25. 未来
それから月日は流れ、八月のある日。
僕は決意を胸に、大通りにある一つの店に向かっていた。
あれから、琴音ちゃんとは穏やかで優しい時間を過ごしている。
職場でのちょっとした愚痴や疲れも、彼女の声ひとつで癒やされてしまう。
きっと、僕の人生において彼女との出会いは「偶然」ではなく、「必然」だったのだろう。
もうそこまで思うようになった。
※
八月の終わり、僕と琴音ちゃんは仕事帰りに待ち合わせて、とあるカフェに来ていた。テラス席は、緑の匂いとかすかな風が心地よい。
「今日ね、先輩に『少し表情柔らかくなったね』って言われたの」
琴音ちゃんがそう言って、嬉しそうに笑った。
「それは、仕事に慣れてきたってことかな?」
「ううん、それもあるけど……たぶん、奏多さんの影響だと思う」
「え、僕?」
「最近……気づいたら、ちょっと笑ってることが多いの。前はしっかりしなきゃって思って、仕事中はけっこう緊張してたけど……」
琴音ちゃんは、冷たいハーブティーのグラスを揺らしながら続ける。
「週末に奏多さんに会える、って思うと、それだけで乗り切れるの。何があっても、私には帰る場所……っていうのがあるんだって思えるから」
僕の方こそ……同じだ。
週に一度でも会えるだけで、今の毎日が違って見える。
朝起きて、彼女の顔を思い出して、仕事の昼休みにチャットをして、週末のことを考える――その繰り返しが、今の僕にとって生きているといった実感だ。
「……ありがとう。そう思ってくれて」
「奏多さん……」
僕は、ポケットに手を差し入れ、そっと小さな箱を握った。
――今日、これを渡そうと決めていた。けれど、プロポーズなんて、そう簡単なものじゃない。彼女の仕事の状況もあるし、僕自身まだ『夫になる』という自覚がどこまで持てているか、不安もある。
だから今日はその一歩前の段階、という形で――想いを伝えたいと思っていた。
「ねえ、琴音ちゃん。ちょっと歩かない?」
「うん!」
ふたりでゆっくりと遊歩道を歩いていると、彼女が僕の腕にそっと手を添えてくれる。優しい気持ちがする。
「琴音ちゃん……いつか、こんな風にさ。毎日、仕事帰りに一緒に夕飯食べて、一緒にテレビ観て、そんな何気ない日常を過ごせたらいいなって思ってる」
「……うん」
「そのうち、旅行に行ったり……休みの日はふたりで読書して、お昼にラーメンとか食べに行って……夜は映画観ながら、くっついて眠ったり」
「……くっついて、ね」
琴音ちゃんがクスッと笑う。
でもその表情は、ほんのりと赤く染まっていた。
僕は深呼吸して、ポケットから例の箱を取り出した。
「……これ、受け取ってくれる?」
小さな、でも僕の想いがぎゅっと詰まった箱。
中には、V字で中央に小さな宝石の入ったリングがひとつ。
「えっ……これって……」
彼女の手をとって、そっとリングを指にはめる。サイズは――ぴったりだった。
「今すぐにってわけじゃない。でも、これから先の未来で、もし……僕と一緒にいてもいいって思ってくれるなら……いつか、結婚を考えてほしい」
彼女の目に、少しずつ涙が浮かんでいく。
「もうそれって、プロポーズじゃないの……」
「あ、そっか……そうかもね」
僕も、少しだけ照れながら笑う。
「嬉しい……ありがとう……」
彼女が涙をこらえるように言った。指輪をはめた左手を見つめながら、何度も「ありがとう」と繰り返して言ってくれる。
そっと、僕は彼女の肩を抱き寄せる。少しだけ涼しくなった風が、静かに僕たちを包み込んでくれる。
この時のために、何度も迷って、何度も練習した言葉があったけれど、口から出たのは、たった一つのあの言葉だった。
「愛してるよ、琴音ちゃん」
彼女は、僕の胸に顔をうずめながら、こくんと小さく頷いた。
「私も、奏多さんを愛してる」
僕も、彼女も――少しずつだけど、確かに未来に向かって歩いている。
たとえ少し遠回りでも、不器用でも、この人とならどんな明日でも怖くない。
空に流れる雲が、ゆっくりと形を変えていくように、僕たちの未来も、きっと変わりながら、柔らかく続いていくのだろう。
手をつないで歩きながら、僕はそっと思った。
この人となら、きっと大丈夫だ。
ありがとう、琴音ちゃん。
君は、過去に光をくれた人。
今をぬくもりで満たしてくれる人。
そして、これから先――
世界でたった一人の、かけがえのない人。
僕の“未来”を、どうかこれからも一緒に――
終わり




