第一話 ガートの落とし物1
この小説は、多人数参加型西洋ファンタジー世界創作企画『ティル・ナ・ノーグの唄』(http://tirnanog.okoshi-yasu.net/)の参加小説です。
この物語を、ティル・ナ・ノーグの企画を主催してくださったタチバナナツメさんに、そして参加者の皆様に捧げます。
朝日の色をした記憶だった。色を薄めたライトブルーの空。彼とはじめて会ったのは夕暮れだったというのに、青白い空が思い浮かぶのはなぜだろう。
『――いつか合作でもするかね』
顎の下にたっぷりとヒゲをたくわえた老人は、本気なのか冗談なのか分からない口調で言ったのだった。
小さな子どもがその男を見上げていた。
子どもにはその“いつか”が自分がもっと技術を身につけて、手足ものびた大人になってからの事だと感じられた。
『うん、きっとだよ』
早く大人にならなくてはと思ったのだ。早く立派な画家に。
その子どもにとって絵を描く事は違う世界への入り口だった。
そしてこの人と一緒にいれば、また違う景色が見られるのだと信じていた。
『はやく、がっさくしたいな』
老画家の手が、子どもにのびた。その頭を撫でようとしたのだろう――
しかし、視界は暗転する。
***
瞼をつつく光にむず痒さを覚え、フェッロは瞳を開けた。どこか遠くからガートの鳴く声が聞こえた。
目の奥が重い。寝起き特有の倦怠感が、脳を支配する。起床の必要性を感じないフェッロの脳みそは、朝日に背を向けて再びのまどろみに帰ろうとした。
「あさだーー!!」
「起きろー! 朝だぞー!」
「フェロねぼうーー! ばーかー!」
物音を立てる事にかけては天下一品の子どもたちが、騒々しくも賑やかに、フェッロの自室に突入してきた。彼らはまるで侵略者のように荒々しく、他者の頼りにする毛布を奪い、埃を立て、窓を開け放つ。
まだ頭が何かを把握出来る状態ではないからかもしれないが、フェッロは彼らの行為についていけてない。小さな部屋の主であるフェッロが口を開くより早く侵略者たちは口々に騒ぎたてる。
「今日の朝ごはんは、ほうれん草の丸パンと、ごぼうの胡麻サラダ、玉ねぎのスープと鶏肉の香草焼き、だよ!」
「早く来ないとフェッロの分食べちゃうからな!」
「てゆうか食べるから!」
やったあぼくの分が増える~! などと楽しげに笑いながら、子どもたちは駆けて行く。嵐が去った後の室内は、フェッロの意思とは関わらずに朝の空気を受け入れる存在になっていた。少し早い朝の空気が肌に当たり、毛布を奪われたために彼は身震いした。
「……さむ」
早々に床を離れ活動する目的はないが、必ずしも再び寝台に飛び込むべき理由もない。半分も開いていないその灰の瞳を、フェッロは幼い子どものように擦ると、大きく口を開けた。
大きく手足を伸ばして、眠たげな目をしばたかせて部屋を後にする。
朝の回廊を行く――中庭から注ぐ朝日がひどく眩しい。新しく生まれた風のにおいがする。実に清涼とした一日のはじまりだった。
サン・クール寺院がフェッロの仕事場になってから幾分たつが、この静寂と賑わいの入り混じる場所に自分がいるという事が時折、不思議になる。フェッロ・レデントーレは画家だったが、寺院の壁画を描くために訪れた訳ではない。寺院のあちらこちらにある巨匠の技巧を思わせる彫刻や壁画を写生に来た訳でもない。後者をしない訳ではないが、寺院に住み込みで働く理由は彼の剣の腕を買われての事――寺院の守門を任されている。
画家見習い時代、工房でも同世代の弟子仲間たちと寝食を共にしたものだが、幼子たちに荒々しくも好意的に覚醒を促される日常生活ははじめてだった。
画家をしながら守門をする。二足のわらじを履く所以は、単純に金銭的困窮に耐えかねての事だったが、フェッロの生活を変えた。朝から晩まで遠くから近くから子どもの声を聞くのも、時にはうるさく感じるけれど悪いものではなかった。
それから――白いベールをくるりとひらめかせる彼女の顔が見られるのも、悪くない。回廊をゆくビアンカがこちらを振り向いた。
「フェッロさん、おはようございます」
ほのかな微笑をのせた美しい娘が、フェッロに挨拶を述べる。
彼女はサン・クール寺院の修道女であり、先ほどフェッロを起こしてくれた子どもたちが暮らす孤児院の管理者でもある。ビアンカ・ボードワンについてフェッロが知るところは、貴族の娘でありながら修道女になり、穏やかな表情で孤児たちを見守る娘だという事。誰にでも優しく接する懐の広い人柄であるために、よく変人扱いされるフェッロにも態度は変わらない。少し方向音痴で少し心配性気味、これが彼の知るビアンカのすべてだ。
彼女の表情がやわらかなので、フェッロもつられてかすかに目を細めるが、長い髪の下彼の眼差しは隠されてしまっている。それでもビアンカは、真っ直ぐに相手の目――あるいはそれがあるべき位置――を見つめている。対するフェッロは、ビアンカの瞳ではなく別のところを見ていた。
「おはようビアンカ。……今日は、朝からどこか行ったりした?」
問われて、相手は淡い緑の瞳にかすかな疑問をのせている。言い方が足りなかっただろうかとフェッロが二の句を思案していると、先にビアンカが答えてくれた。
「今朝は少し早めに洗濯物を干していたくらいですが……」
「ああ、それで」
洗濯物を外へと移動させる際にでもくっつけてきたのだろう、ビアンカの頭には葉っぱが一枚、髪飾りのようにのっかっていた。飾りならもっと別のものが似合うだろうから、今はそれは外しておいてやるべきだ。こちらの発言意図を測りかねているらしいビアンカを他所に、フェッロは彼女の頭上へと手を伸ばす。
ビアンカの頭は白磁のようなベールに包まれているがその下には金糸のやわらかい色。白い光にふちどられて、きれいな長い髪を持っているのをフェッロは知っている。なんとはなしに、それを思い出していた。ところでそれが問題ではないのを思い出して、ビアンカの頭に寄り添う木の葉を取り上げる。
「はい」
持ち主でもないのに木の葉を彼女に手渡すと相手の様子を伺った。しばしフェッロの動作に視線を従わせて、自分の手の上にのせられた葉っぱを見つめていたビアンカだったが、急にうつむいてしまう。相手の頬がかすかに赤いのを、この男は知らない。
葉っぱ以外は気にするようなところもなかったので、フェッロは食堂へと向かう。続いてやってくるはずの足音がないので、少ししてビアンカを振り返った。
「ビアンカ?」
今行きます、との答えをしてビアンカはフェッロと顔も合わせずに足早に歩き出す。翻ったベールの間からこぼれる黄金の髪が揺れていた。
寺院と孤児院に所属する者は食事の時間を共にする。いつもの顔ぶれがそろっているか、司祭であるホープが確認したあとに、食事ははじまる。朝は特に出席率がよいので、これを機会に寺院の面々を束ねる存在であるホープ・ノルマンは食堂をさりげない調子で見回す。司祭のホープと修道女のビアンカの他に、聖職者を目指すリーシェという少女、門番役のフェッロが寺院側の主な人間だ。それから二十人以上もの孤児院で生活をする子どもたち。目に見えて体調の悪い者はなく、それぞれが友人と会話をしたり食事に集中したり、眠そうに欠伸をしたりしている。
孤児院が同じ敷地内にあるサン・クール寺院の風景は賑やかである。子どもたちの多くは朝から快活に手と口を動かす。もちろん食べるだけではなくて自己の思いを語るために口は使われる。
「メロディ、おれのおかず取るなよ」
「残してるから悪いんじゃない」
「あっコウがスープこぼしたー」
「ばかー! もう、何やってるのよ」
「セクアナおねえちゃーんサラダおかわりー」
自分の事で手一杯の子どもたちは食べこぼしをたくさんするが、ビアンカが口元をぬぐってやる姿が見える。
十歳前の子どもたちとは対照的に、十代半ばから後半の子どもたちはひそやかだった。多感な年頃ゆえか、隣りに座る者同士で声を掛け合う程度。孤児院に比較的幼い者が多いのは、独立出来る年になれば孤児院を出て行くものが多いからで、その前段階として職場体験をさせてもらう事もあり、孤児院を空ける時間が多いからでもある。寺院を通して特定の店で一定期間働かせてもらい、もしその働きぶりが気に入られればそのままその店で働ける事もあるが、別の道を選ぶ事も出来る。
遊びたいざかりで冒険好きな年少組への心配事はたくさんあるが、年長の彼らだってホープは気がかりではある。ずっとなじんで生活してきた孤児院を出て行く未来が近いのだから、変化に戸惑わないはずがない。
「ゲラルドくん、近頃は職場体験の方はどうかな」
「別に、普通」
相手が会話をあまり望んでいないように思えたので、ホープは質問を重ねたりはしなかった。彼は今日も指定の仕事場に赴く事になっている。職場体験といえば、オーシもそろそろ考えなければならない。子どもたちの事はビアンカに任せてはいるが、それでもホープの仕事もない訳ではない。考えなければならないといえば、もう一人職場体験の時期が近づいている子どもがいたのだが、彼は今この食堂にはいない。
気がかりな事はいくつもあれど、今日のホープにはひとつ楽しみがあるのだ。手早く食事を終えて、朝の見回りに出ていくフェッロを見送りながらこっそりとホープは口の端を持ち上げた。
食後の片付けも済み、それぞれが自分たちの仕事を、孤児院では勉強の準備をはじめる時刻となった。フェッロはというと定期的に寺院の敷地内を巡回し、出来るだけ寺院の見張り役を演じる――後者はあまり期待されていないのでフェッロも気が向いた時しかしていない。それほど平和なのだ、この寺院があるティル・ナ・ノーグは――以外は、ほとんど自由時間のようなもの。最近、ひとつ大きめのカンバスで絵画を描こうと思っていたものを、続けようか。思っていたところ、ホープに声をかけられる。
「お使いに行ってきてほしいんだ」
「どこですか」
ホープは手にした紙片に一瞥をくれた後に、一人の人物に視点を移した。
「買い物は一度に片付けた方が楽だろうと思ってね、いくつかまとめてあるんだ。たくさんあって一人じゃ大変だと思うから、ビアンカくんを連れて……」
近くにいたビアンカを手招きすると、ホープは彼女にもお使いの同行を促す。話を聞いて、フェッロとホープを交互に見上げたビアンカだったが、ややうつむきがちになって彼女はホープに向き直る。
「……すいません、司祭。今日はこの後、コレットさんがいらっしゃるのです。だから長い間ここを空けるのは、ちょっと……」
「えっ」
コレット――孤児院に慰問に訪れる娘の名前を出されて、ホープは拍子抜けしたような声を上げる。フェッロの方にも、ビアンカに賛同する理由がない訳でもなかった。
「ちょうど画材を買おうと思ってて、それにビアンカを付き合わせるのも悪いから、一人でいきます」
「えっ」
笑顔だったホープの表情が硬くなる。眦の下がったその瞳の奥では予想外の展開に慌てている。
「でも、それならビアンカくんも絵画を描く道具に興味があるって以前言っていたから、むしろ一緒に見に行ったらいいんじゃないかな?」
「……それは、またの機会に。コレットさんだけじゃなくて、クラウス様もいらっしゃるみたいなので、お二人を待たせる訳には……」
ビアンカは残念そうに苦笑する。
(……そういえば、あの二人はついに交際をする事になったんだっけ?)
友人以上恋人未満の男女仲を応援したいホープ・ノルマン・恋の話大好き・司祭はもちろん恋人同士になった二人でも応援したい。どうやら無事におつきあいをする事になった一組の男女が寺院にやって来るらしいのだ。コレットだけでなくクラウスも訪れるというのなら、そちらも観賞対象として捨てがたい。
などと、他者にしてみればいろいろな意味で余計なお世話な想像をしているホープが黙っているので、フェッロはホープの用意したメモ書きを手にして、
「荷物が多かったら、一度戻ってきてまた出ます」
すっかり出かける支度を済ませた様子を見せた。ビアンカの見送りの言葉と共にフェッロは寺院を出て行く。ホープも彼女に倣って見送るが、フェッロは一人で行ってしまったのだ。
「なんだよ、つまんないな。せっかくお買い物デートをセッティングしてあげようとしたのに」
頬さえ膨らませそうなホープの声音はどこか拗ねて聞こえた。庭へ移動した子どもたちが遊んでいるのだろう、かん高い声をあげるのが耳に収まる。姦計に失敗したホープの気持ちはあんまり楽しくないのに、関係のない彼らはやけに嬉しそうだった。
水平線が反射する光に向かって下り坂を進むと、船が見えてくる。交易で富を得るティル・ナ・ノーグの船着場には活気と賑わいがあふれている。
まだ午前中というのに、商店の多いこの辺りは人々が雑多に行き来していた。海の向こうから様々な商品、情報、人々がやってくるために本当にたくさんのものが見られる。
道を淡い緑色の髪の少女が杖を持って歩いている。大きな杖は重そうだが、なんてことない様子で移動する姿からは、魔法使いか何かではないかと思わせるものがある。巨大都市ティル・ナ・ノーグを擁するアーガトラム王国では一般に魔法使いの存在は稀少であるのだが、それらしい人間が歩いていてもこの町では珍しい事ではない。ティル・ナ・ノーグでは魔法の取り締まりがきちんと行われているが、だからといって魔法使いが世にも奇妙な存在として見咎められる事はない。この町には人間だけではなく、コボルトと呼ばれる狼の顔を持つ二足歩行する亜人や、屈強な体躯のゴブリンが歩いていても誰も疑問に思わない。
海の彼方よりやってくるいくつもの不思議を受け入れてきたティル・ナ・ノーグの住民たちは見目や特徴の違いなど瑣末な事と見なし、悪意を持つ相手でなければ魔法使いや亜人であっても差別的な目で見る事はあまりなかった。
石畳をゆくと、海鳥が鳴いて湿った空気を運んでくる。海草のにおいがする。横にすっと引かれたきれいなターコイズブルーの水平線を眺めれば、このまま海に行くのもいいなとフェッロには感じられてしまうのだが――今日はそれが目的ではないのだ。頭の片隅に追いやりかけた司祭の用事を引っ張ってきて、フェッロはまず最初にどこへ向かうべきかを思案する。
町にはいくつもの商店が立ち並んでいる。八百屋、肉屋、魚屋などの生鮮食品を売る店や、金細工師や板金工や鍛冶屋、馬具職人などの活躍する店、装飾品や香料を売る店にカフェなどたくさんの店。店の種類だけでなく、数も豊富で、町のあちこちに目的地が点在しているのですぐに用事は終わりそうにない。
いくつもの商店のうちのひとつ――一軒のパン屋の前で、一人の青年が店内の様子を伺っているのがフェッロの視界に入ってくる。見た事のある頭だ。陽の光に金色の髪をうっすらと青く反射させ、横顔は真摯に何かを見つめている。彼は何を見ているのだろうか。ついとその視線に従うと、背後からの視線をあちらも感じたのだろう、声をかけてきたのはニコラスの方だった。
フェッロに気がついたニコラスは「やあ」と片手を挙げる。一見して武装していると思われるのは膝まである装甲だけであるニコラス・セルベセリアが、騎士と見抜ける人は元々の知り合いかよっぽどの慧眼の持ち主だけだろう。
フェッロは彼の隣りに立つと視線の先にあったものを見つけた。パンだ。パン屋だから当たり前だろうが、ニコラスは食堂の息子なだけあって食べ物への関心が深い。家業にも本職にも関係はないが、フェッロも食べる事には興味がある。その嗜好の類似もあってか、ニコラスとはよく食事に行く間柄である。
「パン?」
短い問いだけで、フェッロはパンを見ていたのなら、何に注目していたのかを聞いたつもりだった。よく気の回るニコラスは、前後の状況だけでフェッロの言いたい事を察して見せた。
「面白い形のパンがあるな、と思って見てたんだ」
見れば、彼の視線の先には確かに珍しい形のパン――獅子の形に似せたパンが鎮座していた。表面に塗った卵が輝いている。面白いアイデアだと思うが、まさかこれらのパンをずっと見つめている訳にもいかない。
「そっちは、またフラフラしてるんだ?」
絵画主題を探し求めてフェッロが町を徘徊しているのはいつもの事。そういうニコラスも騎士の詰め所や練習所などにいないで町をうろついてばかりいるからこそ、騎士と見なされない事が多いのだが。そういえば、彼とフェッロがはじめて会った時も騎士をやっているニコラスとして顔を合わせたのではなかったなと思い出す。
「今日は買い物。頼まれて」
ひらりと紙片を揺らすと、フェッロに与えられた指令がそこに書かれているのだと示した。なんとはなしに、その内容を改めて見てみる事にした。
ホープの買い物のメモには、
ザンパータ草(薬草)……二束
エルベアロ(薬草)……一袋
小皿……三枚
大きめの皿……一枚
『フィアナ大陸の文化』(本)……一冊
『よりよい職業選択のために』(本)……一冊
『新教典読解辞典』(本)……一冊
黒インク……二瓶
小麦粉……十キルトジェム
黄金林檎……十キルトジェム
とある。加えて、
フェッロの画材で買いたいものは、
顔料となる鉱物……赤と青
筆……二三本
紙……一巻
である。これらが買いたいものであるが、フェッロの用事はともかく確かにホープの頼みは片手で運ぶには人手が足りない。これは、ビアンカを同行させるためにホープがわざわざ付け加えたものばかりだったのだが、それを知らぬフェッロはちらとニコラスを見た。
「……時間があるなら、ちょっとつきあってくれない?」
ニコラスが緊急を要する事件に追われているようには見えない。買い物をしながら彼と話をするのも悪くないと思った。
あまり長くはつきあえないけどと前置きして、ニコラスは了承した。
※キルトジェムは重さの単位。
一キルトジェム=一キログラム
登場人物の多くを、企画参加者さまからお借りしました。
名前だけ登場のキャラも初出時に明記しておきます。
ビアンカ・ボードワン(原案・タチバナナツメさん デザイン・緋花李さん 考案・伊那)
ホープ・ノルマン(原案・タチバナナツメさん デザイン・猫乃鈴さん 考案・トラムさん)
リーシェ・マリエット(考案&デザイン・夕霧ありあさん)
コレット=ラヴィネル(考案・みきまろさん デザイン・緋花李さん)
クラウス=アルムスター(考案・みきまろさん デザイン・ゐうらさん)
ニコラス・セルベセリア(考案&デザイン・麻葉紗綾さん)