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11 あなたが好きです

 6月のある日、代々リヒテンラーデ伯爵家の財産を管理してきたシュミット弁護士が訪ねてきて、執事カウフマンも交えて話し合い、彼女は結婚して初めて資産の状況を理解した。エリザベートの結婚の際の持参金の大部分はこの館を改修するのに使ってしまっていたので、この家は結婚の際に実家から譲られたベルリンのフリードリヒスハイン区にある賃貸アパートからの家賃とジークフリートの俸給、実家からの援助の3つを合算して運営されていた。このうち後者の二つが永久に途絶えてしまった。賃貸アパートも大通りに面していたせいで、早々にソ連軍に接収されてしまったらしい。銀行預金も出金制限がかかっていた。

「ともかく収入が減る、いえ、なくなったのですから、これまでのような生活はできません」

 執事カウフマンが言った。

「私を含めて全使用人を解雇してください」

 エリザベートは驚いて異をとなえた。

「何言ってるの、カウフマン、そんなことしたら私たちはどうやって生活するの。召使がいなければこんなに広い家は管理できないわ。手伝ってもらわないと着られないドレスだってたくさんあるのよ」

「これからはご自身のできる範囲で生活をしてください。ほとんどの市民の家庭では使用人はおりません。使用人に手伝わせないと着用できないようなドレスを着てどこに行かれるというのですか。年に何度も来ない客のために毎日客用寝室や舞踏室を掃除する必要がどこにあります」

 カウフマンに続き、シュミット弁護士もまた

「財産の管理は今後ご自身で行ってください。私に支払う経費も相当なものです。削れるところは削ってください。何か法律的な問題が起こりましたら、その時はもちろんお力になりますが……」

と言った。これからはすべてが自分の肩にのしかかってくるのだ。今までエリザベートは独身時代には両親、結婚してからはジークフリートの傘の下にいた。良家の令嬢として、あるいは奥方として「難しいことは何も考えなくてよい、殿方には従順であれ」という風潮の中にいた。それなのに世の中は手のひらを返したように彼女に「自分の頭で考えろ」とか「自分で生活費を稼いで来い」というのだろうか。使用人の給与計算や税金のことなど、エリザベートは一切気にしたこともなかった。独身時代に必死に覚えたフランス語やダンス、結婚してからお遊びで通った大学やらバイオリン演奏は一体なんだったのだろう。そんなことをする暇があるなら、タイピングの一つでも勉強していればよかっただろうに。

 やむなくエリザベートは全使用人の解雇に同意した。一人ひとりに対して故郷に戻れるだけの鉄道運賃といくらか割り増しした最期の給料を渡した。そして最低限必要な部分を除いて屋敷の大部分を閉鎖した。1年もすれば以前のように荒れ果ててしまうだろう。4月の終わりから彼女の家を占領していた赤軍の大半はすでに屋敷を出て行き、街の中に宿舎を構えていた。アレクセイはホテル住まいになったと言っていた。6月に入ると占領地運営が本格的に始まったので彼も忙しいらしく、あまりこちらには戻ってこなくなった。ただ、ソ連軍憲兵事務所グリューネヴァルト地区だけはまだ置いてくれていた。ソ連軍の旗と看板がかかっているだけでここは安全なのだ。

 このまま収入がなくなれば数年後には固定資産税が払えずに差し押さえられてしまうかもしれない。だがジークフリートの留守中に勝手に屋敷を売ったり貸したりすることはできないと彼女は考えていた。ここはリヒテンラーデ伯爵家の世襲財産なのだから。次代の伯爵位を継ぐエドゥアルトに渡さなければならない大切な財産なのだ。


 そうはいってもジークフリートの生きている証は何一つなかった。アレクセイと一緒に市街地に足を踏み入れたあの日々のことは忘れられなかった。街の中は馬糞とゴミだらけで悪臭がし、女性たちがバケツリレーで少しずつ瓦礫の山を片付けていた。広大なティーアガルテンの木々は市民が薪にするために切られてしまい、見るも無残なことになっていた。そして敵軍の中では、屋敷に出入りを許されていた将校や士官たちと一般の兵卒たちとは雲泥の差があることにエリザベートは驚きあきれていた。自分に襲い掛かった兵卒はごく一部の乱暴者なのだろうと彼女は思いこもうとしていたこともあったが、こうして町中で見る敵兵は酔っぱらって昼間でも遊び呆けて乱暴をしでかすのだ。この連中が市内に突入したころ、どんな惨状が繰り広げられたかは想像したくもなかった。


 ドイツ人のほうはといえば、街の中にいるのは国防軍の兵士ばかりでSSは一人も見なかったが、こうまでSSが見事に消えているのを見ると、エリザベートは「もしかすると秘密のルートを使って外国にでも逃げたのだろうか」と考え始めた。それなら待っていたらいつかジークフリートからの連絡があるだろう。その時に家にいなくては彼からの手紙を受け取ることすらできない。

 働かなくてはならない、と彼女は考えた。残された現金ではそう長くは暮らせないだろう。4カ国の戦勝国がドイツを分割占領することになったので、「4つの通貨が流通したらややこしい」という理由で「連合国軍マルク」なるものが発行された。貧しい田舎から徴兵されたソビエト兵士たちは今までの人生では見たこともない大金を一気に手にし、しかもそれを故郷に持って帰ることができないので市内の闇市で時計などを買いあさった。物流が回復していないので食糧や日用品は不足しているのに通貨があふれたせいで、敗戦国の当然としてインフレが始まっていた。従来のライヒスマルクを持っていても以前のように紙切れになる可能性が高いから使えるうちに使ったほうがいいという執事と弁護士の意見に従って、エリザベートは気前よく使用人に最期の給与を払ったのであった。

 焼け出されてリヒテンラーデ家に居候していた近所のランバッハ家と市街地のアイスマン家の人々が親戚を頼るために旅立つ旅費も用立ててやった。ランバッハ家の老紳士も、アイスマン家の息子も6月になると自らの足で歩いて帰ってきていた。老紳士はベルリン義勇軍に入れられ、最期の闘いで負傷したものの教会でしばらく養生していたとエリザベートに言った。「大丈夫、伯爵もきっとどこかで手当てを受けているはずです。奥さん、お気を落とさずに」 アイスマン家の跡取りは東部戦線に送られていたが、除隊なのか脱走なのかさっぱりわからないような迷走を繰り返したあげく、なんとか生家に戻ることができたのだった。二つの豪邸は焼けて久しかったが、彼らは焼けた柱に張られた「リヒテンラーデ家にお世話になっています」という張り紙を見て難なく伯爵邸にやってくることができた。

 彼らは何とか持ち出せた宝石などを担保としてリヒテンラーデ夫人に渡そうとしたが、彼女はこれを断った。

「お金ができたときに返してくださればいいですから……」

 困っている人々から思い出の品々を担保として取るなんてユダヤ商人じゃあるまいし、と彼女は考えていた。ドイツ人としての、それも貴族としての誇りだけは失いたくなかった。自分は成金の商人の家に生まれたが、伯爵夫人になったのだ。しかし今や手元のライヒスマルクの残りと庭の田畑からの作物……これが彼女の財産のすべてだった。これで子供と残った使用人を養わなくてはならない。自分たちの首を切ってくれと言い出したカウフマン夫妻は「今後の給金は不要です。ただ、お嬢様のお近くで共同生活者として住まわせてください」と言ってくれ、エリザベートは泣いてしまった。この二人は彼女にとって両親よりも近い存在なのだ。他に女中のフリーダと子供の養育係のギゼラも行くところがないので置いてくれと懇願するばかりであった。


 エリザベートは収入か物資を得る方法として彼女なりにいろいろと考えはしてみた。

「ねえ、私のバイオリンとジークフリートのピアノを売ったらどうかしら。かなりの値打ちがあると思うのよ。あと宝石を買い取ってくれる店はないのかしら」

弁護士はあきれて言った。

「奥様、このご時勢に音楽を奏でたり、宝石をつける余裕のある方はいないと思いますよ。買い叩かれるのが落ちです」

「じゃあ、音楽を教えるのも無理かしら」

「無理でしょうね。プロの音楽家たちも青息吐息ですから。奥様、お屋敷もあり、略奪も受けてないあなたはベルリンで有数のお金持ちだと思いますよ」

「家に下宿人を置くというのは?」

「家賃を払えるようなお金のある人は、不動産には不自由していないと思いますよ。それに地下鉄が動いていないとこの家は不便すぎます」

 元:執事カウフマンと一緒にエリザベートはハーケンクロイツの赤い旗とヒトラーの肖像画を庭で焼いた。党員バッジは金属なので土に埋めた。カウフマンが火を枝でつつきながらつぶやいた。

「この12年間のことはなんだったんでしょうね」

 ヒトラーがドイツで政権を取ってからたった12年なのだ。私たちはその国威高揚にのり、失った領土を取り戻すべく戦争をはじめ、そしてすべてを破壊されてしまった。

「前よりももっと領土も減るかもしれませんね」

 カウフマンは前の大戦で従軍した経験を持っていた。そして領土が大幅に減り、東プロイセンが飛び地のようになったドイツで、戦後のハイパーインフレの屈辱的時代を生き抜いてきた。カウフマンはヒトラーが立ち上がった時、歓喜したという。彼はナチスエリートの親衛隊将校の家で働くことを何よりも喜び、家中で一番熱心な古参のナチ党員だった。

「また卵一個が一兆マルクなんてことにならなきゃいいけど……」

 エリザベートは黙って火を見つめていた。第一次世界大戦が終わった年に生まれた自分は戦後の混乱もハイパーインフレも覚えていなかった。屈辱的なヴェルサイユ条約、50%を越える失業率。ただ父や周りの人々から聞き、学校で嫌という程習った。それが今度は自分の人生に直接降りかかってきた。それなのに自分には頼るべき夫もいない。実家からも縁を切られた。それでも生きていかなければならないのだ。煙が目にしみた。

 自分の就職のことをアレクセイにお願いしてみようかとも考えた。けれどそんなことを言ったら、困っているならと言って連合国マルクでもくれかねないと思ってやめた。知り合ってから3ヶ月近くがたっていた。彼はいつも紳士的で親切であったが、エリザベートに対して感情表現は周りの全員が笑ってしまうくらい不器用なものだった。部隊の大部分が屋敷を去る時に彼はかなりの食糧とタバコを置いていってくれた。このごろでは信用を失ったライヒスマルクのかわりにタバコが「1シガレット換算」として使われていたからだ。そして彼は言った。

「安全のために形式的な憲兵事務所はここに置いておきます。ケガで療養中の士官も2名置いておきます。非常に真面目な連中ですのでご安心ください。このお屋敷は近隣でも郡を抜いて素晴らしいので、おそらくイギリスも接収すると思います。イギリスへの引き継ぎも致します。それと時々様子を見に来てもいいですか? ご迷惑でなければ……」

 エリザベートは二つ返事で了解した。アンドレイとピョートルは異動でロシアに帰国してしまったが、アレクセイだけは元帥に頼み込んだのかどうだか知らないが、占領ロシア軍に残ることになりそうだということだった。アンドレイは明日が出立という前夜、エリザベートと話がしたいと彼女を訪れた。

「あいつのこと……アレクセイ・ペトローヴィチのこと、嫌いじゃあないだろう、奥さん」

「嫌いなわけはないわ」

「アレクセイは恋人を亡くしてから生きる屍みたいになっちまったんだ。それがあなたに会って、笑うようになった。あなたは彼の生き甲斐になっている。あいつの気持ちを受け入れてやってほしい」

 この言葉にどうにも答えることができず、エリザベートは黙りこくっていた。「彼の気持ちを受け入れる」ということは不貞を犯すことに他ならないのだ。自分はそんなことを決して望んでいないと彼女は強く信じていた。たとえジークフリートが死んでいたって、自分は一生後家を貫くのだ。

 アレクセイは憲兵事務所を残しておいた手前、時々やってくるたびにちょっとしたお菓子や紅茶、チーズや電池など手に入りにくい貴重品ではあるが、過度ではないおみやげを「もらいものだけど、自分には全然必要ないから」と言っては、持ってきてくれていた。アレクセイの来訪はエリザベートにとって、とても楽しみなものだった。以前は屋敷に一緒に住んでいたので毎日お茶の時間に話をすることができた。あの時間は彼女にとってすばらしい気晴らしだったのだと今になって痛感していた。今は週に一度、短い時間しか会えないが彼女は前の日から着るものについて大変悩んだりしていた。会っていても何か重要な話があるわけでもなく、ハーフェル川で一緒にボートに乗ったり、裏の森を散策したりと、ごく平和な休日を二人で過ごすことが多かったが、心いやされる大切な時間だった。だが、確実に別れは近づいていた。

「2月のヤルタ会談で決定していた通り、戦勝4カ国でベルリンを分割統治します。すでに先週から西側3か国がベルリン入りをしています。グリューネヴァルト区は英軍の占領地になります。予想通り接収予定の建物リストの中にこの家も入っていました」

ああ、いよいよこの家はイギリス人たちが住むことになるのか、以前と同じくらいのスペースを明け渡せばいいのだろうか、まあロシア人たちともうまくやれていたし、イギリス人は紳士らしいし、また食べるものとかでお礼がもらえるなら接収もいいかも、などと考えていると、アレクセイはエリザベートの考えを見透かしたかのように言った。

「イギリス人が紳士だとか思って安心していてはいけませんよ。彼らが紳士淑女たるのは自分と同じ階級の人間に対してだけです。イギリス人がアジアやアフリカで行った所業を考えると、敗戦国のドイツ人をどう扱うかわかったものじゃない。とにかくソビエトの接収の最後の仕事として、この街区とこの邸をイギリス軍に受け渡すところまでは私が責任を持って行います」

厳しくも生真面目な言葉の中に、自分への思いやりを感じてエリザベートは嬉しく思った。


 エリザベートは正面玄関のシャンデリアがあったはずの金具を見るたびに、アレクセイと出会った日を思い出した。そして大理石の床につけられた傷をなで、あの日以来はじまった彼との日々を考えた。幸いなことにソ連兵たちに襲われたことが心の傷になり、何度も悪夢にうなされるというようなことはなかった。シャンデリアが落とされた日は、少年のような兵士に殴られた日ではなく、アレクセイと出会った日として彼女の心に刻まれているのだ。彼女は彼との間に築かれた「友情」に感謝していた。だが、この関係は「友情」なのだろうか。自分はこんなにも彼を意識しているというのに?

 アレクセイがはっきりした求愛に出ない以上、エリザベートのほうから「自分はあなたの好意にこたえることはできない」と断ることもできず、二人の関係はあやふやのまま続いていた。いわばエリザベートにとっては一方的な受益状態であった。しかし突然その危うい均衡が破られる日がやってきた。7月中旬、アレクセイはもうこの家には来られなくなったと伝えたのである。


「中心部の繁華街はともかくとして管轄外の地域へは公用以外では原則として足を踏み入れることはできなくなりました」 

 エリザベートは驚いて何も言えずに彼の黒い瞳を見つめていた。この人ともう会えなくなる。3ヶ月前突然自分の人生に現れたこの男はまたもや突然去って行ってしまうのだろうか。

「私の住所はこちらです。破壊を免れたホテルを赤軍が接収したものですが」

 アレクセイは一枚のメモを渡した。中心部から東へ行ったケーペニック区の高級ホテルの住所と電話番号が記されていた。自分はこちらの地域には足を踏み入れられないから、会いに来てくれという意味だろうかと彼女は考えた。

「何か困ったことがあれば……いつでも……いや、別に困ったことなどなくても……用なんてなくても、来てくれれば……」

 アレクセイは口ごもっていたが言いたいことは伝わってきた。彼はこれからも自分と会いたいと思ってくれている。うれしい、というのがエリザベートの率直な感想だった。

「いや、私たちはもう会えないんです」

「どうしてですか?」

「今年の5月の終戦直後、わが赤軍はドイツ占領地の秩序維持のために、ドイツ人との個人的な接触を原則的に禁止しました。これは、市街戦の最中に暴力沙汰が多かったため、ドイツ人を保護し、軍規の混乱を防ぐための初期の命令でした。今月 ベルリンにソ連軍政庁が本格的に確立され、より組織的な統制が始まりました。兵士とドイツ人市民の親密な交流は、『軍事機密の漏洩』や『政治的堕落』につながるとして、特に厳しく取り締まるよう命令が発せられました。ドイツ人との交際は単なる軍規違反にとどまらず、政治的な罪として扱われるようになり、違反者には厳しい罰則が科されることになりました」

「それって暗に男女で交際してはいけないってことなのですよね? 友人とか職務上のことでも接触してはいけないの?」

 アレクセイはふっと寂しそうに笑った。

「あなたは……お嬢様で奥様で、何不自由なく愛されて育った優しい人で……そして残酷な人ですね」

 アレクセイは立ち上がって客間の庭に面した窓の傍へ歩んだ。エリザベートからは彼の顔が見えなくなった。

「あなたがご主人の帰りを待っているのはわかっています。これから先もご主人があなたの心から消える日は来ないでしょう。ただ、私があなたに友情以上の関係を求めてしまっていることを知っていてほしいのです」

 エリザベートは立ち上がってアレクセイのすぐ後ろに立った。手を伸ばせば彼の広い背中にすぐ届きそうだった。それよりも以前の車の中でのように彼にもたれてしまいたいような気持ちがした。アレクセイはその気になれば、この3ヶ月間の力関係を利用すればすぐにでも彼女を自分のものにすることは可能だった。敗戦国の女の肉体など、道端の花を摘むほどに簡単に手に入るだろう。だが彼は自分の気持ちを伝えることすらしなかった。友情以上の関係。今ようやくこんなまどろっこしい言い方をしたのだった。

「私………」

「誤解しないでいただきたいのは」

 アレクセイはエリザベートの言葉をさえぎった。

「あなたを金銭だとか、権力だとかで無理に従わせようと思っているわけじゃないんです。確かにあなたの国は戦争に負けた。私の国がこの街を支配している。けれどそんなことは関係なく、対等な人間として私のことを見て欲しい。私が欲しいのはあなたの心なんです。ご主人を忘れてくれとは言わない。あなたの心のなかに私の居場所が欲しいんです」

 エリザベートはなかばぼんやりと聞いていた。感動して物が言えなかった。今まではアレクセイから「交際」を申し込まれれば、ドイツ婦人の気概を見せてきっぱりと断らなければならないと心に決めていた。だが今実際に彼の告白を耳にすると彼女の心には感動とときめきが満ち溢れていた。自分もこの人と今後も会いたい、この人から女として愛されたいと願っていると確信があった。

「もうあなたに通訳の腕章をつけてもらって一緒に街を歩くことすらできないのです。通訳はドイツ人の雇用が禁止された。交際禁止令を赤軍全体に守らせる、それが私の仕事です。そんな立場の私は、もうあなたと会うことはできないのです」

「私………」

「言うべきではなかった!」

 アレクセイはエリザベートと目を合わせようとせず、強い口調で言った。

「すみません、忘れてください。憲兵事務所の旗は誰かに取りに来させます。引き継ぎも他の者に頼みます」

 彼は早足でソファに戻り、帽子を手にした。彼は帰ろうとしている。そしてもう二度とここへたずねてくることはない。その予想はエリザベートを焦らせた。

「待って、待って、ジューコフ少佐!」

 アレクセイはドアノブに手をかけた。

「待って、お願い、アレクセイ! 帰らないで」

 なんとかして彼を止めたいという一心でエリザベートは後ろからアレクセイに抱きついた。アレクセイは撃たれたように立ち止まってドアから手を離した。ファーストネームで彼を呼んだのは初めてだった。

「私、私ね、……私………」

 涙があふれてエリザベートは自分の気持ちを表現できなかった。夫と子供のことはもちろん愛している。けれど自分はこの男とこれからも会いたいのだ。アレクセイはエリザベートのほうを向き直り、彼女を抱きしめた。背の高い彼のたくましい腕と胸に包まれるのをエリザベートは心地よく感じた。

「泣かないで、愛しい人」

 アレクセイは彼女の金髪に唇をうずめた。

「あなたを困らせるつもりではないのです」

「困ってなんかいないわ」

 彼女はうっとりしながら言った。そしてもっと強く抱きしめてほしいと思ったのでありったけの力でアレクセイを抱きしめた。

「……エリザベート」

 エリザベートは自分の想いを伝えたい、とも思ったが彼女の唇は男のそれで塞がれた。彼女は瞳を閉じ、男の情熱にこたえようとした。彼が自分をファーストネームで呼ぶのもこれが初めてだと気づいた。背骨が折れるかと思うほどの力で抱きしめられ、エリザベートはふらふらになって自力で立っていられなくなった。体が密着しているのでアレクセイの体の変化に彼女は気づいていた。女として自分は求められている。夫以外の男から欲情されるなんて考えたこともなかったが、嫌な気持ちはしなかった。むしろ彼が自分のことを女として魅力的に思い、やっと愛そうとしてくれていることが嬉しかった。

 このままなし崩し的に抱かれたら後悔するかもしれないと考えたが、抱かれなくても後悔するだろうと思った。すこしでも拒絶の姿勢を見せたらアレクセイは体を離してしまうだろう。とにかく今は抱きしめられていたかった。彼の広い肩の内側にすっぽり抱きしめられて、まるで熱に浮かされたようにぼんやりしていたかった。

 エリザベートは床の冷たさを背中に感じた。その冷たさはあの日自分を犯そうと襲い掛かってきた酔いどれの兵士を思い出させた。今自分の体の上にいるのは同じ赤軍に属する同じカーキ色の制服を着た兵士なのに、どうしてこんな幸せな気持になるのだろう。あの時彼女は自分の非力さが悔しかった。しかし今は逆に自分が弱々しい女であることをうれしく思った。エリザベートは自分の胸に顔をうずめたアレクセイの髪をなでた。早鐘を打つ心臓の音が聞こえてしまっているだろう。彼の短く刈った髪が手に気持ちよかった。アレクセイの手が優しく自分の体をなでていくのを感じた。

「エリザベート………君を愛している……」

 ああ、彼はやっと言ってくれたのだと、エリザベートはこの言葉を心の中で反芻した。この言葉を聴きたかったのは自分のほうだったのだ。私はこの人のことが好きなのだ。これまでの彼女は夫の要求に応じるだけだったが、今はじめてアレクセイ・ジューコフという男を欲しいと感じた。もっと私を触って、もっと私を求めて。いっそうの愛撫を求めてエリザベートは男を抱きしめた。生まれて初めて体の奥底から沸き上がった情熱に、もはや彼女はあらがえなかった。

 しかしこの夢のようなひとときは突然打ち破られた。アレクセイがエリザベートの3つ目のボタンをはずそうとした時、来客を告げる召使のノックがあった。二人はまるで雷にうたれたように我に返り、大急ぎで衣服と髪を直した。ドアの外にはおびえた目をしたフリーダが青い顔をして立っていた。

「イギリスの方がいらしていて……」



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