2-10 再会
1949年9月、エドゥアルトが基礎学校に入学した。なんと新入生代表で挨拶をすることになり、アレクセイも休みを取って出席した。エリザベートはまず、会場にソビエトの赤旗が大きく飾ってあることに辟易し、来賓にソビエトの制服軍人がいることに既視感を覚え、入学式の最後にインターナショナルが流れた頃にはもう、諦めに似た境地となった。だが、新聞社の取材があったらしく、エドゥアルトが挨拶している姿は写真入りで掲載された。夫妻は大喜びし、新聞の切り抜きを額縁に入れて居間に飾った。
10月7日には、ドイツ民主共和国(東ドイツ)が独立を宣言した。東プロイセンと、オーデルナイセ以東をごっそり取られ、先んじて独立を宣言していたドイツ連邦共和国(西ドイツ)に比べて面積も人口も小さな国だった。
エドゥアルトは小学校に楽しく通っていたが、いつまでも生活発表会の時のインターナショナルを歌うので、エリザベートは業を煮やして
「どうして保育園の時のお歌を歌っているの? 小学校では新しいお歌を習わないの?」
と聞いてみた。
「小学校でも、この歌をしょっちゅう歌うんだ」
このことはまたアレクセイを喜ばせた。
「5年生からはロシア語を勉強するんだって。難しそうだけど、僕も習ってみたい」
この言葉はアレクセイをさらに喜ばせ、早速キリル文字を教え始めた。ドイツ語もまだおぼつかないのに、とエリザベートが言っても二人は聞く耳を持たず、もはや家庭内も完全にソビエトの占領下になった。
この少し前、31歳のエリザベートは出産支援服部門をはずれ、子供服部門に移り係長となった。彼女は自分とアレクセイとの関係のことも、東ドイツとソビエトとの関係も、考えてもどうしようもないことは受け入れるしかない、と結論づけてしまっていた。受け入れるために、せめてこの体制の中で与えられた役割で、一生懸命働いてやりがいを見出したかった。職業を与えてもらったことについては、一貫して感謝の気持ちが大きかった。アレクセイとの間にも娘がおり、今更この関係をどうこうできるわけでもない。それにやはり、「この人のことが好きだ」という思いはあった。ただ、占領下のベルリンでは当然のこととして、気にならなかった「ソビエトの支配」を家庭内でも感じさせるアレクセイの言動に対し、ドレスデンでは気になってしまうだけなのだ。ドイツ人の夫を持つ同僚たちの話では、たいていの夫たちは家庭内では家事育児を碌にしないくせに発言権は大きく、妻たちの不満は大きかった。ドレスデンに来た当初、エリザベートが家事の負担を訴えて以来、アレクセイは積極的に家事にも育児にも取り組んでくれていた。最近の彼の関心ごとはクラーラがいつ歩き始めるかということだった。テーブルにつかまり立ちしているクラーラに対し、「ほら、頑張れ頑張れ、こっちに来い」と少し離れた所から手を出して呼び続けるのだ。
そうすると、アレクセイに対していろいろ思うところがあるのは、ソビエト・ドイツ問題ではなく、自分の心の問題なのだろうかとも思ったりもした。
「どういう役割の係長なんだい?」
アレクセイはソファでクラーラを腕に抱き、背中をトントンして寝かしつけながら聞いた。彼は穏やかな父親の顔をしていたが、頭の中では「ついに始まったか」という思いでいっぱいだった。
「それが、広報とかイベント企画なの。華やかに思われてるみたいで、みんなからは羨ましがられる異動なんだけど、今まで製品作る方だったから、畑違いなのよ」
「でも、同じ子供服なんだ、きっと君なら出来るさ。君は社交的だし、合ってると思うよ。どんなことから進めて行くんだい?」
「クラーラがお腹にいたころ、ドレスデン医科大学の治験に協力して、みんなで参加したこと覚えてる? あの時とは別の形成外科の教授から、子供服の提供依頼があってね。その交渉をしてて」
ああ、覚えているさ。頼まれて気軽に参加したあのイベントのせいで、こっちは大変なことになっているんだよ、と思いながらアレクセイはああ、とうなずいた。そして、形成外科教授から依頼があったということは、向こうは早速リーザとの接触を考えているという証拠だった。
「提供? 金を出さずに服をくれってか? 厚かましい大学だな」
クラーラは両親の話を聞いているような顔つきをしながら、だんだんまばたきが増えていき、ついには目を閉じて寝てしまったので、アレクセイは子供部屋のベッドにそっと寝かせた。かわいい娘クラーラ、この子が生まれてもう1年、この穏やかな生活をずっと続けたかったが、運命は残酷なものだ、と思いながら。
「栄養不足の世の中でしょう? どうも幼児の身体成長状況の被験者を公募しているみたいなんだけど、仕事を休んでまで来てくれる人が少なくて、『子供服プレゼント』っていうのをつけたいらしいの。ハイルナー教授は『そちらの会社にも利点はあるでしょう、製品部の人に来ていただいて、子供たちがどのくらい動きやすいか見ていただけますよ』って言うのよ。『Kooperation zwischen Wirtschaft und Wissenschaft 』(産業と学術の連携)とか」
エリザベートは長々しいドイツ語をもったいぶって言った。
「へえ。会社のほうはどう言ってるんだい? 提供してくれそうなのか?」
「それは明日会議なの。製品になる前の試作品を提供して、会社には損のないようにしたいわ」
「うまく行くといいな。ところでその大学の治験、始まったらリーザとクラーラも大学に出向くのかい?」
「うん、クラーラも一緒に行くのは多分月に1回くらいでね。私は打ち合わせとか準備でもっと出向くと思うけど」
人民公社からの外出や、不特定多数の人間と会う機会が増える……それも考えての広報への異動か、考えたものだなとアレクセイは思った。大学というところはそれほどチェックもなしに、教授から研究者や学生、事務職員、調理師から掃除人、果ては物品納入業者まで顔の知らない人間が多数出入り可能だ。男女問わず、年齢層もさまざまなのだ。
「無理のないようにな。君はかわいい仕事をしていればいいから」
リビングに戻ったアレクセイは、エリザベートの髪をそっと撫でた。愛おしいリーザを危険な目には合わせたくない、必ず自分の世界の中で守ってやりたいと彼は考えた。
「ねえ、かわいくない仕事って何よ」
「戦車とか銃を作ったりとかはして欲しくないね」
「いや、そんなのそもそも無理だって!」
エリザベートは無邪気に笑った。この笑顔を曇らせたくない。これまでの人生と、西側の豊かさをすべて捨ててこの地に来てくれた妻に、せめて東側では最高の生活を保障したかった。
アレクセイは仕事が残っていると言い、おやすみとキスをして、書斎へ向かった。最近彼は深夜まで仕事をしており、エリザベートを抱く頻度が減っていた。年相応になってきたのか、結婚生活が落ち着いてきたのかは分からなかった。だが、ホルモンバランスが回復してきた今、こうなると彼女は逆に寝付けなくて寂しくなってしまっていた。我ながら勝手なものだとは思ったが、彼女は自分から夫を誘うということは、どうすればいいのかわからなかった。
アレクセイは書斎のドアを閉め、溜息をついた。MGBの策は進んでいる。占領ソビエト軍の力を持ってすれば、ドイツの人民公社の人事を動かすくらい朝飯前だ。エリザベートとエドゥアルトを目立つ場所に出し、ジークフリートが接触してくるのを待つ。ここ数か月、二人には警備をつけているが、怪しい動きはなかった。しかし毎日イライラと怒りで腸が煮えくり返りそうだった。
エリザベートはジークフリートのことを嫌になって別れたわけではない。戦時行方不明として諦めただけなのだ。今でも心のどこかに愛が残っているはずだ。それは、アレクセイも戦争前に亡くなった婚約者タチアナへの愛が残っているのと同じことだった。ただ、自分は今タチアナが蘇ったとしても、決してエリザベートと別れてタチアナに心が戻るということはないと確信していたのに対し、逆については全く自信が持てなかった。
ジークフリートが現れたら、エリザベートは動揺するだろう。西側へ逃げよう、豊かな暮らしをしよう、親戚も友達もみんな西側にいるよ、と言われたら? アレクセイはエリザベートと、ベルリンでの秘密の交際中もドレスデンに来てからもお互いにジークフリートの話題は避けていた。「もし今、あいつが現れても、君は俺のもとに残ってくれるかい?」そのたった一言が聞けなかった。おそらく彼女が自分を愛している何倍も、自分は彼女を深く強く愛している。そして、愛の強さは自信のなさにつながった。彼女を失いたくない、それだけがアレクセイの望みだった。
人民公社フォルクス・テキスタイルでの会議は翌日行われ、広報係長リーザ・ノイマンは部長級のお偉いさんを前に、時折詰まりながらも、医科大学との共同事業について熱弁を振るった。拍子抜けするほどすんなりと、企画は無条件に通った。ノイマン家のクラーラの参加はもちろんのこと、デザイン部から子持ちの何人かも同行参加が許され、直行直帰も可能と言うことだった。
エリザベートは早速ハイルナー教授に電話をかけた。驚いたことに、大学のほうも政府の協力が得られ、治験参加者には有給休暇を取らなくても職務免除扱いで参加できるよう、企業に要請できることになったと、教授は喜んでいた。
妙に既視感のある出来事だった。意地悪なチーフのことをアレクセイに話した翌日、チーフが地方工場へ飛ばされた出来事をエリザベートは思い出した。彼と彼の組織は私の知らないところで、私の会社の人事にまで手を出しているのだろうか。MGBという恐ろしい組織にがんじがらめにされている人生なのだ、自分が人民公社でやっている仕事などあちらには丸裸だろう。それは、アレクセイによって守られているというよりは、彼女の人生と属する世界のすべてを彼と彼の国に支配されているという世界観を意味した。これが私が望んでついてきた世界、ここで花を咲かせていくしかない、という覚悟とともに、エリザベートは打ち合わせのためにドレスデン医科大学の門をくぐった。
打ち合わせの後、実際に治験をするための大きめの部屋を案内するというので、エリザベートはハイルナー教授と秘書の女性ヒュンメルと一緒に向かった。
「真ん中にカーペットを敷いて遊具とおもちゃを置き、毎回年齢別で幼児たちを自由に遊ばせます。今回、玩具メーカーの協力も得られました。協力企業の方々と、大学教員、学生は回りから見学します」
そんな話をしながら扉が開けられ、エリザベートは全く無警戒に部屋へ入った。広い部屋は窓からさんさんと日光がそそいでいた。窓際の、ちょうど逆光になる位置に男性が一人立っていた。
最初はっきりとは顔が見えなかった。次にひゅっと胸に氷の刃が刺さる感覚があった。ゆっくりと振り向いた男性はエリザベートを確認すると、帽子と栗毛のカツラ、眼鏡を取った。見事な金髪と、こちらを射るような青い瞳だった。
「エリザベート」
それは5年ぶりに会う夫ジークフリート・フォン・リヒテンラーデだった。




