2-2 二重の仕事
寝室には、二人の荒い息遣いと、軋むベッドの音が響き渡る。エリザベートの肌は熱を帯び、その目は閉じられ、快感の淵を漂っていた。彼は、彼女の抵抗が尽きるのを待った。アレクセイの粘り強く、そして容赦ない要求は、ついに彼女の最後の防衛線を打ち破ろうとしていた。
「言うんだ、リーザ……」
彼は、もうほとんど命令に近い囁きで、彼女の耳元に繰り返した。
「君が、誰の支配下にあるか、誰の腕の中で、この喜びを感じているのか…それを、言ってくれ」
エリザベートはうっすら目を開け、けだるく言った。
「もう……何を……毎回毎回……」
アレクセイは動きを止めて彼女の顔をじっと見つめた。
「ちょ……いじわるしないで、動いてよ。お願いよ」
「ねえ、言ってくれないと……」
「わかった、わかりました。言います、私はあなたのものです、アレクセイ。あなただけを愛しています。だからちょうだい、もっと……」
愛しいリーザからこんなに懇願されては、意地の悪いことなどできるわけがない。この快楽ならいくらでも与えてやる。アレクセイは両手の5本の指を彼女の指にからめ、押さえつけてから、さらに激しく彼女を突いた。一段と女の快楽が強まったのがこちらにも伝わる。彼女自身が強く彼自身を締め上げ、足をからめて男を離すまいという意思を示す。やがて彼女は頭をのけぞらせ、息を止めて男の肩に爪を立てた。エリザベートの喉から絞り出された、エクスタシーに達した女性の叫びが、部屋の空気を引き裂いた。その声は、甘美でありながら、どこか悲鳴のような叫びで、アレクセイには彼女の最後の理性が崩壊した音として聞こえた。彼女の魂のすべてが、彼の支配に、そして快楽の奔流に、完全に屈服したことを告げていた。
アレクセイは、その声を聞いた瞬間、全身を駆け抜ける熱い戦慄に包まれた。彼は、エリザベートの髪に顔を埋め、その勝利を噛みしめた。アレクセイは、その声を聴きながら、彼女の背に腕を回し、まるで戦利品を抱きかかえるかのように、その熱い体を強く引き寄せた。エリザベートの体は力が抜け、相手の体に手を回すことさえできなくなっていた。ただ体の中心から脳天を貫いた快楽の余韻に浸り、痙攣しながら呆然と男を包み込んでいた。そしてアレクセイは激しい解放と共に、彼女の体内にその情熱の証を解き放ち、勝利を刻み付けた。
聞いたか、ジークフリート。
お前は、お前なりにこの女を愛したのだろう。だが、お前は、この声を彼女から引き出すことができなかったはずだ。お前が天国にいるのか地獄にいるのか、はたまた生きていて南米あたりに逃げているのか知らないが、頼むから俺たちの前に現れないでくれ。この女は、俺のものだ。俺の力で、奪い、支配し、そして満たした。彼女の心も、体も、人生も、未来も、魂までもがすべて俺の手の内だ。
彼の脳裏に、かつてエリザベートの夫だった男の顔が浮かんだ。写真でしか見たことのない、上品ですました男だ。ナチスドイツ第三帝国が理想とした、金髪碧眼のドイツアーリアンの親衛隊員。6年間も結婚生活を送り、1児を得ながら、妻に肉体の悦びを与えられなかった男。おそらく自分の快楽しか考えない身勝手な抱き方をし、淡白な奴だったんだろうよ。なんせエリザベートは俺に初めて抱かれた日、あまりの快楽に驚き、声をあげてしまったことを恥じらったくらいなのだ。その後幾度となく体を重ねながら、魂を解き放ち、欲望のままに声を出すように俺が彼女を成長させてきた。どうだ、お前らナチスドイツが劣等人種と軽蔑し、絶滅させようとしたスラブ民族の黒髪の男の腕の中で、お前の妻はエクスタシーを叫んでいるんだぞ。そもそも性愛とは、女性に快楽の極致を教え込み、その身も心も恍惚の境地に至らせることが、男の務めだ。この歓びの真髄を理解せぬ者に、女性を抱擁する資格などない。
俺は、彼女の意思を粉砕し、その奥底に潜む最も原始的な魂を引きずり出した。この声は、お前への訣別だ。彼女の魂の奥底で燃える情熱は、俺だけが引き出せる。彼女のすべてが完全に俺の支配下にある。これが、お前と俺との、決定的な違いだ。
エリザベートの身体は、まだ快感の余韻で震え、抵抗する力を失っていた。その状態こそが、アレクセイが求めていた最高の勝利の証だった。彼は、彼女の熱い吐息が触れる耳元に、荒い息の合間に、ほとんど囁きに近い声で、しかし冷徹な確信を込めて告げた。
「分かっているか、リーザ。この声は、俺のためにある。この身体の快楽も、この魂の屈服も、すべては俺のものだ」
エリザベートはもう何も考えられない様子で、目を閉じたまま無言でうなずいた。アレクセイは満足して彼女の首筋にキスをした。
「ああ、愛しているよ、リーザ。君とこうしていられることは、俺にとって至上の喜びだ。この瞬間だけが、すべての偽装から解き放たれ、ありのままの二人に戻れる……君が愛おしくてたまらない」
アレクセイは、エリザベートの腰をさらに強く抱きしめた。彼女の快楽の叫びが、まだ彼の耳に強く残っていた。それは、彼の征服の証であり、そして何よりも、ジークフリートへの決定的な勝利の宣言だった。
エリザベートはようやく余韻が収まり、パジャマを着て寝ようかと思うまでに10分以上かかった。アレクセイも寝ようとしていたので彼女は驚いた。大抵彼は情事の後、また書斎へ仕事に戻るのだ。エリザベートは男性というのは一切余韻なしに素に戻れることに、いつも感心していた。
「あら、あなた、まだ仕事あるんじゃないの?」
「ん? ああ……今日はもういいよ。だいぶ仕事も整理してきてるんだ」
アレクセイはエリザベートを腕の中に包み抱いて、眠ろうとした。
「引っ付いてたら、眠れなくない?」
「ん……? 嫌なのか? 」
「そうじゃないけど」
「本当はつながったまま眠りたいくらいだ。避妊をしなくなってから、君の中は気持ちがよすぎる。やった日はよく眠れる」
エリザベートはくすくす笑った。
「子供はできるかしらね。以前は……」
「それは言うんじゃない。俺たちの子供はもうエドゥアルトがいるんだ。『二人目』は出来ても出来なくても、どっちでもいいよ」
そう言ってアレクセイはすぐに寝息をたててしまった。エリザベートは彼の最後の言葉に感動して目が覚めてしまった。何が何でも二人目を、とジークフリートからせかされた妊娠、性交痛しかなかった夫婦生活。それに比べて、この人は私の連れ子であるエドゥアルトを「俺たちの子供」と言って育ててくれている。すばらしい快楽で私を満たしてくれる。仕事も家事も中途半端にしかできない自分が、この人に何を返してあげられるだろう。私はとても幸せだ、アレクセイを幸せにしたい、とエリザベートは心から思えた。ここに来てよかった。この選択は間違いではなかったのだ。決して後悔する日など訪れないのだ。子供ができれば、彼はとても喜んでくれるはず……
ロシア人アレクセイ・ペトローヴィチ・ジューコフが、ドイツ人アレクサンダー・ノイマンとしてドレスデン市役所での「勤務」を始めてもう半年になる。到着直後、市長並びに幹部、そして先だって潜入していたソビエト人たちとの面通しが行われた。配属された復興担当局での仕事は、戦時中の陸軍や混乱期の憲兵部隊で慣らしたアレクセイにとっては、拍子抜けするほど簡単なものだった。毎日早朝から勤務し、昼過ぎにはキリがつくので、同じ潜入者である上司の許可の元、午後からは占領ソビエト軍司令部へ赴き、制服に着替えてMGBの仕事をした。こちらは会議や打ち合わせが多かったが、夕食以降は家族と時間を取りたかったので、家で出来る書類仕事は持ち帰っていた。給料が両方から出ることも生活の満足度を上げた。市役所の給料は生活費として丸ごとエリザベートに渡してしまい、MGBからの分はルーブル建てで口座に貯まるので、時々両替して、彼自身の諸経費や家族とのたまの贅沢に使っていた。
このダブルワークは彼にとっては全くもってつらいものではなかった。むしろ朝起きたら必ずエリザベートがいて、帰宅しても必ずエリザベートがいる生活に満足し、幸福感で満たされていた。だから彼女がある日、仕事と家事の両立がつらい、意地の悪い上司がいると泣いた時は本当に驚いたのだ。人民公社の仕事などそれほどきついものではないと思っていたし、ドイツの食事の支度なんてパンとハムなのだ。全く手間はかからない。そもそも仕事をして「疲れる」ということ自体が信じられなかった。
アレクセイは、彼女のつらさを基本的な体力やキャリア差による不慣れさかと推察し、家のこともずいぶん引き受けるようにした。執事や女中のいる優雅な生活を捨ててきたのだ、大変なのはもっともだ。ドレスデンに来てから、エリザベートはずいぶん張り切っていたので、家のことも好きにしてもらっていたら、ずいぶん負担がかかっていたらしかった。
初めてエドゥアルトを幼稚園に送って行った頃は、父親をほとんど見かけなかったが、今ではかなり見るようになり、話せるパパ友も増えた。社会の変革には何事もパイオニアが必要なのだ。子供とも母親抜きで話せる時間ができるし、通勤の途中なのでむしろ楽しかった。
1947年10月、新規潜入者の紹介がMGBの会議室で行われた時、アレクセイは思わず「ええっ」と声を上げてしまった。大戦中から戦後のベルリン駐留時代に、ずっと自分の忠実な副官として仕えてくれたレオニードが混ざっていたのだ。当然衛生兵だったナターリアも横に立っていた。
「どうも、改めましてレオンハルトとナタリーです。ブラウン夫妻です」
紹介が終わって会議が散会すると、二人はアレクセイの近くに来て、ドイツ風の名前を名乗って改めて挨拶をした。
「なんでまた……」
「ジューコフ中佐の補佐です。俺も市役所勤務、ナタリーはドレスデン医科大学病院で看護師の仕事をします」
これはアバクーモフから俺への監視と牽制だな、とアレクセイはピンと来た。俺がきちんと仕事をしているか、ラットラインの連中が接触してきていないか……
「エリザベートさんはお元気ですか? 遅くなりましたが、ご結婚おめでとうございます。いやあ、中佐を彼女の店まで送っていって、車で待っていた日々が懐かしいですね」
アレクセイはフン、と鼻をならした。
「こんどうちにメシでも食いにくるといい。リーザも喜ぶだろう」
週末、二人はアレクセイたちの住居に現れた。正確には3人だった。会っていない間に彼らは結婚し、子供が生まれていた。
「フェリックスといいます。男の子で1歳になります」
「わあ、かわいいわねえ」
エリザベートはナターリアから赤ん坊を抱きとった。エドゥアルトもついこの間まで赤ちゃんだったのに、こどもの成長は早いものだわと感じる。アレクセイは赤子を抱くエリザベートを見ると、もし自分の子を彼女が抱いていたら、どれほど幸福だろうと思った。こどもはどちらでもいいと言ったが、やはり欲しいとは思う。けれど愛する人にプレッシャーは与えたくなかった。こればかりは授かり物だ、とは思うものの、結婚後すぐにフェリックスを授かったブラウン夫妻のことが羨ましかった。




