3 占領者たち
翌朝早くに目が覚めると、床に直接寝たせいで体のあちこちが痛み、ひどい疲れを感じた。昨日の夜のことは夢なのか現実なのか判断ができなかった。バルコニーに出ると、ソ連軍のトラックや重機が庭に乗り入れているのが見え、彼らの洗濯した制服が木々の間にロープを渡して干してあった。エリザベートはため息をついた。ここからの眺めはとても気に入っていたのに……
ジューコフ少佐が5,6人の将校と連れだって歩いているのが見えた。その中にはアンドレイ・なんとかヴィッチ・ミハイロフ少佐と、ピョートルなんとかヴィッチ・セミョなんとか中尉が見えた。彼女は向こうがこちらに気付く前に部屋に戻ってしまおうと思ったが、少佐はそれより早く彼女に気付き、手を振りながらバルコニーの下まで走ってきた。
「おはようございます、リヒテンラーデ夫人」
朝の陽光の中、あまりにも明るい声と笑顔で挨拶されたので、エリザベートはつられて笑顔になってしまった。
「おはようございます、ジューコフ少佐」
「昨日はよく眠れましたか?」
エリザベートは自分の作ったバリケードを思い出して赤面した。椅子は1センチも動いておらず、ワイングラスはすべて無事だったのだ。
「遅くまでうちの連中がうるさくしていてすみません。昼までにはこちらの棟からは見えない場所に移動させますので」
「はあ……」
少佐はまた手を振って、仲間のほうへ戻って行った。まるで競技場でスポーツをしている選手がフェンスの脇にガールフレンドを見つけて、ちょっと話をしに走り寄ったような感じだった。しかしこんな朝早い時間にナイトガウンを着てボサボサの髪でここにいたことにより、この部屋が彼女の部屋であることの確証を与えてしまったとエリザベートはまずいことをしたと感じた。
朝食の席は、居候たちから子供たちまでが昨夜同様葬式のようだった。しかしいつもと違う種類のパンが置いてあったので、これはソ連軍の差し入れだろうと思えた。
「食事の際の話題の決定権は主人にあります。妻は夫の言うことに反論することなく耳を傾け、あいづちを打ちましょう。お客様がいらしたときには、話題からはずれてしまう方が出ないように気をくばるのが女主人の務めです。全員が楽しい食事ができるような話題を提供する必要があります。主賓との食べるスピードを合わせ、大皿料理を勧めることを忘れてはなりません……」
女学校で学んだ花嫁教育。結婚前も結婚後もテレジア夫人から厳しくしつけられた貴族の女主人としての教育。エリザベートはもはやそれらを頭の隅に封印した。いつもは自分のほうが家柄のいいことを鼻にかけたランバッハ老夫人も、黙って小さくちぎった黒パンを口に運んでいた。愚痴ばっかり言うアイスマン夫人と不安症になって泣いてばかりいるヒルデガルトも黙り込んでいた。どうせ話したところで話題はひとつなのだ。やつらがついにやってきましたね・・・・・・
エリザベートは朝食後少し好奇心にかられて台所の隣にある食品倉庫をのぞきにいった。2日前カウフマンとともにここを見たとき、棚にはほとんどものがなかったが、今や天井までぎっしりと箱がつまっているし、ハムやベーコン、干し魚もあり、床の上にまで野菜の入った木箱が置かれていた。おそらく料理人はこれらをすべて朝食に使うようなことをせず、計画的に使っていくのだろう。我々も食糧を潤沢に持っているわけではない、と昨日聞いたが、彼らはこれだけのものを分けてくれたのだ。一瞬彼女の心はロシア人たちに感謝しそうになったが、寸前のところで押しとどめた。
その日の午後、ジューコフ少佐からお茶に誘われたので、エリザベートが用意をして図書室の奥の家族用の広間のテラスで待っていると、少佐はアンドレイを伴ってやってきた。今日はあの若い中尉はいない。
「子どもさんたちも一緒でもよかったんですよ。別にそんな堅苦しい話というわけでもないし」
アレクセイの言葉にアンドレイが噴き出した。
「こいつは本当に子どもが好きでね、しょっちゅう町や村の子供たちに話しかけては、お菓子を与えるんです」
もしかするとアレクセイには国に残してきた妻に小さな男の子がいるのかもしれないな、とエリザベートは考えた。もう何年も会っていないのなら、どれほどさびしいことだろう。
「早く結婚すればいいのに」
アンドレイのその言葉にエリザベートが驚いた顔をしたので、アレクセイは自分から話し始めた。
「自分は独身です。これでも。もう30になるっていうんですが……」
「そうですか……でも、いつかいいご縁がありますわ、きっと」
いきおくれた娘に言うような社交辞令をエリザベートが口にしたので、アンドレイはゲラゲラ笑った。二人の将校は年も同じくらいだがこのからかう態度はいかがなものか、と彼女は感じた。アンドレイは好き勝手なことを言い続けた。
「昨日初めてお会いしたとき、我々はあなたを20歳そこそこかと思ったんですよ。今でも子どもがいるようにはとても見えませんけどね」
「まあ、これでも27になりましたのよ」
自分が若く見られたことを喜んでいいものかどうか、エリザベートは悩んだ。確かに最近食べるものがあまりなかったのと心労で痩せてしまったので、娘時代のようにほっそりしている。
その時、ボールとともに子どもたちが走りこんできた。服も手も泥だらけにしている。
「すみません、さあ、あなたたち、戻りましょう」
息せき切って追いかけてきた家庭教師のギーゼラがそう言ったが、アレクセイは彼らにも同席するようにすすめた。
「こっちへおいで、お菓子もあるよ」
少佐の手まねきに子どもたちは歓声をあげて走りよった。アレクセイは制服が汚れるのもかまわず、長男エドゥアルトを膝に抱きあげてタオルで手をふいてやった。この子は人見知りで恥ずかしがり屋なのに、とエリザベートは考えた。エドゥアルトはジークフリートの前では委縮して自分の気持ちを話すことすらできない少年だった。
「この子があなたの子で、そちらの子は?」
「私の子です、カールといいまして、ぼっちゃまと同じ年です」
ジューコフ少佐の質問にエリザベートが答えようとしたのを、ギゼラが口をはさんだ。ソ連軍と奥様とで直接会話をしてほしくないような気持がただよっていた。
「おじさん、このお菓子おいしいね」
子どもたちは口のまわりをチョコレートだらけにしながらお菓子を口いっぱいにほおばった。今までどれほど食卓のマナーについて厳しくしつけをしてきたかを思い出すと、エリザベートは目眩がしそうになった。だいたい子どもは大人同士のこういう席には同席しないものなのだ。自分が今まで当然と思ってきた貴族社会のルールが音を立てて足もとから崩れていくのを彼女は感じた。
エリザベートは追加の紅茶をいれようと、立ち上がった。彼女はティーカップにお茶を注ぎながらジューコフ少佐の視線を感じていたので、できるだけとりすました顔をして作業に集中した。紅茶をティーポットから優雅に注ぐのは奥様の仕事だ。
「何見とれてるんだよ」
アンドレイがアレクセイに肘鉄をくらわせた。
「いや、貴族的な優雅さだ。すばらしい」
アンドレイのロシア語での問いかけに対し、アレクセイはドイツ語で言った。こそこそ話をしていると思われたくないためか、あるいは私への賛辞を聞かせたいのか、エリザベートはいろいろと考えてしまった。この人たちに、今くらいの会話のロシア語なら私は理解できることを、まだ言わないでおこう。
「これ、素敵なカップですね」
アレクセイはティーカップを目線まで持ち上げた。
「これはヘレンド社のものです。私が結婚に際して故郷から持ってきたものです」
「故郷って、どちらです?」
「ハンブルクです。実家がそこで商売をしていまして・・・」
「商売? あなたは昨日‘伯爵夫人’だと言った。貴族の方ではないのですか」
アンドレイに聞かれて、エリザベートはまたしまった、と思った。私は人が良すぎるのだろうか、聞かれたら素直に答えてしまう。
「私の実家は祖父の代に成功した商売人です。夫の家は第一次世界大戦で没落した貴族で・・・まあ、よくある話ですわ」
要は金と家名の交換の結婚。世間は私たち夫婦をそうとらえていた。でも私は夫の制服姿に憧れ、パーティーで踊り、心から愛して結婚したのだ。ジークフリートのほうもそうだと思いたい。
そう言った瞬間、森の向こうの市街地から大きな爆撃音が響き、煙が派手に上がった。断続的な地響きもしている。戦争は続いているのだ。見えるはずもないのだが、彼ら3人は立ち上がって街の方を見た。
「あと1週間ってとこかな」
アンドレイが言った。そう言えばこの人達はこんなに暇にしていていいのだろうか、とエリザベートは思った。今朝から家族も使っていいと言われた共用の図書室に行くときにソ連軍士官や将校を何人も見たが、みんな清潔で栄養状態もよく、長い戦争の疲れを感じさせなかった。
「戦闘が終われば市街地を一度見に行って、それから休暇を取ってやる。俺は妻の手料理が食いたい」
アンドレイの言葉にエリザベートは笑った。彼はもう何年も休暇がないとぼやいた。ジークフリートもこの混乱が終われば戻ってきてくれるのだろう。ドイツが勝とうが負けようが……
彼らは本当に暇そうだった。お茶の時間以外直接話すこともなかったが、ある日ギゼラと一緒に子供たちを連れて屋敷のまわりを散歩しているときに、将校たちが柔術に興じているのに出会った。ちょうどアレクセイがアンドレイを負かしたところだった。
「やあ、いいところに来ましたね」
アレクセイは誇らしげに手をあげてエリザベートに笑いかけた。彼は何試合もしていて暑くなったのか上着を脱いでいて、薄い半そでシャツ一枚になっていた。筋肉の盛り上がった肩や胸のラインと汗の輝きに、エリザベートは彼に対して男性的な力強さを感じ、顔を赤らめた。
「今度乗馬しましょうよ、リヒテンラーデ夫人。乗馬なら俺はアレクセイに負けはしない」
横からアンドレイが口を出した。ピョートルと他の若い兵士との試合が始まっていた。
「もう何か月も乗っていないし、軍馬に乗るのは自信がありませんわ」
「大丈夫ですよ。おとなしいヤツもいるから」
本当に、アンドレイとは何も意識せず普通にしゃべりやすいのに、どうしてアレクセイが相手だと自分は変に意識してしまうのだろう、とエリザベートは考えた。アンドレイがロシア社会の中でもブルジョワ出身なのに対し、アレクセイは軍人の家系で厳しく育てられたせいだろうか。軍人といえば戦時中ドイツ国防軍の将校たちとも話したことがあったが、特に何とも思わなかったのに。ロシアやポーランドの捕虜、あるいは連行されてきた労働者がベルリンで防空壕を掘ったり、空襲で壊れた建物を片付けたりしているのをよく目にしてきた。異国のスラヴ人。劣等人種。労働者階級。自分とは違う世界の人間だと思っていた。しかしこの時彼女は生まれて初めて男性の汗に性的な魅力を感じた。
「おちびちゃんたちは今日もご機嫌だね」
アレクセイはしゃがんでエドゥアルトとカールに話しかけた。子供たちは「だっこ」をせがむように両手をアレクセイに差し出した。少佐は軽々と二人の幼児を抱きあげ、子供たちは母親よりも目線が高くなったことに喜んで、声をたてて笑った。この人は本当に子どもに好かれる人なんだわ、とエリザベートは考えた。こどもに好かれる人に悪い人はいない。敵の隊長とはいえ、こんなに紳士的にやさしくされ続けると、憎むことができなくなってしまう。
翌日は本当に馬場で乗馬大会が行われた。本人の言葉通りアンドレイ・ミハイロフ少佐の障害物越えはすばらしいものだった。エリザベートは木の柵にもたれて彼らを眺めながら、そしてジークフリートがすばらしい乗馬服で貴族的な優雅な乗りこなしを見せてくれた日々を思い出していた。
「ワルキューレ、どうしてるのかなあ」
エドゥアルトが言った。神話から名付けられた子どもの馬はずいぶん前に徴用されてしまい、それっきり何の音沙汰もなかった。人間ではないから手紙も電話もできないし、戦争が終わったところで返してはもらえないということも大人たちには分かっていたが、子どもにとっては承服しがたいことだった。
「どこかできっと元気にしているわよ」
エリザベートはエドゥアルトを引き寄せた。カールは馬に乗せてもらい、アンドレイの従卒が手綱を引いていた。
「子どもたちの馬まで徴用されたんですか?」
ふと気付くと、アレクセイが隣に来ていた。乗馬に疲れたのか、水の入った瓶を持っていた。
「一年前に……大人は納得できても、子どもには理解できませんものね」
エドゥアルトは不安な目をアレクセイに向けていた。アレクセイは子供の頭をなでた。
「兵隊さんは皆、馬には優しくしてるんだぞ。大丈夫、君のワルキューレもひどい目にはあってない」
子どもが笑顔を取り戻したので、アレクセイは彼の肩をたたき、
「さあ、君も乗っておいで」
と、馬場へ送りだした。
エリザベートはアレクセイと二人で、柵の前に残された。彼と二人きりというのは初めてだったので、何を話せばいいのかわからなかった。
「アンドレイは乗馬の名手でしょう? 彼は次の異動で騎兵学校の教官にでもなれそうだ」
アレクセイの言葉にエリザベートは相槌をうった。
「あなたとはとても気心の知れた感じに見えますけど……もうずっと前からお友達なのですか?」
「士官学校の同期です。一緒に授業を受け、一緒に寮を抜け出して……若くて無鉄砲な日々をともにすごしました。こうして無事に一緒に戦争の終わりを見ることができたことにたまらなく感謝しています」
違うタイプの二人だからこそ、長きにわたる友情を築くことができたのだろうか。それに比べて自分はどうだろう、とエリザベートは考えた。心から信頼できる友人というのはいるだろうか。リヒテンラーデ伯爵夫人で親衛隊中佐夫人だからこそ、自分を取り巻いていた人々はこの敗戦でそっぽを向いてしまうことくらい、世間知らずの彼女にも充分予見できた。
5月2日、国会議事堂がソ連軍に明け渡され、中心部での戦闘が終結したことが伝えられた。
「ヒトラーは死んだらしい」
この日はアンドレイがロシアンティーを皆に作ってくれていた。
「戦死なのか、自殺なのか……情報が錯そうしていてわかりませんが」
彼は優雅な手つきでいつものメンバーに紅茶を配った。
「もう、こういうのどかな日々が終わってしまうんですね」
ピョートルがため息とともに言った。アンドレイが彼の足をけとばした。
「だってミハイロフ少佐、こんなりっぱな家のすんごいベッドに眠って、いいもん食って……もうこんなこと、一生ないような気がしますよ」
それを聞きながらアレクセイは笑っていた。エリザベートは何も言わずに彼らのやりとりを見ていたが、戦闘が終わればこの人達はどうするのだろうと考えた。全部のソ連兵がベルリンに残るわけではないだろう。半分?ほんの一部を残して故郷に帰るのだろうか。アンドレイは休暇願を早々に出してしまったらしいし、ピョートルもモスクワ軍管区への異動をずっと希望しているらしい。アレクセイはどうするのだろう。エリザベートの心を見透かしたかのように、アレクセイが口を開いた。
「もう少ししたら、私たちも一度司令官から呼び出しがくると思います。その上でまた新しい仕事を与えられます。戦争というのは始めるのはたやすく、終えるのは難しい。兵隊たちにいつまでもテント暮らしをさせるわけにもいかないし。そのうち米英軍もやってくるし……」
アンドレイが続けた。
「まあもうしばらく、この暇でのどかな日々を味わわせてもらいたいものだがね。我々は4年間休みもなく、死闘をくぐりぬけてきたんだから。ここにいると戦争など忘れてしまいそうです。まるで休暇で旅行にでも来ているみたいだ。もっとも、こんなにすばらしいホテルに泊まったことなどないけどな」
「そうですよね、ミハイロフ少佐。少佐はとりあえず休暇希望でしたっけ? 僕はずっとレニングラードかモスクワに戻る希望を出しているけど、もう少し先でもいいなという気になってきてるんです。ジューコフ少佐はどうなんですか? コーネフ将軍が少佐の事務能力にはいつも感心していますからね、ジューコフ少佐はきっとベルリン残留組だと僕はにらんでいるんです。ドイツ語も上手だし」
ピョートルの無邪気な言葉にアンドレイが笑って言った。
「まあ、なかなか人事というやつはそう希望通りにはいかないさ。ベルリン残留はほとんど第一ベラルーシ軍っていう話だ。我々第一ウクライナ軍はロシアに帰れるさ。もっとも、ドイツ残留を希望すれば別だがな」
「ジューコフ少佐は残留を希望するのですか?」
「さあ、どうするかな」
アレクセイは無関心な様子でクッキーを口にしていた。アンドレイはちらりとエリザベートの方を見て、うがったような言い方で、
「ジューコフ元帥閣下に頼めば、お前ならなんとでもなるだろうよ。ベルリンにいたけりゃ、いたいで……」
と言った。
「父親同士が従兄弟っていう遠い関係だ。戦争が始まってからはほぼ会ったこともないし。そう無理は通らないよ。俺の存在なんて忘れてるかもしれんし」
アレクセイはそう言って、紅茶を飲んだ。エリザベートはアレクセイを横目で見た。この人がいてくれたらどれほど心強いだろう。気安く口をきけるアンドレイ、まだ少年の面影を残すピョートル、3人の中ではアレクセイが一番口数も少なく、とっつきにくい存在ではあったが、自分が一番信頼を寄せているのはジューコフ少佐にほかならないのだ。
接収と占領の当初、警戒して部屋にこもっていた屋敷の使用人や居候たちも、日が経つにつれて通常の生活を取り戻していった。最後まで心を許すまいと頑張っていたアイスマン夫人がアンドレイと図書室でフランス語話に興じながら声をあげて笑っているのを見たとき、エリザベートは自分の心の中の最後の氷が溶けたのを感じた。ソ連軍の方も、接収の利点を大いに享受していた。長い戦争の間、野宿もやむを得ない状況だったのが、屋根の下で眠れるし、窓ガラスが北風を防いでくれるのだ。風呂も煮炊きにも不自由はなくなり、女性兵士たちは着替えや休憩の場所が出来て大喜びだった。屋敷の人間は何より安全に感謝した。この連中がここにいるかぎり、空爆もされないし、大砲もとんではこないのだ。想像していたのと違って赤軍の連中も話が通じるということにみんな安心した。そのうち召使たちと士官が談笑している場面も多々目撃されるようになってきたが、当初懸念されていたトラブルもなく、日々は平穏にすぎていった。遅れていた兵站も無事到着し、妊娠している牝ヤギは3頭返還され、ドイツ人たちは胸をなでおろしたのだ。
双方の責任者としてジューコフ少佐とエリザベートは毎日一度お茶の時間に顔をあわせて相談や報告を行っていたが、だんだんそれも形式的なものになりしばらくすると雑談しかしなくなった。それほどまでにトラブルもなく、話すこともないからだ。ではお茶の時間をやめるかと思えば、誰もそれを言い出さなかった。結局のところ皆暇で、お互いに話したいと思っていたのだ。アンドレイとピョートルは時々どちらかが欠けることもあった。しかしアレクセイだけはいつも出席し、口数少ないものの、彼女の話に耳を傾けていた。
ある日アレクセイが庭の奥にある温室に行きたいと言い出した。彼は庭のあちこちを散歩していて温室を発見したのだが、鍵がかかっていて入れなかったのだ。
「じゃあ案内しますわ」
エリザベートは当然アンドレイとピョートルも来ると思っていたが、彼らは「自分たちはあまり花に興味がないから」と言って同行しなかった。彼らは二人で温室に入った。むっとする湿気が鼻につく。エリザベートは手持無沙汰に剪定ばさみを動かした。
「お花、お好きなのですか、ジューコフ少佐?」
「詳しくはないですけれど……ああ、以前は花も春も嫌いだったこともあります」
「まあ、どうして? 私は春が一番好きです」
「婚約者を亡くしたのが春でしたので」
二人の間に緊張が走った。ああ、この人の瞳の中にある影はこれだったのか、とエリザベートは感じた。大きな黒い瞳に濃い眉をした整った顔立ちをしているし、背が高くて憲兵のエリート。実直で生真面目な性格。結婚歴がないのが不思議だった。
「戦争で、ですか?」
「いえ、結核です」
「すみません。悲しいことを思い出させてしまって」
「いいえ、もう6年も前のことですから。それに今は花も春も好きです。お屋敷の中にもあちこち飾ってあって目を楽しませてもらっています。私の部屋と私たちが使っているほうの食堂にも少し持って行っていいですか?」
エリザベートはいくつか花を切って新聞紙に包んだ。6年前の春・・・私とジークフリートが結婚したころだ。私が幸福の絶頂にいたとき、この人は不幸のどん底に投げ落とされていた。新聞紙を丸める手が震えた。その様子をジューコフ少佐はじっと見つめていた。彼に見つめられると、息ができなくなるような気がした。温室の空気のせいだろうか。
「エリザベート……」
ふいにファーストネームで呼ばれて彼女は驚いて顔をあげた。
「……というのは有名なオーストリア皇后にいらっしゃいましたが、あなたは彼女と同じ名前ですね」
「ああ、シシィのことですね。フランツ・ヨーゼフ皇帝と恋愛結婚した。オーストリアでは有名な方です。腰よりも長い豊かな黒髪が印象的な、とてもスリムで美しい方だったそうですわ。でも、宮廷には寄り付かず旅行ばかりしていて最期は暗殺されて……」
彼女はどぎまぎしている心を隠すように早口でまくしたてた。ハプスブルク帝国の皇帝フランツ・ヨーゼフは23歳の時、バイエルン公国の16歳のエリザベート公女に一目ぼれし、皇后に迎えたのだ。ヨーロッパ一美しい皇后と言われたが、姑との対立や長女の夭逝、長男の暗殺など彼女の人生には不幸があいついだ。誰でも知っていることだった。
「歴史書と伝記などで読みました。愛し合って結婚したのになんて悲しい人生だろうと……皇帝は執務に追われ、彼女は孤独を深めていく。庶民の家庭でも似たようなものでしょうが、自分は妻になる女性にそんなさびしい思いはさせたくありません」
この人はどんな女性を愛し、誰を妻にするのだろうかとエリザベートは想像した。きっと情熱的に、息つく暇もない程に愛してもらえるのだろう。今は恋人はいるのだろうか。この人の腕に抱きしめられたらどんな感じなのだろう。先日アレクセイが半そでになっていた時の体の線を思い出し、彼女は顔を赤らめた。エリザベートはかぶりをふって話題を変えた。
「ジューコフ少佐。私、謝らなければなりませんわ。最初あなたに会った時、とても失礼な応対をしてしまったような気がします。食べ物のお礼も満足に言えず……」
「え、そうでしたか? 別に気にはなっていませんが。あなたはいつも丁寧だと思うし……時に、もう少しうちとけてくださればいいのにと思うほどです」
「いろいろとソ連軍の悪い噂ばかりが伝わってきていましたので、身構えていました。確かにあの兵士たちは暴力的な人達でしたけど、あなたや、ミハイロフ少佐やセミョノフスキー中尉、ほか皆さん方と接していて、あの噂は誇張されたものだということがよくわかりました。何百万人にも軍隊が膨れ上がれば、いろいろなもめごとも起こるでしょう。長い戦争でしたし。きっと小さな事件が大きくなって伝わってきたんだと思います。宣伝省はそれを利用して赤軍の悪口をひろめようとしたんですわ」
エリザベートの言葉に、ジューコフ少佐は何か言いたげな表情をしていたが、無言だった。彼女はちょっと小首をかしげた。
「どうかなさいまして?」
「いえ……軍隊内の秩序と規律の維持が私の重要な仕事なのです。非戦闘員への蛮行を止められなかったのは司令官や将校の統治能力が欠けていたといわれても仕方がありません。もちろん目の前でああいうことが起これば、必死でとどめてきました。けれどリヒテンラーデ夫人」
彼はそこで言葉を区切ってエリザベートのほうを向いた。
「未遂の段階で被害者を救出することができたのはあなたが初めてです。あなたの存在は私の誇りになっています。今少しかけつけるのが遅れれば、あなたは花を見て微笑むこともできなくなり、こうして私と話すことは不可能になってしまったほど傷ついていたことでしょう。あなたを助けることができて本当によかったと思っています。これから先もあなたを守っていきたいと私は思っています」
エリザベートはまるで愛の告白を受けたかのような錯覚を覚えた。自分は確かに不思議とこの人を意識してしまっているが、それは彼も何がしかの感情をこちらに抱いているせいなのだろうか。直接的な言葉ではない。けれど……男が女に対して「守りたい」というのは……彼女はかたずをのんで彼の次の言葉を待ったが、アレクセイは何も言わずにエリザベートの瞳を見つめていた。ガタン、と音がしたので二人は温室の入口を見た。ランバッハ夫人の連れてきた下男のルドヴィヒが土の袋を抱えて立っていた。
「奥様……御用がおありなら、わしが切りますのに」
「いいのよ、少しだから。それにもう終ったわ」
アレクセイはエリザベートから花を受け取った。そして二人は温室を後にした。
一時間後エリザベートはテレジアから雷を落とされた。
「いくら自分の家の庭といえ、あのようなひと気のないところでよその男性と二人きりになるなんて、相手は奥様のことを軽い女だと思って何をしてくるか分かったものではありませんよ。それにあの方は敵の司令官ではありませんか!」
「まあ……そんなにカッカしなくても。ジューコフさんは紳士的な方よ。言葉遣いも物腰も丁寧だわ。あのような場所で何をするというの。私はあの方のことを信頼に足る人物だと思うけれど」
「あれほど恐ろしい目にあっておきながら、奥様はもうお忘れになったのですか。ロシア軍は皆けだものなのです。あの男だって同じ国の人間です。いつなんどき豹変するか。私たちはオオカミの群れに取り囲まれているようなものなのですよ」
「わかりました。これからは誰かに声をかけて同行してもらいます」
エリザベートはテレジアを下がらせた。一人きりになった寝室で彼女は大きな寝台に飛び込み、手足を伸ばした。カウフマンとテレジアは私のことを赤ん坊のころから知っているから、いつまでも小娘だと思っていて子ども扱いするのは仕方がない。結婚してからもそうやって誰かに監督されてヤイヤイ言われているほうが気楽だったのは確かだ。けれど……テレジアですらエリザベート自身があの温室で、ジューコフ少佐から手を握られて愛を告げられるくらいのことならされてもいいと考えていたことまでは気づいていないようだった。話した言葉の数ならアンドレイとの方がはるかに多かったのに、彼女が一番信頼しているのはアレクセイ・ジューコフなのだ。助けてもらったからだろうか。テレジアの「オオカミの群れ」という言葉を思い出した。アイスマン夫人も同じようなことを何度も言っていた。たしかにオオカミの群れだ。けれどオオカミのリーダーは……あのリーダーは私のことをどう思っているのだろう。どう思っていようと、こっちは人妻なのだからどうしようもないのに。
「アレクセイ」
エリザベートは彼のファーストネームを声に出して言ってみた。大抵の人間は彼のことを「ジューコフ少佐」とか「同志ジューコフ」とか呼ぶ。それ以上に親しい間柄でも、「アレクセイ・ペトローヴィチ」と父姓をつけて呼ぶのだ。「アレクセイ」と名だけで呼ぶことなど、恋人か妻か両親以外には考えられない。そして自分は決してそういう間柄になることはないのだ。エリザベートは寝返りをうって枕に顔をうずめた。そしてジークフリートと抱き合ったのはいつのことだっただろうかと記憶をたどった。
だんだんエリザベートはロシア人たちに慣れてきて、お茶の時間の後みんなで庭を散歩して案内したり、テニスに興じることもあった。時にはレコード鑑賞会も開かれ、双方から音楽に心得のある人間が集まって演奏を行ったりもした。テレジアにきつく言われているのでアレクセイと二人きりになることは避け、ロシア側もドイツ側も何人かが一緒だった。アイスマン夫人のところのヒルデガルトはさすがに距離を置いていたが、ランバッハ夫人の下の娘カタリーナなど、若いピョートルの恋人気取りでいつも離れなかった。もしカタリーナがアレクセイに魅力を感じていつもつきまとっていたら、自分はいやな気分になっただろうとエリザベートは想像した。だが、どうしてそういう気分になるのかは理解できず、きっとアレクセイがロシア側の司令官なのに対し、自分はリヒテンラーデ邸側の司令官なのだから、一対一でちょうどいいのだと思い込んでいた。
アレクセイはジークフリートのことを根ほり葉ほり聞いてくることもあった。エリザベートがジークフリートのことを「親衛隊の中佐で、国家保安本部の課長職にある」と言うと、アレクセイは絶句したような顔をし、その後ろでカウフマンが泡をくらったような表情をしていた。
「ご主人はそこでどのような仕事を?」
「さあ……時々所属は変わっていたようですが、仕事の内容について夫は家では話しませんでしたので、私にはよくわからないんです」
「中佐はずっとベルリンに? 戦地へは行っていないのですか?」
「戦争には行っていません。ずっとベルリン勤務でした。1月から連絡もなくて……市街地は空襲がひどい日もあったので……でも、無事を信じています」
アレクセイは「そうですね」と短く答え、エリザベートをやさしい目で見た。この時のことについては再びテレジアから雷を落とされた。
「奥様、あの人達はドイツの指導者層を根こそぎ死刑にするに決まってるんですよ。伯爵様が貴族というだけでも危ないのに、親衛隊の中佐だと言うなんて」
「テレジア」
エリザベートはできるだけ落ち着いて言葉を発した。
「いつまでもかくしておけるものではないわ。この家がナチスの信望者であることなんて、彼らはとっくに知っているわ。私が言わなくても、ランバッハ家やアイスマン家の人たちに聞けばすぐに分かることよ」
「だからってわざわざ話すことでしょうか? あの少佐は奥様に個人的な関心があって聞いてきたにすぎないでしょうに」
「まさかそんなこと、こっちには夫がいるのよ」
確かにアレクセイ・ジューコフ少佐はリヒテンラーデ伯爵夫人に関心があるらしかった。ドイツ人の生態に関心があるのか、はたまたロシアでは滅ぼされた貴族というものに関心があるのか、そんなところだろうと思っていたが、もしかして彼は私自身に関心があるのだろうかと考えることは、エリザベートにとって悪い気はしなかった。彼がいろいろ聞くので昔のアルバムまで持ち出していろいろと話したりもしたが、ジークフリートのことだけでなく、子どものことやハンブルクの生活のことまで聞くので、彼が本当はどの部分に一番関心があるのかはわかりかねた。だが、エリザベートの身の回りの世話をしている召使のフリーダの言葉はさすがにショックだった。
「あの方は奥様のお部屋にも来られるのですか。灰皿をご用意したほうがよろしいでしょうか」
自分たちは使用人の目にはそんな風に映るのだろうか。テレジアだけでなくフリーダまで? こうなると、召使たちは全員この噂を知っているに違いない。そういえばもともとアンドレイなどはアレクセイをけしかけているようなそぶりも見せていた。では赤軍内部でも? 当然のごとく赤軍のほうでも気付く人間が現れ、台所ではフリーダが衛生兵ナターリア達とお菓子を食べながら噂話に花を咲かせていた。
「ジューコフ少佐って全然愛想のない冷たい人だったのよ。女にも興味がない感じで一時同性愛者説も流れたくらい。あの人があんなに女性に優しくするのを初めて見たわ……」




