15. 一歩
あれから週末には琴音さんの面会に行くようになった。少しずつではあるが、彼女はリハビリを頑張っているらしい。腕や足にまで広がっていた発疹も、皮膚科の先生の診察を経て、徐々に治まりつつあった。
「琴音さん」
「先生!」
彼女は自分で車椅子を操作して、デイルームまで来ることができるようになっていた。まだ移動は車椅子の方が楽そうだったが、今日は自分の力で椅子から立ち上がり、窓際のソファにゆっくりと座った。
「どう? 調子は」
「ハーフ食がね、少し食べられるようになったよ。この栄養点滴、まだあるんだけどね。点滴も徐々に減らして、ハーフ食でも完食できるようになったら、退院の話も出るかも」
「それはよかった。主治医の先生も、看護師さんたちも、みんな応援してくれているんだよね」
「うん……でもやっぱり、外に出るのはちょっと怖いな。もうこの病院での生活に慣れちゃったから。ここなら看護師さんいつでも来てくれるし。はぁ……ちゃんとやっていけるのかな」
「大丈夫だよ。少しずつ慣れていこう。一人じゃないんだから」
琴音さんは、少し微笑んだ。
「奏多先生……本当にありがとう。先生のおかげで、ここまで来られたよ」
「ううん、君がここまで頑張ってきたからだよ」
「でもね、GVHDの症状はやっぱりまだつらい時もあって。たまにいきなり熱が出ることもあるし、寝られない時もあるの」
「そうか……大変だよね」
「でも主治医の先生は『白血球がちゃんと働いてる証拠だから多少はあってもいい』とか言うんだよ? こっちは苦しいのに、あの先生ったら納得しちゃってさ」
「そうか……それは何とも言えないね」
「まぁ、私も分かってるつもりなんだけど……だけどやっぱり、早く落ち着いてほしいな。体の中で何かが……まだ馴染んでいない感じがするの」
琴音さんが、自分の胸のあたりを軽く押さえる。その目は、まっすぐ僕を見ていた。
「私の中で生きてる“誰か”がいるような……そんな気がする。だからちゃんと馴染んで、力になってくれますようにって、毎日願ってるの」
「……うん、僕も願ってるよ」
「ねぇ先生……今日も、バタフライズ聴ける?」
「もちろん」
僕はイヤホンを取り出し、彼女の片耳にそっと差し込んだ。そして『SHE GOT』の再生ボタンを押す。教室で一緒に聴いていた、あの曲。切なくて綺麗なメロディーが、今は少し違った意味を纏った雰囲気を出して、僕たちの心に届く。
ランダム再生で次の曲が偶然『I WANT』に切り替わったとき、琴音さんがつぶやいた。
「この曲……前より、心に響く気がする」
「うん……なんだか、そうだね」
彼女は、少しだけ僕の肩にもたれかかる。けれどそれは体力の無さからくる自然なことのようで、僕はそのまま、そっと彼女の背中を支えた。
「ありがとう、奏多先生。私、もうちょっとだけ頑張れそう」
「無理しないでいいからね。焦らず、自分のペースで大丈夫だから」
「……うん、先生がそう言ってくれると、ホッとするの」
突然、琴音さんの体が熱を帯びたように感じられた。
「琴音さん? 大丈夫?」
「うん、ちょっと……少し熱があるかも」
僕はすぐに車椅子を彼女のそばに寄せ、彼女をゆっくりと座らせた。
「看護師さんを呼んでくるから、ちょっと待ってて」
すぐにナースステーションへ向かい、看護師に事情を伝えた。そしてデイルームまで来てくださった。
「あ、少し熱が上がってきていますね。ですが落ち着いて休めば下がると思います」
「ありがとうございます。すみません、もしかしたら少し無理をさせてしまったかもしれなくて……」
「大丈夫ですよ。もう体力も少しずつ戻ってきていますから、焦らなくても」
GVHDの症状と向き合う患者たちにとって、移植後はゴールではなく新しいスタートだ。そこから、焦らずに「時間とともに馴染んでいくこと」が何より大切だ。
琴音さんも、そうやって一歩一歩進んでいる。
次の面会日、僕はクラスの生徒たちが撮影したビデオメッセージを持参した。
『琴音ー! 私たち、ずーっと応援してるよ! 早く元気になってね!』
『先生がさー、週明けすっごい元気なの。会ってきたなって顔してるよね』
『あたしなんて、カレシと別れたんだよ? それはさておき、試験とかほんとヤダ!』
明るく笑うみんなの様子に、琴音さんは声を上げて笑っていた。入院中の彼女の、こんな笑顔を見るのは久しぶりだった。
「先生、週明けそんなに顔に出てるんだ?」
「うーん、そうみたいだね」
「でも、ちょっと分かるかも。私も、週末に会えると思うと元気になれるから」
そう言って、琴音さんはそっと笑った。
「ありがとう、奏多先生」
その言葉に、僕は胸がいっぱいになった。
「……無理せず、少しずつ元気になっていこうね」
「うん!」




