9. 本音
文化祭と修学旅行が終わって、中庭の木々は紅葉し始めて、本格的に秋めいてきた。入院した琴音さんからは時々メールが来た。
『朝ごはんをパンからごはんに変えました♪ 味噌汁つきって嬉しい』
『今日から強めのお薬の点滴です、緊張する』
どうにか毎日を前向きに過ごそうとしているのだろう、そう思いながら僕は個人懇談の準備に追われていた。しかし『今日から強めのお薬です』というメールを最後に、彼女からの連絡が途絶えた。気づいたのは、そのメールから一週間ほど経った頃だった。
「大丈夫かな……」
小テストの採点をしながら、彼女のことばかり考えてしまう。すると職員室の電話が鳴った。琴音さんのお母様からだった。
「先生、お忙しい中すみません」
「こんにちは。どうかされましたか?」
「娘が薬の副作用で疲れてしまったようで……食事もあまり取れない状態なんです」
「そうですか……それは辛いですね」
「それで……また申し訳ないのですが、先生にお会いしたいと娘が言っておりまして……ご都合よろしい時にお越しいただくことはできますか?」
「はい、週末であれば」
こうして僕は週末、病院を訪れた。前回と同じ病棟のデイルーム。奥のソファには、水玉模様のパジャマを着て、ケア帽子(治療で髪が抜けた時に被る帽子)を被った琴音さんが座っていた。
「琴音さん……!」
「先生……」
彼女は随分と痩せていた。髪もまつ毛も抜け、かつての面影とは少し違って見えた。けれど、その瞳だけは変わっていなかった。
「こんな姿になっちゃった……先生、私のこと、よくわかったね」
「そりゃあ分かるさ。琴音さんのことは、ちゃんと見てきたから」
「あの2日間の点滴は本当に地獄だった……吐き気が止まらなくて……何もできなかった」
「よく頑張ったね」
「うん……ずっと吐き気で眠れなかったけど……やっとここまで来れた。髪が抜けたのも、前から外見のことで色々言われてたから、逆に楽かもって思うこともある。見た目しか見てくれない人ばかりだったし……バタフライズが好きだって言ったら『古い』って笑われるし」
「そうだったんだね」
「先生だけだった。家族以外で、バタフライズのことも、私のことも……ちゃんと受け止めてくれたの」
「ありがとう。僕はただ、君がいつも頑張ってることを知ってるから……それだけだよ」
「ウィッグ買おうかなって思ってて……ロングじゃなくて、ショートもいいかなって。どっちが似合うと思う?」
「どっちでもきっと似合うよ。ロングヘアでもショートでも」
そう言うと、琴音ちゃんは急に僕の腕を掴んで、ぽろぽろと涙をこぼした。
「ほんとは……ほんとは、嫌だったの。髪をとかすたび、どんどん抜けていくの……シャワーしたら一気にたくさん流れ落ちるんだよ? 怖かった……」
「……」
「でも先生は……そんな私にも優しく声をかけてくれて……なんで、そんな風に言ってくれるの……」
「だって……琴音さんは琴音さんだから。どんな姿でも、僕にとっては大切な生徒だよ」
「……ありがとう」
琴音ちゃんは僕のほうに小さく寄りかかってきた。支えるようにそっと手を添える。細くなった肩の感触に、僕は胸の奥がきゅっとなった。
どうして、こんなにも心を動かされるのだろう。教師としてという枠を超えて、一人の人間として、目の前の彼女に何かしてあげたくなる。ただその気持ちだけが、静かに自分の中に広がっていく。
「先生……私、先生に会えるだけで少し元気が出るの。今の私のこんな姿なんて、誰にも見られたくないって思ってたのに……」
「誰だって不安になるよ。そんな中で、よくここまで話してくれたね」
「ねぇ……もし……私がもっと悪くなったら……先生、覚えててくれる?」
「……忘れるわけないだろう?」
「骨髄移植の話、もう進んでて。どうなるかわからないけど、兄が検査してくれるって」
「そっか……型が合うといいね。骨髄移植して元気になった人、僕も知ってるよ」
「先生……もう一回だけ、ぎゅってしてもいい?」
「……いいよ」
僕はそっと彼女の肩を抱いた。言葉にできない思いが、胸の奥で波のように揺れる。彼女の小さな背中に、安心が届くようにと、静かに撫でる。
「あったかい……先生……私、なんとか頑張れそう……」
「うん……大丈夫。琴音さんなら、きっと乗り越えられるよ」




