2-8 オデッサの疑惑
アレクセイ・ペトローヴィチ・ジューコフ中佐は、ドレスデン市内のソビエト軍駐留基地内の訓練場に出向いていた。ようやく届いた新型銃を試すためである。この7.62mmカラシニコフ自動小銃は戦時中から開発は進んでいたものの、戦争終結には間に合わなかった。それが最近になってソビエト連邦軍が「制式」採用して量産し、東欧各地の基地に配布が始まったのである。後に略してAK-47と呼ばれるこの銃は、ライフルのような単射撃もできるし、オート連射に切り替えるのも一瞬で可能だった。おまけに銃弾の装填も楽、手入れも楽ときている。構造が単純で専門的な軍事教育を受けていなくても、すぐに使える銃だった。
アレクセイとレオニードは、古びたモシン・ナガン、戦時中のPPS-43、そして真新しいAK-47の三丁を前に並べていた。
「よし、レオニード。新しい『制式』の前に、まずは旧友たちと挨拶だ」
アレクセイはそう言って、まずモシン・ナガンを手に取った。アレクセイは慎重に弾を装填し、発射した。重厚な反動が肩を揺らす。
ドォン!
「さすがの威力です。戦車にでも立ち向かえそうな一発の重みがある」
レオニードが評した。
アレクセイは薬莢を排出するボルトを操作しながら、苦い笑みを浮かべた。
「だが、撃つたびに時間を盗まれる。スターリングラードでは、次の装填を待つ間、敵は三歩も動けた。これは個人対個人の決闘の武器だ。集団戦の、そしてこの新しい時代の武器ではない」
次に、アレクセイは簡素なPPS-43を手に取った。彼は近距離の的に、短いフルオートを叩き込んだ。
ダダダダダッ!
「スターリングラードで実際に使ったのは、この前の型だったな」
「そうですね、PPSh-41かPPS-42だったと記憶しています」
「900発/分の連射速度は、狭い場所での『制圧』には優秀だ。我々は塹壕や建物を、これで文字通り『水洗い』した。命の価値より、弾幕の濃さが重要だった」
レオニードは銃口の跳ね上がりを見て言った。
「市街戦での生存には不可欠ですが、射程が短すぎました。拳銃弾では、遠距離ではただの騒音です。我々の新しい任務は、より広範囲の脅威に対応することです」
「その通り。混沌の武器だ。そして、我々は混沌を乗り越えなければならない」
アレクセイはPPS-43を置いた。
アレクセイは、真新しいAK-47を構えた。冷たい金属と木材が手のひらに馴染む。彼は、まずバーストで射撃した。
ダッダッダッ。
「どうです、同志ジューコフ中佐?」
レオニードが尋ねた。
アレクセイは双眼鏡でターゲットを確認し、満足そうに頷いた。
「これが答えだ、レオニード。PPSの速さとモシンナガンの威力、その完璧な妥協点だ」
彼はAK-47の銃口を見つめた。
「フルオートでもPPSほどの制御不能な跳ね上がりがない。そして、この中間威力弾は、何百メートルも先の標的を正確に仕留める力を与えてくれる。もはや近接戦闘に逃げ込む必要はない」
アレクセイはAK-47をレオニードに手渡し、その目をまっすぐに見つめた。
「これは、単なる新しい武器ではない。これは我々が生きる新しい時代の、新しい契約だ。これこそが、共産主義の未来を護る盾となる。同志カラシニコフの偉大なる発明だが、あと5年早かったら、戦争の終結も楽だったと、ソビエト軍人は全員思っているだろうな」
「すごい耐久実験を繰り返したと聞きました。どんなに乱暴に扱われても壊れない、グリスが切れようが水に浸かろうが砂に埋めようが、まだ撃てると言われるほどの並外れた耐久性だそうです。まさに戦場向きですね」
レオニードはAK-47を自動モードにして派手にぶちかました。
「戦争は技術を進化させるといいますが、こいつはすごい発明品ですね」
「ただ、精度が勝負になるような長距離の狙撃なら、従来のモシン・ナガンのほうが優秀らしいな」
アレクセイはモシン・ナガンという、大祖国戦争以前からあったライフルを手に取って一番遠い的を撃ってみたが、中心には命中しなかった。
「射撃は割と得意だったんだが、最近練習が足りないから駄目だな」
双眼鏡で的を見てみると、人間の形の図面のこめかみには当たらず、耳をぶち抜いていた。
「そうなんですか?」
レオニードもモシン・ナガンを撃ったが、百発百中だった。アレクセイが双眼鏡で見ると、的の鼻、目、口の部分がぶち抜かれている。
「すごいな! お前いつ練習してるんだ?」
「こういうのはセンスですよ。生まれつきの勘というか。俺はモシン・ナガンでPUスコープありなら、最高射程距離でもはずしませんよ。士官学校でも狙撃はずっと首席です」
レオニードは得意顔で言った。
「フィンランドとの出来事の際、あっちの狙撃手はクソ生意気に『練習あるのみ』とか言っていたらしいですが、まあ才能半分ってとこでしょうかね」
二人とも口には出さなかったが、このような武器を実戦で使う日々はもう来てほしくないと思っていた。お互いに小さな子を抱えているのだ。冷戦というのは緊張感はあるが、まあ「熱戦」よりはマシかと大抵の軍人は思っていたのである。だが、このカラシニコフ銃は今日に至るまで、全世界のテロ組織・紛争地帯で使用され続けることになる。
二人は駐屯地からMGBでの会議に向かうため、車に乗った。
「戦争による軍事技術の進歩で思い出しましたが、戦後の技術革新もすごいです。発信器と盗聴器も、まだ極秘の試作段階ですが、先日びっくりするようなことを聞きました。電源の持続時間の問題が大きかったらしいのですが、こちらから一定の波長を送った時だけ反応するようにして、電気を必要としないのを開発中とかで」
「すごい技術だな。車に着けておけば盗まれても追える時代が来るな」
「技術が進めば、人間が現在どの通りの、どの建物にいるかまで手元ですぐわかるようになると思います。まあ、50年か100年先でしょうけれど」
「おい、もしかすると人間全員に生まれた時に体に埋め込んで、未来はすごい監視社会になるかもしれないぞ」
「やめてくださいよ、ちょっとした浮気も出来なくなりますよ」
「え、お前浮気する気なのか?」
「いや、しません、しません。俺はナターリア一筋です。物のたとえです」
二人は軽口をたたきながら、MGBドレスデン支部の入口をくぐった。
会議はレオニード・ヴォルコフ大尉が司会を務めた。ドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立するので、これからは「名目上」ドイツが自治を行っていくが、ドイツ自体の治安維持と反体制(反ソ)分子の摘発のため、ソビエトの指導のもとで、国家保安省を来年早々に設立する準備が進んでおり、その進捗状況の報告だった。
「いわば、ドイツ版のMGBです。Ministerium für Staatssicherheit、略称はMfS、シュターツズィッヒャーハイトというドイツ語が長いので、最近はみんなシュタージと呼び始めています。各局には非公式に我々占領ソビエト軍の中から指導役として顧問がつきます。まだ人選はこれからですが、人事部の方で選出するそうです」
重要な仕事ではあるが、失敗は許されない。そんな面倒な仕事は、自分が行くのは嫌だというのが、会議室内の雰囲気であった。
「ドイツ人の正式な職員以外に非公式協力者(IM)というのを作ります。これは、怪しい人物がいたら密告する、あるいはこちらが怪しいと睨んだ人物を見張ってもらうような立ち位置です。給料は出ませんので、いくらでも任命できます。もうすでにかなりの人数が登録しています。報酬は都度です」
なんかナチス時代のゲシュタポと変わらない監視社会だな、と誰かが言い、どっと笑い声が起こった。ナチスを滅ぼしたソビエトが、ドイツ国内にまたゲシュタポもどきを作るのだ。
「以前からのソビエト人潜入者、ソビエトの息のかかったドイツ人には当然シュタージにも協力していただきます。シュタージ職員は発足当初は数千人を予定していますが、こちらも公募ではなく、党の傘下組織から忠誠心や身元に問題のない者を勧誘・選抜していく予定です。IMも同様です。すでに任命したIMからは早速いろいろ情報提供も寄せられています。来月の定例会議までにはまとめてご報告できる見込みです」
会議が終わり、退室したところでアレクセイとレオニードはソローキン大佐に声をかけられた。
「オデッサが動いたかもしれない。非公式協力者からの通報だ」
アレクセイは背筋が凍る思いがした。ドレスデンへ来てから2年余り、いよいよ恐れていたことが起こったのだろうか。彼らは小さな会議室に入った。
「同志ジューコフ中佐、あなたがアバクーモフ大臣の作戦の特例でドイツ女性と結婚した際、彼女の親族はもちろん、友人・知人に至るまで学歴と経歴、交友関係は調べつくした。その中にベルリン大学関係者が2名いたことを覚えているかね」
「エリザベートの夫ジークフリートと、その親友の医師ルドルフ・シュナイダーですね。その名前からの接触なのですか」
「そこまであからさまではないのだがね、この通報をどう思う?」
見せられたのはタイプライター打ちの文書だった。
……ドレスデン医科大学形成外科のハイルナー教授が、精神科のミラー教授に、1年以上前の学会治験参加者について問い合わせてきました。ベルリン大学のシュトラッサー教授に頼まれたらしいのですが、そんな遠方からの問い合わせは変だと思いました……
通報者はドレスデン医科大学ミラー教授の秘書をしているエーファ・ランゲという大学事務職員の女性だった。
「ハイルナー教授は戦時中はベルリン大学で講師でくすぶっていたが、戦後ドレスデン医科大学の教授ポストを得た人物だ。シュトラッサー教授も第三帝国時代はベルリン大学の講師だった。戦後、教授・助教授らが公職追放で一掃され、そのタナボタ式とどさくさにまぎれ、共産主義に忠誠を誓うことで二人とも教授に昇進している。おまけにルドルフ・シュナイダーは学生時代、この二人に師事しているので、全員顔見知りだと思っていい。シュナイダー自身はギムナジウム時代からリヒテンラーデ中佐と同窓で、戦時中も親しくしていた。おまけに妻はエリザベートの幼馴染で親友のユーリア、ハンブルク時代の幼馴染だ。こいつらは党員でこそなかったが、全員元ナチ支持者の可能性がある。教授どもは口先だけで共産主義に忠誠を誓っているのだろう。ところで、同志ジューコフ中佐は、ドレスデン医科大学に行ったことがあったな」
ソローキン大佐に言われて、アレクセイは初めて去年ドレスデン医科大学へ行ったことを思い出した。同僚に頼まれたから参加すると言ったリーザに、アレクセイは自分が行ったことのない「大学」、それも「医学部」というのに興味があり、どういう所なのか見てみたかったのである。そのくらい、あの「子供の発達治験」への参加は気軽なものだったのだ。
「1年くらい前の学会に、エリザベートが職場の友人に頼まれたとかで、参加しました。その友人の夫が医科大学の事務職員で、6歳児の治験の参加者が集まらなくて頼まれたんです。私たち夫婦も一緒に参加して……」
「その学会は封鎖前の1948年5月だったが、ルドルフ・シュナイダーが参加していたらしい。学会参加者名簿にも載っていた。参加実績を調べると、彼は主に形成外科・整形外科・外科の部会に参加した後、通りがかったか何だか知らんが、児童精神科の部会でおそらく遠目にエリザベートを見つけ、1949年5月、今年の封鎖明けに早速身元を照会してきたのだろう。お前の奥さんは西側にいる親族からすると行方不明扱いだ。裕福な一族ならやっきになって探している可能性がある。だが、ルドルフ・シュナイダーからベルリン大学を経由しての照会ということは、親族ではなく、リヒテンラーデ中佐本人からの依頼の可能性が高いと私は睨んでいる」
アレクセイは全身の毛が逆立つような気がした。ルドルフ・シュナイダーとは一度だけ会ったことがある。終戦直後にエリザベートに付き添って、街中へ出かけた時だ。ソビエトが接収した病院でソビエト将兵の治療をさせられていた医師。記憶力のある人物なら、俺の顔も覚えているんじゃないか。
去年の学会、仕事も閑散期だったので夫婦で休みを取って参加した。あの時リーザはお腹が大きかった。あの姿を見られたなら、ジークフリートの復讐心を煽るようなものじゃないか。
「リヒテンラーデ中佐はやはり生きていると……?」
「同志、まだそんなことを言っているのか? リヒテンラーデの死亡記録はどこにもない。親衛隊の大物で、死亡が確認されていなければ『逃亡中』扱いなのは当然だ。お前にとっては、死んでいてくれたほうがありがたいのは理解できるがな」
MGBに呼び出されたエーファ・ランゲは、制服姿のMGB職員を前に青ざめて座ったた。自分が行った通報で、まさか自分が尋問されることになるとは思ってもいなかったのだろうか。アレクセイはレオニード、ソローキン大佐と一緒に、覗き穴を使って取り調べを見ていた。確かに治験の時に見た覚えのある顔だ。
「昨年5月、この時の幼児の治験参加者は何人いたのですか?」
「10人です」
「10人全員の名簿を送った?」
「いえ、ハイルナー教授が名簿を見て、『エドゥアルト・ノイマン、あ、いたいた』と言って、ノイマンさん一家3人のことだけメモしたんです。両親二人の勤務先、エドゥアルト君の幼稚園名、3人の住所と電話番号も書き取っていました」
アレクセイは部屋越しに声を上げそうになった。彼は常にこうやって誰かを調べ上げるという仕事をしていたが、いざ自分が調べられている境遇に合ったのは初めてだった。誰かが遠くから、しかもベルリンから俺たち一家のことを調べている、それは気味が悪く、足元を崩されるような感覚を覚えた。
「ミラー教授の提供したリストの中から、ハイルナー教授はノイマン一家だけをメモし、おそらくはベルリン大学のシュトラッサー教授に送ったと?」
「多分そうだと思います」
「調べていた理由は思いあたりますか?」
「いえ、ぜんぜん。ただ、そういう一般の方の参加者なんて、事務方におまかせの先生がほとんどなので、なんか変だなって思ったんです」
「それは何月のことですか」
「今年の5月です」
封鎖直前の学会。そして封鎖明けを待っていたかのように調査が行われた。今は7月か……とっくに情報は依頼者の元に流れているだろうとアレクセイは考えた。この協力者は果物の缶詰を謝礼として受け取り、また怪しげなことがあったら通報するよう約束させて返した。
「フォルクス・テキスタイル人民公社勤務リーザ・ノイマンを、出産支援服部門から異動させる。営業でも広報でもなんでもいい、外部の人間と接触の多い目立つ仕事につけさせる。エドゥアルト・ノイマンも同様だ。ちょうど9月に小学校入学か。新聞社にでも取材させろ。そうすることで、こちらの餌の居所がわかり、オデッサが接触しやすくなる」
アレクセイは、ソローキン大佐の言葉に息を飲んだ。そして、机の下で手に爪の後が残るほど、握りしめた。そうだ、この組織にとってエリザベートとエドゥアルトはオデッサをおびき寄せる「餌」に過ぎない。わざわざ人目につく場所に「餌」を動かして、敵の接触を待つのだ。「餌」は、アレクセイが人生を賭けて愛した女と、この数年間我が子として可愛がっていた息子だった。ベルリンで俺たちが密やかに育んでいた「恋」は組織に筒抜けだった。組織は「恋の成就」と引き換えに、俺たちにオデッサの餌になることを強いた。その結末がこれだ。
エリザベートは何も知らなかった。知らせていなかった。ただ、交際がばれて、俺がMGBに異動させられただけと思っていた。彼女もあの時、一緒にいられるならどんなことでもする、という姿勢だったので、ドレスデンへの転居も名前を捨てることにも全く異議がなかったのだ。元ナチとそしられ、就職もできない境遇から、全く新しい戸籍をもらえることは、エリザベートにとっても利益があったのだ。
ジークフリート・フォン・リヒテンラーデ中佐が生きている可能性があることを何年も前から俺が知っていたとなれば、彼女はどう思うのだろう。自分たち母子が奴をおびき寄せる「餌」とされていたことを知れば、俺たちの信頼関係は完全に崩壊してしまう。
ソローキン大佐はアレクセイの心情を理解したかのように言った。
「同志ジューコフ中佐、お前の苦しい立場もわかる。お前は敵の女を愛し、彼女と共に人生を歩むべくここ(MGB)に異動し、潜入者として過酷な仕事をしているのも知っている。そこまで人生を賭けた女を、みすみす奪還されるようなことはするな。エリザベートとエドゥアルトには目立たない位置から警護をつけよう。人選と配置はお前らにまかせる」
「警護……」
アレクセイはソローキン大佐の言葉をありがたいと思った。この上司はコズロフ中佐とは違い、あからさまにこちらの弱い立場を利用しようという意図は感じなかった。だがそれは、言い方が優しいだけかもしれなかった。警護だって妻子を守るためではなく、オデッサからの接触者を捕まえるためなのだ。
ソローキン大佐の退席後、しばらくアレクセイとレオニードは今後のことについて会議室で話し合った。
「私はエリザベートさんたちに面が割れているから、あまり近くには寄れませんが、警護には参加します。他に、腕の立つ信頼できる人間を何人か交代で当たらせます。男女ペアで行きます」
「ああ、頼む」
アレクセイは動揺し、思考できなかったので、この元従卒の計画立案の速さに感謝した。
「同志ジューコフ中佐、エリザベートさんに話したほうがいいのではないですか? 彼女にだって心の準備ってものが必要でしょうに」
「今更言えないよ。俺は3年以上このことを隠しているんだ。ジークフリートを俺たちが追っていたこと、エリザベートとエドゥアルトが奴をおびき寄せる餌だったこと……アバクーモフ大臣はそこまで分かっていて、俺たちの結婚を許したんだ」
「それをエリザベートさんが知ったら、怒り狂って殴られるとでも? でも離婚はできないんでしょう? お二人は大臣の密命でここに来ているんだから」
「離婚は出来ない。怒り狂って殴られるくらいで済むなら、いくらでも殴られてやる。だが、彼女の心と信頼を失うことが何より怖い」
アレクセイがこの元従卒に心の弱さを打ち明けたのは、これが初めてだった。
「同志ジューコフ中佐、あなた自身はエリザベートさんを信頼しているのですか」
「当たり前だろう」
何を素っ頓狂なことを聞くんだ、という顔でアレクセイは言った。
「エリザベートさんが、このことを知ってもあなたへの愛情が変わらないと、なぜ信じることができないのですか」
「……ことが重大すぎるだろう。俺がどんな想いをして彼女を手に入れたか、経過を全部お前は知っていだろう」
そう、この元副官は常に一緒にいた。俺がエリザベートと店で会っている間、車で待ってくれていたのだ。
「知っていますよ。だからわかるんです。どんな想いをして、って自分だけが彼女を口説くのに苦労したように思わないでください。エリザベートさんのほうも苦労したんだから」
「なんだ? ベルリンでの密会のことか?」
「いいえ、グリューネヴァルトで、あなたがなかなか愛を告げてくれないから」
「え?」
「彼女のほうも、ずっとあなたのことが好きだったんだと思います。大勢で湖へ行った時、前庭で終戦の発表を聞いたとき、大人数で過ごしている時彼女の目はいつもあなたを探していた。彼女があなたを見る目は、恐怖ではなかった。信頼と愛情だった。あなたが事務的に接し、立ち去る時いつも切なそうな顔で見送っていた。その目は『どうして彼は一歩踏み出してくれないのだろう』って訴えていました」
アレクセイは鼻で笑った。
「ばかな。リーザには夫がいた。夫を待っていたに決まっているじゃないか」
「夫や恋人がいても、他の相手と恋に落ちるのなんて、一瞬でしょう。あ、エリザベートさんの目線に気づいたのはナターリアです。俺とナターリアはずっとお二人を見てきました。だから、呼び方が親称に変わった時、すぐに気づいたくらいです」
「……『一歩踏み出す』か……」
俺は一歩踏み出すのに何ヵ月もかかった。そうだ、あいつにも言われた。セルゲイだ。ジークフリートの官舎を不法占拠して、アリシアという美少女とシーツにくるまっていたヤツだ。あの後あいつの事情聴取をやったら、話が恋愛相談になってしまい、さんざん酒を奢らされたんだ。その時にセルゲイにも言われたんだった。こういうことは、男のほうから一歩踏み出さないと、何にも始まりませんよ……あの頃セルゲイは20歳かそこらだった。そしてセルゲイとアリシアは恋の成就のために、ソビエト占領地から逃亡したのだ。
俺は今34歳にもなって、何をグズグズと悩んでいるんだろうな。アレクセイは帽子を目深にかぶり直した。




