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2-3 未来への命

 アレクセイとの子供が欲しい、と思い始めたのはいつ頃だろうとエリザベートは考えた。少なくともベルリンにいる間は妊娠を恐れていた。実際には産んでいる人もいるという噂は聞こえてきていた。しかし認められない関係で、妊娠などして占領軍の上層部にばれて、アレクセイが帰国させられるのが一番怖かった。妙な形で関係が認められ、偽戸籍とはいえ正式に結婚したころだろうか? ナターリアたちの子供を見た時だろうか? だが、今現在エリザベートはアレクセイの子を欲しいと思っていた。連れ子だけを養わせるのも不公平だと思ったし、アレクセイからの愛に報いたいと思ったのも確かだった。そして何より、確かな絆が欲しかった。

 1948年2月、待望の瞬間は訪れた。診察室のノイマン夫妻は医師からの「おめでとうございます。3ヶ月です」という言葉に、抱き合って喜んだ。


 その日からは急激にいろいろと喜ばしいことが続いていった。エリザベートの勤める人民公社フォルクス・テキスタイルでは「マタニティ乳児服部門」が独立し、妊娠中の女性や小さな子がいる女性が多く配属された。試行的なものだったので、ノルマもないし、急な体調不良で休んでも、みんな同じ境遇だから「お互い様」で済むでしょうという会社の配慮らしい。妊婦や就学前の子供を持つ社員への時短勤務制度もあった。そして、これまでは産前8週間・産後8週間だった休暇に加え、子供が6ヶ月になるまでの「赤ちゃん休暇(仮称)」が新設された。これは、政府のほうで出産支援のための導入を検討しているらしく、その試験的導入にこの会社が選ばれたとのことだった。

 エリザベートはエドゥアルト出産時に産褥熱で長く寝付いてしまったので、8週間での復帰に不安を感じていたが、6ヶ月もあれば大丈夫だろうと安心した。社会主義というのは、どんどん女性が働きやすい社会を作ってくれるのに、感動さえした。自分の妊娠に合わせていろいろな制度が整っていくのも、なんて運がいいんだろうと素直に思っていた。


 夕食時に会社の制度のことなどをいろいろと報告していると、アレクセイのほうでもよいことがあったらしかった。市役所内の組織改編があり、復興担当は都市計画局に組み入れられ、そこの総務部長になるということだった。

「ええ、すごいわねえ。33歳で部長?」

「まあ、男性は上から下まで戦死と公職追放でごっそり抜けているのと、俺の場合は潜入者への特別扱いもあるしな。ああ、レオニードは課長だよ」

「二人ともすごいわね、おめでとう」

 さらに公用車通勤の特典があり、妻子の便乗も可能とのことだった。

「夕方は、俺はSMAD(ドイツ駐留ソビエト占領軍司令部)の方に行ってるし、君は時短だから時間が合わないけれど、朝だけでも送って行くよ。エドゥアルトも乗っていくといい」

 エドゥアルトは目を輝かせた。

「僕もお父さんの車に乗っていいの?」

「そうだよ。雨の日とか楽になるぞ」

 さらに、いよいよ市役所幹部用の住宅群が完成し、そちらに移れるということだった。少し郊外の一軒家ということだった。

「なんかこの子のおかげで、幸運が天からたくさん降ってきたみたいだわ」

 エリザベートはお腹をさすりながら言った。

「本当だね、この子は幸運の天使のようだ」


 エリザベートにとって、新築住宅に住むというのは人生で初めてだった。持ち家ではなく官舎ということには違いがないのだが、ペンキの匂いのまだ残る真新しい家は、外観も室内も心がわくわくしてたまらなかった。最新の電気設備と自分たち専用の庭と地下室もあった。家具家電もある程度備え付けられており、室内に洗濯機があることで、家事の手順も楽になりそうだった。

 「ありがとう、アレクセイ。とっても素敵なおうちね」

「君の元々のお屋敷の足下にも及ばないけれど、これが俺に出来る精一杯だ。喜んでくれて嬉しいよ」

「……あの家のことはもういいの。英軍とのいろいろも全部弁護士さんに任せてきたし。この街で、家族3人……いいえ、4人で一緒にいられることが幸せだわ」

 グリューネヴァルトを追い出されてからというものの、あちこち転居を余儀なくされたが、ようやく落ち着けることに、エリザベートは大きな喜びを感じた。半年以上も休暇がもらえるのだ。楽器を弾いたり、庭で花やハーブを育ててみよう。お料理の時間ももっと取れるから、いろいろ勉強してみよう。乳児を一人で育てた経験のないエリザベートは、それがどんなに過酷なことか、全く想像できずにいた。新生児なんて一日中眠っているものだと、思っていたのである。


「第三の餌の仕込みは成功したようで、同志ジューコフ中佐、おめでとう」

「……餌とか仕込みとか言う言い方はちょっと……私たちは夫婦で話し合って『二人目』を作っただけです」

 アレクセイはSMAD内のMGB事務所で、ベルリンからやってきたコズロフ中佐と会議室にいた。月に一度の面談もこれで何度目だろう。


「勘違いしてはいけませんよ、同志ジューコフ中佐。軍規に背いたあなたがたが処分されずに、新しい戸籍とはいえ、『正式な結婚』まで許されてこの街で一緒にいられるのは、同志アバクーモフ大臣への忠誠はもちろんのこと、エリザベートとエドゥアルトがオデッサの連中をおびきよせる有用な餌であることが大きいんです」

 アレクセイは頭を下げた。

「失礼いたしました。そのことは重々理解しています。同志大臣にも感謝をお伝えください。私たち夫婦はとても満足して暮らしています。二人ともソビエトに忠誠を誓い、ドイツ復興への仕事に誠心誠意邁進しています」

 ラットライン……ナチスドイツ幹部の逃亡ルート。オデッサは元ナチス親衛隊員の互助組織。(Organisation der ehemaligen SS-Angehörigen元親衛隊(SS)隊員相互扶助組織)未だにつかまらない幹部は大勢いた。アメリカもソビエトも血眼になって探している。いったいどうやってそれをかいくぐっている?資金源は?まだまだ分からないことだらけの組織だった。


 コズロフ中佐はアレクセイの回答に満足し、続けた。

「我々からお腹の子への褒美を、お二人とも喜んでくれたようで何よりです。奥さんの会社もいろいろと先進的な制度を取り入れてくれましたしね。さあ、そろそろ西側にも餌を巻きましょうかね。マルタにするか、弁護士宛でもいいかと思っているんです。まあ、エリザベートがこちらで苦労しているような噂話を流すんですがね」

「あの、それなんですけど、リヒテンラーデ中佐が生存していないなら、オデッサではなく、エリザベートの親族が迎えに来てしまう可能性があるんです。実際に彼女の実兄が2年前に迎えをよこしていたこともありまして。また来られると、私にとっては大変な迷惑でして」

 アレクセイとしては、誰が迎えに来るにしろ、エリザベートが西側へ戻る気持ちになるのが一番怖かった。

「そうでしょうね。まあ、あなたもオデッサの連中が現れたのなら、捕らえたり殺したり出来るでしょうが、まさかエリザベートの親戚相手にそんなことはできないでしょうし。なんとかオデッサの連中にだけ噂を伝えたいが……うーん、どうしたものでしょう」

 コズロフ中佐は考え込む様子をした。だがあまり、本気ではないふざけて楽しんでいるようにも見えた。

「あの、同志コズロフ中佐、そもそも放っておいた妻が他の男に心変わりしたなら、怒りが沸きませんか? 救出に来ようなんて思いますかね」

 ああ、もうジークフリートが生きているにしても、そうやって怒って、もう放っておいてくれないかとアレクセイは思っていた。


「リヒテンラーデ中佐はこう考えると思うんですよね。愛しい妻はソビエトの将校の目にとまってしまい、子供の命を人質に取られ、無理やり愛人にされてしまった。なんと可哀想なエリザベートよ、と。人間は勝手なもので、自分に都合がいいように事情を推定するんですよ。妻が自分以外の男に心変わりして、体を許したなんて屈辱には耐えられないでしょうからね。ナチスが言うところの、東方の『劣等民族』スラブ人の性奴隷にされて、子供まで産まされてしまった妻を、助けに来ずにはいられないでしょう。うん、次の撒き餌は出産後にしましょうか」

 コズロフ中佐の芝居めいた言葉に、ひどいこと表現をするものだ、とアレクセイは考えた。

「無理やり性奴隷だなんて、それじゃあ、私がすごく悪いヤツみたいじゃないですか」

「そりゃ悪いヤツでしょう、あなたは人の妻を奪ったのですから」

 お互いにあきれ果てたような顔を見合わせ、面談は終了した。


 俺は一生アバクーモフの飼い犬のような状態が続くのか、とアレクセイは帰路憂鬱になり、溜息をつきながら歩いた。この世の何と引き換えにしても得たかった女、エリザベート。自分の人生を彼らに渡してでも、彼女と一緒にいたかった。駐留ソビエト軍の将兵と敗戦国のドイツ女性との交際禁止令は戦後すぐに発布されたが、去年ソビエト本国において、一般のソビエト人にすら国際結婚を禁止する法律が成立した。大祖国戦争で2000万人以上が死んだ。この状況でソビエト人が国外転出してしまうのを恐れる気持ちはわかるが、相手をソビエトに住まわせることも不可能なのか。我が国は移住者を受け入れる度量もないのだろうか。

 エリザベートは日々の自分の不満については口にするが、俺がこの生活を得るためにどれほどの屈辱に耐え、犠牲を払っているのか、わかっているのだろうか。苦労知らずの我儘で甘えたな、お嬢様の部分が可愛らしかったのだが……もう少ししっかりしてほしいなと思う反面、自分の手の内から出ないでほしいとも思う。いくら男女平等の社会主義でも、アレクセイはおおかたの男性たちと同様、妻が自分以上に社会で活躍したり稼いだりすることは望んでいなかった。妻の「自由」はあくまでも、彼の支配する世界の内側でなければならなかった。強大なソビエトが支配する、このドイツの東側での生活に満足してもらわないと困るのだ。


 戦災の傷跡がまだ大きい中心地とは打って変わり、美しい住宅街を歩く。新しく建設された、行政庁の幹部用の住宅地だ。家々には明かりが灯り、夕食のいい匂いがただよってくる時間帯だ。まだ飢えに苦しむ一般の市民の生活とは雲泥だ。NEUMANという表札。この家に引っ越す時に二人で購入したものだ。

「新しい人、か」

 アレクセイはドアを開け、「ただいま」と大きな声で家族に声をかけた。トマト煮込みの匂いがする。国際結婚特有の生活習慣のすれ違いは確かにある。だが、いろいろと話合い、すり合わせてきた。今では何も言わなくても夕食に温かいものが出てくるようになった。妻子の明るい声が奥から響いた。




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