところに集まっている。先ほどのミナーヴァの時とは違い、服をかじるようなガートはいない。とてもよくなついている様子だ。

「あのお客さん、クチナシさんっていって……以前も来てたことがあるんだけど、ガートちゃんたちにすごくなつかれてるの」

 ここのカフェに何度か来ている客のクチナシは、ああやってガートたちに囲まれる事が少なくないらしい。エリンの説明に、友人たちは小さな声をもらす。

「へえ~」

 フェッロも内心では、ミナーヴァが口にしたそれと同じような言葉をつぶやいていた。

 ふいにクチナシの近くにいたガートが一匹、前足を床から離し、二本足で歩き出した。ガートが二本足になる事は少なくない光景だが、それがしばらく続くのはなかなかない事だ。そのガートを操るかのように手を動かすクチナシ――まるで彼がガートに芸をしこんでいるかのようだった。

「おお……」

 フェッロも少女たちにつられてクチナシに視線をよせていたのだが、思わず感嘆してしまった。クチナシはとてもガートになつかれているようで、全くなつかれないフェッロはそれがとてもうらやましい。動物と仲良くなるコツでもあるのかと、フェッロはクチナシと話をしてみたくなった。

 ふいにクチナシは少女たちの視線を集めているのに気づいたのか、わずかに照れた様子で立ち上がる。 覆われた口元で何か話をするのだろうかと思いきや、クチナシは一枚の板を取り出した。

『お会計お願いします』

 ペンも用意したクチナシはそのボードに文字を書くとひっくり返してエリンに見えるように掲げた。今日はもう会計を済ませて店を出るつもりらしい。

「はい、ありがとうございます」

 微笑んだエリンが会計の値段を伝えると、クチナシはその分を払ってまたボードに書き込みをする。ボードの『ごちそうさまでした』という文字をエリンに示すと、名残惜しそうなガートたちに見送られ去って行った。

 クチナシとは面識のなかったフェッロだが、早々に話す機会を失ったのは残念だと感じられた。ガートの事がなかったとしても、何となく気にかかる人物だったのだ。

「なんだかミステリアスな人だったねー」

「わたし、クチナシさんって名前は知らなかったけど、町でよく見かけるよ」

 そんなクチナシについてミナーヴァとクラリスが話していると、アイリスがあっと声をあげた。

「私、そろそろ行かなきゃ。このあと約束があるの」

「じゃあわたしも、アクセサリー作りに家に戻ろうかな。エリンのアドバイスくれたデザイン、けっこういいものになりそうだし、早速形にしてみたいな」

「そっか、二人共行っちゃうんだ。あたしは、ちょっとお茶飲んでから出ようかな」

 立ち上がったアイリスとクラリス。ミナーヴァはこの後急ぐような予定もなく、少し休んでからまた出かける事にしたようだ。クチナシが去った事で、ちょうどフルールも飼い主のところへと戻ってきていた。そのままフルールを抱き上げて、アイリスはクラリスと頷きあってから、友人に別れを告げた。

「じゃあ、またね。エリン、ミナーヴァ」

「お芝居の花のことも考えとくからね」

 アイリスとクラリスは入店した時と同様に二人で連れ立って店を後にした。

 丁度、もう一組の客がアイリスたちと時間をほとんど同じくして出て行った。そうして店内には、フェッロとミナーヴァ、男性客が一人と女性客が一人が残された。一人の客ばかりのせいか、店内の音が極端に減ってしまった。少女たちの会話がいかに賑やかだったか分かる瞬間というのか――妙な静けさが訪れる。

 なんとはなしにフェッロはまた窓の外を眺めた。明るい陽の光は弱まり、影もかなり薄くなっている。室内から空の上を見上げると天空全ては視界に入らないものの、灰色の雲が幅を利かせているところだった。本当にこの日の天気は晴れたり曇ったりと忙しい。雨にならなければいいが。

 再びフェッロが店内にと視線を戻すと、エリンは掃き掃除に従事していた。友人のミナーヴァがいるのに少女たちの会話が聞こえないと思ったが、掃除をしていたからなのだ。友人が来ているとはいえエリンも一つの店の店主なのだ。終始おしゃべりしている訳にはいくまい。

 ずっと友人同士で話していたためにフェッロに気づいてなかったらしいミナーヴァとフェッロは、ひょんな事から視線が合うようになった。町で会えば声はかけるような知人相手に、ミナーヴァが何かを言おうと口を開いた――その瞬間。

「おい! どういう事だ、これ! 店主出せ、店主!!」

 爆発したような怒号がわいた。

“ミアハの花”はティル・ナ・ノーグの世界だけの花です。



登場人物の一部を、企画参加者さまからお借りしました。


アイリス・リベルテ(考案&デザイン・緋花李さん)

クラリス・リベルテ(考案&デザイン・緋花李さん)

ミナーヴァ・キス(考案&デザイン・佐藤つかささん)

クチナシ(考案&デザイン・ヤスヒロさん)

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