9 生きるすべ
この日の午後、一行は二手に分かれた。アイスマン夫人はアンドレイたちを連れて自分の豪邸へ向かった。エリザベートは自分の所有する賃貸アパートを見に行き、建物が無事であったことに本当にほっとした。中には荒らされたり略奪を受けた家もあったが住んでいる人々と無事を喜び合った。だが家賃の値上げは当分できないだろう。みんな困っているのだから。あのライヒスマルクで家賃をもらったところでどのくらいの値打ちがあるのだろう。
マルタのことも訪ね、共通の友人であ
るアンネリーゼの家にも行ってみた。3人で再会を喜んですぐ、彼女はエリザベートに言った。
「何回やられた?」
一瞬とまどったが、すぐに意味は理解できた。ソ連軍からの仕打ち。平時であれば性的暴力を受けた経験など、死んでも人には話せないようなことだった。加害者はせいぜい懲役何年かで済むが、被害者は一生残る心の傷に苦しめられ、それよりも恐ろしい「世間からの目」におびえなければならない。本人には何の非もないにもかかわらず「傷もの」として扱われ、結婚相手を探すことができなくなるのだ。だから大部分は泣き寝入りしかねない犯罪だった。しかし最近ではベルリンの女性たちは顔を会わせればこの挨拶から始まるそうだった。つまり「やられた」ことは大前提なくらい、市民共通の被害体験となっていた。
エリザベートが事情を話すと、アンネリーゼは顔色を変えて「信じられない」と言った。
「あなたみたいに幸運な人間がいるなんて、信じられない。少佐ですって! 雲の上の司令官じゃないの。私なんて何度もやられたあげく、やっと守ってくれる中尉を見つけたのに、彼は異動で市外に行ってしまったのよ。もう食べ物をくれる人もいないんだわ。どうやって生きていけというのよ。あたしの姉はソ連兵に追いかけられてバルコニーから転落して死んだのよ。自殺だったのかもしれない。けれど事故ってことにしないとお葬式もできなかった……会社の再開のめどは全くたたないし、配給だって券のとおりになんてもらえないのよ」
エリザベートは聞いているのもつらくなり、砂糖の入った瓶をかばんから取り出してテーブルの上に置いた。これはソ連軍から供給されたものを小分けにしたもので、もし会えたら渡そうと思っていたものだった。バッグの中に財布は忘れても、こういう思いやりは持っているのだ。アンネリーゼも砂糖を見て少しは機嫌を直してくれないだろうか、あるいは話がそれてくれないだろうかとエリザベートは願った。アンネリーゼは砂糖を手に取った。
「これもその少佐とやらがくれたもののおすそ分けなの? 戦時中だって親衛隊中佐の夫人で、戦後は敵国の少佐が守ってくれてたですって? あんたって本当に将校好きのする女なのね。一回も外で働いたことがないくせに、いつものうのうとして生活に困らないなんて信じられない」
これにはマルタのほうの堪忍袋の緒が切れてしまった。
「いいすぎよ、アンネリーゼ!」
「あたしの配給券は一番下のランクなのよ。『無職者その他』ですって、笑わせるわ。一日中バケツリレーで瓦礫を撤去したって、もらえる食糧は朝食にも足りないような量よ。それにくらべてエリザベートはどうなのよ。無職っていうなら、エリザベートのほうが無職じゃないの! 専業主婦ですって、ふざけないでよ。使用人を10人以上も抱えて、主婦らしいことも母親らしいこともしてなかったじゃないの! あたしは自分の力でお金を稼いで、自立していたのよ。どうしてよ、どうしてこんなにあんたは運がいいのよ。大学でだってオーケストラクラブでだって、みんなエリザベートには気を使っていたわ。エリザベートの後ろにはゲシュタポがいるんですからね!」
マルタはアンネリーゼに平手打ちをくらわせた。だが、アンネリーゼは全くめげずに言い続けた。
「ねえ、エリザベート。その少佐の友達かなんかで同じように偉い人を紹介してよ。あたし、なんだってするわ。お砂糖を持ってきてもらうよりよっぽどありがたいわ」
エリザベートは心の中で怒りが沸騰して体が震え、何か怒鳴り返してやりたかったが、何も言えずに彼女の叫びを聞いていた。アンネリーゼの変わりように対する悲しみのほうが大きかった。友達だと思っていた。誇り高く美しいアンネリーゼ。大学の論文では彼女の右に出るものはいなかった。実力で新聞社に入社し、男社会の中でがんばってきたのにそれがすべて崩れ去ってしまったのだ。彼女の署名入りの記事を新聞に見つけた時は、切り取っておいたくらい自分も彼女を応援してきたのだ。だがアンネリーゼは心の底で私のことをこんな風に思っていたのだろうか。ドイツの新聞は皆ナチに協力していたということで戦後の発行許可は全く下りていなかった。占領軍の息のかかった新しい新聞社が設立されたところで、雇ってもらえる保障はないのだ。二人は早々に訪問を切り上げ、帰路についた。ドアの外で待っていてくれたアレクセイたちは、二人の異様な沈みように声もかけずに後ろを歩いた。パン屋の前に配給切符を手にした人々が行列を作っていた。アンネリーゼの言うとおり、自分はああやって行列に並ぶ必要もない。今でもアレクセイがいろいろと分けてくれるし、配給は使用人たちが受け取りにいってくれるからだ。瓦礫撤去の作業に動員されることもない。
「あなたに何か届けるから、手間だけどアンネリーゼに届けてもらえるかしら」
エリザベートの言葉にマルタはあきれ返った。
「あんな言われ方したのに、彼女に親切にする必要なんてないわよ。なんなら、ロシアの将校を紹介してやったら? 飛びついて来てあなたにキスするわよ」
「冗談にもそんなこと言わないで」
エリザベートは暗い顔で言った。もう一度アンネリーゼを訪問する勇気は持てそうになかった。彼女は後ろの一団に聞こえないように声を落とした。
「ジューコフ少佐に頼んで、そのなんとかいう中尉から連絡するように言ってもらえないかとは考えているんだけど」
「お人好しすぎるわね、よしたほうがいいわ。異動? 口実に決まってるわよ。男が女に会いたいなら、どんな手を使ってでも連絡してくるわ。彼女をロシアまでつれていくことだってできるじゃない。何回か遊んで飽きたから、さよならの言い訳にすぎないわよ」
マルタと別れた後、エリザベートはジークフリートの官舎にも行ってみた。バーレさん一家はいたものの、ジークフリートももう一人の大佐も戻ってないという。バーレさんたちは戦闘が終わったので、もう少ししたら西のほうへ歩いて行こうと思うと言った。
「歩いてですか?!」
「娘の精神が・・・あのカーキ色の制服を見るだけでも吐いてしまって耐えられないようなんです」
4階のアリシア・ミュラーのことも訪ねてみた。夏のキャンプで出会っただけの師弟関係だったが、先日の街中でのこともあって気になり続けていたので、非礼とは思いながらも少しばかりのチョコレートを持って訪ねた。あの時のセルゲイという曹長とその仲間たちはいなかった。
「うち、4階でしょう。爆撃が怖くて近所の人たちと一緒に地下の防空壕に隠れていたけど……4階に隠れていたら無事ですんだのよね。下っ端の兵隊たちは3階以上には怖くて上がれないらしいから。先生の家ではそんなことない?」
「さあ……うちは二階建てだし、兵卒は呼ばれた時以外には屋敷に入れない規則になっていたから……」
「田舎から徴兵されてきた兵隊たちは平屋しか見たことがないから、地面から離れるのが怖いんですって。笑っちゃうわよね。あんな大きな自動小銃を肩からかついでいるくせに」
アリシアはエリザベートを歓迎し、代用コーヒーを入れながら言った。セルゲイ・ズボフスキーが持ってきているのか、少女は食べるものにも着るものにも不自由はなさそうだった。けれど子供らしくアメリカ製のチョコレートには目を輝かせていた。これは戦時中の支給品だったものをアレクセイが食べずに持っていたもので先日こっそりエリザベートにくれたものだった。半分だけ食べて残りは大事に持っていたのだ。
「セルゲイがジューコフ少佐から呼び出しをくらったって言っていたわ。けど先生、御心配にあらずよ。私のほうがセルゲイをひっかけたんだから。私も彼との交際を楽しんでいるの」
確かに以前会った時よりもアリシアは顔の傷も治り顔色もいいし、生来の美貌を取り戻しているようだった。セルゲイとやらもこの少女にはぞっこんなのだろう。アリシアが、セルゲイのことを好きになったとでも? 自分がアレクセイのことに感謝している程度の感情が「好き」といえるなら、そういうものなのだろうか。エリザベートはアリシアの陶器のような肌と海をうつしたような青い瞳を見ながらいろいろと考えをめぐらせた。
「先生のだんな様は?」
「まだ戻らないわ。連絡もないし」
「ジューコフ少佐は先生に何か……言ったりとかする?」
「何かって?」
少女は「何でもないわ」と言ってチョコレートにかぶりついた。
エリザベートはアリシアの部屋を出て、アレクセイたちと一緒に街を軍用車で走った。屋敷に招いてくれた党の高官宅も訪れてみたが、崩壊しており人影はなかった。もうこの街にはまともに暮らしている人はいないのだろうか。国防軍の制服を着ている男性はたくさんいた。しかし親衛隊の制服の男性は一人もみなかった。
車窓にオペラ座が見えた。
「止めて、止めてください」
ああ、オペラ座。私の憧れ。天井が吹き飛び、なんて無残な姿なのだろう。エリザベートは車から降り、立ち尽くした。
「ここは?」
「オペラ座です。私はここの舞台に立つことを夢見ていたことがありました」
「あなたは音楽家を目指していたのですか?」
「ええ。バイオリンが好きだったんです。けれどオーケストラは男性の仕事っていう意識が強くて、どこの楽団も女性の入団は不可能でした。だから、歌で立てないかなあって思って。けれど音大の受験は落ちました」
彼女はアレクセイのほうを見て、少し笑った。そしてオペラ座の中へ足を踏み入れた。危ないですよ、という声が聞こえたが構わなかった。舞台が見たい、ただそれだけだった。ホールの中は暗かったが、天井に開いた穴のおかげで客席と舞台の区別はついた。エリザベートは客席横のドアを開けてバックヤードに入り、舞台の上へ出た。
「そんなところ、崩れるかもしれません。早く降りてきてください」
アレクセイに続き、副官のレオニードともう2人の護衛も入ってきていた。
「あなたも上がってきて、ジューコフ少佐」
「は?」
アレクセイは仕方がないな、という顔をして同じルートで舞台に姿を現した。太陽が雲間から出たり入ったりしているので、いい感じに彼にライトを浴びせていた。彼は何も言わずエリザベートを見つめていた。客席にいる3人はあっけに取られて二人を見ていた。
「何か歌いますか?」
エリザベートはアレクセイを見てほほ笑んだ。この人が冗談を言うなんて珍しい。こんなことでもなければ私はここには一生立てない身分なのだ。勉強だって音楽だって人並以上にできた。しかし職業として得られた才能は一つもなかった。エリザベートは無声映画のように唇を動かした。だがセリフが出てこなかった。オペラ、あのオペラ、オーディションまで受けたのに。
「え、なんですって? 何か言ってます?」
アレクセイが心配そうに見つめていた。いろいろな思いがあふれていた。この人はついこの間まで戦争をしていた敵なのだ。なのにこの想いは何だろう。アイスマン夫人が言っていたことを思い出した。モンゴル人が征服部族の女性をずらっと並べて好みの女を選んでいく件だ。ああ、あのオペラは似たような話だったかもしれない。南の大国は嘘ばかりついて、北の蛮族を怒らせる。北の蛮族は怒り、南の大国を滅ぼしてしまう。亡国の姫君は北の都まで連行されるのだ。だが護衛についた蛮族の騎士と夜な夜な話しているうちに姫君の心は変わっていくのだ。エリザベートは大きく息を吸って歌いだした。
灰に沈む我が祖国よ
瓦礫の中で祈る声よ
私は知っている、罪深きことを
あなたを愛することは裏切りだと
それでも・・・わが祖国を蹂躙せし者なれど
この胸は燃える、抗いえぬ炎
旗を捨てても、忠誠を失っても
私はただ、あなたの腕に抱かれたい
赦されぬ愛よ、禁じられた抱擁よ
それでも夜ごと夢に見る
祖国よりも信仰よりも
私はあなたを選ぶ
私は選ぶ 鎖のついた名誉を捨てて
私の道は茨に覆われても構わない
この夜、私は運命を捨てる
私はあなたを選ぶ
歌い終わったとき、客席の3人から喝采と拍手が上がった。「すごいすごい」「初めてオペラ聞いた」 そしてエリザベートはわれに返った。なぜ私はこんな選曲をしたのだろう、他にいくらでも歌を知っていたのに。けれど今思い出せるのはこの歌しかなかったのだ。エリザベートはアレクセイの近くへ寄った。
「すみません、勝手なことをしました。もう帰りましょう」
「いえ、あの、この歌はなんという歌なのですか? イタリア語ですか? 意味はわからなかったけれどメロディーはきれいですね」
「ありふれた季節の歌ですよ。もう題名も忘れてしまったわ」
彼女はそのまま階段を下りていった。
アイスマン夫人たちと合流し、一行はグリューネヴァルトへの帰路へついた。アイスマン夫人はソ連軍何人かを使ってガレキを掘り出し、金庫に入れていた宝飾品を発掘できたらしく、たいそう上機嫌だった。エリザベートはまたアレクセイの肩で眠ってしまった。到着のブレーキで彼女は目を覚ました。
「やだ、私ったらまた寝てました?」
「あなたは乗り物に乗ると寝るタイプなんですね」
アレクセイは笑ってエリザベートの顔を覗き込んだ。そして「あれ?」と言って彼女の頬を撫でた。一瞬キスされるのかと思い、エリザベートは身構えた。
「頬に肩章の跡がついてます」
自分で自分の頬を触ると、確かに少しへこんでしまっていた。
「やだ、す・・・すみません」
エリザベートは自分が真っ赤になっているのがわかった。二人が降り、運転手をしていたピョートルは助手席に座るレオニードのほうを見た。
「いや、お前の言いたいことはよくわかるよ。みなまで言わなくてもいいよ」
「かたつむりみたいな進捗状況ですね。ジューコフ少佐は作戦の進捗にうるさい人でしたのにね」




