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カタン【1】

(1)


その日の朝は、いつもと様子が違った。

毎朝7時になると玄関が開き、そっと朝食が置かれている。私が玄関に向かう頃には、すっかり誰の姿もないのだ。私は置かれた朝食を自室に運び、1人で食べるのが日課だった。

しかし、今朝は玄関に人の気配があるようだ。こんなことは何年ぶりだろうか。

「カタン、こちらへいらっしゃい。」

しかも声まで聞こえる。これもまた何年ぶりに聞いたかよく覚えていない。でもわかる。これは、母の声だ。

驚いたし、興奮もした。

大好きな母の声だ。しかも私を呼んでいる。

2階の自室にいた私は、慌てて階段を駆け下りそのまま玄関へ向かった。


挿絵(By みてみん)


玄関にはやはり母がいた。開きっぱなしのドアの向こうから、差し込む朝日が母の姿を優しく照らしている。

「ママ、どうしたの?」

喜びで思わず声が上擦る。しかし、久しぶりに発した声はカサついていて、自分が思ったようには話せなかった。

そんな私の姿を見て、母がわずかに微笑んだ。

「…今までこんなところに1人にしていてごめんなさいね。」

母の口から出たのは謝罪の言葉だった。

それを聞いて、私は首を左右に振る。

「ううん、いいの。全然気にして無いから!また会えてとっても嬉しいよ。」

申し訳なさそうにする母を見ていると、こちらが泣いてしまいそう。

「カタン、あなたは本当に優しい子。もうこれからは1人じゃないわ。」

母の言葉に、私は飛び上がらんばかりに喜んだ。

「え!いいの?また一緒に暮らせるの?」

私の喜びように、母はにっこりと笑った。これを私は肯定と捉えた。

「みんなで朝ごはんを食べましょう。一緒に母屋に行くわよ。」

そういうと母が私の手を握った。温かい。嬉しい。ママ。


久しぶりに浴びる日光は思ったより刺激的だった。少し、クラクラする。

手を繋いだまま、私は母と母屋へ向かう。

そう、ごく幼い頃は私もここで生活していたのだ。記憶が正しければ4歳まではこちらで過ごしていた気がする。私は今年14歳になった。何故、別館で1人で生活をしなければならなかったのかはよく分からない。でも、今日からまた家族と暮らせると思えば、そんなことはどうでもいいと思えた。

ダイニングに入るのも久しぶりだ。朝食にしてはかなり豪勢なメニューだった。

「うわあ、美味しそう!これ、食べていいの?」

「もちろんよ。でもその前に、お父様にご挨拶ね。」

料理にすっかり目を奪われていたが、奥の席にはすでに父の姿があった。

「…まあ、パパ!ごめんなさい、すっかり食事に釘付けになってしまって…」

私の父はとても優しく、頼りになる方だったはず。ああ、またお会いできるなんて。

慌てる私を見て、父は笑った。

「食べ盛りだものな、仕方ないさ。気にしなくていい。」

別館にいた頃の私の食事といえば、非常に簡素なものだった。固形の総合栄養食、それから水。慣れたものだったけれど、やはりご馳走を見るとたまらない気持ちになる。

「さあ、2人とも座って。温かいうちに食べよう。」

父に促されて私たちはそれぞれ席についた。

それから私は、父と母と談笑しながら朝食をとった。温かい食事なんていつぶりだろう。何を食べてもとにかく美味しいし、柔らかい。おしゃべりがより食事を美味しくしている気もした。何て幸せなのかしら。

食事が終わって、一息つくと母が私に声をかけた。

「カタン、今日はちょっと忙しいわよ。まずはその髪ね…」

母に指摘されて自分の髪を見た。長年手入れがされて無かった金髪は、パサついている上にふくらはぎまで伸びていた。

「髪を切りに行きましょう。もちろん、私も一緒に行くわ。」

「お出かけね!楽しみ!」

私は一人ではしゃいでいた。

その時、母の笑顔がかすかに曇っていることに気付きもせず。


私は両親が用意してくれた他所行きの服に着替え、母の運転する車で美容室へ向かった。

だいぶ切った。

私の髪は肩につかない程度まで切り揃えられた。トリートメントもしてもらったから、本来の輝きも戻った気がする。嬉しくて何度も鏡で確認していると、

「綺麗になって良かったわね。さあ、これからまだ行くところがあるのよ。」

と母が声をかけてくる。

「そうなの?今度はどちらへ?」

私が問うても、何故か母は困ったように笑うだけだった。

何だろう…


次に向かったのは、何故か空港だった。

「…え、ここ空港よね?初めて来るのだけれど…」

流石の私も違和感があった。旅行、ならば何故父は居ないのか。ロンドンから他国に行くとしか思えない。

「そうね、空港よ。今からローマに行くのよ。」

「ローマ?私、海外なんか行ったことないよ…」

「もちろん、私も一緒に行くわ。長旅になるけど、私がついて居るから安心して。」

そうは言われても、不安しかない。一体何が起こるのか。

「…不安よね。急にこんなこと…」

母が悲しそうにつぶやく。

「でもよく聞いて、カタン。これはとても大切なことなの。分かってちょうだい。」

彼女は私を見つめてそう言った。しかし…分からない。“大切なこと“の内容を何も教えてくれないんだもの。

それでも、母に従うしか無かった。今まで一人きりで過ごし、右も左も分からない私に何ができるというのだろう。


私と母は長い時間を経て、やっとローマの郊外にたどり着いた。

別館から出てからずっと移動の連続で、私は正直クタクタだった。ずっとあの部屋で一人過ごしてきたからだろう、とにかく体力が無いことを痛感した。

「お疲れ様、カタン。この建物に用事があるのよ。」

タクシーを降りた先にあったのは、白っぽく無機質な大型のビルだった。外壁が高く覆われていて、壁の向こう側に行くには厳重なチェックをされた。

「ママ、ここは何なの?」

「中で説明するわね。」

また母は私の手を引いて、建物の中へと連れ込んだ。

エントランスに入ると、すぐに白髪の男性が出迎えてくれた。

「ようこそいらっしゃいました。応接室でお話をしましょう。」

その男性は優しく微笑んで、部屋まで案内をしてくれた。部屋の中で少し待っているように言われ、一度男性は席を外す。それを見届けた私はついに母に食いついた。

「ママ!ここは何なの?どういうことなの?」

取り乱す私を宥めるように、彼女は私の両腕を掴む。

「カタン、驚くのも無理はないわ。きちんとお話ししましょうね。」

そう言ってから、母は短くため息をついた。それから再度私の方を見て、こう切り出した。

「カタン、あなたは自分が普通の子と違う、ということに気が付いてる?」

「…えっ」

私は母の言葉に面食らった。違う?何が?どこが?

どうやら私が理解していないということを確認した母は、もう一度ため息をついた。

「…あなたはね…度を越して賢すぎるのよ…本来なら親として喜ぶべき事なんでしょうけど…私たち夫婦はあなたが4歳の頃そのことに気付いてしまった…」

賢い?確かに昔、言われた気がする。その時の両親は笑顔だった。

でも、私が勉強すればするほど、覚えれば覚えるほど、両親の表情は笑顔から何か得体の知れないものを見る目に変わっていった、気がする。

「気付いてないかも知れないけど、あなたは一度覚えたことを何一つ忘れないでしょう?それに、4歳で因数分解の仕組みが分かるとか、普通じゃ無いのよ?」

普通じゃない、を連呼されて、少し気分が塞いだ。

それでも、自分では当たり前と思っていたことが普通じゃ無かったなんて。

「それでね…私たち、あなたと一緒には暮らせないと感じたのよ。理解が追いつかないの。でも、この先もあの別館で一人は不憫だし、ここの施設は色んな能力を持つ子供たちが居るというから…一人にはならないわ。」

「それって厄介者だから、捨てるっていうこと?」

私はつい強い言葉で母に言い返した。

「…そう思われても仕方ないわね。私たちが親として不甲斐ないから…」

彼女は悲しげに小さく言った。

「それでも、聞いて。私たちがあなたを迎え入れる準備ができたら、必ず迎えに来るから。」

そう続けた彼女の目は真剣そのものだった。少なくとも私は本気で言っていると感じた。

「…約束だよ?」

「ええ、約束よ。」

母は私の目を見つめ、それから抱きしめた。温かい。ママ。約束だよ。

ちょうどその時、先ほどの男性が部屋に戻ってきた。


(2)


「それでは、私たちの娘をどうかよろしくお願いします。」

入ってきた男性に母がそう言ってお辞儀をする。そして、私に目配せをすると彼女は部屋を出ていった。

「どうぞ、おかけなさい。」

彼は私に座るように促す。言われるがまま、私はソファに腰をかけた。

「初めまして。私はこの施設の長であるアレッシオ・サーラと申します。君の名前を伺ってもいいかね?」

当然ながらイタリア語だ。先ほどまでは母が居たからか、気を遣って英語を話していたのだろう。私は別館に居た10年間で、多くの国の言葉を学んでいる。もちろんイタリア語も。

「初めまして、サーラさん。私は“カタン“と申します。どうぞよろしくお願いします。」

私がイタリア語で返すと

「おお、やはり語学が素晴らしいな。発音も完璧だ。しかし、だ。カタン。君のお母様から預かった経歴書に記載された名前は、少し違うようだ。」

と、サーラさんがおかしなことを言うので、私は首を傾げた。


挿絵(By みてみん)


「いいえ、私はカタンです。ファミリーネームは、すみません、分からないんです。だから、どうぞそのままカタンと呼んでください。」

私の言葉に彼は母が提出したという経歴書をまじまじと見て、しばらく悩んでいる様な仕草を見せる。それからふっと表情を緩めると、

「分かったよ。よろしく、カタン。」

と握手を求めてきた。カーラさんの手は痩せてゴツゴツしていて、母のそれとはまるで別物のようだった。

「急な話で驚いただろう?今からこの施設について説明しようね。」

カーラさんは優しくそう言って、この不思議な建造物についての説明を始める。


この施設の正式な名前は、“欧州安全保障理事会直轄特別行動零課“というようだ。何ともキナくさい。活動内容としては、秘密裏に犯罪者を裁く、戦争等への派遣など…私から言わせれば、どうやら殺し屋のようなことをEUの管轄の元行っているらしい。驚くほど血生臭い話だ。もちろん、表立って活動しているわけではなく、この組織自体が隠蔽されているのだとか。何で私はこんなところへ来てしまったのだろう。

「…ショックそうだね…」

カーラさんが心配そうに言う。

「はい、ショックです…福祉施設か何かだと思っていましたから…」

私は素直に認めた。

「カーラさん、きっと母から色々話を聞いているでしょう?ならば、私がどんな風に育ったかご存知ですよね?ずっと一人で誰かと話すこともなく、本ばかり読んで育った人間なんです。私にそんな仕事ができるとお思いですか?」

焦った私は少し早口で彼を問い詰める。私には、筋力も体力も無い。正直、ロンドンからここまで辿り着けたのも奇跡だと思う。実際もう足がクタクタだ。そんな私に戦闘員になれと言うのだろうか?まして殺人なんて絶対に嫌だ。

私の様子を見て、カーラさんはため息をついた。

「もちろん、君の気持ちはわかるよ。しかしここに預けられた以上、避けては通れないことだ。」

申し訳なさそうにそう答える。

絶望した。

そんなこと、できるわけがない。死ね、と言うのか。

思わず泣きそうになった。父や母は、こんな仕事をする施設だと知った上で私を預けたのだろうか。

「…すぐに働くことはないよ。訓練をしてからだ。それに、必ずしも皆が前線で戦う訳ではない。君にしかできないことがあるはずだ…」

カーラさんが優しく語りかけるが、私の気持ちは重いままだ。

「それとね、名義はここに置くのだが、日本に君と同い年の優秀な女の子がいる。その子と組めば色々なことが分かると思う。」

彼の言葉に私は顔を上げる。

「え、ここでは無くて私は日本に行くんですか?」

私の質問に対して、カーラさんはゆっくりと頷いた。

「大変恥ずかしい話なんだがね、このEU支部はできたばかりで少々ごたついているんだ。日本の関東地方支部なら落ち着いて過ごすことができるだろう。あちらにはEU支部から派遣された有能な先輩もいる。また長旅にはなってしまうが…」

彼はとても申し訳なさそうに、そして丁寧に説明した。

日本。遠い島国じゃないか。

やっとあの一人きりの空間から出られたと思ったのに、こんなことになるなんて。

でも、

「私に拒否権はないんですよね。」

これは想像に足りる。

カーラさんは少し困った表情で、黙り込んだ。そういうことなのね。

きっとこの紳士は何も悪くない。決まっていたことなのだ。随所に私を思いやる姿が見える。でも、この施設ってなんなんだ。まるで人を人として見ていない。私が特殊だから?自分が特殊だなんてこと、知りもしなかったのに。


この日私は施設の宿舎で休み、翌朝付き添いと一緒にまた空港へと向かった。


(3)


日本の空港についた頃には、ほとほとくたびれていた。もう歩くことさえままならない。駐車場には明らかに他とは毛色が異なる、軍の運搬車のような車が停められていた。

「あれに乗って、関東地方支部まで行くからね。」

付き添いの女性が私に声を掛けた。

だいぶ長い時間、車に揺られた。

東京にもこんな自然があるのか、と言うほど僻地だった。木々の間から、突如として大きなビル群が現れる。ローマのそれと同じように高い外壁で囲まれていたが、明らかに規模が大きい。思わず車の窓に顔を近付けて、ポカンと口を開く。

「びっくりした?関東地方支部は、一番規模が大きいんだよ。」

年齢なりの反応をしてしまった私を見て、彼女はクスクスと笑った。

「日本ではね、名称が違うの。『防衛省直属 特別行動零課』って言うの。」

彼女はわざわざ名称を日本語の発音で教えてくれた。私は日本語も勉強済みだ。

「でも気を付けて。この施設の名前自体が機密事項だから、許された時しか口にしちゃ駄目よ。普段は皆、『シセツ』って呼んでいるの。」

付き添いの彼女は飛行機の中ではほとんど喋らなかったけれど、車に乗り換えてからは色々と教えてくれた。飛行機内で話さなかったのは、一般客も居たからかもしれない。それほど秘密にしなくてはならない事が多い組織なんだな…

そうこうしているうちに、外壁の大きな鉄製の扉が開いた。中の景色にさらに驚いた。

これはまるで、小さな町だ。

手前の広いビルがおそらくオフィスなのだろう。その隣にはよく分からない煙突が生えた建屋もある。奥にあるのは寮だろうか。背の高いマンションが何棟か並んでいる。病院らしきものも見える。さらに奥にもいくつか建物があるようだった。

「さあ、お疲れ様。エントランスで支部長が待っているはずよ。」

彼女が私を車から下ろしてくれた。しかし私は疲労でもう立つことができず、その場に崩れ落ちた。

「大変!今、車椅子を持ってくるわね。」

慌てた様子で彼女は走って行った。程なくして車椅子を持った彼女が戻ってくる。

「話は聞いてる。ずっと一人であまり動くことも無かったんでしょう?大変だったわね…」

そう言って私を車椅子に乗せて、エントランスまで押してくれた。

大変?私にとっては当たり前のことで、大変だなんて思ったことがないのだけれど。むしろ、今の状況の方がよっぽど大変だよ。

そんなことを考えているうちに、エントランスの中へ入っていた。

ビルの中では恰幅の良い熟年の男性が待っていた。カーラさんと同じような、優しい雰囲気の人だ。

「じゃあ、私の役目はここまで。カタン、頑張ってね。遠くイタリアから応援しているわ。」

車椅子の背後にいた彼女は私にそう語りかけ、目の前の支部長と思われる男性に会釈をして帰っていった。

彼女の姿を目で追って、それが見えなくなると男性の方へ顔を向けた。

「初めまして、私、カタンと申します。」

日本語で彼に挨拶をする。

「初めまして、カタン。私は関東地方支部長の園江と言います。綺麗な日本語だね。」

園江さんがにっこりと笑う。

「こんな格好で恥ずかしいです。長く歩くのが苦手なんです。」

私は車椅子に目を向けながら、小さく呟いた。

「うん、君が体を動かすことが苦手な理由はカーラ支部長から伺っているよ。なに、すぐに歩けるようになるさ。気にすることはない。」

園江さんはそう言いながら、車椅子の後ろに回り込んで押してくれた。

「カーラ支部長から、君と同い年の女の子の話は聞いているだろう?今、面談室で待ってるんだよ。とてもいい子だからね、きっと仲良くなれると思うよ。」

気がつけば面談室の前だった。面談室も1つではなく、いくつかあるようだ。やはり、規模が大きい。

部屋のドアを開くと、その中には私よりだいぶ長身の少女がいた。黒髪でショートカット姿の彼女は、こちらを見ていた。

「小堀、連れて来たぞ。この子に付いてやって欲しいんだ。」

園江さんが彼女に向かって言葉を投げかける。

それまで座っていた椅子から立ち上がった彼女は、私が目の前まで運ばれるのを待った。

「…車椅子…」

黒髪の少女がポツンと呟く。途端、私は自分の頬が熱くなるのを感じた。やはり、こんな格好で戦闘員なんか務まるはずがないんだ。


挿絵(By みてみん)


ところが、彼女の反応は私が想像していたものと違った。

「…大丈夫?どこか痛くしたの?」

心底心配しているだけのようだ。彼女の言葉に私は首を左右に振る。

「違うの。初めてたくさん歩いたから、疲れてしまって…」

私の答えを聞いた彼女は、安心したように笑った。

「怪我じゃないなら良かった。遠かったもんね?」

そう言って私のことを労ってくれたのだ。確かに、良い子なのかもしれない。

「小堀、挨拶なさい。」

席に掛けた園江さんが少女に促す。

「はい。わたくし、零課関東地方支部前衛部隊第3班所属の小堀純と申します。よろしくお願い致します。」

急に何かのスイッチが入ったように、彼女は引き締まった声で名乗った。つい圧倒される。ああ、本当に軍隊のようなものなのだな、と実感した。

「私はイングランドから来たカタンです。よろしくお願いします…」

少々気圧されながら、私も自己紹介をした。

私たちの様子を見て、園江さんが微笑んだ。

「なに、同い年なんだからそんなにかしこまらなくて良いだろう。私から説明するより、小堀から色々聞いた方が気がラクだろう?もちろん、分からない事があれば私に聞いてくれても構わないが。どうだ、小堀。中の案内でもしてやったら?」

園江さんの言葉に、小堀さんが頷いて私を連れて面談室を後にした。


(4)


「小堀さんは、私の資料を見た?」

廊下を車椅子で押されながら彼女に問う。

「サラッとね。でも、細かい話は本人から聞いた方が分かりやすいでしょ?」

つまり、小堀さんは私の資料をしっかり見た訳ではないようだ。彼女の言う通り、おかしな先入観を持たれないのは良いことかもしれない。

「あと、私のことは純って呼んでいいよ。きっと付き合いも長くなると思うから。」

そう言いながら、体を傾けて私のことを覗き込む。

「じゃあ…純ちゃん、ね。私のこともカタンって気軽に呼んで。」

私は純にそう伝える。すると彼女の傾いた顔が笑顔になった。なんとも魅力的な笑顔だ。

「まずね、訓練場に行こうか。カタンはとりあえず、歩いたり走ったりできるようになることが最優先だね。」

私たちはエレベーターに乗って、地下まで降りて行った。


まず現れたのは、地下とは思えないほど天井の高い大空間である。

「ここはね、運動場だよ。普通に訓練もするけど、空いてる時間は好きなスポーツをしても良いんだ。」

純が説明してくれた。

「運動場…ここで歩行訓練とかできるかな…」

私が呟くと「もちろんできるよ。」と純が素早く答える。

こんな広い空間、空港以来かも。ここ数日の内に目まぐるしく私の世界が拡がっている。

次は、さらに下の階に向かう。

先ほどとは違い、2つ部屋が並んでいるようだ。

「この部屋は射撃の訓練場、奥の部屋は道場。道場は床と畳の部分に分かれてる。」

窓越しに部屋の様子を見せながら純が説明してくれた。

「射撃場は分かるけど、道場って何をするの?」

これは私の中にはない知識だった。すると、純はうーん、と軽く唸ってから、

「剣道、柔道、空手、合気道…とかかな?もっと実戦に近い訓練をすることもあるね。」

と答える。

とりあえず、日本の格闘技の多くを訓練できるようだ。私はまだ、歩くことすらできないのに…この訓練場へ辿り着けるのだろうか。

私の表情が曇ったのを察したのか、純が車椅子の向きをくるりと変えて、

「次は食堂行こうか?」

と言って微笑んだ。


食堂は明るくて開放的な雰囲気だった。何人か座っておしゃべりしている。

「ここのメニューは美味しいよ〜みんなに好評なんだから。」

オープンキッチンでは、調理師が夕飯の準備をしている様子が見えた。

「本当に?私、今まで温かい食事がほとんど無かったから、今から楽しみ!」

漂う良い匂いを嗅ぎ取っていると、思わず笑顔になる。しかし、私の言葉に一瞬純の表情が翳った。おかしなこと言ったかな?

「ごはんはここで食べても良いけど、寮で自炊しても良いんだよ。」

純はすぐに元の表情に戻って説明を付け加える。

「寮…私も寮に暮らすことになるのかな?」

純に尋ねると、

「そうだね。しばらくは私と一緒に暮らすことになる。」

と答えてくれた。

「わあ、一緒に暮らすの?楽しそう!」

今まで一人で寝起きしていた私からすると、それはとても新鮮なことだった。

「はは、嫌がられなくて良かったよ。」

純が初めて声を出して笑った。

不安ばかりだったけど、素敵なお友達になってくれそう。


気が付けば、もう陽が傾いていた。

今日分かったことは、このシセツは私が想像していたより、ずっとずっと大規模なものであるということ。恐ろしげな仕事の内容を聞いていたけど、内部の人間はいたって普通であるということ。それから、初めて友達ができたということ、だ。

私たち二人は、純の寮へと向かった。

向こう側に見えていた建屋はやはりマンションだった。

シセツで働く人たちはここで生活しているとのことである。

純に連れられて入った部屋は、かなり広めにできていた。おそらく、家族連れで生活できる広さだろう。LDKの他、個人用の部屋が3つもあった。ここには何人か住んでいるのだろうか。

「純ちゃん、この部屋は他にも住んでる人がいるの?」

純に尋ねると、純は首を左右に振った。

「ううん、今は私一人だよ。」

「今は…ってことは、前は誰か一緒だったの?」

言葉にしてから、ハッとした。これはもしかしたら聞いてはまずいことだったかもしれない。しかし、純は少しうつむいてこう答えてくれた。

「前はね、兄が一緒に住んでた。」

「お兄様…」

「うん。」

しばらくうつむいていたが、ふっと私の方に顔を向ける。

「死んだ。任務中に。」


挿絵(By みてみん)


純の言葉に、私は頭が真っ白になった。

そう、これがこの世界。シセツというもの。

一瞬にして、現実に引き戻された感覚だった。

私は、この世界に足を踏み入れてしまったのだ。

この度はお読みいただきありがとうございました!

おそらく30年ぶりくらいに小説を書いているので、至らない部分もあるかもしれませんが

引き続き読んでいただければ幸いです。

どうぞよろしくお願い申し上げます。

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