リドル2
ここはどこだろう。
何処か懐かしい木の香り、やさしい光の差し込む部屋。気づけば私はそこの暖かいベットで横になっていた。知らない場所に困惑しながら、少し首を回した。そして目に入った、花瓶の中の月見草の花。
ああ。思い出した。あの光景だけ。
頭に浮かんだのは、月見草の咲き乱れる花畑。
でも、思い出せない。
その続きが、その前が。その光景を見たことは覚えている。その後私はどうしたのだっけ?
「私、……あれ…?」
自分が見つめる自分の手が、目が霞むせいか酷く朧気に見える。
そのまま硬直していた少女の耳に、この部屋に近づいてくる足音が聞こえてくる。その足音はこのドアの前で止まったかと思うと、ドアをノックした。返事が出来ないでいる少女に構わず、しばらくするとドアを開けた。
「あ……。起きたんですね」
その人は寝てるとばっかり思っていた私が上半身を起こしているのを見て、ちょっとだけ驚いたみたいだった。
「………だれ…?」
「………え…、と。ん~。その話はちょっと込み入ったことになりそうなんで、その前に、これ。お腹空いているのでしょう?」
優しそうな顔の男の人は、その顔をもっと優しげにして笑って手に持ったお盆を私に差し出してきた。思考もまともに整理できないまま、反射的にそれを受け取った。
「パン……と、ジャ、ム?」
「うん。ジャム。ところで君の名前は?僕は……」
「名前!?」
「あ、はい。名前です」
急に迫力を増した私の声に、その人は驚いて半歩私から離れた。私も自分に驚いた。さっきまで凍っていたように動かなかった思考と心が、雪解けが訪れたように解けて、活動を始める。
心は溶けて流れ出し、そして、愕然とした。
「名前………分かりません。覚えて、ない、みたい……」
「あれ、記憶喪失なんですか?呼び名が無いと困りますね……あ!」
その人はそれを聞くと、それほど驚かず、困ったように笑う。そして少し下を向いて考え込んだ後、パッと顔を上げて、妙案でも思いついたのか嬉しそうに言った。
「それじゃ、仕方ないんで、妹の名前を貸して上げますよ。ああ、安心してください。妹はずっと遠くにいるんで、ちょっと名前借りたって、困ったことにはなりませんよ」
「妹の名前…?」
「『リドル』というんです。気に入りましたか?」
その言葉と笑顔に、私は不思議と心が安心するのを感じていた。そしてコクと私が頷くと、さっきよりさらに本当に嬉しそうに笑った。
よく、笑う人だな…。
「ところで、『リドル』。ジャム食べないんですか?せっかく急いで持ってきたのに」
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「ふ、フォルァ……トー?ウィト…エスト…??」
嬉しそうに薦められる食事を食べた後、告げられた、謎の音に私の舌は追いつけなかった。どうしてもその音を復唱しようとすると舌を噛んでしまう。
「そう。フォルトゥーナ・ウィトレア・エスト。それが僕の名前です。長い名前でしょう。両親は何が好きでこんな名前付けたのだか」
溜息混じりに言われた言葉にこけそうになる。あの呪文みたいな言葉はこの青年の名前だったのか。だがいちいちフォルぁ…じゃなくて、ファ…ル、ああ!言いにくい!ともかく、こんな噛みそうな名前毎回呼んでたら早口言葉が得意になってしまう。
「発音しにくいね……簡単にフォラって呼んでいい?」
「え………良いけど、フォラか…」
『フォラ』は急にニックネームを付けられたことが予想外だったのか、目が驚いていた。
その様子に私は少しだけ笑ってから、さっきからずっと聞きたかったことを聞くために口を開いた。
「フォラ。ところで……あの…ここどこ…?」
自分で聞いてて変な質問だということは分かるのだが、どうしても聞かずには居られない。ここはどこで、私はどうすれば良いのだろう。これからの身の上が心配でたまらない。記憶喪失とは、こういうものなのか。
「ああ。そうでした。説明しないと分からないでしょうね。まず、ここは僕の家なんです。山にあるんでいろいろ不便が多いんですよー」
その言葉を聞きながら、ふと窓の外を見る。
なるほど。道理で空気も澄んでいて、木が多いわけだ。ひとの町にあるような雑音が無い。
「この家からもう少し高い所に、珍しい花が群生しているところがあるんですが、あなたはそこで倒れていたんです。
『黒い壁』の、すぐ横に」
「黒い、壁?花畑の横にあるの?」
「ええ。まぁその話は追々。あなたは、『迷い人』と呼ばれる人たちを見たことがありますか?」
世界暦807年 最北の地に黒い壁が出現した。
観測されなかった異常事態。構成物質は不明。
大きさは計り知れなく、顔を上げても端が見えない。空の彼方までの高さがあると推測される。
横の端も未だ確認されておらず、大陸の端の海の向こうまで続いている。
その向こうにあった住宅地や、町に居たはずの人々は、未だ確認されず。生死不明。
黒い壁に飲み込まれた人数、確認されているだけで100万。
わかっていること。
正体不明の生命体が稀にその壁から落ちてくる。
世界暦808年 羽をもったトカゲのような巨大生物が黒い壁から落ちてくる所を農夫と少年が目撃。
それからも、元々この地に居なかったはずの生物の目撃情報が絶えない。
中には獣も多かったが、人語を話す、人と形態の似た生命体もおり、彼らは一貫してこう言った
「異世界から来た」と。
時に奇怪な姿を、稀に我らと似通った姿をした、その者たちを我らはこう呼ぶことにした。
『迷い人』と。
黒い壁に飲み込まれた100万の人々はその中には居なかった。
迷い人は、彼らを見つけ出すための手がかりになるかもしれない。
未だ迷い人の正体は明かされておらず、消えた人々も帰ってこない。
果たして、迷い人は本当に異世界から現れたのか。何故黒い壁が現れたのか、消えた人々はどこへ行ったのか。
今日も数々の研究者により研究が進められている。
しかし未だ、証拠も無く、一つも解明されては居ない。
『リリス大陸全歴史記録書より 第13章』
フォラは人差し指を私に向けて、ビシッと突き刺した。
「で、君はその迷い人だ。そして、君が倒れていた花畑にある壁が、その黒い壁」
「ええ!!?」
「あ、ついでに僕がその記述にあった巨大トカゲを見た農夫と少年の、少年です」
「え!?、嘘、ええ!!?」
『迷い人』って知っている?という質問と一緒に差し出された深緑の分厚い本、に書かれている文字を、何処か童話を見るような目で見ていたのに、その次に言われた事実に自分の心臓は大げさに飛び上がる。
し、心臓に悪い……。
「ちなみに、今は世界暦814年です。研究も結構進んでるんですが、なにせ不明瞭な点が多すぎて……」
「…………え…?はぁ」
驚きすぎてフリーズしてしまった私を見て、フォラがすこし苦笑いする。そんな、簡単に何気なく、しょうげきの事実を告げないで欲しい。なんで、そんなのんびりとしてるのフォラわっ!こっちが驚いているのが馬鹿みたいじゃないか。てか、え?異世界人?ええ?
ふと、部屋にある姿見を見てみても、私とフォラも、同じ人種の人間に見えた。変わっている所なんてどこにも無い。話す言葉も同じだ。なぜだろう。
「まだ、驚いてますね。安心して、君のような迷い人の身の上は政府が保障しますから」
そんなのんびり笑われても、こっちは落ち着きません。
「しばらくは、僕の家で預かる契約なんで、よろしく御願いしますね」
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