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2-12 息子よ

 エドゥアルト・ノイマンは7歳、この9月に小学校に入ったばかりである。金髪の多いドイツ人のなかでも、際立って美しい、輝くような金髪に青い瞳の少年である。端正な顔立ちとおとなしい性格のせいもあり、他の保育所から来た女子たちから、「きれいな金髪、いいな、いいな」と髪を触られがちだが、そんな時は同じ保育園出身で今も同じクラスにいるアンナが追っ払ってくれる。アンナは「将来はエドのお嫁さん」と固く心に決めている女子で、非常に頼りがいがあった。アンナは毎日いろいろなことを話してくれる。この間の日曜日は祖父母が遊びに来て、新しいお人形の家をもらったらしい。そんな時、ふとエドゥアルトは思う。ぼくの家はお父さん、お母さん、妹のクラーラだけだ、と。もちろん大抵みんなそんな家族構成で住んでいるのだが、ちょっと離れたところにシンセキなるものがいることが多い。だが、自分には祖父母も叔父・叔母・いとこもいなかった。センソウというものがあり、父も母もよその土地からドレスデンにやってきた、と言っていた。だから、シンセキとは連絡が取れないのかな、とエドゥアルトは自分を納得させるしかなかった。なんせ戦争で父か母、あるいは両方とも亡くしている話もあるくらいなのだ。

 彼の心の中には、いろいろと納得できないことが多かった。一番小さいころの記憶は、家に茶色い服のおじさんたちがいっぱいやってきたことだった。お母さまも、ギゼラ先生も怖がってしまい、それが自分とカールにも伝わって夜中に目を覚まして泣いてしまった。カールはギゼラ先生のこどもで、一緒に兄弟のように育った。しばらくして茶色い服のおじさんたちは、そう悪い人たちではないことがわかって安心できた。中でもアレクセイおじさんはエドゥアルトのことをよくかわいがってくれた。

 きれいで大きなおうちに住んでいたはずなのに、小さな家に引っ越すことになって悲しい思いもした。何回も引っ越した。そのうち、お母様はお友達のマルタさんとお店を始めた。エドゥアルトはギゼラ先生が配給を取りに行っているときなど、店のカウンターの奥でカールとおとなしく遊んでいた。時々アレクセイおじさんがやってきてお菓子をくれた。ただ、ギゼラ先生は「お父様はきっと生きてらっしゃるから」ばかりを繰り返し少年に言っていたのだ。エドゥアルトはいつもお父様、お母様、エドゥアルトの3人で撮った写真を見ていた。

 4歳のある日急に、アレクセイおじさんが「今日からお前の父さんだ」と言い出した。お母さまのことも、「お母さん」と呼ぶように直された。どうしてお父様Vaterではなく、お父さんPapaであり、お母さまMutterのこともお母さんMamaと呼ぶよう変えられてしまったのかわからなかった。ただ、間違えて呼んだ場合は毎回直された。アレクセイおじさんのことは大好きだったので、一緒に住むことはうれしかった。お母さまも嬉しそうだった。じゃあ、ギゼラ先生の言っていた、あの写真のお父さまVaterはどこに行ってしまったのだろう、とエドゥアルトは疑問に思っていた。ギゼラ先生とカールも突然いなくなってしまった。おいしいごはんを作ってくれていたフリーダもいなくなった。写真もどこかにいってしまい、もうお父様の顔も思い出せなくなっていった。このことについてお母さまからは何の説明もなかった。しかし、エドゥアルトはこども心に聞いてはいけないと思っていた。

 去年、妹が生まれた。これはエドゥアルトにとって、とてもうれしい出来事だった。というのも、保育園でも学校でも、友達には大抵きょうだいがいたので、一人っ子だったエドゥアルトは少し肩身の狭い思いをしていたのだ。妹のクラーラは茶色い髪をしていた。ちょうどお父さんの黒髪とお母さんの金髪の色を混ぜたみたいだった。ではどうして自分の髪は太陽のように輝く金髪なのだろう、と疑問に思った。自分は大好きなお父さんにはちっとも似ていないのだ。


 11月のある晴れた日、エドゥアルトはアンナと一緒に小学校の校門を出た。二人はいつも一緒に小学校から学童保育へ歩いていく。歩くといっても、学童保育は小学校と敷地が隣接していた。歩く公道は100mほどの歩道で、子供だけでも安全な道だった。この日も大勢の1年生が学童保育に向かっていた。

「エドゥアルト」

 エドゥアルトとアンナは声のしたほうを向いた。エドゥアルトと同じ輝くような金髪の男性がタクシーの側に立っていた。

「お母さんに頼まれたんだ。今日は学童保育に行かず、一緒に来て欲しいって」

 知らない人だったので、エドゥアルトはどうしようか考えた。先に口を開いたのはアンナだった。

「おじさん、エドのシンセキの人? とてもにているわ。おなじかみの色ね」

 男性は柔和な微笑みを浮かべた。

「そう、親戚なんだ。だから髪色が同じなんだよ。ええと、君はエドゥアルトのお友達かな?」

「そうよ。あたしはアンナ・シェーファー。エドのいちばんのシンユウよ」

「そうか、フロイライン・アンナ。じゃあ学童の先生に、エドゥアルトは今日は休んで家に帰るって言っておいてくれるかい? 親友ならできるね?」

「おやすいごようよ」

 エドゥアルトは断る機会を逸してしまい、タクシーに乗せられた。

「エド! またあしたね!」

 エドゥアルトは遠ざかるアンナを、車窓から見ていた。ふと気づくと、後部座席の隣に座る知らない金髪の男性は、エドゥアルトを悲し気な目で見ていた。この人をどこかで見たことがある。けれどどうしてこんなに悲しそうな顔で僕を見るのだろう。大人なのに泣きそうだ、とエドゥアルトは思った。

「エドゥアルトは、1年生なのかな?」

「はい、そうです」

「学校の勉強は何が好き?」

「さんすう」

「そうか……がんばっているんだね」

 この見知らぬおじさんは優し気だ。自分と同じ髪の色、目の色だった。どこで見たのだろう。どこか懐かし気だ。

「あの……おかあさんはどこに?」

「ああ、すまない。お母さんはケガをしてベルリンの病院に運ばれたんだ。だから、僕たちも長距離特急でベルリンに向かおう」

「ええ! ケガをしたの? だいじょうぶなの?」

「命には別状ない。安心していいよ」

「おとうさんとクラーラは?」

「ああ……その二人はまだなんだ。とりあえず、急いで君だけを連れていくんだ」


 アンナ・シェーファーはシンユウとして責任ある業務を遂行するため、学童保育のドアをくぐるや否や、先生に声をかけた。

「せんせい、エドゥアルト・ノイマンくんはきょうはやすんでいえにかえるって」

「え? おうちからそんな連絡はなかったけどね」

「今ね、きれいな金髪のおじさんがタクシーでむかえにきてたの。エドににてるおかおでね、シンセキの人だって」

 ソビエト占領軍政府とドイツ人民警察からエドゥアルト・ノイマンは重要保護対象児童として指定されていたのを、教員は覚えていた。すぐに所長がMGBと警察へ連絡を入れる。空振りならいい、だが手配犯による誘拐となっては小学校も学童保育もそれ相当の処分を受ける可能性があった。MGB職員が来るまでの間、小学校職員も全員動員され、付近を探し回った。だが、すでにタクシーで遠くへ移動したエドゥアルトは見つからなかった。

 ドイツ人民警察とソビエトのMGBの制服職員が到着し、こどもたちも騒然として、泣き出す子も出た。アンナは教員に付き添われ、黒い制服と茶色い制服のおじさんたちに囲まれた。だが、彼女は臆することはなかった。

「この子が、連れ去られるところを見たそうです」

 なんだか私は重要な目撃者なのね、エドのためなら何だってするわ、とアンナは得意げにうなづいた。

「お嬢ちゃん、どんな人だったか覚えてるかな?」

「うん、すごくエドゥアルトににてるおかおのおじさんだったわ。おなじようにきれいなキンパツだったの。だからわたし、シンセキの人かなっておもったわ」

 この発言で、MGBのほうは「これは絶対あの手配犯だ!」という確信を得た。

「タクシーのナンバーまでは1年生では無理かな?」

「おぼえているわよ。E45-91よ。ちなみにシャシュはワルトブルクで色は黒よ。あたしはパパが車好きだから、車にはくわしいのよ」

「ええ、お嬢ちゃん、すごいね。表彰ものだよ。番号まで覚えてたの?」

「わたしはエドのお嫁さんになるんだから、知らないことはないわよ」

 アンナは得意満面だった。すぐにドレスデン新駅およびドレスデン中央駅、主要な幹線道路に緊急警戒態勢と検問が敷かれた。


 タクシーの運転手は、後部座席の二人がよく似た父子に見えたが、どうも他人のような会話をしているので怪しいと思っていた。ちょうどそこへ、無線で緊急連絡が入った。

「お客さん、すみません。そこのガソリンスタンドに寄らせてください」

「なんだ? ガソリンならあるじゃないか」

 ジークフリート・フォン・リヒテンラーデはガソリンの表示を見ながら不満そうに言った。

「本社からすぐに電話を入れるよう無線指示なんです。すみません、すぐ終わりますので」

 運転手はガソリンスタンドの公衆電話へ走って行ってしまった。

「まずいな……東側の監視社会はここまで反応が速いのか。となると……」

 チラチラとこちらを見ながら運転手は電話をかけていた。さっきの学童保育が通報したのか? このままじゃ誘拐犯人扱いだ。ジークフリートは後部座席から降り、運転席に乗り込んだ。

「え、おじさん、そんなことしたらだめだよ。おこられるよ」

 エドゥアルトが驚いて止めるのも聞かず、ジークフリートはタクシーを乗っ取り、発車させた。


 タクシーが乗っ取られたという連絡は、すぐに警察とMGBに入った。

「お前の身内が被害者だ、総指揮は任せられん。しばらくは検問とパトロールからの連絡を待て」

 ソローキン大佐の言葉を受け、アレクセイはMGB事務所で待機していることしかできず、やきもきしていた。護衛をつけたはずではなかったのか。護衛責任者のレオニードによると、小学校への登校はアレクセイの公用車、小学校から学童保育への移動は敷地が隣接しているため、護衛は学童保育から家までの帰りのみ配置していたらしい。この一瞬の隙をついてジークフリートはエドゥアルトを誘拐したのである。大佐のほうも、まさかこの100mにも満たない道が問題になるとは思ってはいなかった。

「エリザベートのほうに先に接触があるかと睨んでいたのだが、何も様子が変わったことはなかったのか」

「いえ、何も……」

 ソローキン大佐の言葉にアレクセイはうなだれた。ここのところ、持ち帰り仕事が多く、エリザベートとあまりゆっくり話せていなかったことも悔やまれた。

「ナンバープレートが分かっているんだ、すぐに手配に引っ掛かるはずだが、おい、ヴォルコフ大尉、それはなんだ?」

 ソローキン大佐はレオニードのいじっている機械を見た。光っている点が動いている。

「新型の技術でして……ジューコフ中佐がエドゥアルト君の靴に埋め込んだ発信器です。駅のほうには向かっていない……うーん、まだ精度がいまいちかあ」

「どっちへ向かっている?」

 大佐は興味深げに覗き込んだ。

「エルベ川沿いに走っています」

「それじゃあ、全くおかしいじゃないか。そんな機械に頼るより、人間の目を使った監視のほうが確かだ。おい、警察車両からの無線はまだなのか!」

 そこへ、別の部屋から士官がかけこんできた。

「ジューコフ中佐、奥さまと連絡が取れました。保育園と繋がっています。電話口へどうぞ」


 エリザベートはドレスデン医科大学を出た後、徒歩でクラーラの保育園に向かった。乳幼児を抱える親のための時短制度を利用しており、彼女の勤務時間は3時までであった。この時点でまだ2時半であったが、ジークフリートとのゴタゴタがあり、大学との打ち合わせも尻切れトンボであったが、もうまた次にしよう、直帰するって言ってきたし、早いけどまあいいでしょ、と生来の気楽さも相まって、街をぶらぶらしながら保育園に向かった。

 エドゥアルトの誘拐情報を察知したMGBの命令で、ドイツ人民警察はフォルクス・テキスタイル社にすぐ連絡したが、エリザベートは大学に出かけているということで連絡できなかった。警察は大学にも連絡したが、すでに帰ったということだった。よって、エリザベートがようやく捕まったのは、午後3時、クラーラの保育園に迎えに来た時であった。エリザベートが何事だと思いながら、保育園の電話に出ると、ロシア語で捲し立てられた。

「奥さん、ちょっと待っててください。ジューコフ中佐に代わります」

 しばらく待たされ、アレクセイが電話口に出た。

「リーザ、クラーラは一緒にいるのか?」

「え? それはもちろんよ? クラーラを迎えに来てるんだから。何? どうしたの?」

「落ち着いて聞くんだ。エドゥアルトが誘拐された。連れ去ったのは、ジークフリート・フォン・リヒテンラーデ、君の元夫だ」

 エリザベートは混乱して、何を言われているのか理解が出来なかった。

「な……? ええ?」

「我々はずっと彼を追っていた。やつは最近君の前には現れていないのか?」

「我々? 追っていた? なぜジークフリートを?」

「頼む、答えてくれ。エドが西側に連れて行かれたら、我々は一切手出しが出来ない。一刻を争うんだ」

 エリザベートはようやく事情を理解した。ほんの数時間前に姿を現したジークフリートはまず私を連れ出し、エドゥアルトも一緒に連れ出す予定だったのだろう。だが、私が西側行を断った。だから、エドゥアルトだけでもと無理やり連れ去ったのだ。そしておそらくはエドゥアルトを人質にし、私のことも呼び寄せるつもりなのだ。ああ、家に帰ってからとか、3日待とうなんて思わず、すぐにアレクセイに電話をしていればよかった。エリザベートは歯がかみ合わなくなってくるのを感じた。どうしよう、もうエドゥアルトに会えなくなる……

「リーザ? どうなんだ。ジークフリートに会ったのか」

「……ジークフリートは今日ドレスデン医科大学に現れました」

 ほとんど棒読みにエリザベートは言った。

「今日だって? 大学に? それで君は何か話したのか?」

「話したわ。一緒に来て欲しいと言われた。もちろん断ったわ。かなり話し合って、それで納得してくれたみたいだったけれど」

「そうか、君に断られ、発作的に子供のほうを拐ったんだな。どこから行くとか、どこへ向かうとか言っていなかったか」

「アルゼンチンに行こうって、いいえ、今日エルベ川に迎えが来ると」

「エルベ川。分かった。リーザ、クラーラと一緒にそこから動くな! 迎えの車を行かせる」

「はい……」

 受話器を置き、エリザベートはその場にへたりこんだ。ドイツ人民警察とMGBが総力を挙げて追跡してくれるだろう。きっとエドゥアルトは見つかるはず、と思いたかった。戦争犯罪人としての追及はここまで厳しいものなのか。一人入って来た恐れだけで、ここまでドイツとソビエトが動くのか。それをわかってジークフリートは5年間姿を消していた。そして危険を冒して東側に潜入してきた。その決死の覚悟を、今更ながらエリザベートは思い知った。


「エルベ川沿いに走る手配ナンバーのタクシーを発見、追跡中です」

「よし、発信機は正しかった。我々も急行するぞ」

 アレクセイはレオニードと共に車に乗り、向かった。レオニードの手には長距離スコープを設置したライフルがあった。


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