2-4 ルドルフ・シュナイダー
・・・・・時間は少し遡る・・・・・
1943年暮れのことだった。年の始めに、スターリングラードでドイツが敗北したニュースは市民にも伝わってきていたが、そこまで絶望的に戦況は悪いのか、とルドルフ・シュナイダー医師は握った手に力を込めた。この日急に国家保安本部(RSHA)に呼び出され、会議室で聞かされたのは「来たるべき敗北の時にどう備えるか」だった。正面の男は新聞で見たことのある、偉いさんだ。その隣にはルドルフのギムナジウム時代からの親友、ジークフリート・フォン・リヒテンラーデ親衛隊中佐が座っていた。ジークフリートの紹介で、信頼できる腕のいい形成外科医ということでルドルフが呼ばれたのである。
「我々親衛隊員は左腕の下、上腕部裏側に小さく血液型の入れ墨を入れている。これは戦時において優先的に輸血を受けるためのものであったが、裏を返せば、これは親衛隊員であることの動かぬ証拠となる。これをきれいに消してしまうことは現代の医学では可能か。薬品、外科手術、方法はなんでもいい。探してほしい」
戦争の敗北を口にすることも、考えることも罪とされた時代に、国家の中枢幹部からこのようなことを聞かされ、ルドルフは仰天した。ジークフリートとはその晩遅くまで、ルドルフの自宅で話し合った。
「戦争は45年いっぱいは持たないだろう。そして、政府関係者は戦争犯罪人として訴追され、処刑される。つかまるわけにはいかない。第三帝国が滅びても、第四、第五いくらでも復活させてやる。我々が地球上で最も優秀な血を持ち、正しいのだ。そのため親衛隊員である証拠を消し、別人として逃亡する手はずだ」
「逃亡って……どこへ?」
「手を貸してくれる団体はたくさんある。とりあえずイタリアかスペインあたりへ逃げ、カトリック教会の力を借りて南米まで逃げるルートを構築中だ。そのための資金をスイスへ移しているところだ」
「カトリック教会だって? なんでまた」
「ああ、彼らは共産主義が嫌いだからな。なんせ共産主義は『神』の存在を否定する。敵の敵は味方ってわけさ。ああ、君には資金の移動も手伝ってもらいたい。もちろん礼ははずむ」
その他、彼らの卒業したベルリン大学の教員に、戦後協力を取り付けている人物が複数いることなどを話した。
この時代の医学、科学の力では完全に刺青を消してしまうことは不可能だった。では消すのではなく、新しい傷をつけるのはどうかとルドルフは考えた。
「敗戦になって逃げるとして、その際、国防軍の制服を着るというのはどうでしょうか。戦場で傷を負ったことにするんです」
次にRSHA本部に赴いた時、ルドルフは人体図を黒板に描き、5人の幹部の前で説明した。脇の下だけをケガするのは不自然であるため、胸と上腕部にかけての火傷を偽装するのである。
「つまり傷を消すのではなく、新しい傷で覆い隠すと言うのかね?」
「そうです。何か爆破に巻き込まれて大火傷を負った設定にします。大やけどの治療では一般的に、自分の大腿部から皮膚を移植します。つまり皆さんは無傷なのですが、胸と上腕部全体に大腿部から皮膚を移植するのです。皆さんの体にはかなり大きく、見苦しい傷痕が出現しますが、命には変えられません。変に民間人に化けるよりも安全だと思います。徴兵された国防軍兵士は数が多いので、逆に目立たないと思います」
間もなく、何人かの囚人に実験が行われた後、順番に親衛隊幹部職員に皮膚の手術が行われた。
1944年10月、ジークフリートは手術を受け、新しい「傷痕」を珍しそうに鏡で見ていた。
「訓練以外で引き金を引いたこともなく、戦場にも出ていない僕が、こんなに大きな傷を負うとはね。これなら、国防軍に徴兵された一介の伍長が、爆発で大ケガをして皮膚移植をしたと連合国側も信じるだろう。君の腕はたいしたものだ、感謝するよ」
「エリザベートにはどう説明するんだ? 夫婦なんだ、裸を見せないわけにもいくまい」
「……もう、終戦まで、いやもっとか、この先何年か彼女には会わないつもりだ。電話連絡にとどめる。逃亡先で安定した生活が送れる目途がついたら呼び寄せる」
ルドルフはびっくりした。
「逃亡のことも言わないつもりなのか? 疎開もさせず、事情も話さないなんてあんまりじゃないか。君だってソビエト赤軍がどんな連中なのか知っているだろうに、ベルリンに置いていくっていうのか!」
「彼女は善良で素直な人柄だ。連合国の尋問には耐えられないだろう。僕の行き先についても、逃亡ルートについても、知らなければ嘘をつかずに済む。君も、彼女から何を聞かれても黙っておいてくれたまえ」
ジークフリートは親衛隊の制服を着用し始めた。まだしばらくは親衛隊員でいないといけないようだ。ルドルフは冗談めかして言った。
「エリザベートがお前が死んだと思って後追い自殺したり、他のヤツと恋仲になるっていう心配はないのか?」
「彼女はそんな人ではないよ。きっと何年でも待っていてくれるさ」
1944年11月、ルドルフは妻ユーリアと子供達を連れ、政府の飛行機でスイスへ向かった。表向きは肺を患ったユーリアの療養のためであったが、実際は金塊をスイスの銀行へ預けるための名義貸しだった。RSHAの幹部らと一緒に、気まずい飛行機の空間を過ごし、ルドルフとユーリアの名義で大量の金塊を預けた。その後、妻子をその地に残し、ルドルフはベルリンへ戻った。妻子の疎開も、手術と名義貸しの礼の一つだった。この当時、ベルリンからの疎開は敵前逃亡と見なされ、まず許可は下りない行為だったのである。
ジークフリートと違い、ルドルフはユーリアにすべてを話し、協力を仰いだ。これが夫婦ってもんだ、一蓮托生なんだと思っていた。ユーリアのほうも、「どうしてジークフリートはエリザベートにすべてを話さないのかしらね。これではわたしたちからも話せないわ。せめて一緒に疎開できれば」そうエリザベートを心配していた。そして、戦後苦しい立場に立たされるであろうエリザベート宛に、手紙を書いた。核心には触れず、「私達の友情は続く」とだけ書いて。
1945年3月、赤軍がベルリンのすぐ近くまで迫ったころ、ジークフリートは急にルドルフの病院を訪ねて来て、メモを取るなと言いながら話した。
「赤軍のベルリン包囲は来月にも完成するだろう。それまでに脱出する。もう少ししたら、我々は西へ移動する。その際、国防軍の制服を来てこの男になりきる。名前を憶えておいてくれ」
その身分証の名はジークムント・シュタインとあった。
「国防軍の伍長として米軍に投降する。赤軍に捕まるわけにはいかないからな」
ルドルフは息を飲んだ。ジークフリートは赤軍の恐ろしさをわかっているのだ。それなのに、妻を最前線に置いていくのか。その非情とも言える行為に、ルドルフは背筋がぞっとした。
「おい……エリザベートは赤軍に捕まるんだぞ。分かっているのか」
「彼女は女性だ。殺されはすまい」
女性にとっては、殺されるよりもっとひどい目に合うんだぞ、想像に難くないだろうという言葉をルドルフは飲み込んだ。ジークフリートはルドルフの思いを分かったかのように、少し笑った。
「君の危惧していることもわかるよ。全員が全員ひどい目に合うわけでもあるまい。うちには執事や下男といった男手もいる。守ってもらえるだろう。いずれ捕虜収容所から手紙が書けるようになったら、君宛に手紙を書く。妻宛に手紙は書けない。すまないが、エリザベートとエドゥアルトの様子を知らせてくれないか」
そういってジークフリートは「手間賃だ」と言って、金の延べ棒をルドルフに渡した。
その後の数ヶ月はもう、すべてのベルリン市民にとって記憶が飛ぶほどの大混乱だった。空襲と市街戦の負傷者は、ひっきりなしに病院へ運び込まれた。すべての診療科は、ほぼ救急外科扱い状態となり、廊下や玄関ホール、庭にまで患者が呻き声を上げながら、寝転がっていた。そして、5月になるとあのカーキ色の軍団がやってきて、すべての患者を追い出し、ソビエト軍の負傷者を診療しろと命令したのである。反論した事務長は即座に射殺され、やむなくルドルフは病院で赤軍将兵を治療した。非常に不本意であったが、患者や職員の命がかかっていた。マシンガンを向けられ、命令に従わなければ全員射殺すると言われれば、従うしかなかった。ジークフリート、無事でいるか、早く第三帝国を復活させて、こいつらを帝都から駆逐してくれ、ルドルフはそう願いながら敵兵の治療を続けていた。
占領されて20日ほどたったある日、秘書が「赤軍の憲兵の方が面会です」と伝えた。治安維持部隊がやっと到着かと、ドアを開けると、そこには黒髪の憲兵少佐に付き添われたエリザベートがいた。リヒテンラーデ邸が赤軍の憲兵隊に接収され、市街地へ行くのに同乗させてもらったらしかった。ルドルフはジークフリートのことをごまかすと共に、「大丈夫か、エリザベートは」と心配にもなった。いくら憲兵とはいえ、敵の将校の車に同乗するなんて正気の沙汰ではない。エリザベートが憲兵少佐と並んで立ち去るのを、ルドルフは見送ったが、あの鋭い目をした憲兵が何の目的があってエリザベートに親切にしているのか、誰だって分かるじゃないかと。なぜエリザベートは、あんなにもたやすく人を信頼するのだろう。だが、この頃ルドルフは寝る暇もないほど忙しく、親友から頼まれたとはいえ、エリザベートに構っている余裕はなかった。
病院の接収は7月に解除され、ようやくドイツ人を診療することが可能になった。外科の代わりに産婦人科が大混雑していた。当局の許可も、配偶者の許可も確認不要とし、毎日相当な数の妊娠中絶手術が行われた。
8月になり、ようやく生活が一息したルドルフは、米軍捕虜収容所から『ジークムント』による初めての葉書を受け取り、休みの日にグリューネヴァルトまで自転車で行ってみた。リヒテンラーデ邸には英国国旗がかかっていた。たまたまロールスロイスで司令官婦人が帰宅し、ルドルフに話しかけた。この司令官婦人は暇を持て余した親切でおせっかいな人だったので、ここの持ち主がどこへ転居したか、どんな人物だったかを教えてくれた。
「金髪のかわいらしいエリザベートさんね。ご主人のフラットが市街地に残っているのでそこに住むそうよ。仕事は、お友達のお店を手伝うと言っていましたわ」
ルドルフはすぐにフラットと百貨店を見に行った。立派な百貨店は上階が損壊し、外に面した1階だけが営業していた。通りの向こうからルドルフはエリザベートを探した。小さな雑貨屋のドアからエリザベートが出てきたので、とても安心した。笑顔で、元気そうだった。そしてそれをジークムント宛に返信した。
ルドルフはたまに気付かれないように、エリザベートの様子を見に行っていた。ある時、5月に病院へ一緒にやってきた、赤軍の憲兵が店舗に出入りしているのも見た。転居したのに、なぜあの男がエリザベートを訪ねている? いや、何か買いにきて応援したり、物を届けてくれて入るとかか? なぜそこまでしてくれる? ルドルフは容易に導き出せる答えに蓋をし、憲兵のことは伏せて「君の妻子は元気」と捕虜収容所に書き送った。
冬になると百貨店は「倒壊の危険につき立入禁止」となっていた。ジークフリートの官舎はソビエト軍の接収になっていた。母子の行方が完全にわからなくなり、ルドルフは途方にくれた。そして妻同士が女学校で一緒だったことを思いだし、まだスイスにいたユーリア宛に、エリザベートの実家の連絡先を聞いた。ユーリアはもともと面識のあった、エリザベートの兄宛に手紙を書いた。この時点で、兄オスカーは、ギゼラと文通を始めており、エリザベートたちを救出する予定だということがわかった。
1946年4月、ルドルフは捕虜収容所にいるジークフリート宛に、「ハンブルクの実家がエリザベートたちを保護する予定」と書き送った。翌月の返事にはジークフリートの感謝の言葉が綴られ、釈放されたら、ハンブルクの実家に連絡を取るとあった。ルドルフはとりあえず一安心した。
だが、9月になり事態は一変した。シュナイダー夫妻は、ユーリアの実家があるハンブルクに帰省し、エリザベートの実家へ連絡した。指定された日時にクノーベルスドルフ家を訪ねると、客間にはエリザベートの兄オスカーと女性二人が暗い顔で待っていた。てっきりエリザベートとエドゥアルトに会えると思い込んでいたシュナイダー夫妻は、戸惑いを隠せなかった。
「妹は……エリザベートはここには来なかった」
「旦那さま、来なかったんじゃありません、奥様はかどわかされたのです」
オスカーの言葉に、横から金髪の知的な女性が口を出した。全く事情の飲み込めないシュナイダー夫妻に対し、オスカーが順を追って説明を始めた。
「私が悪かったんです。戦争直後、会社の資金繰りに行き詰まり、支店を閉鎖し、従業員の解雇も行いました。空襲で亡くなった次男の死から妻は立ち直れず、もう我が家はいっぱいいっぱいだった。おまけに街をあげての反ナチムードだ。男前のリヒテンラーデ中佐はこちらの社交界ではちょっとした有名人でした。あの状況で妹一家が戻ってきても、精神的にも経済的にも我が家で迎え入れる余裕はなかった。だから私は、あれほど可愛がっていた年の離れた妹に、冷たい、縁を切るような手紙を書いてしまった。その後、こちらのギゼラが手紙をくれるまで、私は何もしてこなかったんです。その間のことはギゼラ、あなたが説明してください」
金髪をきれいにシニヨンにした、知的な女性が口を開いた。
「ギゼラと申します。私はエドゥアルト坊っちゃんの乳母としてリヒテンラーデ家に入り、幼児期の坊っちゃんの家庭教師をしておりました。シュナイダーご夫妻にも何度かお目にかかったことがあります。終戦の直前、リヒテンラーデ邸には大きく分けて3度、赤軍部隊が訪れました。第一便は『ここに兵士はいないか』って聞いてすぐ去りました。第二便は朝からひどく酔っぱらっていて、いろいろ物を壊したり、女性にその……乱暴をしようとして」
ギゼラは言いにくそうに口にした。
「そこへ現れたのが第三便でした。憲兵隊で、ジューコフ少佐が率いていました。少佐は奥様を襲おうとしていた兵士を、警棒でめった打ちにしました。彼らはお屋敷を憲兵事務所として接収すると言いました。恐ろしい赤軍の中で、話ができそうな一団だったことで、執事さんも賛成して。あの頃お屋敷には焼け出された方も同居していたのですが、ドイツ人は一部のスペースを使って住みました。ほとんどのスペースは赤軍将校の寝泊まりや、事務所と救護所に使われました。彼らはドイツ語のできる人も多かったし、食べ物や石炭も分けてくれました。なにより憲兵がいれば、噂に聞くような乱暴な兵隊が襲撃してくることもないだろうって、安心はできたんです。でも、でもまさかあんなことになるなんて」
あんなこと、とは現在ハンブルクに来ていないこと以外に、何かあるのだろうかとシュナイダー夫妻は黙って聞いていた。
「7月になってイギリス軍が到着しました。お屋敷は司令官宅として接収されました。赤軍の時のように一部のスペースは残してくれるのかと思っていたのですが、住人も使用人も完全退去を命令されました。幸い戦争末期に旦那さまが、通勤困難者用に政府から宛がわれていたフラットが、まだ空いていたのでそこに引っ越しました。その時点で避難して来ていた方々や、使用人たちもほとんどがよそへ行きました。だから、一緒に行ったのは、エリザベート奥様、エドゥアルト坊っちゃん、私ギゼラ、私の子カール、そしてここにいるフリーダです。初めは執事のカウフマンさんと、その奥方で女中を束ねていたテレジアさんも一緒でした。私たちは7人で街中のフラットにぎゅうぎゅうに住み、奥様はそこからお友達のやっているお店の手伝いに行っていました。ええと、マルタさんといって、お父さんが百貨店を経営している裕福な方です。けれどほどなくして、官舎のフラットは赤軍士官住居用に接収されたので、私たち7人は百貨店の空いているスペースに移りました。すると次は百貨店自体が倒壊危機ってことで行き場を失って。ちょうどマルタさんの叔母様が亡くなって、そこを借りれたんです。店もそこの1階で続けることになり、今度は逆にマルタさんが通ってきました。もう本当に、転々と根無し草みたいな生活になっていました。ジューコフ少佐とだって、そこで縁が切れるはずだったのに、どういうわけか居場所を見つけられてしまって」
ルドルフのほうは、そのジューコフ少佐というのが、エリザベートに付き添って病院に来た将校であり、百貨店に出入りしていたのだと推定したが、ユーリアのほうは、ジューコフ少佐という接収時の憲兵がなぜこんなに会話に出てくるのか、ちんぷんかんぷんだった。
「冬になって、奥様はジューコフ少佐の官舎に、週に一度か二度、ハウスメイドとして通い始めたんです。謝礼としてアメリカのタバコやら、食糧をたくさんいただきました。当時はアメリカのタバコは闇市で通貨になっていたのですごくありがたかった。他に必要なもの……石鹸とか歯磨き粉とか手に入りにくいものでも、奥様から少佐に頼めば、次に会う時には必ず渡してもらえたそうです。実際にあの援助がなければ、私たちの生活は成り立たなかった。冬が越せなかったと思います。でも、私たちはみんな、少佐がどうして私たちに、いえ奥様にこんなに親切にしてくれるのか、想像力が足りなかったんです」
ギゼラは、ああ、と言って、顔を覆った。
「あの男は奥様の体を要求していたんです。ハウスメイドなんて、男性が一人で住む部屋に行って、ただで済むはずなんてなかったんです。あの男はハウスメイドの時間だけじゃ満足せず、夜中のパトロールにかこつけて、店舗でも会っていました。ああ、7月の引っ越しの時点で、二人の呼び方が敬称から親称に変わった時点で、なぜ気づかなかったのか」
応接室は水を打ったように静まった。だが、ここでもう一人の、赤毛を無造作に後ろで束ねた女性が口を開いた。
「あの、私はグリューネヴァルトでは、台所で働いていたフリーダっていいます。行き場がないので、戦後もずっと奥様と一緒にいました。私の目には強要されているようには見えませんでした。奥様は少佐に対して恋愛感情があるように見えたんです。ハウスメイドの時は、いつも一緒に昼食を作って食べているとかで、料理を教えて欲しいと奥様から頼まれたこともあるくらいです。奥様は縫い物はお上手ですが、料理はからっきしダメでしたから。ハウスメイドに行く時も、帰って来た時も、嫌がっている様子は全然ありませんでした。私はいつも帰りに迎えに行ってたんです。缶詰とかもらって荷物が重いからって。帰る道々、今日はこんな話をしたとか、何をもらったとか、本当に嬉しそうに話してくれました。たぶん、話せる相手が私しかいなくて、誰かに聞いて欲しかったんだと思うんです」
「それは違うって何度も言ってるじゃない!」
ギゼラは怒ってフリーダを制した。
「奥様は洗脳されたようになってしまっていたんです。だから、だから、私は奥様のお兄様であるオスカー様に手紙を書きました。奥様はソビエトの将校から無理やり愛人のような扱いをされているって。そんなひどいことをされているのに、まるで楽しいことかのように思い込まされているんです。助けてくださいって。私たちをハンブルクに迎えてくださいって」
オスカーはため息をつき、口を開いた。
「驚きましたよ。まさかわが妹が敵兵の手に落ちるとは…… 私はこのときほど自分の不作為を後悔したことはありません。嫁いだ妹とはいえ、戦争が激しくなる前にスイスにでも疎開させていればよかった」
オスカーは続けた。
「1946年に入り、会社も生活もだいぶん落ち着いてきたので、うちの社のベルリン支店を再開させようかと考え、時々社員を出張させていました。そこでギゼラと相談し、その社員とエリザベートたちを合流させて、ハンブルクに連れて帰ろうかと計画したんです」
ユーリアはオスカーに強い口調で言った。
「私が問い合わせたのがちょうどその頃ですよね。けれど、オスカー様、あなたは私宛の手紙に、エリザベートがその少佐の愛人になっているなんて、一言も書いていなかったじゃありませんか。知れば私たちだってエリザベートに手紙を書くなり、会いに行くなりして、その少佐との関係を止めることが出来たかもしれないのに。私はエリザベートの幼馴染です。なんだって相談に乗れたはずですわ」
ルドルフも同じ疑問を持った。ベルリンで僕らは2組の夫婦で友情を築いていた。エリザベートが生活のためにそんな目にあっているなら、病院に引き取ることでもなんとでもしたのに、と思われた。病院ではいくらでも人手が必要だった。住むところだって、職員寮くらいならなんとかできただろう。赤軍からの強姦は予想できた。だが、まさか親友の妻が継続的な愛人にされるなんて、想像もしていなかったのだ。
オスカーは答えた。
「……このことは我が家の恥にも思えたので、ユーリアさん、あなた宛には書けなかった。私は妻にさえこのことを話していないくらいです。どうせハンブルクに来てしまえば、そいつとはもうこれきりだ。妹にとっても消したい過去の汚点になるだろう、知る人はいないほうがいいと私は考えていました」
ギゼラはその後の話を続けた。
「カウフマン夫妻は5月になくなりました。8月のある日、私たち5人は皆で出発しました。奥様も黙ってついてきました。でも、占領軍の境界線まで来たら、奥様は私たちに鞄だけ渡して、『私は行かない』って言い出して引っ張りあいになったんです。そうしたら、境界線なので、米軍兵士にもソ連軍兵士にも注目されてしまって。そして車に乗せられて……私たちは全員どこかソビエトの施設に連行されました。ロシア語だったので。でも、どこかはわからない。奥様だけが別室へ連れて行かれ、それきり会えなくなりました。後からエドゥアルト坊っちゃんも、連れて行かれました。私たち3人だけが、また車に乗せられて境界線の近くで解放されました。そのまま米軍ゾーンへ歩いて入り、オスカー様の会社の方と合流できて、ハンブルクに来ることができたんです。奥様と坊っちゃんのことを、あの少佐がさらってしまったに違いないんです」
オスカーはルドルフとユーリアに、エリザベートが鞄に入れていた、兄である自分宛の手紙を見せた。彼女は強い意思で、「あの方」を愛し、一緒にいたいから東側に残ると書いていた。
「これを読むかぎり、無理やり愛人にされているというようには見えないですね」
ルドルフは溜息をついた。そんなにあの男のことが好きなのか、だが自分に酔っているような文面だ、とルドルフは思った。ハンブルクの裕福な実家に帰る道を捨てて、東ベルリンでの貧しい生活をしてでも、その男と会い続けたいとは、よほどの強い意思なのだろう。
「エリザベートは潔癖な娘だったわ。一種の男嫌いと言えるくらいに。よほど親しくならないとずっとSie(敬称)で通すような人よ。生活のために愛人になんてならないと思う。ここに書いてあるように、きっとその人のことを好きなのね」
ユーリアも、諦めたような口調で言った。彼女は自分が助けそこなった親友が、無理やり愛人にさせられているとは思いたくなかった。生存が脅かされる極限状態で、手を差し伸べてくれる男が現れたら、自分だって手を取ってしまうだろうと。
フリーダは我が意を得たり、というように話し始めた。
「ほら、みなさいよ。奥様はジューコフ少佐と、いや中佐になってたっけ? とにかく彼と一緒にいて幸せなのよ。もう死んでしまった夫に操を立てる必要がある? 目の前で優しく愛してくれて、守ってくれる人が現れたらそっちにいっちゃうでしょう、女だったら! 普通は!」
フリーダの言葉に、ギゼラはキッと睨んだ。ギゼラの瞳には涙が浮かんでいた。
「旦那さまは絶対生きていらっしゃるわ。何かきっと連絡できないご事情がおありなのよ。奥様はあのロシア人に騙されているのよ」
ああ、そうだギゼラさん、連絡できない事情があるんだよ。シュナイダー夫妻は心の中で頷いたが、ここでそれを話すわけにはいかなかった。こんなに大勢の人間に、親衛隊の逃亡組織のことを知られてしまえば、自分たちすら安全ではなくなる。
何か分かれば、お互いに情報を共有して、なんとかして母子をハンブルクへ連れ戻そう、という結論で散会となった。ルドルフはエリザベートの心情を想像した。男の自分でもあの終戦前後の数ヶ月は想像を絶する経験だった。若い女性にとってはどれほどの恐怖だっただろう。そしてその恐怖の中で、敵ではあったものの、地位のある男が親切にしてくれ、生存と安全を提供してくれたら? ジューコフ少佐がどれだけの物資を「貢いで」から、エリザベートと寝たのかはわからないが、そりゃあじきにそうなるだろうなあと思えた。一種の売春に愛情の絡んだ複雑な関係だ。
ルドルフはまた、ジューコフ少佐の心情も想像した。戦争のゴールで出会った。敵幹部の未亡人、おそらく最初は容姿が好みくらいの好意だったにせよ、彼女を手に入れることは、その男にとっては戦争の勝利を確信する行為だったに違いない。ブルジョワ出身で貴族の奥方になり、親衛隊中佐夫人。旧体制の支配層そのもののエリザベートは、優勝のトロフィーみたいなものだ。自分の家の中に彼女がいるだけで、そして彼女に触れ、彼女を腕に抱く度、彼は戦争の勝利を味わえるのだろう。エリザベートが自分の支配下でしか生きられないようにして、さぞかし快感なんだろうよ。
精神心理学的な分析をすると、二人ともなんて歪んで打算的なのだろうと思うが、おそらく当人たちは自分達の愛を純粋で至高のものだと信じきっていることだろう。ちゃんちゃら笑わせてくれる。
東の蛮族め。ジークフリートよ、早く第四帝国を打ち立ててくれ。ルドルフはとにかくジークフリートが捕虜収容所から解放されたら、どんな援助でもするつもりだった。




