14. 希望
六月に入った。そろそろ一学期末の試験の準備をしなくてはならない僕は、毎日慌ただしい日々を送っていた。
ある日の放課後、職員室に戻ると事務員から伝言があった。琴音さんの母親から電話があったという。僕は急いで、彼女の自宅へ電話をかける。
「先生……実は……琴音の体力が落ちてしまって、精神的に辛そうにしているのです。発疹も出てきてしまって。熱は下がったのですが」
「そうなのですか。何か原因があるのでしょうか」
「GVHDという症状でして……」
GVHD――骨髄移植後に起こる拒否反応。
そもそも血液に含まれる白血球は細菌などと戦って、身体を守ってくれる役割がある。
GVHDとは、ドナーの白血球が、移植された患者の身体を「異物」と判断し、攻撃してしまうこと。高熱、発疹、肝機能の低下など、その症状はさまざまだ。この副反応が全く出ない人もいれば、数年にわたり症状とつき合う人もいる。
つまり移植後のGVHDを乗り越えて、ドナーの血液が患者の身体に「馴染む」のにある程度時間が必要ということだ。
母親の説明を聞きながら、僕の胸は痛んだ。
もしかして――僕の血液が、琴音さんの身体に負担をかけてしまったのではないか。
そんな思いが込み上げてくる。
「先生……」
「あっ、すみません。何でしょうか?」
「琴音が……先生に会いたいと、何度も言うんです。面会をお願いできませんか。週末でも、いつでも構いません。先生をとても信頼しているんです。私も毎日見舞いに行っていますが、『奏多先生は?』とそればかりで」
母親の声からも、娘を思う苦しさが滲んでいた。
僕は落ち着いて答える。
「分かりました。週末、伺います」
その電話を切ってからというもの、僕の心はざわついたままだった。
GVHDはよくあることとはいえ、自分のせいで彼女が辛い思いをしているかもしれない――そう思うだけで、涙が出てきてしまう。
「……僕にできること、あるのかな」
※
週末。僕は病院のデイルームに向かった。
しばらくすると、看護師に付き添われた琴音ちゃんが車椅子で現れた。
表情はややぼんやりとしていて、腕にポツポツと小さくて赤い発疹が見える。
「琴音さん、僕だよ」
「せんせい……かなた……せんせい……!」
その目に涙が溢れ、声は震えていた。
「会いたかったぁ……せんせいに……ずっと……」
「僕も会いたかったよ、琴音さん」
「せんせい……怖いよ……わたし……夜が近づいてくるとどんどん怖くなってしまうの……眠れない……歩くのもしんどいし、ご飯も食べられなくて……」
苦しそうな言葉に、僕はただ静かに頷いた。
「それに……私、わかってるの……」
そう言って、琴音ちゃんは手元から一通の手紙を差し出した。
「これ……せんせいの字だよね。……ドナーさんからのお返事。前にせんせいがくれた紙と、同じ字だったの」
――やっぱり気づかれていたのか。
「……そうなんだ。琴音さん。僕が……ドナーだった」
隠す必要は、もうなかった。
「ごめんなさい……せんせい……せっかく助けてくれたのに……私の身体がちゃんと受け入れられなくて……」
「謝らないで。琴音さんのせいじゃない。むしろ、琴音さんの身体は今もこうして必死に頑張ってくれている。それだけで、僕はうれしいよ」
どこまでも不器用な言葉しか出てこなかった。
だけど、今はそれでいい。
「私ね……元気になったらやりたいこと、いっぱいノートに書いてた。おいしいもの食べたい、旅行に行きたい、あとは……せんせいとバタフライズのグッズ専門店に行きたいって……」
「覚えてるよ。前に話してくれたよね」
「だけど、今はもう……そんなのいいの。私……朝ごはん食べて、昼ごはん食べて、晩ごはん食べて、夜はぐっすり眠りたい。あとね――」
「うん」
彼女が目を潤ませて、絞り出すように言った。
「笑いたい……せんせいと話して、笑っていたいよ……」
その言葉に、僕は一瞬、息を呑んだ。
――そうか。
それがどれほど大切な願いか、笑って過ごせることがどんなに幸せか、今の僕にはよく分かる。
「……よし。じゃあ一緒に、バタフライズを聴こうか」
僕はイヤホンを取り出し、片方を琴音さんの耳に、もう片方を自分の耳にそっとつける。
バタフライズの曲を再生する。流れてきたのは『SHE GOT』。
僕と彼女が一番気に入っている、あの曲だ。
“彼女が手にしたもの”――その歌詞が、胸に沁みる。
SHEが琴音さんだとして、彼女が手にしたものが、どうか、希望でありますように。
彼女はイヤホンに手を当てながら「うぅっ……」と涙を流す。
だけど僕たちの一番好きなバタフライズの曲を聴くことができて、何かを感じたのだろうか。顔を上げてふっと安心したようにも見えた。
「せんせい……ありがとう……一緒に聴けて、うれしかった……」
「僕もだよ。琴音さんとまた、こうしてバタフライズを聴けてよかった」
「また来てくれる……?」
「もちろん。また話そう。バタフライズもね」
少しだけ、琴音さんが微笑んだように見えた。
その笑顔に、僕の胸がじんわりとあたたかくなった。




