4 ベルリン陥落
それは5月9日の朝のことだった。屋敷の居住者、使用人もすべて前庭に集まるようにソ連軍から「命令」があった。何か重大な発表をするということだった。屋敷の前庭には数百人は軽く超えるソ連軍の将兵たちが集まっていた。
「同志諸君! すでに5月2日ベルリン防衛司令官であるヘルムート・ヴァイトリングによるベルリン市としての降伏文書に署名があり、市内の戦闘は終結しているが、昨日5月8日ベルリン中部夏時間22時43分、ドイツ軍ヴィルヘルム・カイテル元帥がソビエト赤軍同志ジューコフ元帥に対し、全ドイツの降伏文書に署名を行った。モスクワ時間5月9日である本日未明、この終戦は発効した」
アンドレイ・ミハイロフ中佐が本部から通信で届いた指令を拡声器で読み上げた。兵士たちはかたずを飲んで聞いていた。沈黙。
「ドイツは無条件降伏した! 敵は完全に敗れた! 戦争は終わった!」
それでもまだみんな沈黙したままだった。アンドレイはさらにかみ砕いて話した。
「我々の勝利だ。ベルリンはわれらのものだ」
兵士たちの間にどよめきが広がる。4年間の間待ち望んだ信じられない吉報をすぐには信じられないのだ。
「戦争が終わった!」
「祖国のために! ウラー! 祖国のために! ウラー! ウラー! ウラー!」
絶叫が安堵と歓喜の叫びに変わり、兵士たちは互いを抱きしめあい、涙を流して喜んだ。エリザベートもロシア語の意味がわかったが、頭がついていっていなかった。全面降伏? 無条件降伏? それって何でもされるがままになるということ? ふとアレクセイが兵士たちから少し離れて立っているのが見えた。彼は感情を押し殺したまま、喜ぶ兵士たちを静かに見つめていた。
意味が分からなくてざわざわしているドイツ人の一団に対し、テレジアが通訳して説明していた。彼女はエリザベートの家庭教師がロシア語を教えているのをそばで聞いていて覚えていたのである。やがてドイツ人たちは無言で屋敷に入った。後ろからは赤軍の将兵たちが大合唱するソビエトの国歌が聞こえた。
(この頃のソビエト国歌日本語訳)
自由な共和国の揺るがぬ同盟
偉大なルーシによって結び付けられる
人民の意思によって作られた
団結した強力なソビエト連邦万歳!
讃えられてあれ、我らの自由な祖国よ
民族友好の頼もしい砦よ!
ソビエトの旗、人民の旗が
勝利から勝利へと導く!
雷雨を貫いて自由の太陽は我々に輝き
そして偉大なレーニンは道を照らした
スターリンは我々を育てた――人民への忠誠を
労働へそして偉業へと我々を鼓舞したのだ!
讃えられてあれ、我らの自由な祖国よ
人民の幸せの頼もしい砦よ!
ソビエトの旗、人民の旗が
勝利から勝利へと導く!
我々の軍は戦いによって我々を成長させ
卑劣な侵略者を道から一掃した!
大戦によって我々は世代の運命を決定し
我々が我が祖国に栄光をもたらそう!
讃えられてあれ、我らの自由な祖国よ
人民の栄光の頼もしい砦よ!
ソビエトの旗、人民の旗が
勝利から勝利へと導く!
ドイツ人たちはホールでしくしく泣くしかなかった。エリザベートは皆から離れて一人図書室へ入った。そうだ、旗と絵画は隠したけど、この図書室には党発行の書籍がたくさんあるじゃないか。燃やしてしまわないと・・・いや、そんなことを考えている場合じゃない。私の祖国は滅亡した。ああ、ハーケンクロイツの翻る街、美しいベルリンの街、総統閣下に率いられた見事な親衛隊員の行進。ドイツ国歌、ホルストヴィッセルの歌。旗を高く掲げよ、行進、そして敬礼、ハイル!
彼女はへたり込み、声を殺して泣き続けた。ジークフリート、あなたが仕えた国家ななくなってしまった。これからどうしたらいいのだろう。
「ご主人のことを考えてらっしゃるんですね」
しばらく後のある日のお茶の時間にアレクセイが言った。エリザベートがついぼんやりしてしまっていたからだった。彼女は謝った。
お菓子を食べ終わると子供たちはテラスから外へ駆け出して行ってしまい、ナターリアたち女性兵士が相手をしていた。彼女達も午後には暇になるらしく、いつも喜んで子供たちと遊んでいるようだった。アンドレイとピョートルはボールで遊んでいた。
「連絡のとりようがないですもんね……電話がまだ通じないし、電報もできないだろうし。怪我をしているのかもしれません。中心部から10キロ歩けないのかもしれないし」
エリザベートはなるべく自分に都合のいい考え方をするようにしていた。連絡が取れるのに連絡してこないというようなことはありえないだろうし、そうでなければ「死」を意味するのだから。彼女は自分の心をごまかすかのようにミルクティーに口をつけた。そしてアレクセイの方をちらっと上目遣いに見た。彼は子供たちがブランコで遊んでいるのをやさしい目で見ていた。フリーダはジューコフ少佐が私に気があるように言うけれど……彼ははっきりしたことは何も言わないから本当のところは分からないわ。目線や言葉遣いから好意は感じる……彼女は考えた。自分にもっと恋愛経験があれば理解できるのだろう。男の好意についてエリザベートは悪い気はしていなかった。この無法地帯において彼が戦勝国の憲兵少佐という権威ある人物であるということも魅力的だったし、初めて夫以外の男から女として扱われ好意をよせられたという喜びもあった。かつてはリヒテンラーデ親衛隊(SS)中佐夫人として、あるいは伯爵夫人として彼女はどこへ行っても丁重に扱われていた。しかしまわりの人間は皆、こびへつらってなれなれしく近づいてくるか、あるいは逆に社交辞令以上の会話には踏み込めない場合も多く、誰も本当の心を見せてくれないという寂しさをいつも感じていた。アレクセイとの間に構築された奇妙な友愛関係はエリザベートにとって大変心地よいものとなっていた。
「あの、ジューコフ少佐、聞きたいことがあるんですけど」
「はい、なんなりと」
「以前、もう少ししたら市街地にいる偉い人たちのところに呼び出されて新しい仕事がどうこうって言っていませんでしたっけ?」
「ああ、もうじきだと思います」
「その、行くときに私も一緒に連れて行ってもらえませんか。お邪魔はしませんので。往復だけ車に乗せていただきたいんです」
アレクセイは「この女は何を言っているんだ」というような顔をした。だが、すぐに元にもどり、
「それは難しいです」
と、事務的に言った。
「まあ乗って行ってもらうのは可能だとしても、それからどうなさるおつもりで?」
「夫のフラット(集合住宅の一室)に行ってみようと思うんです。通勤が難しくなって、役所から何人かで一緒に寝泊まりできるフラットをあてがわれていたので、戦闘が終わって戻るならそこかと思ってるんです」
「住所は?」
「ミッテの・・・」
アレクセイは最後まで聞かず、あの辺か、という顔をした。
「中心部は瓦礫の山らしいです。副官のレオニードに偵察に行かせましたが、そりゃもうひどい状況だ」
「昼間なら、足元に気を付けて歩きますわ」
「リヒテンラーデ夫人」
アレクセイはひどく真剣な顔で向き直った。エリザベートは居住まいを正した。
「5月10日にソビエト軍最高司令官の同志ジューコフ元帥から命令第01号が発布されました。ドイツ市民に対する略奪・暴力・性暴力などを厳格に禁止する・・・これがどういう意味かわかりますか?」
「え、だからそういうことをしてはいけませんっていう意味なんですよね」
「つまりです、そういうことが頻発しているからこその布告なのです。レオニード中尉が言うには、4月下旬から街中はほぼ無法地帯だそうです。憲兵がいくらいても到底抑えられないくらいに」
エリザベートは第2波として屋敷にやってきた乱暴者の一団を思い出した。ああいう兵士たちはほんの一部だと思っていた。あの後会う人たちはみんな普通の人たちだったから。そうではなくて、いま彼女の周りにいる将兵たちは赤軍の中でもかなりのエリートなのか? そしてあの昼間から酔っぱらってマシンガンで遊んでいるような連中が大半なのか? そんな兵士たちで街が埋め尽くされているとしたら・・・ドイツの男性たちはみんな徴兵され、残っているのは女子供と年寄りばかりなのだ。今自分が置かれている状況は奇跡のような薄氷の上なのか。
「あの、そうしたらこういうのはどうでしょうか。衛生兵のナターリアの制服を借りるの。同じ仲間ならだれも私に危害を加えないでしょう?」
「それは重大な軍規違反ですので、許可はできません。ナターリアだけでなく私も処分されます。私は部隊全員に規律を守らせる立場の人間です。自ら規則を破るようなことはできません」
正論で返され、エリザベートは全く反論できなかった。
「とりあえず行くことになったら、私がついでに見てきますので、その時に詳しい住所と地図を描いていただけますか」
エリザベートは黙るしかなかった。
その夜エリザベートがもう寝ようと思って化粧台の前で髪をとかしていると突然のノックがあった。使用人かと思いながらドアを開けるとアレクセイが立っていたのでびっくりした。いつも影のように彼に付き添っている副官はついてきていなかった。彼には一番上等の客間を提供しており、そこはリヒテンラーデ伯爵夫妻の寝室からはずっと離れていたのでお茶の時間以外で顔を合わせることはなかったからだ。それに家族の寝室があるウィングは、接収の最初にアレクセイ自身が「ロシア人立入禁止」と決めたゾーンだったのだ。
「夜分にすみません、リヒテンラーデ夫人。司令部からさっき無線で呼び出されました。明日の朝早くに私は市の中心部に向かいます。朝は会えないと思いますし、夜に戻って来られるかどうか分かりません。昼に言っていたご主人のフラットの住所と地図を今夜中にあずかっておこうかと思いまして。もちろんこの家の安全も考えて、ある程度の人員を残していくので……」
アレクセイがすべて言い終わらないうちにエリザベートは叫んだ。
「私も一緒に連れて行ってください」
「いや、ですからそれはできないとお伝えしたはずです」
彼に拒絶の言葉を言わせまいと、エリザベートは続けた。
「同行できるだけでいいんです。市街地がどうなってしまったのか、私は自分の目で確かめたいんです」
興奮して将校の制服をつかんでしまった彼女の手を、アレクセイはそっと握った。襲われた時に助け起こすためにさしのべた手を除くと、彼らが直接触れ合ったのはこれが初めてだった。アレクセイの黒い瞳に見つめられてエリザベートは我に返った。
「すみません、ジューコフ少佐………私、失礼を……」
「いえ……」
エリザベートは手をひっこめようとしたが、アレクセイは離さなかった。まるでそれがようやく手に入れた大切なものであるかのように、ゆっくりと自分の頬に近づけた。
「あなたの安全が大切だから言っているんです。我が軍の兵士たちのほとんどはドイツ語を理解できません。そんな相手に乱暴をされてどう抗議できるのですか」
ここでエリザベートは重大なことを思い出した。彼女はロシア語がわかるのだ。そして今まで秘密にしていた切り札は今こそ使う時だった。
「私はロシア語が話せます。通訳として同行できませんか。街中の他の将校さんだって通訳を雇っていませんか。あなたはドイツ語が堪能だけれど、道案内としてでも」
流ちょうな上流階級然としたロシア語だった。アレクセイはあっけにとられてエリザベートを見た。
「なぜ・・・黙っていたのです?」
彼はエリザベートの手をいっそう強く握りしめた。エリザベートはそのまままっすぐ男の目を見つめ返した。
「通訳か…まあいいでしょう、その代わり、通訳ですから自由行動はできませんよ。ずっと私の隣にいていただきます。明日朝8時に玄関ホールに来てください」
そう言うと、アレクセイはきびすを返し、ふりかえりもせず長い廊下を歩いて階段へと消えていった。エリザベートは彼の頬の触れた手の甲をなでながら、その後姿を見送った。




