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8 闇市

 市街地へ行った2日後、なぜか屋敷中のロシア人とドイツ人は総出で釣りをすることになった。わずかな肉とじゃがいもだけの生活に不満が出たためである。釣り道具なんてどこにあるんだと、屋敷の人々は思ったが、グリューネヴァルト湖まで偵察(探検)してみたソ連軍パトロール隊が、湖の近くの磯小屋に釣り道具一式を見つけたということだった。二人一組になって釣り成果を競うということだったが、当然か偶然かエリザベートはアレクセイと同じボートに乗った。陸軍少佐のアンドレイはアイスマン夫人と同乗し、内容は聞こえないが何やらヤイヤイと要望をされているようだった。なぜアンドレイほどの人物が厚かましいアイスマン夫人にえらそうにされて平気でいるのか、エリザベートは気になったので聞いてみたことがあった。「なんかオフクロを思い出しちゃうんですよね」 アンドレイはそう言って笑って頭をかいたのだ。当たり前のことだが、この敵軍の兵士たちにも母親がいて故郷で帰りを待っているのだ。

 エリザベートたちは静かに釣り糸を垂らしていた。彼女はミミズを触りたくなかったので、そこはお願いしていた。湖の上は寒いので、アレクセイは軍用コートを着ていた。昨日エリザベートがミシンをかけたものだ。

「左腕が動きやすくなってうれしいです」

「よかったです」

「本当に、あんなこと思いつかなかった。余分な布を足して形を変えるとこんなに違うのですね」

 コートの裾部分にはかなりの生地の余裕があったので、そこから少し取って左袖の脇の下の部分に布を足したのだった。袖付けは服作りの場面で最難関と言ってもいいだろう。手を挙げた時の窮屈さなど、着心地に直結してしまう。エリザベートはアレクセイがボートを漕ぐ様子を見た。下に着る軍服の分も考えて肩幅には余裕があるが、やはり体の線にきちんと合った軍服を着ている人は素敵なものだと感じる。

「今日からソ連軍の配給が始まりましたが、もらいに行くのですか?」

「執事と女中たちが行っているようです。ドイツ政府からの配給もなくなってしまったので、ありがたいことです」

 私たち敗戦国の国民は勝者である敵から施しを受けないと生きていけないのだ、エリザベートは惨めな気持ちになった。だが、敗戦直前までドイツ政府は配給を続けてくれていたし、こうして敗戦直後からソビエトが配給を復活させてくれるというのは、住民登録データなどはこの混乱の中でも機能しているのだから、すごいことだとも思えた。

「我々が分けた物資もありますが、配給も、もらえるものはもらっておいてください。そうそう、生存確認に限ってですが、郵便サービスを復活させるそうです。ハンブルクのご家族に手紙を出してみればどうですか。もちろん郵便局気付ですが」

「郵便! 本当ですか? それはとてもうれしいです。実家の家族とはもうずいぶん連絡がとれてなくて・・・」

「いつごろから?」

「2年前のハンブルク大空襲で父が亡くなりました。母はそのあと寝付いていて、兄が会社を継いでいるんです。もう1年も家族と連絡が取れていない」

 その時、アンドレイたちのボートが急に近づき、ゴンという音とともにぶつかった。

「おい、危ないだろう」

 アレクセイが怒った顔を向けた。アンドレイはお構いなしの笑顔だった。

「あのさあ、俺来週この奥さんを街まで連れて行ってくるよ」

「はあ? その女性はロシア語が話せないだろう、通訳の腕章は使えないぞ」

「いや、フランス語が話せるから俺とは話できるんだよ」

 エリザベートがおとといの朝早く市街地に連れていってもらったのを聞いて、アイスマン夫人はアンドレイに直談判したらしかった。エリザベートは眩暈がした。この夫人は、どこまでも自分の要望ばかりを・・・

「あら、あたくしも空襲で壊れたうちの家に不法侵入者がいないかどうか心配になりましたのよ」

 アレクセイは溜息をついた。

「来週さ、全然会議がない日が1日だけあっただろう。朝ちょっと顔出して、そのあとパトロールって形にしないか? よかったらリヒテンラーデ夫人も一緒に行きましょうよ。まだ気になることあるでしょう?」

 エリザベートはアンドレイの軽さに面食らったが、また市街地に行きたいと思っていたので、アレクセイさえよいと言ってくれたら、行ってみたいと思った。

「パトロール・・・ああ、そういえばいよいよ面白いものが配られたんですよ」

 アレクセイはそう言ってポケットから見慣れない紙幣を取り出してエリザベートに渡した。連合国軍マルク、と5か国語で印刷してある。なにこれ、私たちのライヒスマルクはどうなるのだろう。

「もう少ししたら、アメリカ・イギリス・フランスもドイツ入りします。とくにベルリンは4か国で分割統治体制になります。その時にあちこちの紙幣が入り混じったら大変だからって2月の会談で決まっていたようです」

 エリザベートは紙幣をアレクセイに返した。

「私たちはこの紙幣を使うことになるのですか?」

「すでに市内にはあちこちに張り紙と拡声器で告知しています。まあ、最初はみんないやいやでしょうが、そのうち慣れてくるでしょう。我々も給料の一部がこれで支給されたので、使わざるを得ない」

 なぜ普通にライヒスマルクを使わないのか? もしかしてライヒスマルクは使えなくなるのだろうか、とエリザベートは不安に思った。

「せっかくだから、その紙幣使いに行かないか?」

「店なんて開いてないだろう」

「闇市が日増しに増えているらしいから、そこのパトロールってことで」

 エリザベートは闇市とは何だろうと思って聞いていた。だがアレクセイのほうは闇市のパトロールに乗り気になっているようだった。

「どうしますか、リヒテンラーデ夫人、また行きますか? 闇市だったらちょっと珍しいものでも手に入るかもしれないです。お子さんのおもちゃでも」

 そうして話がまとまり、二つのボートはまた離れて釣り競争に戻った。またマルタに会いに行こう、そしてアンネリーゼ、アリシアも心配だ。それから自分の財産分けでもらった賃貸の集合住宅。あれは無事なのだろうか。家賃なんてみんな支払ってくれるのだろうか。ぼんやりしていると、釣り糸が急に引っ張られた。

「きゃ、何? なんか引っ張っているわ」

「リール、リール巻いて!」

 エリザベートは魚がかかったのは分かったが、想像していたより強い力で引っ張られたので竿を取られそうになった。ボートがバランスを崩した。

「きゃ、竿が・・・」

「危ない、体を乗り出さないで!」

「あ、帽子、帽子が飛んで・・・」

 体に腕をかけられ、急に戻されたのでエリザベートはさらにバランスを崩し、倒れこんだ。ふと気づくとアレクセイは彼女に覆いかぶさるような態勢になっていた。彼女は驚いて声も出なかった。目の前にはカーキ色の制服があった。そうだ、あの日もこうやって酔っ払いに押し倒されたのだ。今、同じようにカーキ色の制服の男が私に覆いかぶさっている。不思議と嫌な気持ちはなかった。それどころか、彼女は自分の手を相手の背中に回そうかと悩んだ。アレクセイはゆっくりと起き上がった。

「ボートの上で急に動いたらだめだ、転覆するから・・・」

 息せききっていた。そして顔に息がかかるほど近かった。どうするのだろう、これからとエリザベートは心臓が爆発しそうになっていたが、そのまま彼は無言で体を起こし、彼女が起き上がるのを助けた。アレクセイの額が赤くなっていた。倒れた時ボートにぶつかったのだろうか。

 2本とも竿を紛失してしまったので、二人のチームは最下位だった。「なんでデコなんてぶつけてるんだよ」とアンドレイから突っ込みが入っていたが、アレクセイは言い訳もしなかった。エリザベートは帽子を紛失したのにボートに乗って太陽光を浴び続けていたことについて、テレジアからたっぷり叱られた。だがお小言は頭の上を通り過ぎ、心ここにあらずといった時間が過ぎていった。


 次の週、前回と同じようにエリザベートとアイスマン夫人は街へ向かった。そしてやはり同じようにソ連軍最高司令部前で少し待ち、公用にかこつけた闇市視察へ向かった。エリザベートは闇市のことを戦時中の戦費稼ぎのバザーのようなものかと思っていたが、全く違った。人々のエネルギッシュな呼び声と大勢の客の雑然とした様子に圧倒されてしまった。客にはドイツ人とソ連軍将兵が入り混じっていた。売っている商品を眺めると、本当に何でも売っていた。食べ物も、衣類も、時計も、絵画も売っていた。ソ連兵たちは時計をたくさん身に着けていた。あんなに買ってどうするのだろう、ソ連には時計が売っていないのだろうかとエリザベートはいぶかしがったが、よく見てぎょっとした。スイスの高級ブランドの時計が見えた。買えるわけがない、いやそんなものまで叩き売りしているのだろうか、それとも戦争のどさくさで拾った? 盗んだ?

 気が付くとエリザベートは一行から後れを取ってしまっていた。アレクセイの背を探し、追いつこうとすると、後ろから誰かに腕を掴まれた。ソ連軍の一等兵だった。アレクセイが階級章についてきちんと教えてくれたので、彼女は今では一目で相手の階級が分かるようになっていた。

「フロイライン、通訳の腕章ってことはロシア語話せるの? パン、ベーコン、うちで寝る、どう?」

「いや、ちょっと私一応仕事中でして・・・」

「同じ同じ、これも仕事。すぐ済むからさ、あんた俺の好みなんだよ」

 レオニードがすぐに気づいて戻ってきてくれた。

「この方は我々が雇った通訳だ、失礼なことをするな」

 兵士は悪態をつきながら去って行った。

「リヒテンラーデ夫人、団体行動の時は遅れないでください。一番後ろを歩いたら危険です。さあ、私の前を歩いて」

「すみません、本当にありがとう」

 27年生きてきて、売春の勧誘を受けたのは初めてだった。この街はいまやそういう街に成り下がっている。その日の食事と引き換えに春をひさぐ女たちであふれているのだ。

エリザベートはアレクセイに追いつき、横を歩こうとした。やっぱりこの人のそばにいなくては・・・その時、前方から男女のもめる声が聞こえた。アレクセイは速足で近づき、声をかけた。

「おい、何をもめてるんだ」

 ソ連軍の兵士と売り子の女性が言い争っていた。今度は二等兵だった。

「リヒテンラーデ夫人、この売り子の女性に聞いてください。何をもめていたのか」

 そうだった、私は通訳なのだ。アレクセイはドイツ語がわからないふりをしている。エリザベートは売り子の女性と話した。

「このソ連さんが、無理に値切ってきたんです」

 腕時計の値札を見ると、ライヒスマルクで500,連合国軍マルクで50,ソ連タバコ2箱と書いてある。ライヒスマルクはそんなに価値がないのか? エリザベートは愕然とした。

「なんて?」

 しっかりわかっているくせにアレクセイはエリザベートに聞いた。

「この兵隊さんが無理に値切ってきて困っているそうです」

 アレクセイは兵士に向きなおった。

「戦時中の分まで給料も出たんだ。連合国軍マルクは使い切ってしまえ」

「けど、ぼりすぎですよ、こんなおもちゃに。俺は息子に土産を買いたいんだ」

「この人たちは本当に困っているんだ、きちんとした値段で支払ってやれ。これ以上名誉ある赤軍の評判を落とすな」

 兵士は連合国軍マルクとソ連タバコを合わせて支払い、商品を受け取って去って行った。売り子の女性はエリザベートに満面の笑顔を向けた。

「ありがとうございます、女一人だと舐められることが多くって。そちらの将校さんにもお礼を伝えてください」

 エリザベートは会話が分かりきっているアレクセイにロシア語で伝えた。アレクセイは「いえ、どういたしまして」といった手振りをした。そして自分のポケットからタバコを出し、「おわびです」とわざとらしい片言のドイツ語とともに、売り子の女性に渡した。売り子の女性とその周りで見ていたドイツ人たちは、感嘆の目をアレクセイに向けた。「ちゃんとした」ソ連軍将兵を初めて見た人もいるのだろう。エリザベートは誇らしくなった。

「せっかくだから、我々も何か買いますか?」

「え?」

「ほら、連合国軍マルクもあるし。こどものものも売っているみたいですよ」

 エリザベートは女性のテーブルをよく見ると、子供用の靴が2足売っていた。そうだ、靴。3か月に一度は計測してきちんとサイズの合うものに買い替えていた。この間買い替えたのはいつ頃だろう。靴は2足ともほとんど使用されておらず、17cmだった。少し大きいが、次に使うのにいいかもしれない。だが、会計の段になってエリザベートはお金を持ってきていないことに気づいた。

「ごめんなさい、私お金を持ち歩いてなくて」

 売り子の女性はあっけに取られて見ていたが、横からアレクセイが連合国軍マルクを出した。

「おつりはいいですから」

 この売り子の女性は今日は家に帰ったら家族に話すことが、さぞ多そうだとエリザベートは思った。闇市は公園の終わりまで続き、おいしそうなものも売っていたが、「こんなところの物は何が入っているかわかったもんじゃない」とアレクセイが言うので、他には何も買わなかった。

「あの、家に戻ったらお金をお返ししますね。ライヒスマルクしかありませんけど・・・」

「別にいいですよ。ああいうところはスリも多いから、財布を忘れててちょうどよかったかもしれません」

「いえ、私・・・出かけるときに財布を持つ習慣がなくて」

 アレクセイが唖然とした顔で見下ろしていた。この女性は今までどうやって生きてきたのだろう。

「ではどうやって買い物を?」

「実家でも百貨店の外商が家まで来てくれていましたし、街へ行くときは誰かがついてきてくれていましたので」

「そうそう」

 アイスマン夫人も横から相槌をうった。アレクセイは外商の意味が分からなかったらしく、旧ブルジョワ階級出身のアンドレイにこっそり耳打ちしていた。

「私たちの古き良き文化はこれからなくなっていくのでしょうね」

 夫人は隙を見ていろいろ買っていたらしく、荷物を抱えていた。帰国するソ連兵が連合国軍マルクを使い切ってしまうように、この夫人も手持ちのライヒスマルクが紙くずにならないうちに使い切ってしまおうとしていた。はるかに私よりも生活力があるではないか、とエリザベートは考えてまた自分の世間知らずさに落ち込んだ。


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