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2 侵略者

 乱暴なノックを聞き、屋敷の人々は玄関ホール横の図書室に全員で固まっていた。皆、何もしゃべらなかった。かねてから申し合わせ練習していた通り、カウフマンとテレジアが応対に出た。カーキ色の見慣れない制服の男たちが数人玄関に足を踏み入れ、その豪華さに息をのんだ。

「ここにはドイツ兵はいるか?」

 一人がロシア訛りのドイツ語でそう聞いた。

「いいえ、ここには女子供と老人しかいません」

 カウフマンがそう言うと、赤軍の一団は何も言わずに立ち去った。何も取られず、何も壊されず、誰も暴力を受けなかった。エリザベートはこの様子を図書室と玄関ホールの間の壁の影から見ていた。異国の兵士たちは顔色もよく、ドイツ人たちよりもよほど栄養状態がよさそうだった。しばしの静寂後、カウフマンが膝から崩れ落ち、「ああ、よかった」と腹から声を絞り出した。人々は安心して歓喜した。なんだ、よかった。全然ひどい連中ではなかったではないか。言葉が通じた。彼らはちゃんとドイツ語を話してこちらと意思疎通をはかってくれた。よくよく考えれば、20世紀半ばにもなって非戦闘員に手を出すなんていうことをするはずがない。ちゃんと国際法があるのだ。おそらくあの伝わってきた噂は、ちょっとしたトラブルがおおげさに言いふらされただけなのだろう。「この半年間の私の取越苦労を返してほしいわ」ヒルデガルトはそう言って泣き笑いをしていた。

「せっかくみんなでロシア語の練習までしてたのにね」

 エリザベートはそう言ってギゼラと顔を見合わせた。少女時代の家庭教師はロシア革命からの亡命貴族だったので、彼女はロシア語がある程度理解でき、みんなに教えていたのだ。


だが、当然のごとくそれで済むはずはなかったのだ。しばらく戦車隊の進軍が続いた後、またノックがあった。ドイツ人たちはまた同じことを聞かれ、すぐ帰ってくれるだろうと油断して普通にドアを開けたのである。カウフマンを突き飛ばして玄関を乱入してきた一団はまずホールのチェコ製のシャンデリア(おそらくこの兵士の年収では買えない)に向けて銃をぶっぱなして落としてしまった。ヒルデガルトは酔った兵士に抱きつかれて金きり声をあげ、エリザベートの前に立ちふさがった執事が殴られて気を失うと、彼女は恐怖のあまりもう声もでなかった。大きな自動小銃を持った若い男は酒にふらつく足取りでエリザベートに近づき、にやにや笑いながら銃口を彼女につきつけ、「フラウ、コム!(女、来いの意)」と片言のドイツ語で言った。抵抗して殺されるか、あきらめてこの兵士たちに犯されるか、その選択を迫るように若い兵士は銃をおもちゃにしていた。誰かの叫び声がしたが、それが自分のものとは分からなかった。機械油と垢の混じったひどい臭いがした。酒臭い息が顔にかかり、思わず相手の顔を押し返すと、平手打ちにされた。男が体重をかけるので彼女は身動きままならなかったが、突然ふいに体が軽くなった。ロシア語で怒鳴り声が聞こえ、彼女を犯そうとしていた兵士は殴られて壁にふっとばされていた。

 一瞬何が起こったのか分からなかったが、エリザベートはすぐに上体を起こした。ヒルデガルトを二人かかりで押さえつけ、今まさにベルトをはずそうとしていた兵士らもあっけにとられてこちらを見ていた。玄関ホールの中央には明らかに乱暴者の兵卒たちとは違う様子の「将校たち」が立っていた。制服の汚れ具合や目つきまでが違うので全く違う人種に見えた。将校は何人かの部下をつれていたが、その誰もが厳しい規律に従っているように見えた。リーダー格の将校は背が高く、黒い髪に黒い瞳をしているせいか、スラヴ系の顔立ちにもかかわらずどこか東洋的な雰囲気を感じさせた。この男たちのうち2人は白地に赤でBKと書いた腕章をしていた。

エリザベートを襲おうとした兵士はなおもこの腕章の男に食ってかかり、あろうことか殴りかかろうとした。腕章をした将校は警棒を抜き、男を殴りつけた。「このゴロツキめが! スターリンの布告を忘れたか!」兵士は顔を両腕で覆い、悲鳴を上げた。さらに長靴で背中に蹴りを入れて踏みつけにし、左腕を逆方向にねじられたので兵士は泣き声になった。「こんなところで油を売っている場合か! 第一ベラルーシ軍に後れを取るぞ!急がんか」

 死んでしまう、とエリザベートは思い、「あの、もういいです、もうやめては」と思ったが声が出なかった。その後また違う一団が入ってきて無法者の汚い兵士たちがつれて行かれてしまい、玄関ホールには黒髪の将校と彼の連れてきた数人だけが残っていた。


 腕章をした黒髪の将校はゆっくりとこちらに向き直り、エリザベートに手を差し伸べた。

「大丈夫ですか、お嬢さん」

エリザベートは彼の手を取って立ち上がった。まるでダンスを申し込まれた時のように、反射的な対応だった。そして彼女は言いなれた自己紹介をした。

「私はリヒテンラーデ伯爵夫人です」

敵の将校は敬礼し、

「アレクセイ・ペトローヴィチ・ジューコフ少佐です。部隊の者が失礼を働き、申し訳ありませんでした」

きれいなドイツ語だった。そして彼ははっとしたように目をそらした。ここで初めてエリザベートはブラウスが破られて肌着が丸見えになっていることに気が付いた。ジューコフ少佐と名乗った男がコートを脱ぎ、渡してくれたのでそれで胸元を隠した。

ようやく意識を取り戻した執事がコックに支えられながら立ち上がり、

「ジューコフって総司令官の……?」と聞いた。

「ドイツの一般市民にも偉大なる元帥、同志ジューコフの名は知られていますか? ゲオルギー・ジューコフ元帥は私ではありません。私は元帥とは遠縁の関係なので同じ姓を名乗っています。私自身はイワン・コーネフ将軍指揮下の第一ウクライナ方面軍に所属していて、軍隊内部の規律保持と占領地の秩序維持を担当する憲兵です」

ジューコフ少佐はそう流ちょうなドイツ語で説明した。

彼らは屋敷を見渡したり指差したりしながら何かロシア語で話していた。エリザベートは執事に命じ、彼らにお茶を出すように取り計らい、自分は服を着替えに自室へいったん戻った。

「リヒテンラーデ夫人……あの人たち私たちをどうするつもりでしょう」

 同様に服を破られたヒルデガルトと、着替えを手伝おうとテレジアとフリーダが大階段を一緒に昇ってきていた。17歳のヒルデガルトはおびえていた。未婚の生娘にとって未遂に終わったとはいえこのような経験はどれほどの心の傷を残すのだろうと思ったが、エリザベートはそれに対しては何も答えなかった。混乱して自分が今おかれている状況がよく把握できなかった。このドイツ第三帝国の偉大なる帝都ベルリンに本当にソ連軍がやってきたのだ。信じられなかった。彼女は服と髪を整えたが、殴られた時に唇の端が切れてしまったのはどうしようもなかった。頬も赤くなっていた。悔しさと情けなさでエリザベートは鏡の中の自分をにらみつけた。今になってから涙がぼろぼろとあふれてきた。怒りと恐怖で体が震え、歯がガチガチ言うのがなかなか止まらなかった。あの兵士はまだ子供のような顔をしていた。まだ十代後半のこども……こどもが武器を持ち、酒を飲み、自分の上に馬乗りになってなぐりかかってきたのだ。信じられなかった。なぜ女には男のような腕力がないのだろう。ああ、もし自分にサムソンのような怪力があればあんな連中全員殴り殺してやるのに、と彼女は考えた。

「奥様、このコートですが、袖のところがひどいつけ方ですね」

 テレジアに指摘されてエリザベートはジューコフ少佐が貸してくれたコートのことを思い出した。右袖はちゃんとミシンで縫ってあるのに、左袖は手縫いでガタガタに縫ってある。おそらく戦闘中に取れてしまい、自分か従卒が縫ったのだろう。

「既製品ね、これ」

 エリザベートは他国の将校をバカにしたように吐き捨てた。ドイツ帝国では将校は自前でオーダーメイドで制服をあつらえていた。ああ、ジークフリートの制服姿のすばらしかったこと。

少なくともこの時点では「あの礼儀正しい人たちはお茶を飲んだら帰ってもらおう」とエリザベートは考えていた。しかし、事態は彼女の考えとは違った方向に進んでいた。彼女が階段を下りていくと足音を聞きつけて執事のカウフマンが応接室から出てきた。

「奥様、あの憲兵少佐はこの屋敷を接収したいと言ってきています」

「接収?」

「軍隊用語で占領地の家屋を借り上げるという意味です。通常居住者は追い出されますが、ここは広いので一部でいいそうです」

エリザベートは執事の言葉に「まるで接収とやらを歓迎する気だろうか」と腹立たしく感じた。

「あなたはドイツ帝国の貴族の邸にボリシェビキを住まわせようというの?」

しかし執事は女主人の言葉に対し、一歩も引かなかった。

「奥様、敵とはいえあのジューコフ少佐は少なくとも紳士であると見受けられます。赤軍に屋敷と森を使わせるかわりに、私たちの身の安全を保証させてください。ああ、奥様、あなたは『伯爵夫人』だなんて自己紹介するなんて……ロシアは皇帝を銃殺して貴族を追い出した野蛮な国なんですよ。貴族に対してどういう感情を抱いているか……接収を断ることはできませんが、もし出来たとしても、さっきの乱暴者のような連中が毎晩来るかもしれません。奥様、あなたのような若い女性が、戦争に負けた国の女性が古今東西どういう目に合わされてきたものなのか想像してください」

執事の言葉にエリザベートはぞっとした。あの少佐はその気になれば彼女に襲いかかった兵士を押しのけて、彼自身が「先にその続き」をすることくらいわけがなかったのだ。戦車部隊を指揮し、自動小銃を持っている敵に襲われても、自分たちにはどうすることもできないという無力感が情けなかった。どんな扱いをされても、たとえ殺されても、犯人は処罰もされないし、自分たちが訴えていく場所すらもないのだ。しかしあの少佐はそんなことをせず、助けてくれた。それに彼は総司令官と遠縁だと言った。そういう権力のある人間と知己になっておいて損はあるまい。彼女は腹のなかでそんな風に打算的なことを黒々と考えた。

 ドイツ人たちは図書室と玄関を挟んで反対側にある続き間のサロンに座っていた。エリザベートはそこにヒルデガルトを合流させ、カウフマンとテレジアと一緒に正餐用のダイニングルームへ向かった。ジューコフ少佐たちはダイニングテーブルの片側に並んで座っていた。テーブルの上にはカウフマンが出したのであろう、屋敷の図面が広げられていた。3人の将校は皆、アイロンの当たった清潔な制服を着ており、ピカピカに磨き上げたブーツをはき、鬚をきれいに剃っていた。エリザベートがテーブルに近づくと彼らは立ち上がり、改めてあいさつをした。先ほどの乱暴で無作法な汚らしい犯罪者たちと目の前の礼儀正しい将校たちを比較してしまい、同じ軍隊の中にこれほどまでの多様な人材が存在することに彼女は困惑してしまった。アレクセイ・ペトローヴィチ・ジューコフ憲兵隊少佐に続き、アンドレイ・コンスタンチノヴィチ・ミハイロフ陸軍少佐とピョートル・ニコラエヴィチ・セミョノフスキー憲兵中尉も自己紹介した。彼らの国の、苗字と名前の間に父の名をミドルネームとして称するというやり方は聞いてはいたが、実際に耳にするととても覚えられないほどの長さにも思えた。彼女の表情からそれを察したのか、ジューコフ少佐は

「ファーストネームで呼んでもらっていいですよ。私はアレクセイです」

と言った。エリザベートはさすがにそれは遠慮しておいて、必死で彼らの姓と階級だけでも覚えようと心の中で復唱した。

 テレジアの手で、借りていたコートを返すと、アレクセイは着用した。左腕を通す時に、「イテテ」と小さな声で顔をしかめた。「さっき荒く縫ってあったところだ、この人は左肩か腕を負傷しているのだろうか」とエリザベートは思ったが、まあ私には関係ないことだわと思い直し、「ソ連という国は革命で皇帝と貴族を滅ぼしたと聞いていたけれど、この少佐たちは身のこなしも紳士的だし、言葉遣いもきれいだし、そう悪い人には見えないわ」

エリザベートは紅茶を飲みながら考えた。

「この屋敷の1階は憲兵隊の事務所にし、2階を将校用の宿舎にします」「あとはケガをしている兵士と女性兵士の休憩所も作ります」「2階の玄関吹き抜けから向かって左側にある客間ゾーンはすべて接収します。そこを使っている人たちは右側の家族ゾーンに住んでください」

 その時、ドイツ人たちはこのドイツ=ロシア会談に聞き耳を立てていたのだろう、アイスマン夫人の「んまあ、私たちに客間を出ていけですって!」という声が聞こえた。あの人はいつも自分のことが第一だ、エリザベートはまたイライラしてきた。ソ連軍による一方的な通告よりも居候に対して腹をたてるなんて、自分は心が狭いのだろうか。エドゥアルトとカールが心配なのだろう、ひょっこり顔をのぞかせたので、ロシア人たちは

「やあ、かわいい子供たちだ、おいでよ」

と、満面の笑顔を見せた。アレクセイは子供たちにお菓子の袋を見せた。そして安心させるように自分がその中から一つ口に入れ、再度勧めた。子供たちは喜んでお菓子を手に取り、またサロンのほうへ戻った。それを見てエリザベートは敵意をそがれてしまった。「ジークフリートと同じくらいの年だろうか。それにしてもこの年齢で少佐っていうことは士官学校か陸軍大学校をいい成績で出ているはずだわ」と彼女は考えた。貴族の出身ではないだろうが、屋敷に住まわせてもそう不愉快な相手ではなさそうだ。

「さっきのような乱暴なことは二度と起こらないって約束してくださいますか?」

エリザベートはできるだけ伯爵夫人としての威厳を持って言った。

「ここには見てのとおり、年寄りと女子供しかおりません。ドイツ軍は隠れてなんかいません。私の夫は市内で働いておりますが、連絡がつかなくなっており、ここにはいません」

 アレクセイは落ち着いた瞳で彼女を見た。エリザベートはなんだか自分が一方的にとげとげしい態度をしているようで、気恥ずかしくなってきた。

「もちろんお約束します。屋敷に足を踏み入れるのは女性兵士と、将校かあるいは下士官までとしますので、みな規律を守るはずです。決められた範囲以外は立ち入りしませんし、お屋敷の方々への接触も禁止します。接収のお礼として食糧をお分けします」

 安全と食糧! それは今のエリザベートにとって何より必要なものだった。焼け出された居候の家族とその使用人たちがリヒテンラーデ邸に居候していたので、食べさせなければならない人数は多かった。配給切符はジークフリートの権力でかなり一般市民よりも優遇されており、毎日使用人たちが受け取りに行っていたがとても足りる量ではなかったし、もう今後はドイツ政府による配給はないだろう。屋敷の貯蔵庫にあるじゃがいもも黒パンもソーセージも底をつきかけていた。このままでは成長期にある子供たちの身長が伸びないのではないかと心配していたところだった。

 屋敷の図面を見ながらあわただしく部屋割りが決められ、ピョートルという中尉が隊の方へ伝令に走らされた。3人の中では彼が一番若くて階級が下なのだ。これまでリヒテンラーデ邸の豪華な客室にゆったりと滞在していたランバッハ家とアイスマン家の人々は大急ぎで客間を明け渡す必要に迫られた。たとえそこにいてもいいと言われても、隣の部屋にソ連軍が滞在するとなっては、彼らとしては納屋のほうがましだっただろう。居候たちは家族用のウィングの学習室や音楽室などに寝具を運び込んだ。

 やがてロシア人の将校の一団が現れ、玄関ホールで屋敷のりっぱさに驚嘆した顔をしてみせ、ホールの階段を汚れたブーツのまま駆け上がって行った。屋敷の前庭にも兵卒がいっぱい集まっていた。ジューコフ少佐の言ったとおり、屋根のあるところにはちょっと階級が上の人間しか入れない規則のようだった。けれど将校だからといって西欧のような騎士道精神やプロイセンの鉄の軍律が通用するのだろうか。エリザベートは玄関ホールの角に立って、自分の「城」が敵に占領されるのを見ていた。彼らがロウソクを持ち込んであちこちの蜀台にともしたおかげでホールは明るくなってきていた。さっき落とされたチェコ製のシャンデリアが割れて床にちらばり、幻想的に輝いていた。彼女はこの屋敷を改修した際、なかなか気に入るシャンデリアが見つからずにいろいろと見て回ったことを思い出した。ロシア人たちが大階段を上がって、廊下を左に曲がっているのが見えた。客用のゾーンはあちらなのだ。客用の大きな広間、舞踏室、音楽室、そして多くの寝室。ジークフリートの上司を家に招いた時、エリザベートは心をこめて客用寝室の準備をしたものだった。マイセンの置物やバカラの灰皿は壊されるか持ち去られてしまうことだろう。「コンニチハ」と明るい声で女性士官のグループが笑いながらサロンのほうへ通り過ぎていった。「奥様、お邪魔します」と馬鹿丁寧な社交界式のお辞儀をする将校もいた。彼らは自分をばかにしているのだ。「敗戦」という苦々しい言葉の響きが彼女の心をかけめぐった。この戦争には負けるのだ。敵は自分の家を占領し、嘲笑い、見下しているのだ。

どこへいっても大切に扱われ、敬われる生活に慣れていたエリザベートはこれから始まるであろう苦難の日々を考えると気が狂いそうになってきた。これが何週間、いや何年も続くのだろうか。ドイツはロシアの植民地になってしまうのだろうか。それともソ連邦を構成する一つの共和国になる? 彼女は子供の手を強く握りしめた。そんなわけにはいかない。この子たちはドイツの子なのだ。

「奥様、あとは私たちが彼らと話をいたします。どうか坊ちゃまたちとお部屋へお戻りください」

 執事カウフマンと夫人のテレジアが言った。二人とも実家から彼女の結婚に際して移ってきてくれた古参の使用人で家の中のことについては若いエリザベート奥様よりも発言権が強かった。しかしエリザベートは今回ばかりは二人の意見を受け入れなかった。自分には何の力もなくても彼らとの交渉には立ち会いたいと思った。

「ママ、どしたの」

 エリザベートは子供と目線を合わせるためにしゃがみこんだ。長男エドゥアルトには不安な表情のなかに興奮が見て取れた。何のイベントもない日々が続く中、いきなり大勢の他人が我が家になだれこんできたのだ。パーティーか何かが始まったと思っているのだろうか。

「大丈夫よ」

 父親が留守の今、この子を守るのは自分しかいない、とエリザベートは金髪の少年を抱きしめた。

 その時、まるで新年のパーティーのカウントダウンが終わった瞬間のように家の中の電気が一斉についた。何日もの間、ろうそくとランプの明かりだけで生活してきたドイツ人たちにはこの文明の利器にまぶしくて目をあけられなかった。

 ジューコフ少佐が何人かの士官とともにホールに入ってきた。

「発電車と給水車を家につないでみました。家の設備はどこも壊れてないのに電気と水道が通じないのは市内のどこかで線が切れているだけです。戦闘が終わったら真っ先に復旧させますが、とりあえずはこれでしのげるでしょう」

 そっちの爆撃で送電線や水道管が壊れたのだから、当たり前だとエリザベートは頭にきた。しかし今日からは水を二階に運んだり、わずかな水で体を洗ったりする生活から脱出できる喜びのほうが大きかった。この家には最新のセントラルヒーティングが備わっているのだ。暖かいシャワーだって浴びられる。

「さて」

 ジューコフ少佐はしゃがみこんで子どもの頬をつついた。

「君たちはちょっとあっちで遊んでおいで。おじさんは君らのお母さんと少し話があるからね」

 子どもたちはその言葉に素直に従い、養育係のギゼラとともに子供部屋のある右側のウィングへと向かった。エリザベートは少々驚いた気持でそれを見ていた。あの子たちったらいつもは中々言うことを聞かないのに。

「あの子たちはあなたの子なのですか?」

エリザベートはジューコフ少佐の問いに対し、「金髪のほうはそうです」と短く答えた。そして「私が若いから、伯爵夫人らしく見えないって思っているのだろうか。あるいは、本当は貴族の生まれではないことを察しているのだろうか、まさか」とむかむかしてきた。「助け起こす時にフロイライン(お嬢さん)なんて言われてしまった」彼女は考えた。きっとこの男は私のことをドイツのバカな小娘くらいに思っているのだろう。


 アレクセイ、アンドレイ、ピョートルの3人とエリザベートとカウフマンは再び客用ダイニングの食卓につき、家の図面を見ながら話した。正面の正式な玄関から続くパーティー用のホールや大広間などに続き、左側の客用寝室などはすべてロシアの占領地となった。その代わり2階右側の家族用のウィングと地下の使用人部屋へはロシア人は立ち入り禁止にし、通路には歩哨を配置するという。どの部屋をどういう風に使うかについて、ジューコフ少佐は「……という感じにしたいと思いますが、いかがでしょう」と、いちいちこちらの許可が必要とでもいうかのような表現をした。この状況の力関係ではどこをどう使われようと破壊されようとこちらには何も言う権利はないので、不思議な感じだった。アレクセイが顔をあげてエリザベートの方を向き直り、彼の大きな黒い瞳で見つめられるたび、エリザベートはどぎまぎしていた。彼の黒い瞳には何かはかりしれない大地の強い力がやどっているように感じてしまっている。

 台所のほうから叫び声と銃声が上がり、ジューコフ少佐は「ちょっと失礼」と言って、ダイニングを走り出て行ってしまった。ピョートルとカウフマンもそれに続いたので、テーブルにはアンドレイとエリザベートだけが残された。

「奥さん、フランス語は話せますか」

「え、ええ」

 唐突にフランス語で話しかけられ、エリザベートはびっくりした。アンドレイが言うには彼自身は帝政期のインテリ階級の出身で、幼いころには住み込みのフランス語の家庭教師がいたという。エリザベートは自分の家庭教師だったロシア貴族の夫人がフランス語も堪能だったことを思い出した。ロシア宮廷ではフランス語で話すのだ。

「自分はどうもドイツ語が苦手で……ジューコフ少佐は本当に上手です。それにしてもりっぱなお屋敷ですね。空爆の被害もなく、奇跡的だ。こんなに広いと使っていない部屋ばかりなのではないですか」

 そういえばこの屋敷にはいったいいくつ部屋があるのだろう、とエリザベートは考えた。数えてみたこともなかった。

「客用寝室はお客様のあるときにしか使いません。家族用の部分だけでも十分生活はできますわ」

「子どもたちはあなたと同じ部屋なのですか?」

「いいえ。私の子は養育係のギゼラと、彼女の子と一緒に子ども部屋で寝ています。」

 エリザベートは子供部屋を図面で指差した。

「たくさん使用人がいるんですね。さっきの執事なんかは普段どこにいるのですか?」

「執事には執務室もあるし、夜は地下に自室があります。他の使用人も同じく地下に部屋があります」

 大食堂があるゾーンから廊下を経て使用人の地下室へ続くあたりを彼女は指でなぞった。

「あなたのお部屋はここ?」

「そこは私が仕立て屋と会う着付け室で、私と夫はこの寝室を使っています」

 話の流れから自然に彼女は自分の部屋を教えてしまった。そしてすぐ「しまった」と後悔した。そこへジューコフ少佐とセミョノフスキー中尉、カウフマンも戻ってきた。カウフマンは非常にがっかりしていた。

「部隊の連中が裏庭で見つけたヤギを射殺したようでした」

「ヤギを殺したんですか?!」

 エリザベートは思わず大声を上げた。ジューコフがびっくりしたような顔をした。

「いや、今日の夕食にしようかと思ったらしくて」

「食糧を分けてくれるのではなかったのですか?」

「我々もそう潤沢に持っているわけではありません。後続の補給部隊が来るまでは手持ちの食糧だけでしのぐことになりますので、このお屋敷の食材も使わせてもらいます」

 そんな・・・とエリザベートはがっかりした。こんな大勢の兵隊たちがいれば、ヤギ一匹くらいペロッとたいらげてしまうだろう。そして、もうミルクは飲めないのだ。泣きそうになってきた。子供たちの身長はどうしてくれるのだ。

「いや、すみません・・・補給が来たら弁償はしたいと思いますので」

 ジューコフ少佐は申し訳なさそうに言った。おそらく少佐はまたさっきのような乱暴事件かと思い、飛んでいったのだろう、とエリザベートは解釈した。なんとなくアンドレイが軟派で洗練された貴族的なプレイボーイに感じるのに対し、アレクセイは堅そうで実直な軍人という印象を受ける。

 アレクセイ・ジューコフが席に着く時、アンドレイ・ミハイロフがにやっと笑って小声で言った。

「聞いといてやったよ」

「何を」

「彼女の部屋。二階の奥の東側」

 アンドレイは図面を指差した。ロシア語のスラングでこそこそ話しているので細かいところは理解できなかったが、アンドレイのしぐさからエリザベートには彼らが自分の部屋のことを話しているのを悟り、胸が悪くなった。

「ふざけるんじゃない」

 ジューコフ少佐はアンドレイをにらみつけた。

「おせっかいがすぎましたか? 同志少佐殿」

 少佐はアンドレイを無視して、表情を正し、エリザベートに目を向けた。

「とりあえずお約束の食糧をいくらか台所に運んでおきました。私たちの食べる分は大きい方の台所をお借りしてこちらで調理いたしますので、今回運んだ分はご家族の方でご自由にお使い下さい。足りないものがあれば遠慮なく言ってください」

 何と言えばいいのか判断つきかねたが、エリザベートはとりあえず礼を述べた。夕食のヤギ肉のシチューはドイツ人たちにも分け前が配られた。非常に複雑な思いでドイツ人たちは黙ってスプーンを運んだ。だが、これまでも子ヤギを一頭殺して母ヤギのミルクでチーズを作ったりしていたのだ。(チーズ作りには子ヤギの胃が必要)

 その夜エリザベートは自室のドアの前にイスを何脚か置き、その上にワイングラスをいくつも並べた。こうしておけば彼らが忍び込んで来ても物音がしてすぐに気付くだろう。彼女はベッドで眠ることすら恐ろしく、クローゼットの中に布団を持ち込んでくるまって眠った。


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