2-9 友情
1949年8月、ルドルフ・シュナイダー医師一家は、夏の休暇を過ごすために西ベルリンから空路スイスへ向かった。家族とツークの別荘で数日過ごした後、彼は一人でチューリッヒの高級ホテルへ向かった。6年越しの逃亡計画の立役者と再会するためである。
約束の時間きっかりに、親友は現れた。ジークフリート・リヒャルト・フォン・リヒテンラーデ、プロイセンの伯爵家の出自を持ち、ナチスドイツ第三帝国親衛隊中佐、国家保安本部(RSHA)第6局の課長だった男である。ミュンヘンのギムナジウムの同窓であり、共にベルリン(フンボルト)大学へ進学した。ルドルフはしばらく大学に残って研究した後、父親がベルリンにも病院を作るというので、その開業に奔走した。ジークフリートは法学部卒業後、RSHAに就職しドイツ各地を転勤していたが、ハンブルクでエリザベートと結婚した後、ベルリン勤務となった。実際ジークフリートの結婚式で、ルドルフは新婦友人のユーリアと知り合ったので、彼はリヒテンラーデ夫妻には並々ならぬ恩義を感じていた。
4年半ぶりに会う親友は、多少は老けて日に焼けていたものの、生来の血筋のよさは隠しようもなく、やはり貴族だなというのがルドルフの印象だった。互いに36歳になった二人は抱き合って互いの無事と再会を喜び、ジークフリートはこの4年あまりの秘密裏の連絡について、感謝の言葉を何度も口にした。
ルドルフはコーヒーを入れ、ジークフリートの前に置いた。時系列で話すか、核心から話すか、ルドルフが迷っていると、ジークフリートの方から口を開いた。
「それで、エリザベートは今どこに?」
「ドレスデンだ」
「ドレスデン? あっちには親戚も知り合いもいなかったと思うが、なぜまた?」
「……彼女はソビエトの中佐にさらわれた」
「どういう意味だ? 筋道立てて話してくれ」
「……1945年4月、西側からドイツに侵攻した米軍はエルベ川で侵攻を止めた。ベルリン陥落の手柄をソビエトに譲るためにね。ソビエト赤軍はぐるりとベルリンを包囲し、16日から総攻撃をかけた。君の伯爵邸のあるグリューネヴァルトはベルリンの南西部だが、あっちからは第一ウクライナ軍ってのが、ベルリンへ侵攻したんだ。その部隊の中のアレクセイ・ジューコフ中佐が率いる憲兵隊が、君の屋敷を憲兵事務所として接収して、エリザベートに惚れたらしい」
「中佐? ジューコフっていうのは総司令官だっただろう?」
「いや、その人とは別人でもっと若い男だ。どうも総司令官とは遠縁らしいってギゼラが、ああ、君の家の家庭教師をしていた女性から聞いた。僕はハンブルクのエリザベートの実家で、ギゼラと女中のフリーダにも会った」
「彼女たちはハンブルクに戻ってきているのか? どうしてエリザベートだけがさらわれた? エドゥアルトは?」
「いや、ちょっと待ってくれ。順序よく話すから」
「ああ、すまない」
「1946年の春、僕はエリザベートの兄のオスカーさんから、『使用人も含めてハンブルクへ迎える予定』と聞いていたので、安心しきっていた」
「ああ、君の手紙にもそうあった。僕も安心していたんだ」
「ところが、ギゼラが言うには、ベルリンの占領地の境目のところで、ソビエトの車に捕まったらしい。そのままどこかに連れていかれて、それっきりエリザベートとエドゥアルトは行方知れずになった。ギゼラ、カール、フリーダだけ解放されたらしい。3人はその後オスカーさんの使いの者と合流し、ハンブルクに迎え入れられた。今はハンブルク市内で他の仕事を紹介してもらったらしい」
ジークフリートは顔をゆがめた。
「なんだそれは。使用人どもだけがベルリンから脱出して、ちゃっかり義兄上の保護に入ったってことか」
ルドルフは構わず話を続けて行った。
「それが1946年の8月だ。僕はその後もいろいろとツテを頼ったよ。そもそも君の屋敷は1945年の7月の時点でソビエト軍の接収は解除されたんだ。米英仏軍がベルリン入りし、4か国分割統治が始まったからね。君の屋敷は英軍司令官住居として英軍に接収されたらしい。マルタって覚えているか? エリザベートが大学に聴講に行ってた時の友達で、百貨店経営者の娘だ。ソビエト軍がもとの居住者の同居を認めたのに対し、英軍は使用人もろとも全員追い出したらしい。エリザベートは屋敷を追い出された後、マルタの店の手伝いをしながら、ベルリン市内を転々としていた。まああの頃は接収での立ち退きとか、建物の取り壊しとかいろいろあったしな。エリザベートは1946年8月、マルタに『ジューコフ中佐の異動先に一緒に行くことになった』と言い残して、姿を消したらしい」
ジークフリートは驚いた顔をした。さらわれたと聞いたので、むりやり誘拐されたのかと思っていたのだ。
「わざわざ言いに来ることが出来たってことは、誘拐のように無理やり連れていかれたわけではないわけか?」
「その通りだ、縛られて無理やり連行されたってわけではない」
「そこからは行方知れずになった?」
「ああ。もう八方塞がりだった。ドレスデンで見かけたのは僥倖と言ってもいい。去年、1948年、ベルリン封鎖の直前に学会があったんだ。学生の時の恩師で、現在はドレスデン医科大学に移ったハイルナー教授だ。その発表を聞きに行って、ちょっと学内で休憩していたら、児童心理かなにかのイベントがあって、そこに2人がいた。幼児の被験協力者とかで来ていたみたいだ」
「話せたのか?」
「無理だった。彼女はジューコフ中佐と一緒にいた」
ルドルフは2枚の写真をジークフリートに渡した。1枚はエリザベートとエドゥアルトが笑顔で写っていた。もう1枚はジューコフ中佐も合わせて3人が写っていた。こちらはわざわざエリザベートがあさっての方向を向いた、笑顔でないものを選んで持ってきていた。エリザベートはほとんどの時間、隣に立つ男に愛情深い目を向けていたのだ。そんな写真をジークフリートに見せるわけにはいかない。
ジークフリートは震える手で写真を手に取った。
「こいつが、ジューコフ中佐か。こんな……他人の妻子を……こいつはまるで自分の妻子みたいに側に立って」
「封鎖が明けて、今年の6月に、オデッサへの協力者でもあるベルリン大学のシュトラッサー教授に会うことができた。それでドレスデン医科大学のハイルナー教授に問い合わせてもらった。あの日の児童心理のイベントの参加者の身元について」
ルドルフは紙にまとめたものを渡した。
エドゥアルト・ノイマン 6歳 ブラセヴィッツ保育園きりん組
リーザ・ノイマン 30歳 フォルクス・テキスタイル社出産支援服部勤務
アレクサンダー・ノイマン 33歳 ドレスデン市役所都市計画局総務部勤務
3名の現住所 ドレスデン市ブラセヴィッツ ベーメ通17
電話番号 051ー44ー58ー21
ジークフリートは驚いた様子を見せた。
「エリザベートが働いているのか? あいつの給料だけじゃ食えないのか? かわいそうに」
「いや、社会主義では女性もみんな外で働くらしいぞ」
「ノイマン? ジューコフじゃないのか?」
「そこなんだよ。おそらくノイマンっていうのは偽名だ」
「身分を偽ってる男とエリザベートは一緒に? ちょっと待て、リーザって何だ? こういう書類は正式な名前で書くはずだろう」
「それもビックリしてるんだよ。こっちも見てくれ」
それはハイルナー教授がフォルクス・テキスタイル社からもらった社内報だった。エリザベートが笑顔で妊婦服を着て写っている。「新しい社会主義国家! ずっと大切に着られる衣服をめざして」とあった。考案者リーザ・ノイマンとある。社会報だから、これが本名に違いない。エリザベートがイベント参加時に、教授に渡したらしい。
「妊婦服」
ジークフリートは2枚の写真と見比べた。腹が出ている。エリザベートは他の男の子供をはらんでいる。
「君が聞くのはつらいだろうが、あの時エリザベートは妊娠5、6ヶ月だったと思う」
ジークフリートは目を見開き、震えていた。もうとっくに生まれているはず、1歳にもなっているのではないか。自分の掌中の珠のような存在だった妻が、他の男に犯され、子供を産んだ……それは自分の体の一部を侵略されたような、吐き気をもよおさせた。
ルドルフは構わず続けた。
「おい、法学部出身者、民法上の失踪宣告って何年だ?」
「なんだよ、急に。今は知らないが、第三帝国では10年だったかな」
「それじゃあエリザベートはリヒテンラーデのままでは再婚できない。だからリーザ・ノイマンという新しい人間になったんだろう。エドゥアルトも。だからこの3人は全員偽造戸籍だ」
「いくらソビエト占領軍の中佐でも、どうやってそんな大がかりなことが出来るんだ。この男はソビエトでの地位を捨てたのか? 退職してドイツに帰化した? ソビエトという国がそんなこと許すわけがないだろう。いや、むしろなんらかの組織が協力しているのか?」
「潜入ではないかと僕はにらんでいる。ソビエト政府か、なんらかの機関からの命令で、この男はドイツ支配のための潜入者ではないかと。陸軍中佐の地位をそのままに、ノイマンというドイツ人になりすまし、市役所勤務だ。生粋のドイツ人であるエリザベートを妻にすることは、よりドイツ人らしく見える」
「エリザベートは相手のことを分かっていて、こんなことになったと言うのか。ソビエトの将校がドイツ人の名を名乗り、市役所勤務までして? こいつと結婚してロシア人の子を孕んだ? ふざけるな!」
激昂したジークフリートに対し、ルドルフは落ち着いて言葉をつづけた。
「ジークフリート、僕は言ったはずだ。逃亡と潜伏、ラットライン創設のことをエリザベートに話しておいたほうがいいと。あの戦後の混乱の中で、若い女性が子供を抱えてどんなに困っていたことか。街の人々は手の平を返したかのように、反ナチだ。ナチ党員は公職追放され、就職もできない。配給だけじゃとても食べて行けやしなかった。闇市は100倍の値段、ライヒスマルクは紙切れだ。僕にとっても、絶望しかない戦後だった。
そもそも最初、君の屋敷に乱暴な兵士たちが侵入して、女性たちに乱暴をしようとしたらしい。ジューコフ中佐は憲兵隊としてエリザベートを強姦から守ってくれたと、ギゼラから聞いたよ。最初からそんな劇的な出会いだったんだ。さぞ救世主かヒーローに見えたことだろうよ。その後もいろいろ親切にしてくれ、食糧や生活必需品をたくさん融通してくれたそうだ。エリザベートは元ナチス高官の妻という前歴を捨てて、新しい安定した生活を選んだんだ。彼女は君を待てなかったんだよ!」
「ルドルフ、君はエリザベートがジューコフ中佐に心変わりして、偽名戸籍を使ってでも一緒になりたくて、ドレスデンへついていったと思っているのか」
「そうじゃない。エリザベートは君を待っていた。事実、うちの病院に聞きに来たくらいだ。終戦直後の5月の半ばに、ジューコフ中佐に付き添われてやって来た。僕はその時にジューコフ中佐をチラッとだけ見た。エリザベートを守るように寄り添っていたよ。普通に考えて、接収先の奥さんが私用で街中に出掛けるからって、送迎や護衛なんてするか? そんな風にずっと貢がれて守ってもらってみろ、エリザベートのほうもほだされたんじゃないか。女中のフリーダは、二人の間は恋愛関係だったと言っている。二人が一線を越えたのは12月だったらしい。ただ、家庭教師のギゼラのほうは、エリザベートは愛人のように扱われ、つらいことなのに楽しいと思い込むよう洗脳されている、と言っていた」
「洗脳」
「自分が性の搾取をされていると思うよりは、その男を好きだと思い込む。自分の心を傷つけないための一種の自己防衛本能だ。そうでもしないとこんな世界で、こんな戦後の混沌とした世界では、女性は生きていけないだろう。強く、力のある男に従うのは生存戦略だ」
二人はその後しばらく無言だった。意を決したようにジークフリートが言った。
「とにかく一度エリザベートと話したい」
「やめた方がいい。鉄のカーテンの向こう側は尋常じゃない警備体制だ。西側とは全然違う国になったと思ったほうがいい。それに、また封鎖になったら、もう二度と西側には戻れなくなってしまう。君は今どういう身分でここまで来た?」
「ドイツ系アルゼンチン人、リカルド・ベッカーさ。アルゼンチン政府は太っ腹なことに、写真を貼っていない本物のパスポートと割り印を、何百冊もオデッサに提供してくれたのでね」
「西側はともかく、東側ではアルゼンチン人が何しに来たんだって怪しまれるぞ」
「西ベルリンまではこのパスポートで行く。協力者と合流して地下の抜け道で東ベルリンに入る。その先は、シュトラッサー教授から東ドイツ人の身分証明書をもらって、鉄道移動さ」
「そこまで考えてあるのか。だが、くれぐれも気をつけてほしい」
「ありがとう」
ルドルフはエリザベートがジークフリートの元に戻って欲しいと願っていた。だが、おそらくその可能性はないだろうと思っていたが、それをはっきりと親友には言えなかった。今更後悔してもしきれないが、やはりエリザベートには自分の口からでも事情を話しておけばよかったのだと、ルドルフは思いを巡らせた。




