2-6 クラーラ
1948年7月、産前休暇を間近に控えたリーザ・ノイマンはフォルクス・テキスタイル人民公社の出産支援服部で、引継ぎを行っていた。
「ノイマンさんのご出産はおめでたいけど、私たちは寂しいです。ノイマンさん、とっても頼りになったので」
「来年の3月に復帰ですよね、お待ちしています」
この出産支援服部に来てから、よき上司と仲の良い同僚に恵まれ、エリザベートは仕事が楽しくてたまらなかった。実際に彼女の考案した妊婦服は体の後ろに編み上げ紐をつけて調節できるだけではなく前にも紐をつけ、妊娠していない時期から臨月までお腹のふくらみに合わせて長い期間着用できるもので、大変な評判となっていた。無地で作ってあるので、アンダーウェアを変えれば、季節を問わずいろいろな組み合わせも楽しめるし、エリザベート自身も着て楽しんでいた。さらに、肩ひもがボタンで外せるので産褥期の授乳も便利なはずだ。
新生児の衣服の製作販売も始まっていた。部署の一人の女性の子が肌が弱くてよくかぶれ、困っているということで、エリザベートは縫い目を外側に出した肌着を考案した。そして、ボタンではなく紐で結ぶことで、0か月から24か月くらいまでは着れるようにした。
これらの衣服は西側の使い捨ての消費社会に対抗し、東側の上質で物を大切にする美徳を現すということで、社内でも賞を取ったくらいだった。
明日から産前休暇という日、夫アレクサンダーも休みを取って、フォルクス・テキスタイルの上司に挨拶に訪れた。役所の公用車を使って退勤するリーザ・ノイマンは、社会的地位のある夫と運転手を従え、社員たちから羨望のまなざしを浴び、手を振って会社を後にした。
1948年9月、エリザベートは女の子を産んだ。分娩室の前の廊下で待っていたアレクセイは、エリザベートの苦しむ声に気が気ではなかったが、産声を聞き涙を流した。生まれた子を初めて腕に抱き、もう一度涙を流した。無事に病室に戻ってきたエリザベートを見て、また泣いた。
「リーザ、君と初めてキスした時も、初めて結ばれた時も、結婚できた時も、全部『今まで生きてきてよかった』と思えるほど幸せだった。だが今日、この子が生まれて『今まで生きてきた中で一番幸せだ』と『死なずに生きてきてよかった』と心の底から思えるよ」
エリザベートは生まれたばかりの赤子を腕に抱き、アレクセイのことを大げさだなあと思いながらも幸福に微笑んでいだ。
「私も今とても幸せよ。お産は長い時間痛くて苦しいけれど、赤ちゃんを抱くとすべて忘れてしまうわ。あら、目を開いたわ」
二人は赤子の目を覗き込んだ。うっすらと栗色の毛が生えた頭をしている赤子は、茶色い瞳で両親を不思議そうな顔で見た。
「ちょうど私とあなたが混ざったような容姿ね。目元なんかあなたにそっくりよ」
「遺伝子が混ざったのか」
人種が違っても同じ人間だから、子供ができるという不思議な感覚だった。人間同士、それほど違いがないなら、国家間、人種間、ましてやイデオロギーでなぜ争うのだろう。
「さあ、お父さん」
エリザベートはアレクセイに言った。
「この子の名前を呼んでやってちょうだい」
アレクセイは赤子をエリザベートから抱き取った。33歳で初めて父親となったアレクセイは誇りを持って、娘の名を呼んだ。
「クラーラ」
「クラーラ?」
「そう、明るく澄んだ、という意味だ。ドイツでもロシアでも使える名前だ。どうかな?」
「いい名前ね。この子の人生が、戦争などない明るい時代になりますように」
「ああ、本当にそうだな。クラーラ、お父さんだよ、聞こえるか」
アレクセイは生まれたばかりの娘にほおずりした。
「ああ、小さくて、本当にかわいいな。命に代えても守りたいと思うよ」
新しく父になった喜びをアレクセイは全身で表していた。エリザベートは二人を見て、幸せな気持ちに包まれた。事実、今後しばらく、彼女が思い出す「幸せな瞬間」はここで止まってしまったのである。
6歳のエドゥアルトは母親が入院している間も、継父の言うことを素直に聞きながら、過ごしていた。父と子は毎日夕方に面会に来た。エドゥアルトは妹が生まれたことがうれしくてたまらなかった。退院してからも、クラーラに歌ってやったり、あやしたりしてくれていた。「上の子の赤ちゃん返り」を話によく聞いていたエリザベートは、心配が杞憂であったことに胸を撫でおろした。
赤ちゃん返りは別のところから勃発した。エリザベートはクラーラに寝る前の母乳を与え終わり、足らずの人工ミルクを与えるため、アレクセイに赤子を渡した。
「一生懸命飲んでいる時の顔は最高にかわいいな」
アレクセイは育児を喜んで引き受けていた。そして赤子は毎日ミルクを飲み切った後、父親の肩でげっぷをして、ベッドへ運ばれた。クラーラは寝付きのいい、育てやすい子だった。そうは言っても夜中に泣いたりもするので、エリザベートは寝れるうちに寝てしまおうと、ベッドに入った。いくらアレクセイが育児に協力的でも、祖父母や親族の助けもなく、女中を雇うことも許されない社会主義の生活では、新生児を抱える母親の負担はかなりのものであった。
「なあ、リーザ」
後ろからアレクセイに抱きしめられ、授乳した後のやわらかくなった乳房に触れられたエリザベートはびっくりした。
「もうこんなの、我慢できないよ。あと何週間あるんだよ」
「アレクセイったら、産後8週間はだめだって、医師からも夫婦で指導を受けたでしょう? 出産は全治2か月の交通事故みたいなものだって」
「わかっているよ。でも、つらい。同じ家に住んでいるのにできないなんて」
「それを言うなら、グリューネヴァルトでも同居してたけど、こんなことしてなかったじゃない」
「いや、当たり前だろう、あの時はさあ……でも今はつらいんだよ。なあ、君は嫌がっているけど、口でって……どうしてもだめなのか?」
エリザベートは尻の間にアレクセイの硬くなった物が当たるのを感じた。
「アレクセイ! 今日で4週間よ、だからあと4週間我慢して、ね?」
「頭では理解しているし、これ以上するつもりもないよ。けどもう俺のリーザじゃないみたいで寂しいんだ。ちょっとの間、このままでいさせてくれ」
呆れた。父親が赤ちゃん返りして甘えているじゃないか。会社の人から言われたなあ、産んだ覚えのない大きいお兄ちゃん、つまり夫が一番やっかいだって……誰の子供を産んだと思っているのだろう。
そのまましばらくアレクセイは無言でリーザの背中に身を寄せ、腕を回していた。その接触は、皮膚が熱を帯びるほど親密だが、彼の腕には鋼鉄のような抑制がかけられていた。彼の体は、彼女の柔らかな体温を貪るように求め、彼の心臓は男としての本能的な渇望で激しく脈打っていた。
『欲しい。今すぐ、このぬくもりを完全に自分のものにしたい』
その衝動は、ベルリンで遠くから彼女を眺めていた頃の「届かない苦悩」とは、比べ物にならないほど激しかった。あの頃は、彼女は人の妻であり、諦めもできた。今は、すべてを手に入れたのに、その愛しい身体が、彼自身の愛と配慮という、最も人間的な鎖によって禁じられている。
彼は、妻の首筋に顔を埋めた。彼女の肌の甘い匂いが、彼の理性を溶かそうと試みる。彼は、その衝動を歯を食いしばって耐えた。
『これ以上はいけない、アレクセイ』
彼は、自分自身の内なる獣に、夫としての名を冠した厳格な命令を下した。この身体は、彼の子供を産んでくれたばかりだ。彼女を傷つけることは、自分の愛と責任を裏切る行為に他ならない。彼の指先は、リーザの腰のあたりを優しく、しかし確信をもって撫でた。それは、「俺は君を支配できるが、愛ゆえに自制している」という、無言の苦しい主張だった。この「愛しているが故の抑制」の重圧は、彼がMGBの極秘作戦で味わったどの孤独や緊張よりも、遥かに深く、彼を精神的に打ちのめした。
エリザベートは、アレクセイの腕に抱かれながら、目を閉じていた。彼の体温が背中から伝わり、その規則正しい呼吸と鼓動が、まるで子守歌のように彼女の全身を安堵させた。彼の腕は、かつての軍服の硬さを脱ぎ捨て、夫としての優しい力で彼女を守っていた。その抱擁は、「君は安全だ」「私がここにいて君を守る」という、言葉以上の深いメッセージを伝えていた。この絶対的な安心感こそが、彼女が何よりも必要としているものだった。それはグリューネヴァルトで初めて腕の中に抱きしめられた時から、変わらなかった。
『あなたの腕の中にいたら、何も怖くない』
彼女は、彼の愛に疑いを抱いていなかった。彼が静かに耐えている「愛ゆえの自制」も、はっきりと感じ取っていた。その抑圧された息遣いは、彼女にとって「愛されている」ことの何よりの証明だった。
しかし、その安堵の裏側には、微かなもどかしさもあった。彼女はまだ、回復途上の身体に縛られていた。夫の愛情を全身で受け止めたい、彼の情熱に応えたいという妻としての願いが、身体の制約によって阻まれている。
『早く、完全に良くなりたい。そしてこの人を、心ゆくまで満たしてあげたい。なにより私があなたに触れられたい。すべてをゆだね、何も考えられない状態になりたい』
エリザベートは、彼の腕の中で、愛されている幸福感と、彼に応えられない身体へのもどかしさを同時に感じながら、深く、そして安らかに呼吸をしていた。
当然のごとくきっかり産後8週間後から、まるで産褥期のロスを取り戻すかのように一晩に2度3度と激しく求められ、最初は理解が出来たものの、乳児の育児をかかえるエリザベートにとって、この時間は苦行になっていった。結婚する前に楽しかったことは、結婚後になぜ楽しくなくなるのだろう。ベルリンにいたころ、彼女は下手なりにアレクセイの官舎で楽しく昼食を作っていた。フリーダに教えてもらって、ハンブルクの料理まで作ったことすらあった。あんな面倒なもの、今では二度と作りたくなかった。そしてセックス……あの官舎で、そして彼女の店の作業場で愛し合った日々、あれほど切なく待ち遠しかった瞬間は、なぜ面倒な行為に成り下がったのだろう。
「どうした? リーザ。痛いのか?」
アレクセイはいつも私の快楽を優先してくれる、私がジークフリートとの結婚生活で性交痛に悩んでいたことを知っているから……だがそれは、裏を返せば身をよじり、声を上げる様子を要求されているということなのだ。出産したばかりで、自分にはほとんど性的欲求はないのに、夫に求められて喜んでいる演技をしなければならないというのは、なんという自己矛盾だろう。
「いいえ、気持ちいいわ、もっとして」
表情を読まれまいとして、エリザベートは夫に抱きついた。そう、この体勢ならすぐに自分が達することを知っていた。エクスタシーに達した自分を見なければ、やめてはもらえないだろう。ああ、もう早く眠りたい。彼女の頭にはそれしかなかった。
使用人も親族の助けもなしに乳児を育てるというのは、大変だった。赤ん坊など寝ているだけと思っていたが、その寝ている時間にはおむつを洗ったり、他の家事をしたりと、細切れにいろいろな用事があった。さらに夫の相手もし、慢性的な睡眠不足に悩まされた。
それでも1949年3月、エリザベートは予定通り仕事に復帰した。保育園に行くようになると、クラーラは急に一晩中ぐっすり眠るようになり、育児は急激に楽になった。どうも保育園という外の世界に行くようになり、刺激が多く赤子なりに疲れているようだった。確かに病気をもらったりしてエリザベートの有給休暇はすごい勢いでなくなっていったが、彼女自身も家庭とは違う刺激を昼間得るので、人生の充実感を感じて行った。なんだ、家にいるよりも働くほうが楽じゃないか、という結論だった。こうして彼女はエドゥアルトの時と同様、それほどクラーラに対して興味を持つこともなく、保育園に育児の外注を行いながら、自分の楽しみのために働きに出ていた。
この年の5月のことだった。終戦から4周年ということで、ベルリンのトレプトウ公園に戦没者記念碑が、ベルリンの戦いで命を落としたソ連軍兵士を追悼し、供養する目的で建てられた。落成式は大規模に行われ、ラジオでも報道されていたが、実際の銅像は新聞で見るまで、エリザベートは見たことがなかった。記念碑の中心にある巨大な像は、大きな剣を持ち、助け出した少女を抱いたソ連兵の姿をしており、ハーケンクロイツを踏みつけていた。戦いと平和、そして解放者としてのソ連兵のイメージを強く象徴していると新聞には書かれていた。
「なに……これ、悪趣味……」
確かにドイツは首都の中心にまで敵軍に侵攻され、国会議事堂に赤い旗を上げられ、完膚なきまでに叩きのめされた。ベルリンの戦いで戦死したソビエト将兵は2万人にも上るらしい。ゴールまで来て亡くなった人たちは気の毒に思う。だが、こんなものを作るなら、ソ連領内に作ればいいじゃないか。もしかして東ヨーロッパ全部にこういうものを作っていっているのだろうか。
それはエリザベートの体の奥に久しぶりに沸き上がった愛国心だった。こてんぱんにやっつけて瀕死の状態にし、その後ずっと支配下におく。これではまるで、国が国を強姦して愛人にしたみたいだ、と感じた。
新聞を取りに行ったエリザベートがなかなか食卓へ戻って来ないので、アレクセイが玄関ホールまでやって来た。
「どうした? コーヒーが冷めてしまうぞ」
エリザベートは無理に笑顔を作り、アレクセイに新聞を渡した。アレクセイは一面を見て声をあげた。
「おお、すごいな。ついに完成か。これすごくでかいって聞いてるんだ。ベルリンに見に行ってみたいか?」
「いやいや、ベルリンなんてもう行けないわよ」
アレクセイの冗談に対し、エリザベートは顔を見せないように、さっさと食卓へ急いだ。彼女はあの銅像の少女がまるで自分のように感じた。ライフルを持った兵士はアレクセイだ。助け出された少女は兵士に犯され、人生を支配されるのだ。
ここまで空想を巡らせ、エリザベートはハッと我に返った。なぜ私は夫と私の関係のことを「犯され」「支配され」と考えてしまったのだろう。ちょうどアレクセイとエドゥアルトが、来月予定されている保育園の卒業公演の話で盛り上がっているのをいいことに、エリザベートはパンにジャムを塗りながら考え続けた。アバクーモフにも尋問で「最初は強姦だったのか」と聞かれた。もちろん全力で否定した。私は自分から彼の胸に飛びこんだのだ。
エリザベートは、クラーラのパン粥を混ぜて冷ましながら、時々口に運んでや
り、楽しそうに話しているアレクセイとエドゥアルトのほうを見た。
「ちらっとだけでも教えてくれよ」
「だめだよ。おうちのひとには、ゼッタイにおしえたらいけないんだ。トウジツのおたのしみさ」
「エドは誰の役なんだい?」
「いわないよ」
「ん~じゃあセリフ一個だけ教えてくれよ」
「いわないよ」
エドゥアルトはアレクセイのしつこい「尋問」にも負けなかった。アレクセイはこの尋問を面白がって、ゲラゲラ笑っていた。どうやら卒業公演の内容は、国家機密並みの箝口令が保育園から敷かれているらしい。
エリザベートはそんなアレクセイを見ながら、この人は本当に義理の子を可愛がり、よく面倒を見てくれていると思った。私のことも本当に大切にしてくれる。ただ、どうして彼はセックスの時にいつも「君は誰の支配下にある?」とか「君のすべてが俺のものだ」とか言い続けるのだろう。それは私の潜在意識に刷り込まれ、心地よくさえ感じてしまっている。この心理状態をどう説明したらいい?
ベルリン封鎖は西側の空輸作戦のおかげで全く意味がないものになり、ソビエトは1949年5月12日、ついに封鎖を解除した。(この先1961年にベルリンの壁が建造されるまで、東西ベルリン間の通行は検問があるものの自由となり、亡命の抜け道になる) そして、5月23日、米英仏の占領ゾーンはドイツ連邦共和国(西ドイツ)の独立を宣言した。ソビエト占領ゾーンは取り残され、人々は「我々はどうなるのだろう」と不安になった。だが、おそらくはソビエトゾーンだけで国が作られるのだろうということは、皆わかっていた。こうしてドイツの分断は決定的なない状況となった。
エリザベートはベルリンの騒ぎのことを、遠くドレスデンからラジオや新聞で見聞きするしかなかった。親族はみんなハンブルクかミュンヘンにいる。ギゼラ、カール、フリーダはオスカー兄様がなんとかしてくれているはずだ。ルドルフとユーリアの病院も住居も西ベルリンで、マルタは西側にわざわざ引っ越していた。そう、旧来の知人たちはみんな西側だった。自分だけが好き好んで東側に残り、さらに奥地のドレスデンに来ているのだ。たぶんこんな人間は自分だけだろうとエリザベートは思っていた。アレクセイと一緒にいたい、それだけの理由で東側に残った。そのことは決して後悔していない。後悔してはいけないのだ。自分は今幸せだと思い込まなくては、生きていけないではないか。




