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5 街の惨状①

 車が市街地に近づくにつれて振動はひどくなり、砂ぼこりのせいでガラスが汚れるので外が見えづらくなっていった。エリザベートは思わず窓を開けようとハンドルに手をのばした。

「開けないほうがいいですよ。ひどい粉塵だ」

 後部座席隣に座っているジューコフ少佐が言った。エリザベートは黙ってドアハンドルから手を離した。確かにその通りだろう。ほこりのせいで窓はひどく汚れていた。運転手は雨の日のようにワイパーを動かしていた。彼女たちが乗り込む前に運転手役の兵士が車を洗っていたのを彼女は知っていた。郊外の彼女の屋敷からここまで来るたった10kmほどの間に車はまるで泥をかぶったように汚れてしまっている。

 運転手が後ろを向き、ロシア語で何か言った。何かができない、と言った様にエリザベートには聞こえた。彼女が学習してきたのが帝政時代の貴族的ロシア語だったので、なまりの強いこの運転手の言葉が理解できなかった。

「この先の道が車では無理のようです。降りて歩きましょう。あ、ゴーグルと帽子は今つけてください」

 エリザベートの横に座る黒髪の男は流暢なドイツ語を話した。士官学校時代に続いて4年間の戦争の間にドイツ占領のことまで考えて「強制的に勉強させられていた」らしい。男の態度と同じ、折り目正しいドイツ語だった。

「離れないでくださいよ」

 エリザベートはうなずいた。この戦勝国であり現在ベルリンを占領しているソ連軍の将校から離れる気はなかった。この男の「親切」から見放されることは彼女と彼女の家族・使用人たちの日々の生活はもとより生命の安全が失われることを意味した。瓦礫の前で車を降り、ソ連赤軍憲兵隊のアレクセイ・ペトローヴィチ・ジューコフ少佐とドイツ人のエリザベート・フォン・リヒテンラーデ伯爵夫人は並んで歩き出した。その後ろを後続車両から降りた赤軍兵士たちが続いた。カーキ色の制服の軍団の中に、スカートをはいた彼女は目立ったことだろう。エリザベートは左腕に巻いた「通訳」と書いた白い腕章に手を触れた。これだけが他のソ連兵から身を守る術なのだ。そしてこれは、他のドイツ人への裏切りの証にも思えた。

 半年ぶりに見た、ゴーグル越しに見える街の惨状はエリザベートの想像以上の酷さだった。崩壊して瓦礫の山となった建物や壁だけがかろうじて建っている家もあった。また、逆に壁が崩れて中の部屋がドールハウスのようにむき出しになっている家もあった。かつてのハーケンクロイツの旗のかわりに、ほとんどの窓から白旗がたれさがっていた。どの窓にも窓ガラスはなかった。あちこちで水道管が破裂して道路が水浸しになっていた。そこらじゅうから煙が上がり、きなくさい臭いが充満しているし、さらにはひどい腐臭もただよってきた。空までが煙のせいでどんよりしていた。乗り捨てられた戦車や死体がころがっていたが風景にとけこんでしまっていて気にする者もいなかった。傷ついて武器を捨て、なすすべもなく座り込んでいる国防軍の制服姿の兵士や、何か物を拾いながら歩いている老人がいた。いたるところに赤軍の兵士が暇そうにたむろし、ジューコフ少佐の姿を見ると敬礼した。

 ソ連兵たちは公園などの空き地を使って野営のテントを張っていた。羊や豚の群れがいた。自転車の練習をしている輩もいるし、どこかの家からテーブルを出してきたのであろうか、道でトランプゲームに興じている輩もいる。兵士たちの制服はみんないろいろで、統一感がなかった。人種もさまざまで東洋人のような顔をしたのもいるし、金髪碧眼でドイツ人と見間違うようなのもいた。

 「イワンども(ソ連軍兵士への蔑称)め! あんな風に制服を着た軍隊がダラダラしている姿なんて初めて見るわ。ドイツの軍隊はいつもしゃきっとしていたわ。制服に誇りを持っていた」

彼女はそう考え、心の中で敵を侮蔑した。

「それにしてもみんな汚らしいわ。こんな劣等人種に街をのっとられるなんて、ドイツ国防軍は何をしていたのかしら」

 エリザベートがそう思うのも無理はなかった。彼女はベルリンに移り住んでからはもちろん、思春期からずっとナチスのプロパガンダに支配されて生活していたのだから。ユダヤ人はもちろんのことポーランドやロシアの人間を劣等人種と決め付け、軽蔑するという考えは意識の根底までしみこんでいた。また、今まで目にしてきたドイツ国防軍や親衛隊はいつもアイロンのきいたきれいな制服を着ていたが、それは戦争に行く前の姿や閲兵式の風景であり、戦争をくぐりぬけてきた敵兵というものを彼女は初めて目にしたのであった。4年間の戦闘で疲れ果て、日に焼け、泥にまみれ、毎日の硝煙から目を守るために赤軍の兵士たちは皆細い目をしていた。

 エリザベートは隣を歩くジューコフ少佐の横顔を見上げた。「この人は不思議な人だわ。ロシア人はみんなひどい人間だと宣伝省は言っていたけれど……」

 エリザベートとその家族はこの20日間、敵の一連隊を率いるジューコフ少佐の保護下にいた。食料もわけてくれたし、何より安全に暮らせるのがありがたかった。「安全」なんて以前は当たり前のことだったのに、今ではいくらお金を出しても買えないものだった。ああ、アレクセイがいなかったらどうなっていただろう。

 部下の兵士が地図を見ながら何かアレクセイに話しかけ、ようやく残っている看板や通りを示す標識から現在地を確認しながら一行は進み続けた。戦時下であってもにぎわっていた大通りはソ連軍の兵士ばかりでドイツ人は見あたらなかった。たまにいても老人で、若者、ことに女性は全くいなかった。

 ついに一行は国会議事堂に到着した。議事堂が建っていたのでエリザベートはびっくりした。しかし、頂上にはソビエトの星とカマの赤い旗がはためいていた。占領軍の事務所にでもなっているのだろうか。ここまで来ると回りは赤軍の兵士で混みあっていた。エリザベートはひどく場違いに感じた。アレクセイは忙しそうにしているし、彼女は背中を冷や汗が流れるのを感じた。

「しっかりして。大丈夫よ」

 エリザベートの不安を見越したように同行のナターリア・トルスカヤが腕をとった。彼女は女性衛生兵でアレクセイと同時期からグリューネヴァルトの屋敷の医務室にいたが、社交的な人物であっというまに召使たちと仲良くなってしまっていた。そして今日は女性一人だと不安だろうということで、特に職務でもないのについてきてくれたのだ。やがてアレクセイがこれから議事堂に入る旨と同行するメンバーの名前を呼んだ。当然エリザベートの名前はなかった。

「一時間ほどかかりそうです。ナターリアとレオニードを残しますから、このあたりで待っていてください。絶対に、絶対に、絶対に動かないでくださいよ」

 アレクセイはエリザベートの耳元まで口を近づけ、小声で言った。通訳相手になぜドイツ語で?と周りの兵士にいぶかしがられないための配慮であったが、知らない人が見たら二人は恋人同士に見えるかもしれない、とエリザベートは考えた。この人はなぜこんなにやさしくしてくれるのだろう、エリザベートはとまどっていたが、自分に何も要求することなく、親切にしてくれるアレクセイをありがたいと思っていた。彼女はアレクセイとアンドレイが並んで階段を上がって行くのを見送った。

 残された3人は並んで座った。ナターリアとレオニードは楽しそうに話していた。若い二人はお互いに好意があるように思われた。二人を残してくれて本当によかった。もし自分とあと一人しか残らなかったら相手は彼女に気を使っていろいろ話しかけてくるだろう。赤軍の兵士たちがひっきりなしに行き来し、通訳の腕章をしている彼女のことをじろじろ見ていったが、幸いレオニードが尉官であるからか、何も話しかけてくる者はいなかった。エリザベートはゆっくりと目線を上げ、街を見た。政治の中心部であるこのあたりは意外にも建物が多く残っていた。ブランデンブルク門も残っている。総統官邸やジークフリートの勤務先である国家保安本部はもう少し先に行ったところだっただろうか。華やかな時代、ジークフリートと一緒にウンター・デン・リンゲンを歩いた。車で通った。パーティーや夜会、観劇やコンサート……今の街を見ているとそれらの思い出はすべて幻だったのかという気もしてきた。


 隣に座っている二人が急に立ち上がって敬礼した。エリザベートはアレクセイが来たことに気づき、あわてて立ち上がって敬礼のものまねをした。赤軍に雇われている通訳の振りをしている以上、上官には敬礼しなければという彼女なりの考えであったが、あまりにも不恰好な敬礼のためアレクセイは苦笑いした。

「いや、失礼。今日のところはもういいそうです。明日からこっちと往き来しなければならないですが……今からあなたと街の探検と行きましょう」

 その後ロシア語で残りの二人に向かって当面の決定事項について説明した。アンドレイ達陸軍のほうはまだ伝達事項があること、憲兵隊は明日から本格開始、現在の中継地点である郊外の屋敷を借りつつ、電話線の配備を早急に行うこと、かなりの数の市街地の無事な建物を接収することなどであった。空爆や地上戦で家がかろうじて残った人々もこうやって住処を失っていくのだろうかとエリザベートは思った。そして自分の財産の中に賃貸に出している集合住宅が含まれていることを思い出した。あのアパートや住んでいる人たちはどうしているのだろう。そしてこれからドイツ人たちはどこに住むのだろう。

 アレクセイは自分たちに同行する兵士を何名か選んだ。副官のレオニードと衛生兵のナターリアの他に、小銃を構えた護衛の兵士2名と、地図を研究した文官もいた。

「さて、これからはあなたの用事に同行します。まずはどこへ行きますか?」

「ではジークフリートが借りていたフラットへ」

 エリザベートは記憶を頼りに歩いた。もっとも、前に来たのは衣替えのため冬服を届けるためだったので半年以上前である。街は壊れているので、あまり自信が持てなかったが、10分ほどで集合住宅に到着した。住宅は砲撃で痛んでいたが、建物自体は無事に建っていたので彼女はほっとした。

「じゃあ、入ってみましょうか」

 アレクセイは護衛の士官に銃を構えさせて前を歩かせた。自分たちの軍隊がこの街を支配しているのに、なぜこの人たちはこんなに警戒しているのだろうとエリザベートは不思議に思った。集合住宅の共用の扉は破壊されており、建物の中に入ると共用の階段があった。ホールや階段のあちこちに兵隊が座っていた。憲兵たちが通るので彼らは何も言わなかったが、スカートを掴もうと手をのばすふりをする者があり、エリザベートは非常に不快になった。

 エリザベートが鍵をさそうとしたとき、中から複数の男たちの笑い声が聞こえた。人がいる、ジークフリートが戻っているの? 彼女はすぐにドアを引こうとし、アレクセイから腕をつかまれた。彼は何も言わずに首を振り、部下の士官に対して手で合図をした。憲兵の腕章をした士官は乱暴気味にノックをした。

「我々は第一ウクライナ軍所属の憲兵隊だ!ここを開けるぞ!」

 ドアは鍵がかかっておらず、やすやすと開いた。まだ笑い声がしている。そして、汗と垢、生ごみの不快な匂いがただよっている。

 小銃を構えた護衛を先導として玄関ホールから食堂に入ると、5,6人のソ連軍の士官や兵卒が食卓に座り、酒や食べ物をいっぱい広げてくつろいでいた。床にはたくさんごみが落ちている。驚いたことに、食卓にはドイツ女性が一人座っていた。ロシア人たちは憲兵隊の姿を見て驚き、立ち上がった。

「もうこの地域は宿舎として割り当てが済んだのか?」

 アレクセイはテーブルのロシア人の中で一番階級が上と思われる士官に聞いた。

「いいえ、まだであります。同志憲兵少佐殿」

「まだ邪魔させてもらっている段階なら、もっときれいに使え、そら、掃除しろ」

 ロシア人たちが床とテーブルを片付けにかかった隙に、テーブルに座っていたドイツ女性がエリザベートに駆け寄った。

「リヒテンラーデ中佐の奥様」

 エリザベートもその婦人に見覚えがあった。ここは佐官が3人で使っていた。そのうちの一人の奥方で、たしかバーレさんだ。いろいろ聞きたいことがあったが、単刀直入に

「ジークフリートは戻ってない?」

と、口にした。

「いえ、私はずっとここにいますが、見かけておりません。私の夫も、もう一人の大佐殿も」

 バーレ中佐の奥方は弱々しく口にした。

「じゃあ、ジークフリートの使っていた部屋を見るわね」

 エリザベートがノックもせずに部屋を開けると、4人のドイツ人が息をひそめてそこにいた。老夫婦と十代の少女、小さな男の子もいた。十代の少女は魂が抜けたような顔で床に座り込んでいた。

「リヒテンラーデさん、違うの。私の家の者たちが焼け出されて、ここしか頼る場所がなくて。そうしたら、中佐殿が自分の部屋のほうが広いからってここを使わせてくれて」

「ではジークフリートはどこで寝泊まりしていたの?」

「それは、あちらの狭いほうの部屋なんですけど・・・でもあそこは今・・・」

 エリザベートはバーレの奥方の目線の方向のドアを見た。いったい何をこんなにビクビクしているのか知らないが、夫の部屋を訪ねて何が悪いというのだろう。

「こちらの部屋ですか?」

 アレクセイも会話を聞いていたらしく、大股で部屋を横切り、指示された部屋のドアを開けた。ベッドと机が一つずつ、そしてベッドの真ん中は不自然に盛り上がっていた。もぞもぞ動いている。アレクセイは舌打ちして警棒を手にし、掛布団をゆっくりはいだ。

 ジークフリートが寝ているのかと思いきや、中から現れたのは若いソ連軍士官と美しく若い金髪美女だった。士官のほうはジューコフ少佐を見て直立して敬礼した。

「同志少佐殿、こ、これは違うんです、あの・・・」

 アレクセイは若い士官の顎に警棒をあてた。

「所属と階級、名前を言え」

「第一ベラルーシ軍所属、曹長セルゲイ・アレクサンドロヴィチ・ズボフスキーです」

「同志ジューコフ元帥からの命令第01号を聞いたのか?」

「ドイツ市民に対する略奪・暴力・性暴力などを厳格に禁止する、ですよね? 知っています、知っています、これはそんなんじゃないんです!」

 アレクセイは、金髪の美女に

「フロイライン、服を着てください」

 と言い残して、強引に上半身裸の士官を部屋の外に連れ出した。

 部屋にはエリザベートと薄着の金髪の美女だけが残った。なんて見事な金色の巻き毛だろう、エリザベートはこんな時なのにしげしげと眺めてしまった。それになんて美しい肌。だが目元にあざ、唇は切れて腫れていた。美女のほうはその目線に気づき、いぶかしげにけだるい目線を上げた。そしてはっとした。

「エリザベート先生?」

 その声でエリザベートも思い出した。かつてジークフリートがSSの高官としてヒトラーユーゲントやドイツ女子青年同盟(この時代の十代の若者はどちらかへの参加が義務付けられていた)へ視察にでかけることがあり、エリザベートもお遊びで夏のキャンプなどに同行していて、そこで会った美少女だ。そして戯れに合唱を教えに行ったことがあったのだ。そこにひときわ目立つ美少女がいた。ポスターモデルや映画会社からひっきりなしに誘いが来ていたが両親が厳格なため許してもらえないとぼやいていた。2年ぶりであったが女の目から見てもため息の出るような美しさをエリザベートは覚えていた。彼女を初めて見たとき「人魚姫もかくや」と思ったことを記憶している。エリザベートはあの日のことがよみがえった。

「アリシア? アリシア・ミュラーさん? なぜここに?」

「私の家、ここの4階なんです」

 アリシアは服を着ながら行った。

「じゃあなぜここにいるの? バーレさんと面識があったの?」

「空襲と市街戦の間地下室に隠れていたんです。赤軍が来て、この家の奥さんたちと一緒にロシア人たちに引きずり出されて」

 引きずり出された? 戦いの最中にあの兵士たちはそんなことをしたのだろうか。

「あのソ連の士官と、どうしてこんなことに?」

 矢継ぎ早に質問ばかりしてしまう。服を着終わったアリシアは立ち上がり、自虐的な笑いを浮かべた。

「ねえ先生、選択肢が二つだとしたらどうしますか?」

「何、急に」

「毎日顔ぶれの変わる敵に輪姦され続けるか、一人の敵に強姦され続けるか」

「・・・・・・?」

「先生、3人や4人じゃないのよ、毎日毎日よくも飽きずにって思ったわ。ここにはいろんな兵隊が訪問してきた。バーレさんも、あっちの部屋にいたバーレさんの娘も同じ目にあったわ。娘さんは・・・名前は知らないけど・・・半狂乱になって自殺未遂を繰り返すから、家族が同じ部屋でずっと見張っているの。だけどセルゲイ、私があの人と関係してからは幸いなことに一人になったわ。彼は私の願いを聞いてくれて、他の女性たちにも乱暴しないようにみんなに言ってくれた。だから今この家にいる兵隊はみんなセルゲイの隊の人たちで、ひどいことはしないわ」

「・・・ご両親は?」

「父は戦争から戻ってない、母は空襲で亡くなった。兄も14歳の弟まで徴兵されたわ」

 共用のリビングのほうからさっきのセルゲイという士官の悲鳴が聞こえた。

「いけない、あの人」

 アリシアは部屋から出ていき、アレクセイに話しかけた。

「あの、えらい人なんですよね。違うんです、その人私に乱暴してたんじゃないんです」

 アレクセイはセルゲイを壁際に立たせて腕をひねりあげて警棒で首を押さえていた。

「ジューコフ少佐よ、アリシア。この方は憲兵隊の方で・・・」

 エリザベートは説明した。

「憲兵だったら治安維持組織? 来るのが遅いのよ」

 アリシアは憎々し気にアレクセイを見た。そしてセルゲイの近くへよった。アレクセイはセルゲイを放した。

「憲兵少佐殿、NKVD(ソ連の政治機関)行きは勘弁してくださいよ、俺、女の子に乱暴なことなんてしてないですから」

 セルゲイはアリシアにこれ以上憲兵を刺激しないように彼女を自分の後ろに回した。なんだ? この茶番は? なぜこの二人はかばいあっている? エリザベートはあっけにとられていた。

「同志ナターリア、このお嬢さんの傷を見てやってくれ」

 アレクセイに呼ばれ、リビングの入り口にいたナターリアが入ってきた。

「このあざだと骨には影響ありませんし、唇の傷も化膿はしていません。日にち薬かと」

 アレクセイは黙ってセルゲイとアリシアのほうを見た。セルゲイはまた言い訳を始めた。

「俺が殴ったんじゃないですって!」

「ではなぜさっきこの女性とベッドに入っていた?」

「そんなもん、彼女のことが好きだからに決まっているでしょう!」

 一瞬の沈黙の後、部屋中の大爆笑。アレクセイだけがあっけにとられていたが、エリザベートもその若く素直な叫びに苦笑いした。

「お嬢さん、本当に無理強いされてないですか?」

 アレクセイはアリシアに事務的に言った。

「大丈夫です」

 アリシアも事務的に言った。そしてセルゲイの腕を取り、エリザベートのほうに向きなおった。

「先生のご主人のベッドを使ってしまってごめんなさい。私は4階に戻るわね。バーレ奥様、しばらくお世話になりました」

 そしてセルゲイと彼の部隊の士官や兵卒たちに対してこう言った。

「あんたたちも、階段が嫌じゃなきゃ4階に来てもいいわよ」

 そのまま振り返らず出て行ってしまった。残されたセルゲイ部隊の者は「どうする、どうする、階段は嫌だ」と話し合っている。エリザベートはこの人たちは若いのにたった4階まで上がるのがそれほど嫌なのだろうかと不思議に思った。それでも彼らは4階を目指して出ていき、家にはバーレ中佐の家族とアレクセイの連れてきたロシア人たち、エリザベートだけになった。

「えーと、我々は何をしに来たんでしたっけ」

 副官のレオニードが言った。エリザベートはわれに返った。そうだ、変な邪魔が入ったが、私はジークフリートが何か残していないか見に来たのだ。彼女はもう一度ジークフリートの部屋に入り、机の引き出しやクローゼットを見た。しかし、着替えや党の宣伝本があるくらいで、手紙や書付はなかった。

「どうですか?」

 部屋にアレクセイも入ってきた。

「何も・・・」

「本当に何もないですね。ここに本当に寝泊まりしていたのかと疑問が出るくらいだ。それとも、持って出たか」

 ジークフリートは荷物を持って行ってしまったのだろうか。

「リヒテンラーデ夫人、ちょっと早いけどここで昼食にしませんか。テーブルもあるし」

 さっきセルゲイ隊が座っていた大きなダイニングテーブルに、今度はアレクセイ隊が座った。持って来たパンや飲み物を分配する。あちらの部屋のバーレさん一家にも、とパンを分けてくれたのでエリザベートは持って行った。バーレ夫人はエリザベートを部屋に引っ張り込んだ。

「何するんですか」

「こっちのセリフよ、エリザベートさん、あの憲兵隊長はあなたの何なの? アリシアがセルゲイを手なずけたようにあなたもあの人を手なずけたの?」

「はああ? 何ですかそれ、どういう意味ですか」

 バーレ夫人によるとアリシアは自分の美しさをよく知っている少女だったらしい。だからセルゲイが彼女を初めて見て表情を変えたとき、アリシアは彼女の魅力を最大限に使って男を虜にしたのだと。

「これ以上の暴虐から逃れるために、あの子は私たちのことも助けてくれたんです」

 バーレ夫人は涙を流した。魂の抜けたような少女は相変わらず、ぼんやりしている。

「この娘はショックから立ち直れないんです」

 ようやくエリザベートにも事情が理解できてきた。テレジアが言っていたオオカミの群れというやつだ。オオカミたちに襲われないために、獣の中でも強い奴を自分のそばにおくのだ。そういうしたたかな生きるすべをアリシアは持っていたのだ。

「ジューコフ少佐は私の自宅を接収して憲兵隊の事務所にしているんです、それだけです。今日は無理を言って同行させてもらいました」

 エリザベートはそう言って部屋をでて、ロシア人たちの食卓へ戻った。

「あの、ジューコフ少佐、あの二人はあのままにするしかないのでしょうか」

「まあ、大人の問題だから・・・いや、まだ2人とも子供か。しかしあのお嬢さんが被害を届けない限りこちらとしては何もできない」

 アレクセイは困っているようだが、これ以上何もできないという風だった。

「軍隊内の秩序と規律維持のために、あなたに乱暴狼藉を働こうとした兵士のような連中は厳しく処罰します。しかし、さっきのフロイラインは自分の意思で曹長と一緒にいると言い張っていました。合意の上での恋愛関係としてつきあっているのなら、こちらにできることはありません」

「だって明らかにあの兵士はアリシアを無理やり従わせていて……」

「無理やりってこともないと思いますけどね」

アレクセイは平然と言った。彼はこちらを見ようともしなかった。

 合意なのだろうか。こんな無法地帯でなんとか安全を手にいれようと思えば、思いつく方法はただ一つだ。誰か自分を守ってくれる人物を探す……それもできるだけ高位の人物のほうがいいだろう。身の安全と食糧を得るために体を提供するという合意。そう考えて、エリザベートは愕然とした。自分だって同じなのだ。アレクセイは紳士なのか奥手なのか彼女に対してあからさまな要求をしてくることはなかった。さっきの曹長は若くて直情的なので多少アレクセイよりもはっきりした「勧誘」をしたのかもしれない。他の連中から守ってやるから……と。アレクセイもいつか私に求めてくるのだろうか。

「これからああいうのが増えてきそうですね」

 地図係の文官が言った。

「暴力を伴うか伴わないは別として、人間は生死をさまよった末に生きている実感が欲しい時に性愛を求めがちだ」

「暴力はやめてほしいわよ。誇りあるソビエト赤軍の一員として恥ずかしいわ」

 ナターリアが言い、レオニードと目を合わせてにっこりした。

「リヒテンラーデ夫人、午後からはどうしますか。他に回る当てはあるのですか」

 アレクセイが話題を変えた。彼はこの街探検を少しでも意味のあるものにしたいと思ってくれているのだろう。

「ジークフリートの友人が経営している病院が近くにあるはずなんです」

「病院は接収されている可能性が高いですよ」

「まあ、それでも行ってみればその友人がいる場所もわかるだろうし」

 他には? 連絡のつく知人なんているのだろうか。もうずいぶん長い間友人や親族にも連絡を取っていない。みんなどこに行ったのだろう。



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