1-23 第一部 最終話 新しい出発
アバクーモフとの「取引」から半年あまり。時間のすべてがモスクワによって塗り替えられたような、激動の日々だった。
あの8月の日、まずエリザベートは西ベルリンへ転居したマルタに連絡を取り、店を託せる人をお願いした。どこに行くのかとかなりしつこく聞かれたが、「アレクセイの転属先へ連れていってもらえることになった。転属先はまだ決まっていない。決まったら手紙を書く」とだけ答えた。だが、手紙は書けないのは分かり切っていた。エリザベート・フォン・リヒテンラーデは消えてしまうのだ。これほど親しく、世話になった親友にもう会えない、どこへ消えたかも言えないという不義理をしてしまった。身分証明書はもちろん住所録など、身元がわかるようなものは何も持ってくるなと言われていた。そしてバイオリンと旅行鞄一つ分の荷物とともに、カールホルスト駐屯地のMGB職員用の官舎で3人で住むことを許された。
アレクセイは、MGB幹部のコズロフ中佐のもとで、集中的な訓練を受けた。それは、ソビエト軍中佐としての軍事知識ではなく、偽造されたドイツ人としての新しい「生活」に関するものだった。まずは新しく作られた「ドイツ人男性アレクサンダー」の経歴や出身地、両親の名、兄弟の名、彼らの職業、住んでいた通りの名、店の名……想定されるあらゆる問答を矛盾なく行えるようにしておかないといけないのだ。さらに士官学校時代に専攻していた土木工学や建築学などを、再度ドイツ語で履修した。これはドレスデンで用意された潜入用の職が、市役所の復興担当官であったので、不自由なく勤務できるようにするためである。さらに現在はカリーニングラードと名前を変えたケーニヒスブルク出身者という設定のため、訛りも徹底された。
一方のエリザベートの課題は、単にロシア語力を磨くことだけではなかった。ドイツの上流階級の女性ではなく、中産階級の女性として完璧な立ち居振る舞いをしつつ、ソビエト体制と社会主義の原則を理解し、「新体制に従順な模範的な東ドイツ人女性」の役割を果たすことだった。MGBがエリザベートの新しい人生として設定した、「シュレジェン在住であったドイツ女性リーザ」になるべく、慣れ親しんだベルリン発音ではなく、シュレジェン方言とその地方の習慣・歌・踊り・料理などを身に着ける必要があった。上流階級の標準ドイツ語を話す彼女にとって、それは自身の過去との決別を強制されるような、ある種の屈辱でもあった。しかし、MGBは「難民」という偽装を完璧にするために、この細部にまでこだわったのだ。
そして、女性は家庭にいるべきというナチスドイツの価値観で生きてきた彼女が最も驚いたのは、社会主義体制下での女性の立場であった。完全なる男女平等、夫婦共働き、労働は義務なのである。「あなたは教員と服飾企業と、どちらの仕事をしたいですか」 この私が働く。それはこの大きな闇の組織に囚われることになった人生の中で、一筋の光のように思われた。「服を……服を作りたいです」 エリザベートは迷わずそう答え、新たに国有化された企業で販売やデザインを企画する職に潜り込むことになり、明るい希望を抱いた。一人でミシンを踏んでいたエリザベートが、大きな会社で働き、大勢の人が着る服を作れるのだ。彼女は思いがけない人生の転機に、アバクーモフへ感謝さえした。
そして、その半年間、アレクセイとエリザベートはエドゥアルトを交えての同居こそ許されたものの、家族の時間をゆっくり過ごすことができたのは、訓練の合間の週末だけだった。彼らの愛はもはや秘密ではなくなったが、公認された途端に、MGBの管理下にあるスケジュールに組み込まれていた。同居が許されたのも、「家族として、特に子供が慣れるため」という意味合いが大きかった。この点については、エドゥアルトはもともとアレクセイに懐いていたし、子供の順応性でシュレジェン訛りの研修も難なくこなした。
1947年3月、ベルリン中央駅のプラットホームには、アレクセイとエリザベート、そして5歳になったエドゥアルトの3人が立っていた。彼らは、彼らの新しい潜伏地、ドレスデンへと向かう長距離列車に乗り込もうとしていた。
アレクセイは、古着ではあるが仕立てのよいウールのコートを着込み、顔には憲兵将校時代の冷徹な表情を張り付けている。彼はもう、アレクセイ・ペトローヴィチ・ジューコフではない。彼は今からは、アレクサンダー・ノイマンという名の、戦争から復員したドイツ人技術者だ。ケーニヒスブルクの出身、徴兵されていたが戦争末期その地へ戻れなくなり、戦後シュレジェンに滞在中に、子連れの未亡人であったエリザベートと出会って結婚。これが「設定」だった。MGBはご丁寧に結婚写真まで撮ってくれた。この段になって初めてエリザベートは、「わたしはあなたからプロポーズされていない」と気付いて不機嫌になり、アレクセイは彼女に跪いたのだった。
「さあ、アレックス、エドゥアルト、乗りましょうか」
エリザベートは、新しい夫を新しい名前で呼びかけ、彼の腕に手を絡ませた。彼女もまた、リーザ・ノイマンという新しい人生をまとっている。華美ではないが上質な服、そして洗練された振る舞いは、知識階級の妻そのものだった。彼女はシュレジェンではギムナジウム教員の妻であったが、子供を妊娠中に最初の夫を戦争で失くしたという設定だ。
エドゥアルトは、新しい父親が自分に優しくしてくれることを知っている。もともと大好きだった「アレクセイおじちゃん」を「父さん」と呼ぶのに、時間はかからなかった。彼は、アレクセイの手を握りしめ、長距離特急列車に目を輝かせた。この特急列車は戦前にはベルリンからドレスデンを100分という速度で運行していたが、戦後ソビエトが賠償の一環として線路を持ち帰ったため単線となり、対抗列車とのすれ違い待ちが生じ大幅に遅くなっていた。駅の表示によると3時間以上かかるようだった。
嘘をつくには、本当のことを交えながら言うと、真実味が出やすい……これは訓練で再三教えられたことだった。彼らは以前の名前と近しい名前を与えられ、エドゥアルトは幼いのでそのままの名前にされた。3人の誕生日も以前のままだった。ノイマンというありふれた姓は、新しい人という意味があり、妙に意味深な苗字だった。
「父さん、ドレスデンは焼けちゃったんだよね? どんな街なの?」
「そうだ、エド。ひどく焼けた。だから、これから私たちが、前よりも美しく新しい街を作るんだよ」
アレクセイはそう答えた。子供に「父さん」と呼ばれる度、こそばゆさのある嬉しさがこみ上げる。ジークフリートに対する複雑な思いは、不思議とエドゥアルトには感じなかった。ただ、エリザベートによく似た少年が愛おしいだけだった。
指定された席に座り、荷物を網棚に乗せると3人はほっとして落ち着いた。コンパートメントの窓から、まだ雪が残るが春の暖かい日差しを感じはじめたベルリンの街が見える。これでベルリンとは本当にさようならだ、とエリザベートは感傷的な思いに浸った。ハンブルクからベルリンへ引っ越した時は、こんな日が来るなんて夢にも思わなかった。夫の栄転、そして戦争の勝利を信じて疑わなかった。ああ、だめだ、もうあのころのことは忘れないと……車窓に映る自分の顔は、半年間の研修で、かつての伯爵夫人エリザベート・フォン・リヒテンラーデの面影を薄れさせているように感じられた。成金の商人の娘として生まれ、必死の思いで上流階級に入り込んだのが、中産階級出身者に化けるなんて……私はリーザ・ノイマン、リーザ・ノイマン……そして、隣の黒髪の男の顔を見上げた。彼の名は、アレクサンダー・ノイマン。私の夫だ。
「アレクサンダー……」
そっと呼ぶと、アレクセイは目を閉じたまま、「ん?」と短く答えた。エリザベートは、アレクセイの頬にそっとキスをした。
「あなたの新しい名前……まだ慣れないわ」
「そうか。だが、これが俺たちにとっての新しい真実だ。アレクサンダー・ノイマン、ドレスデンでは、俺はただの技術者だ。戦争から戻り、新しい街の復興に尽力する、平凡なドイツ人……市役所の復興担当官に就職内定中」
「私はリーザ・ノイマン。夫を支え、家を管理し、息子を育てる普通の主婦。シュレジェンから故郷を追われ、新しい土地で人生をやり直す、ただの難民……でもドレスデンでの新しい仕事に期待中」
エリザベートの言葉には、自嘲にも似た響きがあった。彼女は、新しい姓である「ノイマン」が、かつての「フォン・リヒテンラーデ」がいかに遠いものになったかを物語っていると感じた。貴族の証である「フォン」は永遠に失われてしまった。
アレクセイは目を開け、エリザベートの指をそっと握った。彼の瞳には、かつての将校としての冷徹さと、彼女への深い愛が複雑に混じり合っていた。
「なんだか不思議な感じだわ。あなたと『外』でこうやって一緒にいるなんて。私たち、本当に夫婦になったのね、アレックス」
「ああ、リーザ。公に、誰も引き裂けない夫婦だ」
彼の言葉は、愛の成就と運命の隷属という、二つの真実を含んでいた。彼は、自分の人生のすべてを賭けて手に入れたこの愛が、常に国家の監視下にあり、自分の忠誠を証明し続けるための人質であることを知っている。
ドレスデンという新しい舞台は、瓦礫からの復興を目指す社会主義の理想郷であり、同時にMGBの張り巡らされた監視網の中で繰り広げられる、夫婦スパイとしての孤独で危険な任務の始まりだった。脳裏に、ドレスデンの燃え尽きた街の映像が浮かぶ。瓦礫と希望が混在する街。そして、その影でうごめく、反体制分子という彼らの標的。
「ドレスデン……瓦礫の中から、新しいドイツを作るんだ……すばらしい仕事だ」
二人は、「陽光の下で並んで歩く」という夢を叶えた。だが、その陽光は、MGBという巨大な影の下に存在する、歪んだ光だった。彼らはもう二度と、ただの恋人には戻れない。彼らは今、体制のために働く「道具」なのだ。そして、その道具としての役割を完璧に演じ続けることが、愛と家族を守る唯一の道だった。
アレクセイの心には、アバクーモフとの取引の重さがずっと沈み込んでいた。常にアバクーモフ大臣の言葉がよぎっていた。「君たちの愛は、MGBの道具となることで、初めて存在を許されるのだ。これは公認であり、同時に永遠の監視だ」 愛は人質、忠誠は対価……彼らは、愛を公に認められる代償に、MGBの「道具」となることを選んだ。ドレスデンでの新しい生活は、その道具としての役割を完璧に演じ続けることから始まるのだ。「模範的な市民」として街の再建に貢献する一方で、「反動分子」を炙り出し、報告する。それが、彼らの「夫婦」という偽装された幸せを維持するための、冷酷な義務だった。
そしてアバクーモフはアレクセイの出発1週間前にも姿を現した。
「忠実なる同志ジューコフ中佐、ドレスデンでの任務を期待しているぞ。社会主義への反動分子の摘発、革命から逃げた白系ロシア人どもの捜索……お前の監視対象は市民だけではない。お前の愛する妻と子のこともよくよく監視しておくようにな」
アレクセイはこの言葉に驚き、口をはさんだ。
「それは……どういう意味ですか?」
「エリザベートの元夫がナチス親衛隊中佐だったことは知っているな。あの男はおそらくラットラインに関わっている」
「ラットライン……もしかして元ナチの逃亡ルートのことですか? ジークフリートは既に死んでいるのでは? 2年も連絡がないんですよ」
「西側は技術者を自国に匿い、兵器の開発をしている。おそらくはラットラインを頼って来たやつの中で役に立ちそうな人間を選別しているんだ。文科系の連中はアルゼンチンに逃がすんだろうがな。フォン・リヒテンラーデ中佐は1943年ごろからこの計画に携わっている。ドイツ国防軍は最後の最後まで抵抗したが、上のほうの連中はそんなに前から自分らだけは助かるように、計画を練ってたってわけだ。ジークフリート自身もこのラインで逃げたとみなすほうが自然だ」
ジークフリートが生きている? アバクーモフの言葉はアレクセイの幸福と自信を音もなく打ち砕いた。そんな……今になってもし奴が現れたら……やっとエリザベートの心を手に入れたと確証を得たのに。
「俺がエリザベートを生かしておくのは、この点も大きいかな」
「……この点、といいますと?」
「フォン・リヒテンラーデ中佐と元ナチどもは、エリザベートを必ず奪還に来るだろうってことさ。いや、正確には息子をな。あの自分の血統に恐ろしいほどの自信を持っている伯爵としては、自分の跡継ぎがロシア人の継父に育てられるのは我慢ならんだろうからな。さらにエリザベートがお前の子供を産んでいてみろ、あいつはどういう顔をするだろうな、今から楽しみだよ。妻を寝取られ、スラブ人の血が半分流れる忌まわしい混血の『ルッセンキンダー』を見たら、脳の血管切れるんじゃねえか。ドレスデンに着いたら、子供をさっさと作っておけ」
アレクセイは机の下で血が出るほど手を握りしめた。コズロフ中佐も「実子を作るように」と言った。それは愛の結晶としての実子ではなく、あくまでラットラインを引き付けるためのエサでしかないのだ。
「……同志大臣、あなたはそこまでわかっていて、エリザベートと私の婚姻を許可したのですか?」
「ま、後から分かってきたことも多いさ。同志ジューコフ中佐、せいぜい妻と子を守ってやることだ。俺はな、エリザベートのことも、ゆくゆくはドイツにできる秘密警察の職員にまでは無理でも、非公式協力者くらいには仕立て上げれるかと思ってたんだよ。しかしこの半年間のエリザベートの研修記録を見たが、あの奥さんはスパイとしては全く使いもんにならん。すぐに人を信じて疑うということができないらしい。ま、そういう育ち方をしたんだろうがなあ。そういうところが魅力なのか? ふん、まあどうでもいい。MGBの職員にするのではないから給料出すわけではないし、構わんさ。だが、彼女はラットラインの餌としては超一級品だ。我々ソビエトとしては、ラットラインを壊滅させて、ナチ野郎どもは全員戦争犯罪人として処刑したいと思っている。ジークフリートが現れたら、必ず生きたまま捉えろ。その後の尋問だとか拷問はお前にやらせてやる。最終的に処刑だろうが、獄死だろうが、殺しても構わん。お前の場合私怨もあるだろうしな」
「……妻には、ジークフリートが生きている可能性のことは、秘密にしておいていいのですか」
「当然だ。ジークフリート本人ではないにしろ、必ずラットライン側はエリザベートに接触してくるだろう。その時、あの素人女は平常ではいられまい。その変化を見逃すな」
この女は俺のものだ、アレクセイはエリザベートの肩を抱く手に力を込めた。命がけの恋だった。そして最後に勝ったのは俺なのだ。ジークフリートは果たして現れるのだろうか。いや、そんなことを考えても始まらない。たとえあいつが現れたとしても、エリザベートが俺の元にとどまればいいだけの話だ。そう、あの8月の日のように。俺を選んでくれ。
「痛いわ、アレックス」
エリザベートの声にアレクセイは我に返り、手の力を抜いた。
「ごめん」
新しい名前、新しい故郷、新しい生活。そのすべてが、MGBによって設計された偽りだ。彼らは、列車がドレスデンへと向かうたびに、自分たち自身の「真実」を置き去りにしていくようだった。
愛は、確かに彼の手の中にあった。だが、それは、鎖に繋がれた鳥のように、自由を奪われた愛だった。
「あ、オペラ座だわ」
列車はベルリン中心部をゆっくりと車窓に見せながら、動き出す。戦争終結から2年近くたつが、まだまだ街は瓦礫の山だ。ああ、そうだあの日瓦礫の中でオペラ座に寄ったな……アレクセイは2年近く前のことを思い出した。まだエリザベートに手も触れられなかったころだ。通訳の腕章をつけさせ、護衛も連れてベルリンの街を歩いた。そうだ、彼女はオペラ座で歌ってくれた……
「あの歌」
「え?」
「ほら、終戦直後に闇市に行った後、オペラ座で君が歌った歌」
「あ……そうね、そんなこともあったわね」
「あの歌は本当はどういう歌だったんだ。あんなせつないメロディーで、ただの季節の歌のわけがないだろう」
「あら、とても音楽に見識がおありのご様子ね。ふふ、じゃあもう教えてあげるわ。イタリアのオペラよ。東洋のお話を無理やりヨーロッパ風にしたものなんだけどね。南には伝統ある大国が栄えていた。北には蛮族の新興国。西にも蛮族の国。南の国は西の国をやっつけたいから、北の国と同盟を結ぶの。北の国は盟約通り、西の国を亡ぼす。けれど南の国は全く約束を守らない。それで北の国は怒って南に攻め入り、王侯貴族を1万人も北の土地へ連行するの」
「1万人……」
「それで、その中の一人の王女様が、連行途中に蛮族の騎士と気持ちを通わせあうの。あの歌はその時の歌……自分の祖国を滅ぼした敵を愛してしまった王女様のお話よ」
エリザベートは静かに頷いた。
「叶わぬ恋の歌よ」
そして、小さな声でドイツ語の翻訳版を歌った。
『灰に沈む我が祖国よ
瓦礫の中で祈る声よ
私は知っている、罪深きことを
あなたを愛することは裏切りだと
それでも……わが祖国を蹂躙せし者なれど
この胸は燃える、抗いえぬ炎
旗を捨てても、忠誠を失っても
私はただ、あなたの腕に抱かれたい
赦されぬ愛よ、禁じられた抱擁よ
それでも夜ごと夢に見る
祖国よりも信仰よりも
私はあなたを選ぶ
私は選ぶ 鎖のついた名誉を捨てて
私の道は茨に覆われても構わない
この夜、私は運命を捨てる
私はあなたを選ぶ』
歌い終わったエリザベートはアレクセイの顔を見て驚いた。彼の顔には、普段のMGB幹部としての冷徹さや、自信家の笑顔はなかった。あるのは、一人の男としての、ひたむきな不安だった。
「……リーザ」
彼は、ほとんどささやくような声になった。
「君は、あの日この歌を歌った。俺の前で」
彼の目が、再び彼女を捉えた。その熱烈な眼差しは、彼女の答えを恐れているようだった。
「君は……あの頃から、俺を好きでいてくれたのか?」
愛する女にとって、自分は「敵国の騎士」。混乱期に現れ、彼女の全て(国、安全、人生)を支配下に置いた男。彼女の生存のための選択ではなく、真の愛によって選ばれたかった。彼のこの問いは、その一点への切実な渇望だった。
エリザベートは、アレクセイを見つめ返した。彼の愛は、真剣で深く、しかし強引で激しくて、やがては重荷になるかもしれない。だが、この時点では、それは紛れもない純粋な愛情だった。彼女はそう心から信じていた。
「アレクセイ」彼女は、優しく、しかし明確に彼の本当の名を呼んだ。
「私は、あなたが守ってくれたから、生きている。あなたへの信頼と感謝が、いつしか愛へと変わった。その愛に気づくのにとても時間がかかってしまった」
そう、私は歌の中の亡国の王女と同じ立場なのだ。私の国を滅ぼした蛮族の騎士、それでも私はこの人を選んだ。ドレスデンでの生活がどれほど過酷であろうと、この人と一緒にいられる、それだけでいい。
彼女の言葉は、彼の問いへの直接的な答えではなかった。しかし、彼にとって最も聞きたかった真実を伝えていた。アレクセイは、深く息を吐き出した。彼の不安は、一気に安堵へと変わった。たとえリヒテンラーデ中佐が現れても、この歌にあるように、俺を選んでくれるに違いない。そう、信じていこう。
「それで、その王女様は騎士と結ばれて幸せになるのか?」
「……いいえ、王女は他の人と結婚させられることになり、自殺するわ。まあオペラは悲劇が多いから」
「そうか……その歴史上の事件、士官学校時代に歴史で学んだように思う」
「え。じゃあ本当にあったことなのね」
エリザベートはグリューネヴァルトでアイスマン夫人が、やたらとモンゴル人の話をしていたのを思い出した。
「正確にその事件をモデルにしているのかどうかは知らないけれど、まあ派手な事件だから印象に残ったんだ。気になって、その人たちがどうなったか調べてみたことがあってね。ほとんどは北の国の王族の側室になるんだけど、一人だけ違う運命の王女様がいた」
「え、どうなるの?」
「前王の第4王子が妃に迎えててね、彼には他に側室の記録もないし、その王女様はたくさん子供を産んだみたいだった。子供がいたから幸せとは限らないけれど、せめて幸せに過ごせた人が一人でもいないとやりきれないさ」
「じゃあ、その幸せになった王女様をモデルにしたらよかったのにね」
「それだとオペラにならないんだろう?」
「あはは、そうね」
「まあでも、大祖国戦争でも大勢の人が死んで、大勢の人が不幸になった。けれど、俺たちみたいに戦争がなければ出会えなかった人間もいるんだ。俺はさっきの第4王子みたいに幸せになってみせるさ」
「まあ、じゃあ私はそっちの王女様のように幸せになるわ」
アレクセイは、窓に映る自分の顔をしばらく見つめていた。制服を着ていない自分は見慣れなかった。それは、軍服の威圧感を失い、ごく平凡な「ドイツ人技術者」となった男の顔だ。彼は、眠るエドゥアルトの頭にそっと手を置き、その小さな命の温かさを感じた。そして上着をかけてやった。エリザベートは、夫の様子に気づき、静かにささやいた。
「コズロフ中佐の言ったことが、時々頭をよぎるの…」
「何を?」
「『今日の選択を後悔する日が必ず来る』と…」
アレクセイは、その不吉な予言を打ち消すように、強く彼女の唇に口付けた。そのキスは、愛の深さと、不安をかき消そうとする焦燥が混ざり合った、複雑な味だった。
「そんな日は来ない。俺たちが公に夫婦となったこと。エドゥアルトを、君の息子を、俺たちの息子として育てられること。これ以上の幸せがどこにある? 俺たちは、戦いに勝ったんだ、リーザ」
そうだ、戦いには勝った。全世界で5000万人が死んだとも言われる第二次世界大戦を生き残った。そしてナチスという過去、孤独な愛、そしてあの恐ろしい組織と死の恐怖に。だが、彼らが勝ち取ったものは、MGBという巨大な檻の中に存在する、歪んだ自由だった。
「そうね……これが私の選んだ人生なんだわ。私はすべてを捨ててでも、あなたと一緒にいることを選択した……あの尋問室で……いいえ、もっともっと前から」
エリザベートはアレクセイの肩にもたれ、そのまま目を閉じた。本当に俺の肩でよく眠る女性だ、とアレクセイは笑いそうになったがそのままにしておいた。だが、エリザベートの頭の中はエドゥアルトを東側へ残したことを、本人が成長したときにどう思うだろうかという不安で占められていた。私はいい、この新体制にも順応してみせよう、だが人生がこれからのエドゥアルトは……?
列車がゆっくりと速度を落とす。プラットホームが見えてきた。アレクセイはエドゥアルトを抱き上げ、偽りの姓を呼んだ。
「さあ、エドゥアルト。新しい生活の地へ向かうぞ、ノイマン家の出発だ」
エリザベートは、新しい夫の腕に手を絡ませた。二人は、完璧な「難民夫婦」として、ホームに降り立った。彼らの足元には、ソビエトの力が隅々まで浸透した、新しいドイツの冷たい石畳があった。まぶしい陽光が彼らを照らした。陽光の下を肩を並べて歩きたい、その夢はかなったのだ。願わくば、これからも太陽が今までにないほどに美しく私たちの上に輝きますよう、それが2人、いや3人の願いだった。
この地、ドレスデンは彼らにとって、巨大な黄金の檻だった。ノイマン夫妻は、コズロフ中佐の不吉な予言など、自分たちの「命がけで戦い抜いた愛」の前には無力だと信じていた。彼らが勝ち取ったこの幸せは、未来永劫続くはずだった。あの日の選択を後悔する日など、決して来ないと絶対的な自信を持っていた。しかし、鎖に繋がれた愛の希望が打ち砕かれるには、ドレスデンの冷たい石畳の上で、それほどの時間はかからなかったのである。
(第一部 完)




