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1-21 尋問③アレクセイ

「……彼女は今日同居者と家族と一緒に西ベルリンへ移住しようとした……だがすんでのところで我々が確保した。お前の軍規違反の重大参考人である……」


 エリザベートが自分に何も言わず、西側へ行こうとした事実はアレクセイを打ちのめしていた。西へ行きたいのか、リーザ。そうか、あの妙な態度はそうだったのか。以前エリザベートが「私が急にいなくなったらどうする」と、変なことを言い出したことがあった。確かに俺とお前は現状では結婚できない。陽光の下で肩を並べて歩くこともできない。いつか交際禁止令は廃止されるのか、それは1年後なのか30年後なのか全く見えない。そんな関係に今後のお前の人生を縛ることはできない。ずっと日陰者の生活をさせ、将来的に俺が死んでも生命保険も退職金も遺すことができない。

 エリザベートの出した結論が、西側へ行くということなら、行かせてやりたい。生粋のドイツ人なのだ。ドイツ国内のどこに住もうと自由なはずだ。兄から絶縁されたと以前言っていたが、裕福な一族だろう、迎え入れてくれる親族もいるだろう。たまたま東側に住民登録してしまったというだけで、今後西側へ転居してはいけないなんて、理不尽だ。愛するリーザ、それなら俺がすべて泥をかぶろう。どんなことをしても彼女を守る、そう自分は誓った。彼女の人生に責任を持ちたかった。だから、だから君を抱いたのだ。生半可な気持ちで一線を越えたのではない。それがアレクセイの矜持だった。アレクセイは顔を上げ、アバクーモフを見た。二人とも滅ぶよりは、俺一人が滅ぼう……


「話す気になったのか」

「……たまたま立地と建物が気に入り、リヒテンラーデ夫人の家を接収しました。彼女のことは、初めは容姿が好みだったんです。彼女は赤軍のことをとても怖がっていて……最初の夜、彼女の寝室に強引に押し入り、無理やり関係を持ちました。彼女は私と関係を持ってしまったことを他人に知られたくない様子だったので、言い触らすぞと脅して度々関係を持ちました。ハウスメイドも、夜間の店舗訪問も私が無理強いしたことです。彼女は私の暴力の被害者です」

 アバクーモフは白々しい驚いた様子を見せた。

「ほほーう、完全にお前さんが悪者ってか。で、その無理やりっていうのは銃で脅したのか、殴りつけたのか? く、わ、し、く、話してもらおうか」

 眼鏡の男が溜息をつき、口を出した。

「同志……悪趣味ですよ」

「はは、ミーシャ、ここは詳しく聞かんとなあ? おい、どうだったんだ」

 アレクセイはグリューネヴァルトの屋敷で、初めて彼女に口づけた時のことを思い出していた。壊してしまいそうで触れるのが怖かった。やはりやってもいないことを「自白」するのは難しかった。アレクセイが黙ったままだったので、アバクーモフはにやにや笑いをやめた。

「ふうむ、では米軍タバコやらその他物資をなぜ与えた? 脅せば無料でやれる相手にそんなものを渡す必要はなかろう」

「……さすがにいつまでも強迫するのは私も良心が咎めたので、口止め料と謝礼を渡したまでです。罰はすべて私が受けます。彼女と子供、同居人らを解放してやってください。あの人たちはソビエトに反抗する分子ではない。ただの小市民、敗戦国の弱き民です」

 アレクセイは自分が吐いたあまりに下卑た嘘にうなだれた。手を触れることも出来ず、大切にしてきたエリザベート、そんな彼女を暴力的に犯したなど、認めたくはなかった。眼鏡の男が口を出した。

「同志ジューコフ中佐、このままでは、不名誉な罪であなた一人が軍法会議にかけられ、労働収容所送りになりますよ。憲兵隊とは皆に規則を守らせる側の人間です。一般の兵卒の罪よりも重くなります」

「……構いません。もとより覚悟の上です」

 そうだ、俺はずっとこんな日が来ることはわかっていたんだ。わかっていて、考えないようにしていた。エリザベートと1日でも長く一緒にいたかったから……

「あなたは一人ですべての責めを負うほど、あの女性を愛しているのですね」

「……先ほど話したように、私と彼女の関係は最初は強姦、今は物資と肉体の交換にすぎません。私に愛などありません。単なる性欲の捌け口です」


 アバクーモフはうーんと言って、体をそらせ、いじの悪い笑みを浮かべた。

「おいミーシャ、女のほうにもう一回聞いてみるか。ジューコフ中佐はこう言っているってな。どう反応するだろうか楽しみだな」

 アレクセイはそれだけはやめてくれ、というように懇願した。

「同志大臣、お願いします。彼女は一般人です。ここの尋問には耐えられない。解放してやってください。お願いだから、彼女を傷つけないでやってください……」

 アバクーモフは、バン、と音を立てて机を叩いた。

「お前なあ、言動が矛盾してんだよ。その程度の関係の女をなぜここまで庇う? それにな、わざわざベルリンくんだりまで来て、お前を軍法会議にかけて俺に何の得があるってんだ。俺は自分に得になることしかせんぞ」

 そうだ、この男はなぜこんなところまで来たのだろう。アバクーモフの目的は最初から俺をMGBに入れることだった? それだけのために来た? いや、MGBに入れるだけじゃない。どんな命令でも聞き、決して裏切らない駒にしたいんだ。この男はその交渉のためにわざわざここまでやってきたんだ。エリザベートのことを調べ上げたあげくに……

「同志大臣閣下、それならあなたのご命令に従います、何なりとお命じください。異動でも、任務でも……」

 アバクーモフはふん、と鼻をならして笑った。

「ようやく話が進んできたな。それなら俺も悪魔ではないので、いいことを教えてやろう。彼女が往来でもめていた理由を。ほかの連中は西側へ行こうとしていた。だが彼女だけは最初から行く気はなかった。女中に託した鞄には元夫の遺品と兄への手紙が入っていた。はじめから鞄だけを託して、自分だけ境界線直前で離脱するつもりだったようだな。これは家庭教師と女中の供述と合致している」

 アバクーモフはエリザベートが兄へしたためた手紙をアレクセイに渡した。


『愛するオスカーお兄様へ

私たちに助けの手を差しのべてくださり、ありがとうございます。エドゥアルトの教育については、自由な西側のほうがよいと私も思います。ジークフリートも自分が卒業した、ミュンヘンのギムナジウムへ進学させたがっていました。しかしながら、今の私にはあの学校の学費を負担することはできません。アッシェンバッハ様は私とジークフリートとの結婚に反対されましたが、こうしてエドゥアルトの養育をお引き受けくださるよう、お兄様とお話いただいたこと、感謝の念に堪えません。ギゼラとフリーダの雇用のこともありがとうございます。ギゼラの子カールにも、エドゥアルトと同様に、本人の希望に沿った教育をお授けください。


しかしながら、愛するオスカーお兄様、私は一人この地に留まりとうございます。お兄様は私の置かれた境遇を憐れむと同時に、私とあの方の関係を生理的嫌悪感のある関係性だとお書きになりました。お兄様、誰にご理解していただけなくとも、私はあの方の側で幸せなのです。心からあの方を愛しています。あの方と一緒にいたいのです。たとえあの方が明日帰国し、もう二度と会えなくなるとしても、今日という1日をあの方と共に過ごしたい。それが私の望みです。それ以外は何も望みません。


ジークフリートの制服と私たちの結婚写真、結婚指輪を入れておきます。これは私の過去と夫ジークフリートとの決別です。しかしながら、エドゥアルトにとっては父親です。戦争犯罪人と言われようが、ジークフリートはりっぱな家庭人であり父親であったことを伝えてやってください。

あなたの妹 エリザベート』


「感動的な手紙だ、いや、実に。俺は涙が出たぞ。東側を愛してくれてありがとうって感じだ」

 アバクーモフはわざとらしく、涙を拭くふりをした。だが、アレクセイの目にも耳にも入らなかった。彼の心はエリザベートがここに残ろうとしてくれたということで占められていた。

「ここに書いてある『あの方』ってのはお前のことなんだな」

「……」

「元使用人らの供述によると、お前は彼女を強姦したんじゃなくて、乱暴な兵士からすんでのところで助けたそうじゃないか。アメリカ人の好きなヒーローってのになった気分だったのか」


 愛するリーザはこちら側に残ろうとしてくれていた。俺のために。俺と一緒にいたいと書いてある、それだけのために。アレクセイは自分の手に、自分の涙が落ちるのを感じた。泣いている、この俺が? 心からあの方を愛しています、あの方と一緒にいたい……リーザはそう書いてくれた。俺はずっとずっとリーザの心が欲しかった。今リーザはジークフリートと決別し、俺を選んでくれたのだ。

「泣いているのか、アレクセイ・ペトローヴィチ。ようやくお前の本心が聞けそうだな、望みは何だ」

 ああ、アバクーモフの尋問はとんでもない。いったん人を谷底へ落としてから手を差し伸べるのだ。親し気な呼び方までして。これではたいていの人間は陥落してしまうだろう。肉体的な拷問よりも精神的な拷問はきつい。アレクセイはアバクーモフの手腕にも感心したが、自分の心を占める甘美な幸福感に酔いしれていた。

「……私の望みはただ一つ、彼女と並んで陽光輝く中歩くことです」

「詩人のような表現ですね」

 眼鏡が感心して言った。

「ではさっき言った『物資と肉体の交換関係』というのは嘘だと認めるのか」

「認めます。私はエリザベート・フォン・リヒテンラーデを愛しています」

「彼女と結婚して家庭を持つことを望むのか」

「はい。愛するエリザベートと婚姻の許可を得て、世間に認められた家庭を持ちたいと思います。彼女は、息子や西側の豊かな生活を捨てて私のそばに残ることを選んでくれました。私は、この愛の献身に報い、二度と彼女を孤独にしないことを望みます。そして、家庭を持つという安定をもって、体制の安定を揺るがすことのないよう、軍務に一層専念し、いかなる反動分子の動きも許さない忠実な工作員として奉仕することをお誓いします。私の今後の人生はすべて、同志アバクーモフ閣下とソビエト連邦に捧げます」

 これでどうだ、アバクーモフ! これがお前の望んだ理想的な答えだろう。お前は俺の忠誠を手に入れたくて、計画的にエリザベートを人質にすべく調べ上げ、最も効果的な場面で俺の前にぶらさげてきたんだ。望み通り従ってやろうではないか。アレクセイはまっすぐ、じっとアバクーモフの目を見つめた。アバクーモフは不敵に笑った。

「ははははは、素晴らしいよ、同志ジューコフ中佐、俺は素晴らしい部下を得て、お前は彼女と結婚できる。双方に利益のあるいい取引だ。ようし、後は女のほうだ。ミーシャ、来い」

「もう話はついたじゃありませんか。女性のほうにまだ尋問する必要がありますか?」

「あの元親衛隊中佐夫人は、やりようによっちゃあ、かなりの価値のある人質になるぞ」

 眼鏡のほうはまた部屋を移動させられるのが面倒そうである。

「これ以上彼女を尋問するのはやめてやってください。どうかエリザベートに会わせてください」

 アレクセイは精いっぱいの声を出した。

「連れてきてやるから、待ってろ」

 アバクーモフは上機嫌でドアから出て行った。


 アバクーモフの去ったドアをアレクセイはじっと見ていた。聞き違いではないのか? 結婚できると言った? 俺は彼女と結婚できるのか? いったいどうやって? 世間に認められた夫婦として、一緒に道を歩き、公園のベンチで休み、そして子供……リーザとの間に子供ができることは、性的関係があるのだ、常に想像していたことだった。アレクセイはエドゥアルトのこともとてもかわいがっていた。自分の子でなくとも、あれほどかわいいのだ。実子であればどれほどかわいいだろう。エリザベートがいつの日か俺の子を産む……子供が生まれたら、学校行事に夫婦で参加できるような、そんな当たり前の日々を送れるのか? ああ、それなら、それが叶うならば、どんな任務にも耐えられるだろう。

 それにしても、こんなまどろっこしいことをしてまでアバクーモフが俺にさせたい任務とは何だ? エリザベートに危険はないのだろうか。一緒にいられるのだろうか。考えなければならないことが多すぎて、アレクセイは頭がぐるぐる回ってしまっていた。





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