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6 街の惨状②

 食べ終わったので、みんな出かけるために片付けたり上着を着たりし始めた。アレクセイはコートの左袖を通すときに顔をしかめ、「いてて」と言った。その様子をエリザベートは見たことがあった。そうだ、初めて会った日、あの接収打ち合わせの席で私は貸してもらっていたコートを返したのだ。その時もこの人は左肩を痛そうにしていた。そしてこのコートは左袖がひどいつけ方をされていたのだ。

「あの、ジューコフ少佐、そのコートちょっと見せていただけませんか」

「え?」

「以前も袖を通しづらそうにしてらっしゃったし、お借りしたときに縫い方がおかしいなって思ったんです」

 アレクセイはコートを脱いでエリザベートに渡した。エリザベートはテーブルの上にコートの内側を広げた。ひっぱってちぎれてしまった左袖は手縫いでつけられている。

「ご自身で縫われたのですか?」

「いや、入院しているときに誰かが縫ってくれてたんです」

「入院?」

「スターリングラードでひどい傷を負ってしばらく入院しました。そのあと前線を退いて、しばらく主計局でおとなしくした後、半年前に憲兵に異動しました」

「え、じゃあ柔術なんてしてはだめなんじゃ?」

「いや、もう治っているんですよ。無理な動きをしたり、冷えた時に痛むくらいで」

 この人も死線をくぐり抜けてきた人なのだ、とエリザベートは改めて実感し、話をコートの袖に戻した。

「ここが袖のカーブを無視して無理やり縫ってあるんです。これでは腕がスムーズに動きません。家に戻ったらミシンで縫い直させてもらってもいいですか」

 一同は驚いた。

「え、自分でそんなことできるんですか」

 皆この夫人は人に服を仕立てさせる側の人間だとばかり思っていたのだ。

「私の祖父は仕立て屋でしたので。私は一通りの服作りができます」

 エリザベートはどうだ、と言わんばかりの顔をした。


 一行は車に乗り、シュナイダー総合病院に向かった。建物のガラスは多くが割れて布地や紙で修復されていたが、人が多く出入りしていた。エリザベートはアレクセイと並んで歩き始めた。この病院も赤軍の支配下にあり、ソ連軍の兵士たちが治療の順番を待っていたが、ドイツ人のスタッフの姿も多く見られ、少なくともスタッフは追い出されてはいないようだった。

 エリザベートは顔見知りの受付係に声をかけ、ルドルフ・シュナイダー副院長が外科でで診療を行っていることを知った。エリザベートの女学校時代の親友ユーリアはこの病院の院長の息子に嫁いだ。偶然にも病院跡取りのルドルフ・シュナイダーはジークフリートのギムナジウム時代の同級生であったため、それ以来家族ぐるみで交流を行っていた。毎年何度もパーティーに招きあい、コンサートやオペラを見に行った。休暇には一緒に旅行することもあった。

 アレクセイは外科受付の秘書に声をかけ、憲兵隊の力で順番を飛ばしてシュナイダー医師に面会させるよう要求した。二年ぶりに会うルドルフ・シュナイダーはエリザベートが現れたことに驚いた表情をしたが、すぐに無事であったことを喜ぶ笑顔になった。エリザベートは今までのいきさつを手短に話した。

「ジークフリートから最期に電話をもらったのは12月の2日なのよ。それ以来全く連絡がとれなくなって……こちらの病院に怪我をして運び込まれていたりしてないかと思って来てみたの」

「終戦の前後は毎日外科で24時間診ていたし、病院の前に入院患者の名簿も張り出されているけど……彼の本名はなかったと思うよ。それにドイツ人の入院患者は全員追い出された。今は赤軍の将兵の治療をしている」

「どういうこと? どうして彼が偽名を使う必要があるの?」

「そりゃあ……親衛隊エリートのリヒテンラーデ中佐ってことがバレたら、殺されはしなくても拘束されて尋問されるだろうしね」

「どうして?」

「僕は軍医として従軍している時に捕虜になったソ連兵の検査や尋問にも立ち会った。やつらのドイツへの憎しみはすごいよ。特に、SS(ヒトラー親衛隊の略称:ナチスドイツのエリート部隊)が一番悪いって思っている」

「それって武装親衛隊のこと? ジークフリートは一般親衛隊よ。戦闘には出たことがないわ。一般の官吏となんら変わることはないわ」

「僕らの認識と、彼らの認識は違うみたいだよ。彼らは1919年のように、戦争を全部ドイツの責任にしてしまうだろうと思う。財産を全部没収して、責任者を裁判にかけるわけさ。要は報復さ。いや、もう現に東部戦線でもこの街でも復讐が行われているけどね」

 エリザベートは黙っていた。ドイツがポーランドへ侵攻した。ソ連へ侵攻した。その仕返しとしてこの街は破壊され、暴力を繰り返されているのだろうか。だってあの辺りは全部もともと「ドイツ帝国」だったのだ。あそこに住むドイツ系の人々がポーランド人から迫害されているから、救うために進駐していったはずなのに。みんな拍手して旗を振ってドイツ軍を迎えてくれたのではなかったのか。彼女は自分が見てきたニュース映画を思い出した。

「君は無事だったみたいで、よかったよ……。今となってはユーリアが肺を悪くして去年のうちにスイスへ療養させたことを本当に幸運だったと思っている」

 ルドルフは目をそらしながら言った。

「ジークフリートになら、3月の1日に会ったよ。当直だったから日付は確かだ。急に夜に電話をしてきて訪ねてきたんだ」

「彼とは何を話したの?」

 ルドルフはエリザベートの目をまっすぐ見据えてゆっくりと言った。

「やつらの思い通りにはさせない、とか。かならずドイツを復活させてみせる、とか」

 ルドルフの話によると、ジークフリートはこの戦争に負けることを認めていたという。敗北精神はゲシュタポによって厳しく取り締まられていたのに、当の保安本部の人間の口からそんなことが聞けたのでルドルフはびっくりしたのだった。その後ルドルフはその日の会話を思い出しうる限り再現してくれたが、市街戦が終わった後どこに潜むとかいうような話はついに聞けなかった。患者が何人も待っていると秘書が催促に来たのでエリザベートは仕方なく、ジークフリートの親しかった人物や同僚たちの名前を書いた紙を渡し、もしこれらの人物が病院に来たらジークフリートの消息を聞いてくれるよう頼んだ。

 その後ルドルフの話にあった入院患者名簿が張り出してある場所にも行ってみた。大勢の人々が泣きそうな顔で名簿を見つめていた。名前の横には入院していたころの病室の数字が書かれていて、それを消して「死亡」と訂正してあるものも多かった。ルドルフの言ったとおりジークフリートの本名はなかった。

 どこに行ってもほこりっぽく人々が多くて落ち着かないのでアレクセイとエリザベートは車の中で休憩をとることにした。

「なんだか長い時間をとらせてしまって、すみません」

 エリザベートは礼と謝罪を口にした。

「いや、構わないですよ。元帥はモスクワから戻ってないし、今日は今後の指示を受けただけですから。こうしてあなたと二人で出歩くのも初めてで楽しいです」

「元帥閣下は戦勝の報告に行かれたのですか?」

「戦勝祝賀パレードですよ。同志スターリンの前でね」

「あなたは行かなくてよかったのですか?」

「誘われましたけど……あの頃はまだ戦闘も終わったばかりで、いろいろと気がかりなことも多かったし……」

 アレクセイははにかんだような笑顔を見せた。それって私のことなのだろうか、もしかしたらこの人は私を守るために残ってくれたのだろうか、そもそも初めから接収もそのためだったのだろうかとエリザベートは感じたが何も言わなかった。ナターリアがコーヒーを入れてくれた。米軍からの支援物資というコーヒーは今まで飲んでいた代用コーヒーとは天と地ほどの差のおいしさだった。


 一行は少し休憩した後、大学の裏手にある住宅街へと進んだ。子育ての合間をぬってエリザベートは不定期に大学の聴講をしていたので、この地域には大学の友人が何人か住んでいた。だが建物の多くが崩れ、崩れた建物の横で野火で鍋を沸かす人々が多く見られた。エリザベートの目が一人の女にとまった。

「マルタ!」

 彼女の呼びかけに女はふりむいた。

「エリザベート、無事だったの?!」

 赤毛を男のように短く切って顔を炭で汚した女はマルタと言った。エリザベートが一番探していたのがこのマルタであった。大型商店を多く経営する裕福な一族の娘でこの地域に一人で暮らしながら大学に通っていた。また彼女がゲシュタポの少佐とつきあっているということを知っていたので、そちらからの情報も聞きたかった。二人はお互いの無事を喜びあった。マルタは市街戦のころはさすがに実家へ帰っていたが、自分のアパートがどうなったか心配で今日戻ってきたところだと言った。

「一人で出歩いているの? 怖くないの?」

 エリザベートの問いにマルタは笑った。

「私はこんな風に背も高いし、こうして汚していたら男に見えなくもないでしょ? 一応弟がついてきてくれているわ。それにね、朝は安全らしいの。やつらの狩猟時間は夕方から夜にかけてだから」

 狩猟という表現にエリザベートは吐き気を覚えた。負けた国の女は獲物、戦利品。古代からそれは戦争の常。

 アレクセイは少し離れた場所で煙草を吸っていたので二人は植え込みのレンガに腰掛けて話した。エリザベートは今日まであったことと、アレクセイとの経緯を話した。

「なんだ、そうだったの。あんたまで赤軍の兵士の愛人になったのかと」

「あんたまでって? ほかにそんな人がいるの?」

 言ってしまってからエリザベートはアリシアのことを思い出した。

「まあ……そういうことしている人たちはそれなりの事情もあるのだろうとは思うけれど……この近所に住んでいるアンネリーゼも赤軍の中尉をパトロンにしているわ」

 アンネリーゼは二人の共通の友人だった。新聞社に就職していたはずだ。自分は運よくアレクセイに助けられたが、ベルリン中でいったいどれくらいの数の女性がひどい目にあったのだろう。戦争に負けるというのはこういうことなのだ。やっと彼女には理解できた。エリザベートは泣きたかったが、今ここで泣くわけにはいかないと考えた。夜になってから思い切り泣こう。アリシアのために。アンネリーゼのために。彼女たちを救えない自分のために。

マルタはため息をついた。そして小声で言った。

「あんただって、今は紳士のあの人だって、今後はどう出てくるかわかんないわよ」

「……それは……」

 エリザベートは言葉につまった。そうなったら本当にどうしたらいいのだろう。煙草を吸っていたアレクセイに誰か知らない赤軍女性士官が話しかけていた。屋敷では見たことのない顔だ、元から知り合いなのだろうか。アレクセイが笑顔で何か答えていた。エリザベートは奇妙な苛立ちを覚えた。アレクセイと女性士官は地図を見ながら話しているようだった。エリザベートはマルタの話を聞きながら、アレクセイのほうにも聞き耳を立てた。

「だから、ここが一箇所通れなくなっているんだ。明日から毎日通うのに不便だから、なんとかしておいてくれ」

 あの一箇所通れなかった道のことか、とエリザベートはほっとした。アレクセイが仕事以外の話を女性としていたら面白くなかっただろう。しかしなぜ自分がこういう苛立ちを感じるのかよく分からなかった。

 マルタの話によると彼女の恋人であるエルヴィン・クルーゲ少佐は4月の9日に彼女を訪ねてきたのが最期だという。クルーゲ少佐は一時ジークフリートとも同じ部局にいたことがあるらしいが、それほど親しくはなかった。しかし同じように保安本部の男を伴侶にしているという点で共通していた。つまり、逃亡しなければならないような事情があるということだ。ジークフリートがどんな仕事をしているのかエリザベートはほとんど何も知らされていなかった。だがその「仕事」はドイツには正義でも連合国にすれば「悪事」なのだろうということはだんだんと理解してきていた。

「もし自分が行方不明になっても必ず連絡するし、迎えに行くから待っていてくれって……」

 マルタは肩を震わせて涙声になった。髪を短く切り男に見えるように変装して、彼女はエルヴィンを待っていたのだろう、エリザベートは彼女の肩を抱いた。

「自分たちの帝国を必ず復活させてみせるって」

 ああ、このセリフはジークフリートがルドルフに語ったのと同じだ。今まで見たドイツ軍の遺体は国防軍の制服ばかりだった。親衛隊はドイツを復活させるためにどこかに隠れたのだろうか、エリザベートの心に希望が生まれた。

「ねえ、私たちは彼らを待ちましょうね」

 二人はそう言って堅く手を握り、別れた。結局マルタの知っていることもルドルフの話とあわせても何一つはっきりしたことはなかった。確かなのは3月の1日まではジークフリートはベルリンで生きていたということだけだった。住民用の掲示板には「この人を知りませんか」という尋ね書きと写真がすきまなく張られていた。少々堅苦しいまでに秩序だっていた祖国は、限りなく混乱に陥っていた。役所の文書も焼けているだろう。この先他人になりすましたり、他人の財産をかすめとる人間が現れるかもしれない。


 帰りの車中でエリザベートは疲れてうとうとしてしまい、正面玄関の車寄せの前で止まるブレーキでようやく目が覚めた。彼女はアレクセイの肩にもたれて眠ってしまっていたのだ。

「すみません……私ったら」

 顔を赤らめるエリザベートにアレクセイは「いいんですよ」と笑った。まだ知り合ったばかりのアレクセイの隣でこんなに安心しきって眠ってしまったことが恥ずかしかった。ほんの少し前までは殺し合いをする敵同士だったのに。しかしまるで数時間眠ったかのように彼女は疲れが取れているのを感じた。

 二人が玄関ホールに入った後、レオニードとナターリアは車を駐車場へ回した。

「オレ、今日は本当にいらいらした」

 独り言のようにぼそっとレオニードはもらした。

「なにが? 少佐のこと?」

「ジューコフ少佐は本当にあの人妻に惚れているんだ。みんな気づいている。休憩のときのセリフ、聞いていただろう? あなたのことが気がかりだから、心配だから、自分はモスクワには行かなかったってはっきり言えばいいのに……帰りの車であの奥さんが寝てしまった時、少将は彼女の髪に何度も頬を近づけていた。いとおしげに。バックミラーで見えていたし……」

「みんながみんな、あなたのようにはっきり物を言えるわけじゃないのよ。夫人は旦那さんを待っているんだし、今告白したって断られるだけじゃない。少佐も30過ぎてるし、大人として待ってるのよ」

「だからって、こういうことは男がはっきり言わないと何にも始まらないんだけどなあ……」


 その日の夕食はアレクセイが部隊から一匹子羊を失敬してきたのでラム料理になった。アレクセイがエリザベートとの二人だけのディナーを希望したのでいいワインをあけ、彼女は久しぶりにドレスを着て宝石を身に着けた。アレクセイも儀礼用の制服を着用した。二人は湖の見える大きな窓のある二階のサンルームを使用した。対岸の明かりはあまり見えなかったが、月がきれいに出ていた。使用人たちと赤軍の下士官以上の人間は大広間でバイキングパーティーをしていて、そのにぎやかな声が二階まで聞こえた。

「いいコックを雇っていますね」

「こちらに嫁ぐときに実家からついてきてくれましたの」

 エリザベートは実家のあるハンブルクでジークフリートと出会ったことを話した。ハンブルクに転勤してきたジークフリートが彼女の父の目にとまり、とんとん拍子に縁談が進んでしまったことまで話した。

「わが国でも上流階級の人間は恋愛感情抜きでの家同士の結婚が多いですから、驚きませんよ」

「いえ、抜きっていうと……」

 そんな風に聞こえてしまったのだろうかとエリザベートは考えた。いや、そんな風に話してしまったのは自分なのだ。どうしてなのだろう。

 婚約が決まったとき嬉しかった。結婚式、新婚旅行、新居……金にあかせた豪奢な生活。子供の誕生、夫の出世、総統の山荘に招かれる栄誉。夫は家で仕事のことをほとんど話さなかった。子供にも私にもいつも優しかった。感情を荒げる夫を見たことがなかった。夫にとって私たち家族はどういう意味だったのだろう。あれほど夫が望みながら、結局授からなかった二人目の子。

 突然庭のほうから甲高い叫び声があがり、エリザベートの思考はそこで途絶えてしまった。彼女が席を立ったとき、すでにアレクセイはバルコニーに出て下を覗き込んでいた。あわてて隣に立ち、庭を見下ろしてみる。何人かの兵士と彼女の使用人たちが庭で花火をしていた。酒が入っていてみんな上機嫌で笑っていた。ふと隣を見るとアレクセイも笑っていた。

「あれ見てください」

 アレクセイが指差す方向を見ると一人の赤軍士官とこの屋敷の掃除をしているアンナが寄り添って立っていた。エリザベートの目にも二人が好きあっているように見えた。あの二人は思いを伝え合っているのだろうか、と彼女は考えた。戦争がなければ、ドイツが負けなければ生まれるはずのなかった恋。アレクセイと自分との出会い。戦争は多くの人たちの運命を変えてしまったのだ。



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