そんなある日
3月のとある休日。
朝、けたたましい目覚ましの音に急かされて会長はむくりと起きた。
手探りで目覚ましを止めて、小さくあくびをひとつ。
「……起きよう」
静かになった室内に呟きに応える者はいない。
この家には今、彼女しかいないからだ。
もそもそとパジャマを脱いで私服に着替える。
姿見に映る小さな身体はもう何年もスリーサイズが変わっていないように見える。マイスター以外は違いが分からないだろう。
全体的に起伏の少ない己のスタイルを見て、思わず溜め息が漏れた。
気を取り直して、身長にはまだ望みがある、と自分に言い聞かせながら髪を結ぶ。
いつものリボンを、いつも通り両サイドで括った。
だが、どうにも違和感が残る。
彼にやってもらうのが当たり前になっているからだろうか。
自分の思考に少女は赤面した。頭を振って妄想を追いやった。
部屋を出て、朝の準備を手早く終わらせ、朝食にする。
控え目に言っても料理は壊滅的にできないので、朝食はシリアルに牛乳をかけて済ます。
彼の作るごはんが恋しかった。
少女の両親は共働きで、どちらも家にいることが少ない。
それなりに責任ある立場らしく、会社に缶詰めになっていることも多い。
一人っ子ということもあり、学校のイベントには欠かさず来てくれているが、小さい頃は駄々をこねたこともあった。
今では流石にそこまで気にしていない。
それでも、多少の寂しさがあるのは誤魔化せなかった。
「いかんな。弱気になってる……」
自分が存外、寂しがり屋なのを自覚したのは割と最近だ。
原因は考えるまでもないだろう。
起きてからの短い時間で既に三度もその顔が思い浮かんでいる。
◇
気が付いたら彼の家まで来ていた。
連絡もなしに来ては迷惑だろうと思いながらも、指は勝手にインターホンを押していた。
「こ、こんにちは」
「はーい、今開けるねー」
聞こえた声は年上の女性のもの。
誰何を問うこともなく、扉が開いた。
「お姉さん」
「よく来たねー」
出てきたのは、パジャマ姿の彼の姉だった。
たしか、7つ上だったと少女は記憶していた。
「ささ、あがってあがって」
のほほんとした雰囲気ながら、割と強引に少女を家の中に引き込んでいく。女性からは抗いオーラが出ているのだ。
二人して廊下を歩く最中、ボタンのいくつか空いたパジャマの隙間から揺れる大ぶりな果実が零れそうになっている。
ちょっとだけ羨ましい会長であった。
3月ながら、通されたリビングの中央には大きな炬燵が健在だった。
案内を終えた姉はそそくさとその一辺に潜り込み、ほっと息を吐いている。
姉は職業的には白衣の天使だが、炬燵と合体した姿はむしろ堕(落した)天使と言うべきだろう。
「あの子なら買い物行ってるからちょっと待ってねー。飲み物とかはいつも通りね」
「あ、なら紅茶淹れましょうか?」
「お願いしまーす」
炬燵から聞こえてきた返答に、はい、と返事をして会長はティーセットの準備を始めた。
姉は特になにも言わない。
客相手なら多少の構いはするが、“家族”相手にあれこれ言う気はないのだ。
リビングを暖かな空気が満たす。
茶器の奏でる音だけが時折耳に触れる。
だらけ姉は副会長が家事万能になった原因だが、同時に両親がいなくとも優しい性格に育った理由でもあるのだろうと会長は推測している。
そこにいるだけで場を和ませるというのは得難い才能だ。少なくとも少女にはないものだ。
「おば様はまだ海外ですか?」
「そうみたい。この前の連絡では、今はブータンで学校建ててるって言ってた」
「相変わらずの何でも屋ぶりですね」
「そうよねー。私も下二人が自立したら追いかける予定だけどついて行けるかしら」
何気なく放たれた言葉に、少女は一瞬動きが止まった。
思わず、今の発言を脳内で再生して、聞き間違いでないことを確かめてしまった。
「……初耳です」
「まだ誰にも言ってないけどね。母さんだって人間だもの。いつまでもスーパーウーマンって訳じゃないわ。誰かがついてあげないとね」
そう言ってのほほんと笑う姉の言葉の端々からは慈愛と尊敬を感じさせる。
炬燵に寝転がったままではあるが、本気なのだろう。本気で母と共に世界を回る気なのだ。
看護師になるのも決して楽ではなかった筈だ。激務だと聞いているが、収入は海外を飛び回るより遥かに安定しているだろう。
けれど、それを捨てる覚悟は既についている。言葉少ない姉の様子から会長は察した。
「おば様が大人しくするって方向はないんですか?」
「ないわねー」
だらけ姉はそこだけは断言した。
姉妹の中で最も長く母と共にいた経験が確信させるのだ。
「母さんに大人しくしろってのはマグロに泳ぐなっていってるようなもの。むしろ、妹が中学入るまでよく我慢できた方ねー」
「そういうものですか。あ、お茶入りましたよ」
「はーい」
そうして、二人で炬燵に浸かってだらだら空間を満喫していると、しばらくして玄関からひょっこりと少年が顔を出した。
手には食材の詰まった袋を提げている。どうみても主夫だった。
「ただいま帰りました、姉さん、会長」
「おかえりー。ごはん」
「お、おかえりなさい」
もじもじと恥ずかしそうに告げる会長に副会長は幸せそうに笑みを返した。
「わ、私がいることに疑問はないのか?」
「玄関に靴があったので。それに、いつ来てくれてもいいとお伝えしてましたからね」
「そ、そうか……」
「らぶらぶねー」
「あまり言わないでください、お姉さん。恥ずかしいんです」
少女の可愛らしい抗議に姉は「はーい」と返事をして寝転がってしまった。
昼ごはんが出来るまで省エネモードで過ごす気なのだ。これでやり手の看護師なのだから人は外見や言動ではわからないものである。
副会長は苦笑しつつ、そのまま台所に入って準備を始めた。
手伝うか、という会長の視線は、大丈夫です、という視線で封殺した。適材適所の精神である。
「会長もお昼ごはん食べますか?」
「もうそんな時間か!?」
慌てて時計を見れば、炬燵に入ってから既に2時間が経過している。
随分だらだらしてたらしい。
恐るべし癒し系、などと考えつつも少女は無意識に頷いていた。
「承知しました。あ、姉さんは部屋の外まで侵食してる本の山を片付けるまでお預けですよ」
「ひどいよー。一応、仕事関係の本なのにー」
「なおさらちゃんと片付けてください」
炬燵から顔だけ出して抗議する姉に、副会長はにべもなく告げた。
「手伝いましょうか?」
「駄目です、会長。ここで甘やかすと本人の為になりません」
「そんな大袈裟な」
「……階段の上を覗いてみてください」
言われた通り、もそもそと炬燵を出て階上を覗いてみた。
本の山が2階の廊下を8割方占拠していた。一部は天井に届きかけている。
思わず床が抜けないか心配してしまった。
会長は無言で席に戻った。
「その、お姉さんはビブリオマニアなんですね」
「ただの無精者です」
「そこまで言わなくてもいいじゃない。しょうがないなー」
姉はコタツムリを解除して、のろのろと二階へ上がっていった。
「やればできる人なんですけどね」
「そうなのか?」
手際良く下ごしらえをしていく副会長を多少の尊敬を抱きつつ見ながら会長は尋ねた。
「僕達しま……兄妹の中で母さんに付いていけるのは姉さんだけでしょう」
「気付いてたのか?」
「これでも17年ほどの付き合いですからね」
そう言って笑う姿は、互いのことを理解しているからこその物だろう。
少女はそれが羨ましかった。同時に、心の中に微かな嫉妬が芽生えた。
もっと早く出会っていたかった。その想いが胸を焦がす。
「き、君だって付いて行こうと思えば行けるだろう。それ位の器量はあるさ」
「いいえ。僕には母さんを追いかけるよりも大事なことができましたから」
「それは聞いてもいいことか?」
多少の期待を秘めつつ、会長はおずおずと問うた。
「勿論。会長の夢が叶う時にその隣にいることです」
「あ、いや、それは……」
あまりにストレートな物言いに、会長は思わず視線を逸らした。
付き合ってしばらく経つが、こればかりはいまだに慣れない。
狙って言っているとわかっていても、頬が熱くなるのを止められなかった。
「あとは、会長との間に子どもを――」
「破廉恥な台詞は禁止だ!」
「おや、この前は頑張ると」
「ワキャー!」
慌てる会長が台所に飛び込み、副会長の口を塞ごうと手を伸ばす。
セクハラには該当しないと判断したのか、制裁ではなく、ごく平和的な手段に訴えた。
「ふむ……」
口元を覆う白魚のような手に対し、彼はその指先を順に舌で触れていった。
少女の背筋をぞくりとした感覚が走り抜けた。
咄嗟に手を離し、後ろに下がろうとしたが、腰が抜けたのか、腕が宙を掻き、バランスを崩した小柄な体が倒れかける。
だが、その前に優しく腕を引かれて抱き留められた。
反射的に抱き締め返していた。
服越しに感じる暖かさに、少女は無意識にほっと息を吐いた。
数秒して我に返り、表情を引き締めようと努力する。無駄な努力だった。
「……マッチポンプという言葉を知っているか?」
「知ってますが、それがどうかしましたか?」
少しでも長く今の体勢でいる為か、これ見よがしに副会長がしらばっくれる。
「……君は卑怯だ」
「そうですか?」
「君のせいで私は随分と弱くなった。ひとりが、寂しくなった」
「……」
「君の、せいだ」
言葉とは裏腹に少女の抱き締める力が強まる。
「会長、寂しいと死んでしまうのは兎だけではありません」
「……」
「寂しさが募ると、人も死ぬんです――心が」
少年が少女の小さな体をそっと抱き上げて、真っ直ぐに目を合わせる。
「会長は弱くなったのではありません。ただ、己の心に向き合っただけです」
「……そうか。君が言うなら、そうなのだろうな」
少年の言葉は、少女の胸にすとんと納まった。
見つめ合ったまま、二人の距離が徐々に近づいていく。
あと少しで互いの口元が触れるという段になって、
「ごはんまだー?」
背後からの声に会長がぱっと離れた。
「か、片付けはもう終わったんですか、お姉さん?」
「うん。部屋に入れて分類しただけだけどねー」
既に炬燵の定位置に戻っていた姉がのんびりと告げる。
確かめてみれば、確かに廊下に山と積まれていた本の数々は跡形もなく消えていた。
(廊下を占領していたあの量をこんな短時間で?)
「まあ、こんな感じでやればできる姉なんですよ」
「人の内心を読むな」
「ごはんー」
「はいはい、了解しました。二人は座っていてください」
「うぐ……すまん」
「はーい」
姉に倣って、少女も炬燵に戻った。
何もかも了解しているような姉の微笑みに、恥ずかしさを感じつつも笑みを返した。
昼ごはんももうすぐできる。
そんな穏やかな昼過ぎだった。