2-13 エルベ川の守護者
エドゥアルトの靴につけていた発信機を追った、ドイツ人民警察車両とソビエトMGBの車両に追い詰められ、ジークフリートの乗っ取ったタクシーはエルベ川沿いの崖に追い詰められて止まった。森が切れ、草地がしばらく続いている。十人以上の警察官とソビエト軍人が銃を向けるなか、ジークフリートはタクシーを降り、目隠しをしたエドゥアルトを羽交い締めにし、ナイフを手にしていた。
「それ以上近づくな! 人質がどうなっても知らんぞ!」
アレクセイはその言葉に、怒りで我を忘れそうだったが、MGB職員に紛れ、夕焼けの中ジークフリートを初めて直接見た。あいつがジークフリート・フォン・リヒテンラーデか、エリザベートの元夫、エドゥアルトの本当の父親。ああ、なんてエドゥアルトに似ているのだろう。顔立ちも、髪や目の色も、そっくりだ。エドゥアルトはエリザベートによく似ていると感じていたが、まるでジークフリートのミニチュアのようだ。
「同志ジューコフ中佐、準備できました」
狙撃の準備を整えたレオニードが声をかけた。ソローキン大佐は振り向かず、レオニードだけに声をかけた。
「同志ヴォルコフ中尉、もう一度確認する。この距離なら、お前の腕だと犯人だけを殺さない程度に狙えるんだな」
「はい、腕か太ももを狙えます。致命傷にならないようにかすらせます。現在リヒテンラーデは狙撃を警戒して、人質を抱きかかえています。エドゥアルト君から離れた一瞬を狙います」
ソローキン大佐が指揮を執った。
「よし、他の者は構えるだけにして、狙撃はヴォルコフ大尉に任せてくれ。人質の命が最優先だ」
アレクセイはこの言葉に安心した。なんとしてもエドゥアルトに流れ弾が当たることは避けたかった。
「犯人に告ぐ、もう逃げ場はない。人質を解放せよ」
人民警察が拡声器で呼び掛けた。ジークフリートは狙撃を予測し、エドゥアルトの後ろに隠れるように、かがんでいた。だが、彼は意を決して叫んだ。
「アレクセイ・ジューコフ、この中にいるのだろう、出てこい、話がしたい」
望むところだ、とアレクセイは一歩前に出た。4年間の泥沼の戦争、凍った大地、敗走につぐ敗走、スターリングラードの激戦、雪解けの泥に足を取られながらの進軍、何千万人が死んだ? その大きな戦争の火付けをしたドイツ第三帝国。そしてその後の4年、エリザベートをめぐる確執。俺はお前が死んでいてくれればと願い続けていた。殺してやりたいとまで思ったこともあった。だがそれと同じくらい、お前と会ってみたかったのだ。同じ女を愛した男同士、話してみたかったのだ。
危険です、と制止する声が聞こえたが、飛び道具を持っていない相手など、全く怖くはなかった。アレクセイは、しばらくあいつと話すから、撃たないでくれと言い残し、ジークフリートの方へ歩いて行った。
「お前がアレクセイ・ジューコフか?」
「そうだ。ジークフリート・フォン・リヒテンラーデ、お前こそ生きていたんだな」
「ああ、生きていたさ。だが留守中お前に妻と子を奪われた。だから奪い返しに来た」
「5年は長かったんじゃないか。エリザベートは今私と一緒にいる。エドゥアルトは私が今後も継父として責任をもって育てていくつもりだ」
「父親気取りになるな。この子は私の子だ」
ジークフリートが皮肉めいた言葉を口にした。途端に、エドゥアルトが驚いたように体を動かした。
「お父さん! お父さんなの?」
アレクセイの声に気づいたエドゥアルトが声をあげた。アレクセイ・ジューコフって言っていた。お父さんの名前とは違う、でもお父さんの声だ! エドゥアルトは必死でもがいてジークフリートの腕から出ようとしている。
「お父さん、助けて! お父さん!」
「おとなしくしてくれ、エドゥアルト、あいつはお前の父親じゃない!」
ジークフリートは暴れるエドゥアルトを押さえようとした。ナイフを持った手で押さえるので、息子に当たりそうに見える。まさか我が子に刃を向ける? アレクセイは矢も盾もたまらず、飛びかかった。
「エドゥアルト!危ないからこっちへ」
とにかくエドゥアルトを自分の後ろへかばいながら、乱闘になった。ジークフリートが振り回したナイフが子供に当たらないようにするのに精一杯だった。格闘技で素人になど負けるわけがないと思っていたが、子供を守りながらでは、うまくいかなかった。勢い余った相手の凶器はアレクセイの腹部を貫き、彼は地面に倒れた。その瞬間、モシン・ナガンの轟音が響いた。3人の体がようやく離れたため、安全に撃てると判断があり、レオニードが狙撃したのである。
「痛った…くっそう…」
ジークフリートは右肩を押さえて膝を折った。どうやらかすっただけのように見えたが、ひどく痛がっている。アレクセイは左手で左脇腹を押さえながら、右腕を使って決死の力で上半身を起こした。
「頼む、この子を返してくれ」
「返せ? それはこっちの台詞だ。お前の子ではあるまいに」
近くで見ると、なんと整った顔立ちだろうとアレクセイは思った。男である自分からみても惚れ惚れする。夕焼けに輝く金髪、海を映したような青い瞳、鼻筋の通った顔立ち、これがナチスドイツの理想としたアーリア人なのだ。
「リーザの子だ。連れていかないでくれ、頼む」
「私の妻を妙なあだ名で呼ぶな」
ジークフリートは体力が尽きたのか、狙撃を避けるためかさらにかがんで、アレクセイに近づき、目線を合わせた。エドゥアルトは体が自由になったので、自分で目隠しを外し、アレクセイが手を血で赤く染めているのを見て驚いた。
「うわああ! お父さん! お腹から血が出てる! 大変だ、死んじゃうよ!」
エドゥアルトはアレクセイに駆け寄った。
「お父さん、お父さん、大丈夫? 痛い? 病院に行こう。死んじゃうよ」
そしてエドゥアルトは泣きながらジークフリートに向き直り、アレクセイを庇うように両手を広げて二人の間に立ちふさがった。
「僕が何か悪いことをしたのなら謝ります。ごめんなさい。だからお願いです、お父さんを殺さないでください」
エドゥアルトが俺を父と慕い、庇おうとしてくれている。アレクセイはこれまでの人生の苦労がすべて報われたような気がしていた。同時にその時、ジークフリートがエドゥアルトを見た目を、アレクセイは一生忘れないだろうと思った。自分の血を分けた子供が、自分以外の男を父と呼び、命乞いをしたのだ。実の父親にとって、これほどつらいことがあるだろうか。
ジークフリートの顔から毒気が消え、笑ったように見えた。
「その男を父と呼ぶのか、エドゥアルト」
エドゥアルトはアレクセイを見て頷いた。
「この人は僕のお父さん(Papa)です」
ジークフリートはエドゥアルトに手を伸ばし、昔よくしていたように、頬を2本の指で撫でた。
「お前は何も悪いことなどしていないよ、エドゥアルト。最後に会ったとき、お前はまだ2歳だった。私の前では、うまくしゃべれなかった。……だが、大きくなったな、エドゥアルト」
その仕草とジークフリートの手首から香るオー・ドゥ・コローニュ・ファリーナの芳香が、エドゥアルトの遠い記憶を呼び覚ました。名前も知らない、顔も忘れてしまった父親の記憶だった。
「……お父様(Vater)?」
エドゥアルトが小さな声でそうつぶやくのを聞き、ジークフリートは顔を歪ませ、彼を抱き締めた。こいつもエドゥアルトの父親なのだ、とアレクセイは刺された腹を押さえながら、一種の感動を覚えた。ジークフリートは微笑み子供から体を離した。
「一緒にいてやれなくて、すまなかった。お前たちを戦火の中に取り残したことを、悔やんでも悔やみきれない。どうかお前のお母様を守ってやってくれ」
そしてアレクセイに向き直り、強い声で言った。
「アレクセイ・ジューコフ、我が妻エリザベート・フォン・リヒテンラーデ伯爵夫人に伝えよ、そなたの誇りある生き方を取り戻すべく、必ずまた迎えにくるとな」
そのままジークフリートはタクシーに向かって走った。
「発砲!」
動く車に対し、一斉にピストルとライフルの轟音が響いた。やめてくれ、俺たちがここにいるのに、撃ちまくるのか、蜂の巣になってしまう。アレクセイは流れ弾に当たらないように、エドゥアルトに覆い被さって草むらに伏せた。頭の上を弾丸がかすめるのを感じる、下手くそめ。
車は崖ギリギリに止まった。夕闇の中、反対側のドアが開き、車から向こう側に何かが落ちるのが見えた。何かを放り投げた? いや、あいつ自身が飛び込んだ? まさか11月のエルベ川に? 腕を撃たれているのに?
ドオン!
急に爆発が起こり、車は炎に包まれた。今度は爆風からエドゥアルトを守るため、アレクセイは子供の体を抱き締めた。
「ジューコフ中佐、大丈夫ですか」
レオニード始め何人かが駆け寄ってくる。
「いや、大丈夫じゃない。刺された。ただ、浅いとは思う」
アレクセイはエドゥアルトから離れ、地面にゴロンと仰向けになった。
「おい、担架、担架急げ!」
「お父さん、お父さん。死なないで、死んじゃあ嫌だ」
泣きながらすがり付くエドゥアルトを、アレクセイは片手で胸に抱き締めた。ジークフリートはこの子を連れて飛び込まなかった、そのことに感謝した。
「お父さんは強いんだ。このくらいでは死なないさ。お母さんとエドとクラーラを残して、お父さんはいなくなったりはしないよ。何も言わずに消えたりなんかしない、絶対に」
そう、俺は家族を守ってみせる。あいつみたいに自分の組織のことだけを考えて消えたりはしない、アレクセイはそう誓った。
「救急車両でソビエト軍病院へ搬送します」
太陽が沈み、あたりを暗闇が覆った。爆発したタクシーの消火活動が続けられる中、アレクセイ・ジューコフ中佐は病院へ搬送された。




