2-14 療養
エリザベートは手術室の前で、永遠とも思えるような時間を過ごしていた。ほんの数時間前、5年ぶりに姿を現した元夫ジークフリートが、あろうことか二人の間に生まれたエドゥアルトを誘拐し、その奪還劇のあげくアレクセイをナイフで刺したという知らせは、彼女の精神を打ちのめした。
手術室のドアが開き、何本も管につながれ、ベッドに乗せられ、目を閉じたアレクセイが医師やスタッフと共に出てきた。
「奥様、ご安心ください。傷は浅く、命に別状は全くありません。犯人のナイフは幸運にも何重の防御に阻まれました。具体的には、まずコートのベルト(武装帯)の厚い革と、その下の制服のベルトの金属製バックルと厚手の織物に抵抗を受け、勢いを大きく失いました。その結果、腹部に達した際、傷は表皮および皮下組織を貫通したに留まりました。これは医学的には表層の裂創、もしくは非貫通性の刺創と分類されます。最も重要なことは、ナイフの深さが腹腔内まで達していなかったことです。つまり、内臓への損傷、あるいは主要な血管の損傷は一切ありません。もし、このベルトの抵抗がなければ、ナイフは間違いなく深く腹腔に達し、生命を脅かす重篤な貫通創となっていたでしょう。私たちは傷口を清浄化し、縫合しました。これは治癒には数週間を要しますが、適切な安静と消毒を行えば、感染症のリスクを除けば問題なく回復します。しばらくは絶対安静が必要ですが、危機は去りました。これは、ソビエト科学の賜物と、中佐殿の軍服のベルト構造に感謝すべき幸運です」
特別病室に運ばれたアレクセイの側の椅子で、エリザベートは彼の眠る顔を見ていた。「命には全く別状ない」という医師の言葉に安心したが、痛い思いをしたことに変わりはないのだ。部屋が広かったので、エドゥアルトとクラーラ用に簡易ベッドが運びこまれ、二人はすやすやと眠っている。ふと時計を見ると、夜中の11時だったが、彼女は全く眠気を感じなかった。この人はエドゥアルトを取り戻すために命をかけてくれた……そのことだけをずっと反芻していた。そもそもここはなんという病院なのかもよく分からなかった。エリザベートは保育園に迎えに来た、ドイツ人民警察の車でMGBの事務所へ連れていかれた。アレクセイはおらず、クラーラと二人しばらく待たされた。突然、アレクセイが負傷したと言われ、また車に乗せられた。そこでやっとエドゥアルトと合流でき、アレクセイは手術室だと言われたのである。
ふと、小さな足音がした。エドゥアルトが起きてきていた。
「お母さん」
「どうしたの? 眠れないの?」
「お父さんは?」
「お父さんはお医者様が治してくださったわ。今はまだ麻酔が効いてて眠っているけど、明日の朝にはお話できるわよ」
アレクセイがゆっくりと目を開いた。エリザベートは喜んで声を上げた。
「アレクセイ、分かる? 助かったのよ。痛い? 痛いわよね。ここは病院よ」
「ああ……病院……そうか……」
鎮痛剤が効いていて、意識が混濁しているらしい。ぼんやりとした目をしているし、声に張りがなかった。
「……エドゥアルトは?」
「無事よ。ここにいるわ。アレクセイ、夜中だから、朝まで眠ったほうがいいわ」
「エドゥアルト……」
アレクセイは手を伸ばし、エドゥアルトの髪を撫でた。
「お父さん、痛い? 僕がタクシーに乗ったせいだよね。ごめんなさい」
「お前は何も悪くないさ。そして、勇敢だったぞ、我が息子よ」
エリザベートは手でアレクセイのまぶたを閉じてやった。そのまま彼は再び眠ってしまった。よかった、意識が戻った。彼は助かったのだ。ほっとすると、エリザベートもようやく眠気を感じた。
「お母さん、一緒に寝て」
エドゥアルトがエリザベートの手を引いた。
「そうね、一緒に寝ようか」
エドゥアルトは母親の胸元に顔をうずめたが、目を閉じる様子はなかった。
「どうしたの? おめめを閉じないと眠れないわよ」
「今日の金髪の人、僕のお父様?」
「……あの人がそう言ったの?」
「違うんだ。ただ、僕はお父さんが大好きなのに、似たところがちっともないんだ。クラーラはお父さんに似ているのに。今日の金髪の人は、昔持っていた写真のお父様に似ている気がする」
「覚えているの?」
「ちょっとだけ。でも写真はなくなっちゃって」
そのままエドゥアルトは眠ってしまった。エリザベートはエドゥアルトの髪に口付けた。ナチスドイツの人種判定なら即座にアーリア人と判断されるような、見事な金髪だった。エリザベートの金髪が、ややくすんだ淡い色をしているのに対して、ジークフリートの金髪は太陽に輝く黄金のような色合いだった。この子はとても実の父親に似ている。アレクセイの子には見えない。いくらアレクセイが「お父さん」と呼ばせ可愛がっても、実の父親ではないことに、この子も薄々は気付いていたのだろう。
そういえば、私はこうやって子供の寝かしつけをしたこともないな、とエリザベートは考えた。自分自身も母親に寝かしつけてもらった記憶はない。実家のクノーベルスドルフ家は祖父の代までは仕立て屋だった。父母が会社を大きくし、ハンブルクの一大企業にまで成長させた。成功したブルジョワが次に目指すのは貴族的な生活だ。執事や女官長が置かれ、ロシアの亡命貴族が住み込みの家庭教師に雇われた。私は女官長のテレジアや家庭教師のアントニーナ先生から叱られはしたが、両親からは叱られた記憶がない。
この子をハンブルクに行かせず手元で育てることを決心した日から、できるだけのことはしてきたつもりだ。子育てをギゼラに任せきりにしていたことを取り戻そうとしていた。だが、エドゥアルトは思っていたよりもずっと大人びた子供だった。突然アレクセイが父親になり、実父の写真は失われ、フリーダもギゼラもカールもいなくなったことについて、疑問を口にしなかった。この子の心のなかに、どれほどの澱が沈んでいることだろう。まだ7歳なのだ。
翌朝になってエリザベートはいろいろと日常のことを思い出し、子供と自分でシャワーを浴びたり、着替えがないので病院の入院着を借りて食事をさせたりしていた。昨日はみんな夕食を食べれる状況ではなかったのだ。アレクセイの目が覚め、少しベッドを起こして医師の診察も一緒に聞いた。それによると感染症で熱が出たりしない限り、入院は2週間を目途とし、自宅療養が6週間ということだった。仕事への復帰は年明けに様子を見てからと言われた。出産と同じくらいのスケジュールだったので、腹部損傷は出産くらいのダメージかと想像し、なかなかの大変さだとエリザベートは理解した。
「合計8週間の間、決して激しい運動をしてはいけません。夫婦生活も込みですよ。奥さんが上になってもだめですよ」
医師の指示に、二人は少し笑って照れたようにうなずいた。
MGBの上司であるソローキン大佐とレオニード大尉もやってきた。大佐の説明によると、ここは一般のドイツ人が入れないソビエト軍の病院で、玄関には歩哨が立っており、今回は指名手配中の戦争犯罪人による殺傷事件ということで、この特別病室の廊下にも歩哨を立てるということだった。
「犯人は捕まっていません。現在国境封鎖の上、全力を挙げてエルベ川一帯を捜索中です。奥さんと子供たちも1週間はここに泊まり込んでいてください。まとめてここにいてくれるほうが、我々も警備が楽ですので」
「一週間ですか?」
驚いたエリザベートにレオニードが補足説明をした。
「再び犯人が現れて拉致を試みる可能性があります。すみませんが、奥さんも仕事を休んでください。会社へは我々から連絡しておきました。ああ、ジューコフ中佐の『表』の仕事の市役所にも、小学校と保育園にも連絡済です。何か必要なものがあれば、僕とナターリアで家から持ってくるか、買ってきますので、指示してください」
こうして一家は病院に監禁されて一週間を過ごすことになった。思いがけない、べったりと一緒にいられる時間ができたのだ。
夫婦には話さなければならない課題が二つあった。二人はまず、エドゥアルトのことを優先した。アレクセイのベッドの脇で、エリザベートはエドゥアルトに話し始めた。
「お母さんは、お父さんと結婚する前に、違う人と結婚していた。その人があなたの本当のお父様よ」
「あのタクシーの金髪の男の人?」
「そう。この写真の方」
エリザベートはナターリアに頼んで家から持ってきてもらった聖書を開いた。ギゼラに連れられて米軍ゾーンに行こうとした3年前のあの日、ギゼラはエドゥアルトの荷物の中に家族3人の写真を入れていた。エドゥアルトの荷物の中にそれを発見したエリザベートはそっと抜き取り、この4年間ずっと聖書にはさみ、寝室の化粧台に保管していた。ジークフリートが珍しく制服を着ずに撮った写真だ。
「今のお父さんのことを、本当のお父さんと思って欲しかった。だからこの写真を隠してしまった。ごめんなさいね。あなたは本当のお父様のことを覚えていたのね」
エドゥアルトはうなずき、写真を受け取った。タクシーの中で複雑な、悲しさと喜びが混じった目で自分を見つめていた男の、若いころの自信に満ちた姿の写真だった。
「あなたの本当のお父様はずっと行方不明だった。お母さんはあなたと二人で心細くて……そんな時、お母さんは今のお父さんと出会ったの」
黙って二人の会話を聞いていたアレクセイはエドゥアルトの頭を撫でた。
「お父さんはな、お母さんとお前のことをとても好きになって、家族になりたかったんだ。私はお前のことを本当の息子だと思っている。クラーラとエドは、どちらも私の大切な子供だ」
「うん、わかったよ。お母さん、この写真は僕が大人になるまでお母さんが持っていてくれる?」
「あら、自分で持っていなくてもいいの?」
エドゥアルトはアレクセイの手に自分の手を重ねた。
「僕のお父さんは、アレクサンダー・ノイマンだ。お父さん、これからも本当のお父さんって思っていい?」
アレクセイはいつもするように、エドゥアルトの髪をくしゃくしゃにして撫でた。
「何言ってるんだ、当たり前だろう」
子供は笑い、少し照れくさくなったのか、ナターリアと妹が床で積み木をしている隣室の方へ行ってしまった。
「アレクセイ、ありがとう……あの子を助けてくれて、取り戻してくれて、今まで育ててくれて……」
エリザベートは目を潤ませ、アレクセイの肩に頭を寄せた。
「エドゥアルトは俺たちの子供なんだ、当たり前だろう。それより、君のほうこそ、あいつの誘いに乗らなったんだな。西側の自由と豊かさを捨ててしまってよかったのか?」
アレクセイの冗談めかした言い方に、エリザベートは笑った。
「それこそ、当たり前でしょう。そんなもの、ちっとも欲しくないわ」
そして夫婦はもう一つの重い話をすることにした。
「3年前、アバクーモフ大臣に尋問され、あの日、俺はすべての命令を飲み込んだ。すべてだ。君の経歴を偽造し、君を監視の目に晒した。俺は、君の隣にいるために、組織の犬になった」
「大臣はあなたを自分の組織に入れたいがために、弱みとして私たちの交際をつきつけてきたのよね。一緒にいさせてやる代わりに、異動して自分のために働けって」
「ああ。だが、それだけではなかった。大臣は元ナチどもの逃亡組織を摘発し、自分の手柄にしてソビエト国内でさらなる権力を得ることが目的だった。大臣にとって、君とエドゥアルトはオデッサをおびき寄せる餌だった。俺がすべてを飲み込んだのは、君と一緒にいたかったからだ。君の命を守り、君の隣にいるという、二つの目的のために、君の人生を利用する道を選んだ」
アレクセイは、深い息を吐き出し、まるで自らの胸から重い塊を吐き出すかのように、言葉を絞り出した。
「ジークフリートが……あの人が生きているってあなたは知っていたのね」
「そうだ。君を騙し、利用し、君の魂を傷つけた。俺の愛は、君の尊厳を踏みにじることによってしか存在し得なかった。許してほしいとは思わない。ただ……君を失うくらいなら、自分の魂を売ることを選んだ。それだけは真実だ」
彼の言葉は、冷徹な将校としてではなく、愛する女性を失うことを恐れた一人の男として、病室に響き渡った。
「ずっと聞きたかったんだけど、うちの会社の人事にまで権力が及んでる? 昔チーフが異動させられたこととか、私の妊娠に合わせていろいろ制度が整ったり、広報への異動とか……」
「ああ、全部こっちから手が回っている」
「そっか……私は私なりに努力してきたつもりだけど、あなたの背後の組織なしには何も成し遂げることができなかったのね」
「それは違うよ。君の頑張りはこちらにも伝わってきている。事実、君の異動や昇進にそれほどの妬みは生じていないと聞いている」
「貴方は……私を助けて守ってくれたのよね。それはよくわかっているつもりよ。だいたい、いくらあなたを自分の部下にして忠誠が欲しいと言っても、私のような経歴の女をあなたの妻として認めるって、大臣もどうかしてると思っていたくらいなのよ。オデッサの餌か……納得だわ。話してくれていればよかったのに。あなたもジークフリートもたくさん私にたくさん隠し事をして……」
エリザベートは自分の頬をさわりながら、自虐的な微笑みを浮かべた。男たちは隠し事ばかりして、現在の複雑な揉め事を起こしてしまったのだ。
「ああ、そうだ、夫婦は隠し事をしてはいけないな。これからは何でも言うよ」
「アレクセイ、貴方は私の隣にいるために、どれほどのものを失ったのかしら。陸軍のキャリアも、憲兵の誇りも」
「俺は今のドレスデンの生活に満足しているんだ。ベルリンでは官舎か夜の店でしか、会えなかった。二人で道を歩くこともできなかった。今は一緒に住めて、クラーラも生まれて、家族4人で堂々としていられる」
エリザベートは、静かに、優しく、彼の髪を撫でた。彼女は、彼の「支配」の裏に隠されていた、この途方もない愛の代償を、初めて理解したのだ。
「貴方は、逃げたあの男とは違う、アレクセイ。あなたは傍で、私を守ろうとしてくれた。初めて会った時からずっと、そして今も命がけで」
エリザベートは、静かに言った。その瞬間、アレクセイは、彼自身の裏切りを理由に、彼女の愛を再び獲得したことを悟った。それは、贖罪であり、新たな、より強固な関係の始まりだった。
「リーザ、俺は君を、二度と危険に晒さない。この傷が治ったら、東ドイツの全監視網を、君と子供たちのために使う。……君の安全こそが、俺の唯一の望みだ」
彼の声には、所有欲と献身が入り混じっていた。彼は、彼女を守り抜くことこそが、自分自身への最大の「愛」の証明だと信じていた。
「ジークフリートは最後に『かならずエリザベートを奪い返す』と言ってエルベ川に飛び込んだんだ。だがもう、何も恐れるな。君は俺のものだ。俺は、永遠に君の盾でいよう。彼が何度我々の前に姿を現しても、決して奪わせない」
この言葉を受け、エリザベートは、彼のやや強引とも言える歪んだ愛情の中に、自分が最も渇望していた「絶対的な安全」と、権威のある男性から必要とされている「自己肯定感」を見出した。彼女は、「この男は、私のために命を賭けた。これからも、全力で私を守ってくれる」という事実に深く安堵し、彼の手に顔を埋めた。
アレクセイが3年前の真実を話してくれたことで、エリザベートは自分自身の失態を話しておこうと思った。
「あの日、ジークフリートが現れて別れた後、すぐにでもあなたに電話で知らせるべきだったと、後悔しているの」
「いや、あれは無理だろう。時間的に、君と別れたその足で、彼は小学校へ向かったのだと思う」
「いいえ、アレクセイ、聞いて。私はジークフリートにもう愛はなかった。私の中で、彼は1945年に死んでいて、愛は過去のものだった。一緒に行くつもりなんて1ミリもなかった。けれど、彼が捕まって戦犯裁判にかけられるのは嫌だったの。どこか遠いところで、元気で幸せに生きていてほしかった。だから、彼が十分逃げる時間を稼げたらって思っていたの。3日黙っていようって思ってたくらい」
「そうか……」
「ごめんなさい、本当に。あなたの妻として自覚が足りなかったわ。私も非公式協力者として、怪しい人がいたら通報する義務があったのに」
「義務を一応覚えていたんだな。君はスパイの才能がないって大臣も言ってたから、忘れているのかと思っていたよ」
アレクセイは笑い、「イテテ」と顔をしかめた。腹部に力を入れてはいけないことを忘れて笑ってしまったのだ。エリザベートもほほ笑んだ。こうして、この人が無事で、子供たちも元気で、笑いあっていられることが本当に幸せだった。
「あなたの支配を恐れていないわ。その支配の底にある、私を守りたいというあなたの愛を知っているから。だから、あなたの愛し方が好き。これからもずっと一緒にいたい。それでね、私も隠し事をしないために言うわね」
エリザベートは大きく息を吸った。そして続き間で遊んでいる子供たちに聞こえないように小さな声で言った。
「今とても、あなたに抱かれたい。あなたが欲しくてたまらない。自宅療養の間も含めてしちゃだめってお医者様は言ったわ。お腹に力が入るからって……8週間なんて耐えられない。クラーラのお産の後、こんな気持ちをあなたは味わっていたのよね、申し訳なかったわ」
アレクセイはまた笑い、「イテテ」と顔をしかめる。
「そうだ、8週間だ。これでおあいこだな。おあいこといっても、俺の傷は腹で下は元気だから俺だってつらいんだぞ」
「それからね、私、あの人にキスされてしまったの。」
「何?」
アレクセイは真顔に戻った。
「最後にって言われて拒めなかった、ごめんなさい。怒った?」
「ああ」
アレクセイは腕を組んで、ふざけたような怒った顔をした。
「ごめんなさい」
エリザベートもふざけたように、口をとがらせて夫を上目使いで見た。アレクセイはエリザベートに口付けた。ゆっくりと、彼女の唇を味わうようなキスだった。
「もう誰にも触れさせない。これからの人生で、100万回キスをしよう」
4日目にレオニードがやって来て、ビニールに入った指輪を見せた。
「この指輪に見覚えは?」
アレクセイは指輪をしげしげと見ていたが、分からなかった。だがエリザベートは手に取らずとも、それがどんな指輪なのか理解でき、青ざめた。
「奥様はご存知ですね」
「……はい」
それは親衛隊名誉リングだった。親衛隊隊長であったハインリヒヒムラー長官から、古参の隊員に授与された指輪。忠誠こそわが名誉。隊員にとって、この指輪の所持は非常に名誉とされていたものだ。ジークフリートはこの指輪を肌身離さなかった。逃亡の時はきっと誰かに預けていたのだろう。
「S.Lb.フォン・リヒテンラーデの文字が判別できます。親愛なるフォン・リヒテンラーデへ……これは犯人の遺留品として、川の中から発見されました。車は大炎上し、遺体も遺骨も発見できていません。この指輪の発見をもって犯人は死亡推定とし、捜索は打ち切られます」
遺体も遺骨も発見されていなければ、生きている可能性は十二分にあるとアレクセイは考えた。そしてジークフリートが立ち去る前に言った不吉な言葉を思い出した。
「奥様、この指輪どうしますか? ご希望でしたら、遺品としてお渡しできますが」
「不要です」
エリザベートは即答し、首を振った。アレクセイは彼女の返答に満足した顔をしていたが、思い直して言った。
「いや、それは私が保管しておいてもいいかな」
このアレクセイの言葉に、レオニードもエリザベートも驚いた。
「どうして」
「いやまあ、なんとなく戦利品としてね。あと、自分を戒めて、警戒を怠らないためにも」
アレクセイは指輪を持ち上げ、蛍光灯に照らした。
「まったく、髑髏が好きな連中だ。帽子にもつけていたな。悪趣味極まりない」
レオニードは話題を切り替えた。
「報道発表の方向が決まりました。これが記事草案です」
【卑劣な誘拐事件発生、街に走った衝撃】
先般、ドレスデン市内で発生した痛ましい児童誘拐事件に関し、本日、市当局と人民警察は事態の解決と、その背後にある英雄的な行動について発表します。
この卑劣な犯行は、敗戦後の混乱と社会復興を妨害しようとする、旧体制の残滓による計画的な犯罪であり、市民の皆様の安寧を脅かすものでした。
【市都市計画局総務部長ノイマン氏、私と公の責務を果たす】
事件解決の立役者となったのは、市役所において経済復興の調整官を務めるアレクサンダー・ノイマン氏(34)です。彼は誘拐されたエドゥアルト君(7)の継父という個人的な立場にありながら、「市当局の一員として、また一市民の父親として、子どもたちの安全を守る責務がある」と、私情を乗り越え公的な使命感を持ち、救出活動を主導しました。ノイマン氏は、市警察と協力し、緻密な捜査情報に基づき、犯人が隠れる郊外の廃墟を特定。自らの危険を顧みず、単身で廃墟内部に突入するという決死の判断を下しました。内部では、武装し、追い詰められた犯人との激しい攻防が発生。ノイマン氏は、犯人を取り押さえようと果敢に立ち向かいましたが、その際に腕と腹部に負傷を負いました。犯人は、ノイマン氏の鬼気迫る正義の行動に追い詰められ、抵抗を断念。逃走を試みましたが、廃墟からの脱出中に予期せぬ自損事故により死亡が確認されました。
【子どもは無事保護、正義は必ず勝利する】
ノイマン氏の英雄的かつ迅速な対応により、誘拐されていた児童は無傷で保護され、現在は両親のもとに帰っています。
ノイマン氏の行動は、経済復興を担う市の幹部が、「市民の命こそが、真の復興の礎である」という信念を体現したものです。市民の皆様には、この困難な時代にあっても、ノイマン氏のように勇気と献身をもって、新体制の秩序と安全を守る者たちがいることを知っていただきたく存じます。市当局は、ノイマン氏の負傷に対し、心からの敬意を表するとともに、その功績を称え、最大限の賛辞を送ります。一日も早いご快癒をお祈りします。
アレクセイは記事を読んでこそばゆくなった。
「妙に美談だ。えらく脚色されていないか? 廃屋になんて行ってないぞ」
レオニードはケラケラと笑った。
「いやまあ、市民は英雄を望むものですし、ご夫妻もこのくらい発表しているほうが、勤務先でいちいち聞かれずにすみますよ。犯人が実父の戦争犯罪人ってことは隠しています」
「MGB本部は、これで納得してくれるのか。あの大臣がなあ」
この話はソビエト中央にも伝わっているのだろうか、とひどく危惧される。そこについては、レオニードも同じ気持ちだった。
「容疑者を取り逃がしたわけではなく、死亡と断定報告しています。MGBドイツ支部の失態だとつつかれちゃあ、たまったものじゃありませんから」
だが、この話は彼らが思っていたよりも早くソビエト中央に伝わり、思いがけない訪問者を迎えることとなる。




