第二話 カフェを訪れる人々2
椅子に座る前に、リンリンというエリンが飼っているガートに触れようとしたフェッロだったが、取り付く島もなく避けられた。リンリンには指を噛まれた事もあるので、今日はまだいい方だった。いつもの事だと思う事にしてフェッロは二人がけの席に向かう。
フェッロは自分に紅茶を頼んで、セヴィーリオには彼の希望するレモネードを頼んで席に着いた。しばらくすると、注文した飲み物を持ってエリンがやって来て、「ゆっくりしていってくださいね」と微笑んだ。カウンターに戻って行くエリンの背中のガート耳付きフードを眺めながら、フェッロは昨日の事を思い返していた。
セヴィーリオのためもあるが、カフェ“エリン”に来たのは、場所を移動すればフェッロの気分も変わるかと思っての事だった。昨日の事でフェッロは少々気を重くしていたのだ。フェッロの画家としての仕事がひとつ、取り消されてしまった。ある貴族の肖像画を依頼されていたのだが、契約を解消させられてしまった。
『申し訳ないとは思うんだけどね……別の方が、是非にと言うので……』
推測するに、きっとフェッロより年上で経験のある画家が優先されたのだろう。これがはじめてではないから分かる。
『君はまだ若いから、これからきっともっといい仕事が入ると思うよ。また何かあったら、君に仕事を紹介するし……』
そんなに大きな仕事ではなかった。どこぞの下級貴族の肖像画を一枚、というもの。過度の期待をかけてはおらず、こういう反応が予想外というのでもなかった。だというのに、フェッロの気分が晴れる事はなかった。
特にお金に困っている訳でもないし、絵の仕事が減っても死活問題にはならないが、画材というものは安くはない。おかげでフェッロはいつも金欠気味だ――。
ふいにフェッロは自分の財布の中身がどの程度だったかを思い出す必要にかられた。銀貨一枚が大金の世界で生きているフェッロには、銀貨が入っていればいい方で、最近銀貨を使ってしまったと記憶している。さすがに銅貨ぐらいは入っているはずなのだが、彼の財布は気まぐれだ。単にフェッロが有り金がいくらかをすぐ忘れてしまうだけだが、とにかく財布との相談が必要だった。
腰の小さな鞄から財布を取り出そうとして、なかなか目当ての物が出てこないので、鞄を引っくり返して中身をテーブルにぶち巻ける事にした。財布と画材道具少ししか入れていないはずの小さな鞄は、その容量にしては多くの物がつめこまれていた。
「何してるの、フェッロお兄ちゃん」
「ちょっと……財布が行方不明で」
セヴィーリオはフェッロが取り出した鞄の中身をつっついて、面白そうに眺めていたが、ふと視界に入った光景が原因で飛び出していく。
「リューン、ガートは食べちゃだめ!」
遊んでいるのだとしても、リューンが一匹のガートの体を半分も飲み込んでいるのを見ると慌てたくもなる。元気だなあと、フェッロは少年を見送った。そして机の上に残ったのは、必需品だかガラクタだか分からない代物だった。
羽根ペン、木炭にチョークやパステル、小さな紙にスケッチブックなどの絵を描くための道具。空腹時に備えて入れた金色の林檎、パン――ちなみにこれは本来は木炭などで描いた線を消すためのものだが、時に非常食にもなる――に、藤の湯で買った色とりどりの飴。そして――目当ての財布。これらの必需品以外に、紙くず、お菓子の脱け殻、用途の分からない針金や本の切れ端、何故か枯葉までが混じっていた。これだけの物が入っていれば、財布が奥に入りこんで見つからないのも当然だ。
そして、本来の目的である財布の中身はというと――。
「ちょっと、フェッロ。あんた何、エリンの店を散らかしてるのよ」
途端、フェッロに非難のにじむ声がかかる。確かに彼の使う机には、大半がゴミにしか見えないものであふれていた。ゴミから顔を離し、探し物をしていたのだと説明するより早く、目を向けた相手は口を開いた。
「ここは自分の部屋じゃないんだから、片付けなさい。こんなゴミとかもう、何で広げてるんだか」
そこには勝ち気そうな少女――クレイアがいて、水色の瞳に気概をともして両手を腰にあてていた。彼女とフェッロは顔見知りで、今日のようにエリンの店でも顔を合わせる事は少なくないが、開口一番注意されたのははじめてのように思われる。
「……すいませんでした……?」
どうもすごく怒られている気分になってとりあえずフェッロは謝ってみた。まるで誠意の感じられない淡々とした声で。かえってクレイアは呆れてしまったようで、わずか眉を寄せつつ、フェッロの広げたゴミを検分するように見下ろす。
「まあ、全部が全部ゴミってわけじゃないみたいだね。でも、ちゃんと整理した方がいいんじゃない? これなんかスケッチブックでしょ。あんたにとっては商売道具のはずなんだから、もっと大事に――」
「フェッロさんのスケッチ、見たいです」
ふわりと現れたのは、エリンだった。今にも眠ってしまいそうな目だが、しっかりとフェッロのスケッチブックを見つめていた。
「どうぞ」
スケッチブックを差し出されたエリンは目元をゆるめると、足元にいたガートを撫でながら、フェッロの正面の椅子に座った。エリンの登場でフェッロもクレイアも先ほどまで何の会話をしていたか忘れそうになっていったが、クレイアはすぐに思い出す事に成功した。
「そうだ、とにかくゴミは捨ててきな」
びしっとゴミ箱を指さされて、フェッロはクレイアとゴミの山に視線を行き来させたが、これは逃げられない試練なのだと悟り静かに席を立った。ゴミをいくらかを手にしてゴミ箱へと向かう。
フェッロを見送ったクレイアは、ふうと一息をつく。休みの日ではないクレイアには、やる事があったのだが、エリンがあまりにも熱心にスケッチブックを凝視するので、なんとなく気になってしまった。
「面白い?」
いつの間にかエリンの膝には、ガートのリンリンが丸くなって眠っていた。それをスケッチブックを持っていない方の手で撫でると、エリンはクレイアを見上げる。
「うん……フェッロさんは、すごく絵が上手いと思うの」
「そりゃ、画家だしね」
ちらとフェッロを見ると、ゴミ処理の途中でガートを撫でる作業に集中しようとして失敗し、噛みつかれているのがクレイアの目に入る。フェッロの腰には曲刀がつり提げられていて剣士か何か――制服を脱いだ騎士にも見えなくもないかもしれない――のように見える。その見た目から受ける印象は画家からかけ離れているとはいえ、フェッロは事実画家なのだから、ある程度の画力はあって当たり前だろう。
何故か動物に好かれない、見た目だけなら剣士にだって見えるはずのフェッロの、ガートに噛まれる姿に、クレイアは肩をすくめたくなるだけだった。
「クレイアお姉ちゃん、きてたんだ!」
ガートやリューンと遊んでいたので気がつかなかったらしいセヴィーリオが、クレイアのところにやってきた。
「セヴィ。今日も元気そうで何より」
「うん。この間のクッキー、もうお店で売ってるの?」
話しこむクレイアとセヴィーリオ。少年は顔が広いだけではなく、どうやらクレイアの店の事情にもいくらか通じているようだ。
「ああ……まだちょっと、先になるかな」
「ふう~ん。お店に出てたら、今度買いに行くね!」
クレイアがセヴィーリオと話をしている間、エリンはフェッロのスケッチブックを眺め、ゆっくりとページをめくっていた。そこにはティル・ナ・ノーグの町並みや、ガートや、木々の自然、町行く人などが描かれている。丁寧に描きこまれたものではないものの、描かれた対象物の特徴がよく分かる。
次のページへと行けば、また違う絵が現れる。紙の中のクアルンが草を食む様子に、クアルンのミルクが飲みたくなったエリンは、あとで飲もうかなと考えつつ、手を動かす。人とガートの顔が混在するそのページで、少年が一人こちらを睨んできた。子どもらしさの残る顔立ちの、十代半ば程の少年。目の下の線が重ねられていて濃い隈の持ち主だと分かる。フェッロの知り合いだろうか。
エリンの瞳が、ずっと真摯にそれを見つめた。彼女は無意識ながら、そのページだけ他の時よりも長く見つめていた。リンリンの毛並みを撫でるエリンの手が、ひくりと動く。
「エリン、あたしそろそろアフェールに戻るね」
思わずエリンは、顔を上げると同時にスケッチブックを閉じていた。クレイアは自分が働いている林檎菓子専門店“アフェール”の菓子を“エリン”のメニューとして提供出来るよう毎朝配達している。今日は一部の菓子に足りないものがあったので、こうして朝でもない時間に届けに来たのだ。
「……クレイア。うん、今日もありがとう」
「ううん、届け忘れをしたのはこっちだから」
エリンはリンリンを抱き上げ、クレイアを見送るために立ち上がった。クレイアと話をしていたセヴィーリオは、「えー、クレイアお姉ちゃん行っちゃうのー?」と唇を尖らせた。「休みだったらゆっくりしていくんだけどね」と苦笑してクレイアはセヴィーリオをなだめる。
「クレイアお姉ちゃん、お仕事がんばってね。今度、お店行くからね!」
「ありがと。じゃあまたね、エリン、セヴィ」
ついでにフェッロも。付け加えたそれを挨拶に、クレイアはカフェ“エリン”を後にした。これをきっかけにという訳でもないだろうが、エリンは掃除をはじめる。反対にフェッロは自分の荷物が残るテーブルに戻って来た。
スケッチブックやパステルなどの画材を鞄につめこむと、まだ少し残ったゴミを捨てに行く。そうして自分の荷物を全部まとめると、そもそも何故、持ち物をすべて机に並べたのか、その理由を忘れていた自分に気づく。フェッロは、自分の財布の中身を見てみたかったのだ。
さてその深い青色の財布の中身はというと、予想通り銀貨は入っていなかったが、銅貨が六枚、顔をのぞかせていた。彼なりに言うと“六枚も”。頼んだメニューは紅茶とレモネードだけだから、手持ちの資金で片付く仕事だ。これで一安心だ。
「よかった」
「何がよかったのー?」
「行方不明だった財布が見つかったから」
「よかったね、見つかって」
セヴィーリオの言葉に、実感をこめてフェッロは首を縦に振った。しばらく立っていたセヴィーリオは、休憩をする事にしたようだ。フェッロのいる机に座って、レモネードを飲みはじめる。それを見てフェッロも自分の紅茶が冷めてしまう前にとカップを口に運ぶ。
気がつくとコップを持ったままのセヴィーリオが、湾曲した片刃の剣をじっと見つめていた。それはフェッロがほとんど日常的に携帯している剣だった。
「ねえ、フェッロお兄ちゃんのいつも持ってる剣って、遠くの国のもの?」
「……だと思う」
帯剣している“アンシャール”は、実は生家から無断で持ちだした剣なのだ。事情を深く問われるとフェッロの口はなめらかに動かなくなってしまうのだが――なんとなく、この少年の屈託のない錆浅葱色の瞳には気を許してしまう力がある。
「おれの実家にあったんだ。詳しくは知らないけど、わりと武器にはこだわる人だったから、それなりの銘刀だと思う」
「誰が、こだわる人?」
「……おれの、父親」
「フェッロお兄ちゃんのお父さん! どんな人?」
セヴィーリオは父子家庭だ。母親の話よりは父親の話の方が気になるのかもしれない。フェッロは自身の父の事を問われると、舌の動かし方を忘れてしまう。フェッロと父の間には、距離的にも時間的も、多くの点で隔たりがある。何しろ故郷のオグルブーシュを離れて以来十年もの間顔を合わせず、手紙ひとつ出していないのだ。あの厳格な父がフェッロをどう見なしているか、会わなくても分かる。フェッロが名を問われてすぐには姓を名のらないのも、今更実家に戻っても勘当扱いをされているだろうと考えているからだ。
「……そうだな……けっこう厳しい人だった。おれの剣の師匠でもあった。よく眉間にしわを寄せてたところは、セヴィのお父さんにちょっと似てたかもな」
ここ、と自分の両の眉の間に人差し指をあててフェッロは、当たり障りのない範囲でものを言った。レオンにはわずか申し訳なく思いながら。確かにセヴィーリオの父レオン・ハルトは愛想を振りまく性質ではないし、一見して厳格そうではあるが息子を思ういたわりの心を持つ人間だ。対するフェッロの父は我が子を跡取りとして見ているのみで、他の道を選ぼうものなら、有り得ないと苦々しげに吐き捨てた人間だ。
「パパに似てるのか~」
セヴィーリオは何を想像しているのやら。自分で言っておいて、フェッロは共通点など眉間のしわしかないではないかと思い直す。口の端で小さく苦笑すると、訂正した。
「やっぱ、似てないかも」
「でも剣のお師匠さま、ってことは強いんだよね! ぼくのパパみたいに」
セヴィーリオの瞳には父親に対する憧れがきらめいている。この話はまだ続くようだ。やはりするべきではなかったか。
「うん……」
どうしたものかとフェッロが悩んでいれば、来客を告げるベルの音が鳴る。扉が開いて、上背のある男性が一人入って来た。灰銀の髪に錆浅葱色の眼、右目には大きな傷がある男だ。噂をすれば影が指す――カフェ“エリン”の次の客はセヴィーリオの父、レオン・ハルトその人だった。
登場人物の一部は企画参加者さんからお借りしました。
クレイア・イーズナル(考案・桐谷瑞香さん デザイン・宗像竜子さん)
レオン・ハルト(考案&デザイン・藍村霞輔さん)