2-5 目撃
終戦から3年がたった。ドイツ全土は未だ瓦礫の山だ。親友ジークフリートの妻エリザベートが、行方不明となってから、1年半以上がたっていた。捕虜収容所から釈放され、今ではイタリアの教会で潜伏している親友に、彼の妻が行方不明であることは知らせることができず、数か月に一度の葉書のやり取りを続けていた。ドクトル・ルドルフ・シュナイダーは仕事の合間に、エリザベートのことはできるだけ探していた。
百貨店経営者の娘で、エリザベートと一緒に店をしていたマルタにも会いに行った。マルタ自身も最後にエリザベートと会ったのは1946年の8月だった。それは、ギゼラとフリーダがエリザベートと別れたのと同じ頃だった。
「ジューコフ中佐の異動先に連れて行ってもらえることになった、って言ったんです。けれど、後でよくよく考えると、ソビエトの人とは交際できないじゃないですか。アメリカやイギリスの人とはみんな堂々と歩いているけれど……住所が決まったら知らせるって言ってた癖に、葉書一枚来ないんですよ。え? 境界線でもめてソビエトの建物に連れて行かれた? そんなこと初めて聞きました。じゃあエリザベートは自分だけ残る覚悟をしていたんですね。はい、彼女はジューコフ中佐との恋愛に夢中になっていました。ええ、私も面識はあります。パトロール中によく立ち寄ってくれて買い物してくれました。エリザベートはとても嬉しそうにしていました。もう本当に、恋する乙女って感じで。中佐はアメリカのタバコをよく下さって。あのころはそれが一番価値のある通貨だったから。とってもいい方ですよ。親切で、丁寧で。ドイツ語もお上手です。見た感じ? 黒髪に黒目で、背が高くて、はっきりした濃い顔立ちです。目が結構大きいかな」
黒髪・黒目・背が高いというのは、ルドルフが病院で見て、店舗の前でも見た男と一致した。これで決まりだ、やっぱりあれがジューコフ少佐だったんだ。
また、シュミット弁護士のことも訪ねてみた。弁護士は戦時中はリヒテンラーデ家の財産を管理していたが、戦後は手を引いており、今ではグリューネヴァルト邸について英軍との連絡を引き受けているだけだった。
「……ええ、1946年の8月だったと思います。奥様から急に連絡があって。しばらくベルリンを留守にするということでした。住所が決まったら連絡するとおっしゃっていましたが、それっきり何の連絡もありません。お屋敷については去年、相続人全員推定死亡ということで国庫帰属になったそうです。奥様と坊っちゃまがご存命なことを行政にもお伝えしたのですが、まるで聞いてもらえませんでした」
弁護士も甚だ困り果てているようだった。
1948年5月、ルドルフはドレスデン駅に降り立った。ドレスデン医科大学で、たまたま彼の医学生時代の仲間が参加する学会が開かれたためである。1週間に渡り、さまざまな研究発表を聞き、少々疲れ果てたルドルフは大学敷地内にあるベンチで一休みしていた。ちょうど児童精神科の研究発表があるらしく、実験体なのか近所の幼稚園児なのか知らないが、10人ほどの幼児が広場で遊び、その周りを白衣の医師や学生が書き物をしながら見ていた。
親友には息子が一人いた。6歳になるはずだ。エリザベートと共にどこかへ消えてしまった。このドイツの東側ゾーンにいるのだろうか、ソビエトまで連れていかれてしまったのだろうか。金塊までもらってあれほど頼まれたのに、僕は親友の妻子を見失ってしまった。ルドルフは溜息をつき、その場を立ち去ろうとした。その時だった。
「エドゥアルト!」
親友の息子の名前が聞こえた。わりとありふれた名前だ。ルドルフは広場で実験体をしている幼児のほうを見た。呼ばれた少年は集団から抜け、声のしたほうへ走っていた。輝くような金髪の少年だった。ルドルフは心臓が高鳴るのを感じた。少年の面差しは親友にそっくりだった。あれは、エドゥアルト本人ではないか?
「お名前、年齢、好きなことを言ってください」
「エドゥアルト・ノイマン、6歳です。お父さんと鉄道模型で遊ぶのが大好きです」
ノイマンだって? お父さん? 他人の空似か? いや、名前も年も同じで顔もあれだけ似てるなんて偶然があるものか。ルドルフは周りの医師たちにまぎれ、エドゥアルトを注視した。次々に子供たちが呼ばれ、自己紹介をしていった。
「はーい、ではお母さんたちの登場です」
その言葉で、建物の中から何人かの母親たちが出てきた。その中にいる一人の金髪を長くした女性にルドルフの目はくぎ付けになった。エリザベート……ああ、見つけた。ようやく見つけた。こんなところにいたなんて。だが喜びと感動は一瞬だった。ルドルフはエリザベートの体型にぎょっとした。膨らんだ下腹部。どうみても妊娠しているじゃないか。5か月? 6か月か? 再婚した? ノイマン? ドイツ人か? ジューコフってロシア人に連れ去られたんじゃなかったのか? ルドルフの頭脳は混乱の極みに達していた。
この児童精神科の研究発表は、幼児による母親の認識や愛着障害などをテーマにしていたが、周りにはたくさん人がいて、写真なども撮っていた。ルドルフは持っていたカメラで母子の姿をカメラに収めた。エリザベートの顔は幸せな母親そのものだった。なぜそんなに幸せな顔をしているんだ? そもそも君はなぜドレスデンにいるのだ?
「はーい、次はお父さんたちの登場です」
父親まで呼んでる? なんとまあご苦労なことだ。学会の研究発表イベントに仕事を休んで家族で参加とは。出てきた父親たちの中に、ルドルフは見た覚えのある顔を見つけ、今度は心臓が止まるかと思った。
あの時の赤軍憲兵少佐……終戦後の混乱の中でエリザベートを守るように隣に付き添い、シュナイダー病院を訪れた男だ。制服を着ていないが、黒髪・黒目で長身……あの鋭い目は忘れようがない。
あいつと再婚したのか? いや、ちょっと待て、ノイマンと言ったぞ。あいつはジューコフだろう? マルタの言っていたように、ソビエト人とは結婚はおろか交際も出来ないはずだ。ルドルフは人の後ろに隠れながら、何枚か写真を撮った。イベントの終わりに、家族が3人揃ったところも写真に収めることができた。
エリザベートに声をかけたい。ジークフリートが生きていることを知らせたいと思った。しかし、黒髪の男はエリザベートのそばから離れようとしなかった。エリザベートは黒髪の男を見上げ、幸せそうに微笑んでいた。男が彼女の腹をなで、付近の人に「出産は9月の予定です」と話しているのが聞こえた。エドゥアルトは「お父さん、お父さん」と言って手をつなぎ、懐いている様子だった。そもそもソビエトの軍人が、なぜノイマンなんていうドイツ名を名乗っているのだろう。そして、腹の子はロシア人の子なのか?
あの男は偽名でドイツ社会に潜入している……?
ドイツをこれからも永続的に支配するためにソビエトから送り込まれたスパイだとしたら、すべてが合点がいった。ジューコフ少佐はスパイ潜入を企て、たまたま気に入ったエリザベートと再婚して仲間に引き込んだのだろうか。エリザベートはどこまで分かって結婚しているのだろう。しかし、スパイだとしたら、声なんかかけたらこっちが消されてしまう。とりあえず一度ベルリンへ戻って、この写真を現像してハンブルクにも送ろう。話はそれからだ。ルドルフは3人に気付かれぬよう、その場を立ち去った。
だが、ルドルフがベルリンへ戻った直後、ドイツ全体が激震に見舞われる。1948年6月20日、何の前ぶれもなく西側3か国は彼らの占領ゾーンの通貨を改定すると発表した。これにより無効となったリヒテンマルクが東側に流入することを恐れたソビエトにより、6月23日には東側だけの通貨が発行されることになった。結果としてドイツの分裂は避けることができない事態となった。大混乱の後、ソビエトは7月24日西ベルリンをぐるりと鉄条網で囲み、東西ベルリンの行き来をできなくしてしまった。(歴史上「ベルリン封鎖」と呼ばれ、翌1949年5月12日まで) 西ベルリンは文字通り、陸の孤島と化したのである。
ルドルフは、現像した写真をユーリアに見せた。ユーリアも「エリザベートに間違いない」と判断した。だが、郵便も止まってしまったため、写真をハンブルクへ送ることも、連絡すらできなくなってしまった。西ベルリンへは毎日連合国軍が食糧や生活物資を乗せた航空機を飛ばしてくれていたが、郵便や民間人の渡航など二の次だったからである。ジークフリートとの連絡もできなくなってしまった。自分がもう一度ドレスデンへ行くことすらできない。せっかくエリザベートを見つけたのに、ぐずぐずしている間にまた引っ越されてしまったら……シュナイダー夫妻はまた詰んでしまった。




