1-22 アバクーモフからの提案
戻ってきたアバクーモフから、アレクセイの「自白」を聞いたエリザベートは青ざめた。「自分がエリザベートを強姦した、今の二人の関係は物資と肉体の引き換えにすぎない、愛などない」 愛などない……その言葉はエリザベートを打ちのめしたが、おそらく彼は罪を一人で被り、彼女に咎めがないようにそのようなことを言ったのだろうということは、すぐに理解できた。じっとこちらを見ているアアクーモフに対し、エリザベートは震える声で聞いた。
「……ジューコフ中佐はどうなるのですか?」
「軍法会議の後、本国の労働収容所送りだろうな。安心しなさい、彼は2度とあなたの前に現れることはないし、あなたに触れることもない」
アバクーモフはしらじらしく言った。眼鏡の男は白けた目で見ている。
「同志、そこまで話を戻すんですか? もうさっき解決したんじゃ……」
「いや、このご婦人の反応を見てみたくてな」
エリザベートは二人のひそひそ話は耳に入らず、青ざめていった。体はガタガタ震えていた。アバクーモフが妙に楽しそうな顔をしてこちらを見ていることも、残酷な人だからなのだろうと思っていた。どうしよう、どうしたら彼を助けることができるだろう、と考えたが何も思い浮かばない。
「そんな……収容所なんてひどい……」
「なぜ奴に情けをかける? 奥さん、あんたは被害者なんだろう?」
いやだ、いやだそんなこと。彼だけの名誉を汚し、私だけ助かるなんて。そしてもう会えない、そんな……
「なぜ泣いている? エリザベートさん」
「私も……私も一緒に労働収容所に送ってください。彼と離れることはできません」
「はああ!? あんたを強姦した男だぞ? なぜそんなことを言うんだ」
「違います! 彼は私に手も触れなかった。いつも紳士的で真面目で不器用で……でも優しくて親切で……彼は私を守る必要も義務もなかった。それでもずっと傍にいてくれたんです! 彼は強姦なんてしていません!」
そうだ、彼はあの乱暴な兵士から私を助けてくれた。彼は私を助け起こそうと、手を差し伸べてくれた。遠まわしな告白をして帰ろうとした彼を、私は抱きついて止めた。私は自分で歩いて彼の官舎へ行った。私は自分から彼の胸に飛び込んだのだ。エリザベートはこれまでのめくるめく恋の場面を思い出していた。アバクーモフはポン、と手を打った。
「なるほどわかったぞ。あんたは最初こそ確かに脅されて強姦された、だが何度も関係を持つうちに、体が開発されて『よく』なっていったんだ、そうなのか?」
文法を所々間違ったドイツ語を使う、にやにやしながら話すこの男の下品な言葉に、エリザベートは真っ赤になって反論した。
「違います!」
ここで眼鏡のミーシャが溜息をつき、呆れたように言った。もうこんな茶番な尋問はこりごりだという態度だ。
「同志、西側のポルノ小説の読みすぎですよ。また取り寄せたんですか。あんなの資本主義世界のバカな男の妄想です。翻訳官の身にもなってやってくださいよ。それにもう、こんなこと全く必要ないじゃないですか」
ミーシャはエリザベートに対して、ドイツ語で話しかけた。
「エリザベートさん、労働収容所っていうのはそんな甘い場所じゃありません。好いた男女で一緒に入れるわけがないです」
アバクーモフはまったくブレずに続ける。
「やかましい、ミーシャ。アメリカ文学を読むという敵情査察だ。エリザベートさん、実際のところ、あんたらの関係性は何なんだ」
「私はアレクセイを愛しています」
エリザベートははっきりと言った。そうだ、もう言ってしまおう。私たちの愛は真実で高潔なものなのだ。こんな下品な男には到底理解できないだろうけれど。
「貴国の交際禁止令に違反したことは本当に申し訳ありません。けれど私たちは真実愛し合っているんです。私の望みは、たった一つ。アレクセイの隣に公にいることを、貴方の国に認めていただくことです。私はすべてを捨ててここに残りました。もう誰にも彼との間を引き裂かれたくないのです。彼のいる場所こそが、私の唯一の生きる場所です。私をソビエト人にしてください。なんだったらソビエト連邦に忠誠を誓います」
「奥さん、あんたをソビエト人にすることはさすがの俺でもできん。ソビエトは根本的なところでドイツ人を信用しとらんからな。それにこの間まで『ハイル・ヒトラー』ってナチに忠誠を誓っていた人間に、『ソビエトに忠誠を誓う』って言われてもなあ…… まあ、あんたは性格的にはイデオロギーよりも恋愛感情を取る人間なのはよくわかるよ。大抵の女はそうだろうがな。俺はな、うまいこと取引してあんたらの望みをかなえてやりたいとも思っている。悪いがもう一度目隠しをするよ。さあ、あんたの愛しい男の所へ連れていってやろう」
エリザベートはもう一度目隠しをされ、女性兵士に手を引かれた。
「リーザ!」
部屋のドアが開く音とともに、聞きなれたアレクセイの声が聞こえた。
「アレクセイ!」
アレクセイはエリザベートに駆け寄り、すぐに目隠しを外し、彼女の頬を両手で持ってしっかりと顔を見た。
「ひどいことを…ああ、リーザ、ひどい目にはあっていないか、何か痛いことをされたりは……」
「おいおい、拷問なんざしとらんよ。我々が野蛮人のような言い方はよしてくれたまえ」
アレクセイはアバクーモフを厳しい目で一瞥すると、エリザベートを抱き締めて髪を撫でた。
「すまない……こんなことに巻き込んでしまって。可哀想に、震えているね。怖かっただろう」
エリザベートはアレクセイに会えた嬉しさで安心し、彼の胸でわんわん声を上げて泣いた。
「怖かった……怖かったの、アレクセイ。そしてごめんなさい、アレクセイ。私たちのこと、話してしまった。あなたが私をかばって守ろうとしてくれているのはよくわかったわ。でも、黙っていられなかったの」
「いいんだ。俺も君の手紙を読んだ後、全部正直に話したよ。嘘なんてつけないさ。君を守るためなら、なんだってする」
俺がこの地で出会い、守り続けた愛しい女、血みどろの戦争の果てにたった一つ見つけた美しい花。彼女は俺を選び、この地に残ってくれた。俺はジークフリートに勝った、エリザベートの愛を勝ち取ったという喜びがアレクセイの胸に溢れた。一時は軍法会議とシベリア送りを覚悟したが、これからも一緒にいられるという安堵の幸福感、しかし愛をアバクーモフに人質に差し出してしまったという屈辱も感じていた。
「泣いているの? アレクセイ」
エリザベートはアレクセイの頬を両手でやさしくなでた。彼が涙ぐんで、目を赤くしているのを初めて見たのだ。
「すまない……本当にすまない、君をこんな運命に巻き込むことを許してくれ。君は本当なら何不自由ない人生を送ることができる人なのに。だがこの世の何と引き換えにしてでも、俺は君と一緒に人生を歩みたい。太陽が輝く下で、君と道を歩きたいんだ」
エリザベートはアレクセイが言う「巻き込む」も、アバクーモフの言う「取引」もいったい何のことなのか、よくわからなかったが、そのまま無言でアレクセイを引き寄せ、涙の跡に口づけた。ほおが触れ合い、そして二人の唇は自然と引き寄せられた。
アバクーモフと眼鏡のミーシャは黙って二人の様子を見ていた。
「ここがどこなのかも、俺たちがいるってことも忘れてるな。いい年してよくも人前でここまでできるもんだ。ベルリンはアミェリカーニェツ(アメリカ人)に毒されすぎている。やはり資本主義文化の流入は止めないといけない」
「うわ……すごい情熱的ですね。それにしても最初から二人一緒に話を聞いたら、一目瞭然だったんじゃないですか? あんなまどろっこしいことをしなくても」
「やかましい。それが尋問の醍醐味っつーもんだ。俺の趣味なんだよ。お前も俺と長い付き合いなんだからわかってるだろうが」
「そうですね、俺たちはもうかれこれ30年以上になりますか。ああ、俺も恋したいなあ……」
「まあ俺たちの付き合いはガキのころからだからな。おい、お二人さん、もういいだろう。この続きは夜にやってくれ。お前らの今後のことを話すから座ってくれ」
アレクセイとエリザベートは並んで、二人の前に座り直した。エリザベートはこの二人が誰なのか、ここがどこなのかも全く分かっていなかった。
アバクーモフの命令はアレクセイの想定を大きく上回るものだった。MGB(ソビエト連邦国家保安省)への移籍、そして潜入者としてドイツ社会に溶け込むというものである。全く新しいドイツ人戸籍を用意するから、その戸籍同士で婚姻届を提出し、正式な夫婦としてドレスデンへ赴くのである。つまりアレクセイはドイツ語力を活かして、ドイツ人としてドイツ社会で生きるのである。
「諸君らの個人的な関係は、国家の安定を揺るがしかねない反動的な行為であった。しかし、その異常な愛は、逆説的に国家にとって有用であることが証明された。エリザベート、君は家族と富を捨ててこの男と東側に残ることを選んだ。アレクセイ・ペトローヴィチ、君はこの女を守るために国家と組織と私への忠誠を誓った」
二人は黙ってうなずいた。
「我々は、君たちの結婚を認める。ただし、これは国家が君たちの愛を公に認めたのではない。君たちの愛は、MGBの道具となることで、初めて存在を許されるのだ。これは公認であり、同時に永遠の監視だ。模範的なドイツ人夫婦として新生社会主義ドイツの復興を行ってくれ。ドイツ政府と各地方自治体は当然として、国営化された企業の指導者も、ソビエトの息がかかったドイツ人が担う。しかし我々は根本的にはドイツ人を信用しきれないので、そこにドイツ人に化けたソビエト人を送り込む。お前らの役割はそこで反乱分子をあぶりだして報告することだ。表向きは普通のドイツ人夫婦として目立たぬように生活するんだ。社会主義体制に順応した『幸福な家庭』としてな。よって将来的に、愛が冷めたとしても離婚はできないぞ、わかったな」
アバクーモフはミーシャに向きなおった。
「あとのこまごました書類仕事はお前に頼むぞ」
「またですか? 同志大臣閣下はいつもおいしいところだけ持っていきますね」
アクバーモフはエリザベートに向かって不敵な笑いを浮かべた。エリザベートのほうは、MGBとはなんだろうかと、そこから疑問に思っていた。
「エリザベート、あんたは生粋のドイツ人だからそのままドイツ人でいい。新しい人間になることで、元ナチの過去は捨てられる。どんな仕事だってつける。そして偽名戸籍とはいえ、アレクセイ・ジューコフの正式な妻になれて一緒に暮らせる。これはあんたが想像していた以上のご褒美ではないかね?」
「……はい」
アバクーモフはアレクセイにも言った。
「お前は俺が期待していた以上の男だよ、ジューコフ中佐。ドイツの上流階級の奥さんを、よくここまで惚れさせたもんだ。たいしたもんだよ。この女と一緒に夫婦役をやることで、お前一人よりもドイツ人らしく見えるだろうよ。言ってみれば、お前らは双方でお互いに俺の人質なんだ。エリザベートの命を守るためにアレクセイは働き、アレクセイと一緒にいたいがためにエリザベートは働く。そして、お前らのことでよく分かったが、女がらみで逃亡を企てている将校も兵卒も全員この方法で、こっちに勧誘してやろう。イチから夫婦役を作って潜入させるのもなかなか難しかったからな。一気に人手不足も解消の名案だ」
そしてアバクーモフは上機嫌で部屋を出て行った。眼鏡のミーシャが溜息をついた。
「まあ、気にしないでください。あの人はいつもああですから。決して悪い人ではないんですけど、大変な思いをさせたことを謝ります。同志ジューコフ中佐、そしてエリザベートさん。申し遅れましたが、私はミハイル・ニコラエヴィチ・コズロフ中佐です。もともとはNKVD勤務で、現在はMGB勤務です」
アレクセイとエリザベートはそれどころではなく、アバクーモフが出て行ったことで、やっと尋問が終わったことを安心し、眼鏡の男のことまで気持ちが回らなかった。テーブルの下でそっと手を握り、二人は無言で見つめあった。私たちは助かったのだろうか。本当に私たちは一緒にいてもいいのだろうか。コズロフ中佐は咳ばらいをし、ロシア語でエリザベートに話しかけた。
「エリザベートさん、ロシア語はどの程度?」
「仕事をするほどの高度な言葉を知っているわけではございませんが、日常生活なら読み書きに不自由はしないと思われますわ」
「うわ……きれいな発音ですね。レニングラードの宮廷貴族風の持って回った言い方に感じますが、家庭教師の先生はどういう方だったのですか」
「サンクト・ペーテルスブルク(レニングラードへ改称される前の街の名前;現在のペテルスブルク)から逃げて来られた貴族の方でした。私が物心ついた時から15歳くらいまで実家に住み込んで、私にロシア語とフランス語を教えてくださいました。当時ドイツには、ロシア革命から脱出した貴族の方が大勢いらっしゃいましたわ」
「白系ロシア人か……まあ今風の社会主義的なロシア語のほうも学習していただくということで、あ、そうだそろそろかな」
コズロフ中佐は二人を窓際へ呼んだ。カーテンの隙間から建物の中庭が見えた。さっき乗せられた黒い車が横付けされ、建物から4人の人物が目隠しをされて出てきた。エリザベートは息をのんだ。小さなエドゥアルトとカールまで目隠しをされている。
「あの4人は解放し、米軍ゾーンとの境界線まで車で送るそうです。我々もそれなりに親切でしょう?」
我が子といつまでの別れになるのだろう、いや、この先自由な行き来はしづらくなるのだろうから会える日は来るのか。あの子は私のことを覚えていてくれるだろうか。そんな思いで彼女はカーテンをつかんだ。
「エドゥアルト……」
私はあんなに小さい子を手放した…… もっともっと抱きしめてあげればよかった。ジークフリートの遺してくれた、たった一人の忘れ形見をこんな形で失ってしまうなんて。アレクセイは涙にくれるエリザベートを後ろから両手を回して抱きしめた。
「君は……本当はエドゥアルトを自分で育てたいんじゃないのか? いくらあっちで裕福な暮らしが待っているとしても、エドゥアルトにとっても母親と一緒のほうがいいだろうに」
「……私はうまく母親になれなかった。お産の後しばらく寝付いただけではなく、その後の世話も教育もろくに手を出さなかったわ。それが貴族的なのだと信じていた。あの子は養育係のギゼラのほうに懐いているくらいよ。それに、6歳から寄宿舎に入るなら、2年早まったくらいどうってことないわ」
「リーザ、新しい父親として、俺にあの子を育てさせてくれないか」
「ええ!?」
エリザベートはアレクセイの言葉に驚いた。まさか連れ子を育てるなんて、この人はそんな重荷を背負おうというのだろうか。
「君はこのままでは魂を半分持っていかれてしまう。まだ4歳なんだ。これまで距離のある母子関係だったとしても、今からでもきちんと向き合えば関係は築けると思う。それに俺もエドゥアルトがかわいい。一緒にいたいんだ」
アレクセイはコズロフ中佐に頼んだ。
「エドゥアルトだけ残してもらえませんか。子供がいたほうが私たちも、より本当の家族らしく見えるでしょう」
コズロフ中佐はすぐに窓を開け、大声で下にいる者に指示を出した。結果、エドゥアルトだけが残され、3人が車で出発した。アバクーモフに問い合わせるでもなく、即断即決したコズロフ中佐に、二人はびっくりした。どうやらこの人はかなりの権限を与えられているらしい。
兵士に連れられ、小さいエドゥアルトは不安げな表情で部屋に入ってきたが、母を見つけると喜んで駆け寄ってきた。エリザベートはエドゥアルトを抱きしめた。
「お母さま!」
「エドゥアルト、ごめんね。これからはお母さまと一緒にいようね」
コズロフ中佐はアレクセイにそっと耳打ちした。
「この子をこちら側にいさせるということは、我々にとっては都合がいい。ソビエトの人質が一人増えるようなものですからね。この子が生きている限り、エリザベートさんは自殺することも出来ない。子連れでは逃げることもままならない。そしてあなたは2人を抱えて、よりいっそう働かないといけなくなります」
「自殺だなんて、変なことをいいますね。まるで彼女が今後不幸になるみたいだ。私たちは幸せになるために、新しい人生を踏み出すんです」
コズロフ中佐はアレクセイの言葉には直接答えなかった。
「別の問題として再婚の場合、連れ子を育てるというのは想像以上に難しい問題ですが、あなたにはその覚悟があるのですか」
「彼女は出会った時から人妻で、子持ちでした。もとより承知です」
「しかし見事な金髪の坊ちゃんだ。黒髪のあなたの実子にはとても見えないでしょうね」
輝く金髪に青い瞳、ナチスドイツの理想としたドイツアーリアンの理想形のような容姿だ、とコズロフ中佐は思った。おそらく元夫がこういう容姿だったのだろう、成長していくにつれて元夫に似てきて、ジューコフ中佐にはどういう葛藤が生じるか、コズロフは想像に難くはなかったが、それ以上口に出さなかった。
「新しい戸籍とやらも、再婚で作ってください。そんなこと、とりつくろう必要もない。私はエドゥアルトの『お父様』にはなれない、『父さん』とか『親父』でいいんです」
アレクセイは抱き合っている母子を優しい目で見ていた。コズロフはそんなアレクセイを横目で見て、この男は心底あの女性に惚れているのだなと思って言った。
「……あなた方も、ドレスデンで落ち着いたら実子を作ってください。そのほうが家族として絆ができるし、外から見てもより『本物』に見える。エリザベートさんはますます身動き取れなくなる。我々は今まで組織の中の男性職員と女性職員を組み合わせて、夫婦役として潜入させてきましたが、いかんせん中身が人間なもんでなかなかうまくいかないんです。夫婦役を演じるために任務として肉体関係を持たせますが、子供まで作るのはなかなかねえ……」
この組織はそんな非人道的なことをしているのか、とアレクセイは愕然とした。男のほうはともかく、女はつらいだろうなとも思え、逆にそこまでの任務を引き受ける女性スパイに、どんな事情があるのだろうと気の毒になった。そしてアバクーモフが最後に言っていたように、自分たちのようなあらかじめカップルになっているソ連軍将兵とドイツ女性を、本来ならば引き裂くところを、弱みと引き換えに潜入者に仕立て上げる、という計画がむしろ人道的にも思え、アバクーモフをあまり嫌えなくなってきた。
「その……戸籍とか新しい身分証明書とかって、偽造するのですか?」
「いや、本物を発行させるんですよ」
「ドイツの行政庁にさせるのですか? そんなことできるのですか?」
いくらSMAD(在独ソ連軍政府)でも偽物を発行させるなんて、そんな横暴が許されるのか?
「旧ドイツ領の東プロイセンはソ連邦に編入され、オーデル・ナイセ川以東はポーランド領になりました。このあたりに住んでいたドイツ系住民は1500万人ほどにも上りますが、ほぼ全員『追放』の憂き目にあい、着の身着のまま徒歩で追い出された。現在ドイツ国内は家のない難民であふれています。こういう人たちは身分証明書も持っていないし、かつてそこにあったドイツの行政府はもうないので、再発行もしてもらえない。書類も散逸している。我々が保証人になってこのあたりの出身とすれば、新しい身分などなんとでもなります」
ということは、とアレクセイは考えた。自分の本当の身分を隠したい人間にとっても都合がよいではないのかと思えた。例えば戦犯訴追されそうな元ナチス親衛隊員などが西側にいた場合、鉄のカーテンのこっち側は誰も調べることができない……アレクセイはかぶりを振った。ジークフリートは死んでいる、死んでいるんだ。過去の亡霊に惑わされるな。俺たちは未来を向いて歩くんだ。
「あれ、アレクセイおじちゃんだね。こんにちは!」
エドゥアルトがアレクセイに気づき、笑顔を見せた。アレクセイはエドゥアルトの美しい金髪をくしゃくしゃして撫でた。
「こんにちは、今日からは私がお前の『父さん』だ」
そしてきょとんとしている子供を抱き上げ、エリザベートも抱き寄せた。
「これで……もう誰も我々を引き離せない。公に私の妻と子だ、リーザそしてエドゥアルト」
エリザベートは感情が麻痺したようになっていた。取り調べであの男の言った「取引」はこういうことだった。偽名での戸籍……私はもう元ナチ女とののしられることもない、就職で差別されることもない。誰も知った者のいない街に行き、そこでこの人と正式な夫婦になれる。どこへでも一緒に出掛けることができ、並んで道を歩ける。そして子供……彼女は妊娠することを今まで恐れていた。しかし妊娠しても堂々と産めるのだ。
アレクセイとこれからも一緒にいられる……それはエリザベートがずっと願っていたことだった。その叶わぬ願いは、この恐ろしい組織に自分たちの人生を牛耳られることで、思いがけない歪んだ形で叶った。では、この代償は何なんだろう。エリザベートはジークフリートと結婚した時のことを思い出した。ああ、あの時もそうだった。あんなにハンサムで貴族の彼がなぜ自分を選んでくれたのか、そしてその幸運のしっぺ返しがいつか来るような気がしたのだ。それは敗戦、美しい秩序ある世界の崩壊という形で自分の人生に降りかかった。今度は何? 私は今28歳で、これまでの人生を捨て、新しい人生をもらえる代わりに何が起こる? ソビエトに歯向かう反乱分子をあぶりだす仕事? そんなことに自分が気づけるわけないじゃないか。そして私にそんな察知能力がないことなど、この人たちはお見通しのはずだ。
「エリザベートさん」
コズロフ中佐が話しかけた。
「今日のことをずっと覚えておいてください」
「当たり前じゃないですか。一生忘れられるわけがありませんわ」
「今日の取り調べではなく、あなた自身の気持ちです。ドレスデンに行き、ふと生活に疲れた時、あなたは必ず今日の選択を後悔する日が来ます。そんな時に、なぜ東側に残ったのか、なぜ我々に従ったのか、そしてあなたが本当に望んだことが何だったのかを忘れないでください。すべてを捨ててでも、ジューコフ中佐と一緒にいたいという望みを」
エリザベートはコズロフ中佐の言葉にぞっとした。私はよくよく考えてこの道を選択したはずだ。あの日墓場でギゼラからひどい言葉を投げつけられた時から、米軍ゾーンの手前でフリーダに鞄を渡した時まで、こちらに残ることに全く迷いはなかった。アレクセイと共に人生を歩むという、この選択を後悔する日が来る……西側へ行ける、兄の保護を受けられるチャンスを棒に振ったことを後悔する日が来る……
「何を言うんですか、コズロフ中佐。そんなことあるわけないだろう」
アレクセイが怒ったように横から言い、エリザベートの肩に回した手に力をこめた。コズロフ中佐はアレクセイに向きなおった。
「あなたもです、ジューコフ中佐。自分を偽ったスパイの生活は想像以上に孤独でストレスがたまります。だからこその二人一組なんです。そのストレスを共有できるパートナーがいないと、人は簡単に壊れてしまいます。どうかお二人、互いに思いやりを持ち合って人生を共になさってください。死が二人を別つまで」
二人はもう何も言い返さなかった。そしてコズロフ中佐の言葉は、不吉な予言のように心に刻まれた。




