2-11 失った愛
気がつくと教授と秘書は姿を消し、エリザベートはジークフリートと二人、テーブルに座っていた。立ち去る前に秘書の入れてくれたコーヒーを、ジークフリートは手に取った。エリザベートは目の前にいるこの男が、夢なのか幻なのかわからなかった。本物なのだろうか、私はついに頭がおかしくなったのだろうか。
「まあ、夫婦の再会を祝おうじゃないか」
ジークフリートはコーヒーを勧めたが、彼女は飲む気分にはならなかった。背中で冷たい汗が落ちるのを感じる。
「ずいぶん探したよ。まさか『東』のこんな奥地にいるとは驚いた」
探した? 私は今リーザ・ノイマンという名だ。どうやって? いや、探して見つけて会いに来たということは、私が今アレクセイと一緒に暮らしていることも、彼の子を産んだことも知っているのだろうか。
「何か言ってくれ、エリザベート。再会してから全く声を聞かせてくれていないじゃないか」
「今までどうしていたの?」
エリザベートはやっとのことで声を出した。ジークフリートは困ったようにちょっと笑った。
「そんなことを話すと長くなるけど、聞きたいのかい?」
「言って!」
エリザベートの口調は刺々しかった。ジークフリートが最後に連絡してきたのはいつだった? 1944年12月? しかも電話だった。そこから5年近くたつ? 5年間、手紙一通、電話一本なかった。残された家族がどんな思いをしているのか全く想像しなかったのだろうか。
「……1945年3月、ベルリンから西へ移動して米軍に投降した。その後しばらく捕虜収容所で過ごし、2年後に釈放されてオデッサの拠点となっていたミュンヘンのカトリック教会に行った。そこからイタリア、スペインを経てアルゼンチンに渡った。その後元親衛隊員の逃亡と生活を助ける団体の構築に奔走した。ようやく落ち着いてきたので、戻ってこれた。僕はアルゼンチン人リカルド・ベッカーの名で、西ベルリンまで来た。地下から東ベルリンに入り、次の協力者から東ドイツ人リカルド・ベッカーの身分証明書を受け取った」
「捕虜収容所って……親衛隊員であることは問題にならなかったの? 戦犯裁判には?」
エリザベートはジークフリートについて、一番気がかりだったことについて口にした。西側でやっているニュルンベルク軍事裁判や極東軍事裁判については、過剰とも言えるほどに報道されていた。ソビエト占領地区でも多くの裁判が行われていた。とにかく戦争の原因と責任は敗戦国にあるというのが論調だった。
「国防軍士官の制服を着て徴兵組に化けた」
「あの入れ墨は?」
親衛隊員は左脇の下、上腕部に小さく血液型の入れ墨をしていた。選ばれし優秀なエリートが優先的に輸血を受けるためであったが、戦後この入れ墨は親衛隊員であることの動かぬ証拠になっていたのだ。
「年内にルドルフから消す手術をしてもらった」
「ルドルフには西へ偽名で逃げることを話していたの?」
「ああ。上級幹部は何人も彼の所で手術をしてもらったからね」
「ルドルフには逃げることを話していたのね? どうして私に何も言わずに消えたの?」
エリザベートの心は怒りと失望でいっぱいになり、声は震えた。いくら親友とはいえ、友人には話し、妻には話さなかった。妻を信用していなかった、この元夫の心が憎く、そして悲しかった。
「えらく矢継ぎ早だね、エリザベート。君に言わなかった理由は、もしも君が連合国に拘束され、僕のことで尋問されたることになったら、黙ってはいられないだろうと思ったのでね」
人をバカにしている。全く妻の能力も人格も認めない考えだ。知らなければ平穏に暮らせるとでも? この5年間、私がどれほど葛藤したか想像もしていないのか。
「エリザベート、こんなことを話している場合じゃないんだ。エドゥアルトを連れて、この足で西側へ往こう。今夜エルベ川から船を出してもらえる、さあ」
ジークフリートはテーブルに置かれたエリザベートの左手を握った。途端にエリザベートは身体中の毛が逆立つような感覚に襲われた。ジークフリートは彼女の薬指の指輪に気付き、手を離した。
「僕の贈った結婚指輪じゃないんだね」
おそらくすべて知っているであろうに、私の口から言わせたいのだろうか。私の裏切りを、不貞を責めるために彼はここまでやってきたのだろうか。エリザベートは右手で結婚指輪をさすった。
「私、別の人と結婚したの。その人と一緒に暮らしている」
「僕という夫がまだ生きているのに? 失踪宣告が適用されたのか?」
MGBのアバクーモフ大臣との裏取引など、口にできるはずもなく、エリザベートは目線をそらし、ごまかした。
「……いろいろあって、リーザ・ノイマンになった」
「エリザベート・フォン・リヒテンラーデ、君は教会の祭壇で、神の前で誓った僕の妻だ。こんな貧しい自由のない国を出て、豊かな西側へ行こう。すぐに以前の優雅な伯爵夫人に戻れる」
「戻れるって……そんな簡単に言わないで」
「確かに簡単ではない。我々家族の元の身分はすべて死亡扱いだ。伝手と金のない人間にとって脱出は至難の業だろう。だが、僕はこうしてここへやって来れた。ここから脱出するルートも確認してある。一緒に来て欲しい。本当の、君自身の人生を取り戻してほしい。君とエドゥアルトの身分証明書も手に入れている。さあ、さっきも言ったが、何も持ち出さなくていい、この足で行こう」
「……彼との間に娘がいるわ。1歳になるの」
「その娘はドレスデンに置いていくんだ。エドゥアルトの妹や弟が欲しければ、僕との間にこれから何人でも子供を作ろう。純粋なドイツアーリア人の金髪碧眼の優秀な子供を」
なんの躊躇も驚きもなく、娘を捨てろと言ったジークフリートの言葉に、エリザベートは自分の心臓の音を聞いたような気がした。身の毛がよだつ、というのはこの事だろうか。エリザベートは怒り、屈辱、生理的嫌悪感すべてで体が内側からはち切れ、崩壊しそうだった。この人の子を産む? いや、それ以前にこの男に抱かれる? かつてはそうしていた。エドゥアルトも授かった。そうだ、かつて私とこの人との間には、二人目の子供を作るという重圧があった。エリザベートの脳裏に、遠く忘れ去った記憶が蘇った。空襲とガソリン不足でなかなか家に戻れない夫を待ち、性交痛に耐えながら子作りをする夜。月経が来る度の失望と涙。今再びそのような日々に戻るなんて想像もしたくなかった。
「私は、あなたとは行かない」
アバクーモフ大臣に捕まった3年前のあの日、アレクセイは「新しい父親としてエドゥアルトを育てたい」と言ってくれた。この3年間彼がどれほどエドゥアルトを可愛がり、世話をしてくれた? 目の前の男は「娘を捨ててこい」と言う。私が何ヵ月もお腹で育て、苦しい思いで産んだ娘を。スラブ人の血を引くクラーラの命は、この男にとって生存するに値しない、虫けら以下の存在なのだ。
「ぞっとするわ、ジークフリート」
エリザベートは涙を浮かべた瞳で元夫を睨み付けた。
「あなたにはあなたの大義があるのでしょう。私もかつては信じていた大義だわ。けれど私は今、こっちの世界で生きていくと決めているの。私はもう親衛隊中佐夫人とか、伯爵夫人とかいう『添え物』の人生でありたくない。自分自身の人生を歩みたい。ドイツ民主共和国の一人の労働者として生きて行きたいの」
「君が今、服飾会社で働いていることは知っている。だが、社会主義の人民公社で働くよりも、アルゼンチンに行ったほうが自由に働けるよ。起業だってできる。それに、働くのはつらいだろう。手が荒れていた。君に労働は似合わないよ。以前のように家を守ってくれていたらいい。そんな既製品の量産品を着ずに、オーダーメイドの衣装と宝石が君には似合う」
自分の着ている服をばかにされ、エリザベートは相手にコーヒーをかけてやろうかと思うほど、頭に血が昇った。
「社会主義をバカにしないで! この服はうちの会社で作った自信作なのよ! だいたいあなたの作った国家は女性を二等臣民扱いしてきた。教育も働く場所も与えず、女性にはなんの決定権もなかった。ずっと職業訓練も受けられず、手に職もなかった女性たちが、戦後働かなくてはならなくなって、どんなに苦労したと思う?」
エリザベートは、ナチスが政権を取り、大学入学定員のうち女子は10%以下と定められたせいで、自分が大学入試に落ちた恨みを思い出した。(大学入試のことは今の話にはなんの関係もなかったが、彼女の根底にある恨みだった) まるで自分が女性代表になったかのように、エリザベートはジークフリートに怒りをぶつけた。
「そもそも男性が勝手に始めた戦争なのに、それなのに、どうして女性の涙であがなわなければならなかったの?」
「君は連合国軍による性暴力被害には合わなかったのだろう?」
エリザベートは指で涙をぬぐった。
「襲われたわ。殴りつけられた」
「けれど、すんでの所で助けられた、赤軍の憲兵少佐に」
「そこまで知っているの? じゃあアレクセイ・ジューコフのことも知ってて来たのね。ルドルフだけじゃなく、ギゼラやフリーダにも会ったの? お兄様にも?」
「僕が連絡を取っているのは後にも先にもルドルフだけだ。彼がハンブルクのクノーベルスドルフ家から情報を仕入れてくれた」
「妻よりも信頼できる友達ってことね」
エリザベートは皮肉をこめて言った。そんなにルドルフを信用できるなら、彼と結婚すればいいのだ。
「とにかくだ、エリザベート。君は今でも僕の妻だ。あのロシア人との不貞は忘れてやる。一緒に来るんだ。エドゥアルトも一緒に共産圏から脱出しよう」
「行かないって言ったじゃない!」
エリザベートは大声を出し、テーブルをたたいた。彼女の手つかずのコーヒーが揺れて、カップから溢れた。ジークフリートは誇りを傷つけられたような顔をし、眉をひそめた。
「レディーがそんな態度を取るものじゃないよ。君はそんな人ではなかったのに……それにしても、そこまで拒否するとは、理由を聞かせてもらえるかい? アレクセイとやらに脅されているのか?」
「脅されてなんかないわよ。私は自分の意思で東側に残ったのよ。理由なんて、そんなことを聞いてどうするの?」
「いいから言ってくれ」
エリザベートは涙をぬぐい、落ち着いて話し始めた。
「あなたはソビエト赤軍の恐ろしさを知っていた。だから自分は西へ行き、米軍に投降したと言ったわね。赤軍が捕虜にしろ、非戦闘員にしろ、どういう扱いをするか知っていたのでしょう。私とエドゥアルトを、いいえ、家の使用人たちも全員赤軍が迫るベルリンに放っておいて! そうよ、何百万もの市民を全員放っておいて。ベルリンから出る許可を与えずに」
「君は無事だったんだろう?」
「そんなことは結果論に過ぎない。強姦や殺人、略奪の話は戦後いつまで立っても聞こえてきたわ。私の友人知人も被害にあったわ」
「そんなことで怒っているのか」
「そんなことって何? あなたにとって、国民の被害は『そんなこと』っていうひとことで済ませられることなの? 国の指導者達が逃げ出して、味方であるはずのドイツ軍が守ってくれなくて、結果的に私たちを守ってくれたのは、敵である赤軍の憲兵隊だったわ。ひどいパラドックスだった。屋敷を憲兵隊が接収したことで、逆に乱暴狼藉を働くような兵卒たちは入ってこれなくなったのよ。けれど夏には英軍が到着して、みんな屋敷から追い出されたわ。その際の引継ぎにもアレクセイが立ち会ってくれて……私たちはその後、住居を転々とした。ずっとずっとアレクセイは守ってくれた。私との交際がバレたら軍法会議ものだったのに。彼は命がけで私を愛してくれたのよ。あなたがいなくなったから。私はひとりぼっちだったから。彼はずっとそばで……」
エリザベートは、終戦からの日々を思い出し、感極まって言葉に詰まった。空襲が止み、赤軍の長距離砲の爆発音と地響きが聞こえた日。あの恐怖と不安で押しつぶされそうな日々。カーキ色の制服の敵兵を初めて見た日。家を占領されて絶望した日々。ソビエト人に話が通じると分かったときの安堵感……そんなことを自分はこの人なしで乗り越えて来たのだ。目の前にいる元夫は、私のことよりも組織と親友を重んじたのだ。
「ジークフリート、あなたはさっき『クラーラはドレスデンに置いていけ』って言ったけれど、アレクセイは『エドゥアルトを一緒に育てよう』って言ってくれたのよ。継父として3年以上、彼はエドゥアルトを可愛がってくれているわ」
そうだ、私はクラーラを妊娠するのにも時間がかかった。アレクセイだって実子が欲しかったに違いないのに、「二人目は出来ても出来なくてもどっちでもいい。俺たちにはもうエドゥアルトがいるのだから」と言ってくれたのだ。エドゥアルトを一人目の子供として数えていてくれたのだ。4人の子を産めと私に強要した、この夫とは違うのだ。
「君がアレクセイ・ジューコフに心を惹かれたのは、生存戦略に過ぎない。彼がソビエト連邦軍の中で地位のある人物で、彼のそばにいれば食糧も安全も手に入ったからだ。今だってそうだろう。君が住んでいる家も確認させてもらったよ。市民が瓦礫の下の地下室に住んでいるこの街で、あいつの特権のおかげで君は市民の上位1%の暮らしをしている。エリザベート、自由と誇りを取り戻そう、君はドイツの貴族なんだぞ。帝国が分断されたままで平気なのか? アルゼンチンで我々は第四の帝国を打ち立てようと準備しているんだ」
「正気なの? では私たちはあなたについて行ったら、その第四帝国とやらの建設の手伝いをさせられるの?」
「そうだ。旧貴族階級の我々は新しい帝国の指導者としてふさわしい。ドイツ純血のエドゥアルトは次世代の総統になれるかもしれない」
「貴族なんてもっと前の戦争で廃止されたじゃない! 第四の帝国ですって? あなたのほうこそ、どうかしているわ。総統閣下はもういない。どうしてそんな、とっくに滅び去ったものにしがみついているの? だいたい資金源は何なの? 可哀そうなユダヤ人から奪った資産? そっちのほうが恥知らずだわ」
「たった5年で、そこまで第三帝国をあしざまに言うほど洗脳されたのか。東側にずっと住む気なのか? 君はなぜソビエトとジューコフ中佐の支配に甘んじている? 君は自分達が本当に愛し合っていると信じているのか? 人から見れば君たちの関係は、打算に満ちた共生関係を利用した、傷の舐め会いそのものだ。君は彼から安定した生活を受け取り、彼は旧支配層の君を傍に置いて戦争の勝利を味わっているんだ。ソビエトの力に頼るなんて、あんな虚構、すぐにでも滅びていくぞ」
「虚構と言うなら、第三帝国は1000年続く予定が12年しか続かなかったわ。その12年のせいで、どれほどの人の人生が狂わされた? どれほどの人が死んだ? ソビエトはもう30年にもなる。アレクセイは私の過去を全部ひっくるめて愛し、守ってくれているの。彼の絶対的な支配の下で、私は安住と幸福を感じられる」
そしてエリザベートは息を吸った。これから口にすることは、はしたなく、相手を最も傷つける言葉だ。
「私はアレクセイ・ジューコフを心の底から愛している。過去をすべて捨てて、これからの人生をアレクセイと一緒にいようと思って、一緒に来た。私は彼の腕の中で、女としての悦びを初めて知った。それは、あなたが決して与えてくれなかったことよ」
自由とか豊かな生活が問題なのではない。ましてや、今や称号だけに慣れ果てた貴族の位など何の値打ちがあるだろうか。女にとっては、その男を愛しているか、愛されているかだけが問題なのだ。エリザベートはアレクセイが夜ごと与えてくれる、自分が生きているという実感を思った。私は第三帝国時代、ジークフリートと一緒にいて、あれほど裕福で自由であったはずなのに、どこか満たされず、何が欲しいのかもわからなかったのだ。
「わかったよ、エリザベート」
ジークフリートは溜息をつき、椅子から立ち上がった。もう私の心がこの人にはないことを、ようやく理解してくれたのだろうか。エリザベートもつられて立ち上がった。ドアに手をかけ、彼は思い出したように言った。
「キスしていいかい? 愛する妻よ」
エリザベートがどう返事をしたものか迷っている間に、ジークフリートの右手が彼女の頬に触れた。冷たい唇が重なる。軽く抱き締められ、彼が昔も好んでつけていたオー・ドゥ・コローニュ・ファリーナの爽やかな柑橘の香りが、少女時代の甘い恋を思い出させた。そうだ、私は確かにこの人を愛していた。
「ジーク……ごめんなさい。私はあなたを裏切った……どんな言い訳をしようと、それは許されることではないわ」
神の前で「死が二人を別つまで」と誓った夫を裏切り、他の男と関係を持った。そしてその男は夫が命がけで戦った敵の一人だったのだ。アレクセイを愛したことは、神からも世間からも夫からも許されることではない。ジークフリートは何も答えず、体を離した。
「元気で、エリザベート」
「あなたもお元気で、ごきげんよう」
エリザベートは戦後何年も使うことのなかった、貴族的な言葉使いで別れの挨拶をした。
長い廊下の先でジークフリートは曲がり、姿は見えなくなった。エリザベートは部屋の中に戻り、ドアを閉めた。彼女はあのまま戦争に負けなければ、ジークフリートと歩んだはずの人生を思った。そうなっていたらどうだっただろうと思いをはせた。夫の地位と裕福な実家のおかげで、何の苦労も知らない人生だっただろう。どこか満たされない魂の渇望を抱きながらも、そのことにすら気付かない「幸福な」人生だったのだろう。だがもうこれで、あの人と会うこともないだろうし、二人の人生が交差することもないのだ。
エリザベートは自分の口にした言葉を思い出していた。「彼の絶対的な支配の下で、私は安住と幸福を感じられる」、か。ここ何年かのアレクセイとの生活で、常にソビエトの支配と圧力を感じ、時として幸福を感じられなくなっていた。だが、今彼女は自分でも驚くほどの幸福と魂の充足感を取り戻していた。ジークフリートのいう、豊かな自由など欲しくはなかった。第三帝国時代、どれほど豊かで自由であっても、私はいつも魂の渇望に悩まされていた。
今この社会主義の世界の、質素でさほど自由のない生活で、私はアレクセイから支配され全力で守られていることを日々実感し、その中で幸福を感じているのだ。なんということはない、私は彼の愛し方が好きなのだ。心から愛され、必要とされていることで自己肯定感が与えられているのだ。そして勤めに出て、社会の歯車として働き、女中なしで家を切り盛りする、そんな毎日が好きで満たされているのだ。
ジークフリートが現れ、西へと誘われたが断った。けれどキスして抱き締められた。これはアレクセイに話すべきだろうかと、エリザベートは逡巡した。話すべきだろうとは思った。エリザベートは今すぐアレクセイに会い、キスしてもらいたかった。ジークフリートのキスを拭い去ってほしかった。きっと話したら、嫉妬してめちゃくちゃ激しく抱いてくれるわ、お前は俺の支配下にある、あいつには渡さない、俺のものだって、うんざりするほど聞かされて、同じ言葉を言わされる。それでいい、魂も体もアレクセイの支配下にいたい。
しかし、戦犯裁判のことは彼女も知っていた。もう愛は残っていないとはいえ、捕まってほしくはなかったし、処刑などとんでもなかった。実際彼女は戦犯訴追を受け指名手配されている政府高官たちのことも、なんとか助かってほしいと思っていたのだ。会ったことのある人たちも多く、みんな彼女にとっては「いい方」だったのだ。
3日黙っていよう。3日あればジークフリートは西側へ脱出できるはずだ。それがエリザベートの出した結論だった。だが、3日どころか2時間後には事態は大きく動き出すのである。




