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1 迫りくる恐怖

「ですからね、リヒテンラーデさん、ロシア人というのはすべて獣なのですよ。我々は獣の群れに囲まれてしまったごとくです。ああ、なぜ去年のうちにもっと西へ脱出しなかったのでしょう。いや、開戦と同時にスイスまで行っておけばよかったものを」


裏庭の井戸で交代にポンプを押しながら、アイスマン夫人はもう10回目にもなるであろうか、同じ言葉を繰り返して溜息をついた。 逃げておけばよかったなんて保安警察に聞かれればゲシュタポにすぐひっぱられそうなセリフ、もうそんな役所も機能しなくなったと確信しているから大きな声でしゃべれるのだ。 だいたいこの居候の婦人は私の夫ジークフリートがゲシュタポに近い人間だということを忘れてしまったのだろうか。エリザベートも溜息をつき、生返事をしながらポンプ作業を交代した。お嬢様育ちの二人の奥様にとってポンプで井戸水を汲む作業は交代制でないととても耐えれらるものではない。しかしこの作業は重いバケツを運ぶよりも楽だったので、この二人に割り当てられていた。二人がバケツに汲んだ水は他の居候たちが屋敷の入り口まで運び、使用人たちが階段を上がり各トイレのタンクや手洗い用のタライへ給水するのだ。


 今日は1945年4月16日。ベルリン市南西部のグリューネヴァルトにあるリヒテンラーデ伯爵邸は奇跡的に空襲の被害を免れていた。 湖と森に囲まれた別荘地・高級住宅地として名高いグリューネヴァルト地区は、電気が送電されなくなった今日では夜は真っ暗だった。昼間ならサイクリングも可能であったが、夜はころんで怪我をするのが落ちだった。地下鉄の運行が不安定になってから、彼女は日々不便を感じていたが今では逆にこの田舎ぶりに感謝していた。空爆を行う英米軍もこんなところへは爆弾を落とす気にはならなかったのだから。戦況が厳しくなるにつれ、広い庭園やテニスコートはすべて畑になり、エリザベートも召使たちとともに農作業を行った。そして去年の秋はじゃがいも類が大豊作だったので、今にいたるまで屋敷の食糧倉庫は空になってはいなかった。しかし先月からやってきたこの居候たちのおかげで、減りが早くなっているのだ。


ジークフリートはある時ヤギとヒヨコをどこか田舎から連れてきた。ヤギは子ヤギを産み、ミルクを住人に提供した。ヒヨコは今では大変な数に増え、卵と彼ら自身の肉で皆の飢えを満たすのに大変役にたっていた。配達業者とはいつの間にか連絡がとれなくなり、ガス、水道、そしてついには電気や電話も危なっかしくなってしまった。井戸の水を飲み水にし、湖で洗濯をした。レンガをつんで釜戸を作った。電池式のラジオは一日一度全員集まって聞いていたが、戦況はよく分からなかったし、政府の大本営発表などいつごろからか誰も信じなくなっていた。

 彼らは毎日毎日市街地へ向かう敵機が轟音をとどろかせながら、屋敷の上空を通過するのを地下室でじっとしながら過ごしていた。昼は英軍、夜は米軍が何千という編成で飛んできた。燃えさかる市街地の空は夜になると真っ赤になり、熱風だけで火傷しそうな高温となり、灰が空から降ってきた。あの空の下にジークフリートがいると思うとエリザベートは胸がつぶれそうだった。しかし「お父様は総統閣下の防空壕にいらっしゃるから大丈夫よ」と子供に言い続けるしかなかった。電話がかかってこないのは電話線が切れてしまったせいであり、個人的なやりとりのために兵士とガソリン車を伝令には使えないのだろう、と思い込むしかなかった。去年の夏、夫は通勤が不便な同僚たちと一緒に一つフラット(集合住宅の一室)を国からあてがわれたと言った。そのころから帰宅はガソリンの節約のために月に一度になった。年が明けてからは官邸に直接泊まりこむことが多くなり、ますます連絡が取りづらくなっていった。国家保安本部(RSHA)に勤務する政府高官を夫に持つ身としては仕方のないことだと思っていた。市の中心部への爆撃はすさまじかったが、夫からのたまの電話の声はいつも明るく、「そのうち新兵器が投入されて赤軍(ソビエト軍)は撃退されるから」と話していた。たまに帰ってくると、いろいろ物資を持って帰ってくれた。


エリザベートは連合軍はまだ何百キロも先にいるのだろうと思っていたがそれは呑気な考えだった。東プロイセンや東部のドイツ軍占領地域から逃げてきた人々は難民となってここベルリン市にもかなりなだれこんでいたので、戦地でのソビエト軍の恐ろしいふるまいは徐々に市民の耳にも入ってきた。子供は串刺しにされ、老人を閉じ込めたまま家を焼き、幼児から老人まで女という女は暴行される。昼間であろうが、家族の目の前であろうが、道であろうがおかまいなしに。10人や20人ではなく、100人がかりで襲い掛かるのだ。新聞には修道院が占領され、清き修道女たちが犠牲になったことも載っていた。こういった行為に対して邪魔だてしたり、激しく抵抗しすぎた者は惨殺されて木につるされる。 これまでも宣伝大臣ゲッベルスは「ロシア人の侵略を許せばドイツは破壊され、男性はみなシベリアに送られ、女性はみな凌辱されるであろう」とさかんに演説していた。 最初この話を耳にした時には「中世じゃあるまいし、まさかそんなことが現代社会において行われるなんて、いつもの宣伝相の誇大宣伝だろう」とエリザベートは気にしなかった。 しかし、難民という難民が全員口をそろえて同じことを話すので、ベルリンの女性たちは恐慌状態に陥った。


「ねえ、リヒテンラーデさん、ロシア人には遠くモンゴル帝国の血が入っているんですって。知ってるでしょう、チンギスハーン」

 エリザベートはそれほど歴史に明るくなかったが、それでも13世紀の地図がほとんど「モンゴル帝国」で塗りつぶされていたのは覚えていた。

「そのモンゴル帝国とロシア人が獣だっていうのは何か関係があるのですか」

 アイスマン夫人はあきれた顔をした。

「だから! チンギスハーンの軍隊は馬に乗って草原を駆け巡り、滅ぼした国の男たちは全員皆殺しにするんです。残った女たちをずらっと一列に並べて、王や将軍といった偉い人たちから好みの女を選んで側女に加えていくんですよ」

「あら、じゃあ誰にも選ばれなかったらそんなに心配いらないわね」

「何言ってるんですか! 大多数の女は最後まで残って、下っ端の兵隊どもに凌辱されるんですよ! 何十人もにね!」

「でもそれってなん百年も前の話なんでしょう? 今のロシア人にその血が入っているとしたって、そんな野蛮なことはしないんじゃあ・・・」

「あなたは本当に能天気ね、リヒテンラーデ夫人。楽観主義と言ってもいいくらいだわ。あなたは特に政府関係者の身内なんだから報復も覚悟しておかないと」

 さすがにこれにはエリザベートも腹が立ち、アイスマン夫人のほうを睨んだ。だが、女性は従順であるべしという教育を受けてきた彼女にとって、年長者に言い返すことは下品とも思えたし、何よりこの下品な会話を切り上げたかった。


「今日は空襲警報ないですね」

 エリザベートは話題を変えた。これなら、午後から公民館に配給を取りに行くときも安心していける。配給自体はどんどん少なくなり、いまでは配給券があっても現金があっても買えないことが多かった。

「ほんとね、友軍が頑張って撃退してくれたのならうれしいわ」

 アイスマン夫人だってドイツの勝利を願っているのには違いないのだ。森のほうからリヒテンラーデ伯爵家嫡男であるエドゥアルトが薪にするための木切れをリュックに入れて戻ってくるのが見えた。乳母のギゼラと乳母子のカールも一緒だ。2人とも3歳で、こんな小さい子供にも仕事をさせてなんという時代だろう。

「ねえ、エリザベートさん。あなたは息子さんが3歳になっていて、この2年くらいは二人目が欲しいって思っていたのでしょうけど・・・こんなことになるなら、今赤ちゃんはいなくてよかったわよね」

「ええ、本当にそう思います」

 この状況では赤ん坊の面倒なんてとても見れないだろう。 ましてや妊娠中に敵軍が攻めてくるなど。ジークフリートは本当に2人目の子供を欲しがっていた。同僚に3人目、4人目ができたと聞くたび肩身の狭い思いをしていたことだろう。国はドイツアーリアンの夫婦に多数の子供を持つように推奨した。宣伝大臣のところなど7人も子供がいるのだ。ただ、総統自身は独身だった。この矛盾については誰も何も言わなかった。

「お母さま、僕たくさん拾ったよ」

「すごーい、よく頑張ったわね」

 金髪の子供は母親の褒め言葉に喜び、にっこりとして近寄ってきた。乳母子のカールも得意そうにしている。乳母子はいつも一歩引いてわきまえている。井戸のそばにいる人たちが初めて地響きを聞いたのはこの時だった。


「え、なにこれ」

 エリザベートは地響きが聞こえた南のほうを見た。遠くに小さな煙が見えた。空襲ではないのに、火事? 続いて雷鳴のような音が始まった。

 ソビエトの赤軍と呼ばれる陸軍が東から迫っているというのはずっと報道されていた。そこまでは知っていた。だから赤軍が来るなら東からだと思い込んでいた。エリゼベートは音がどこから聞こえるのか必死に耳をすませた。「赤軍が来るなら、東からのはずだ。南からなんて来るわけがない」彼女はそう祈った。しかし、音は南から聞こえていた。彼らは彼女が見える範囲を長距離砲で狙えるくらいに近くに来ているのだ。ベルリン市が包囲された? ぐるっと包囲して回りから進軍してくるつもりなのか? 空襲がなかったのは英米軍が味方のソ連軍に誤爆しないようにしただけじゃないか。ドイツ軍が制空権を奪い返したのではないのだ。

「奥様、とにかく家の中に入っては」

 口を開いたのは乳母のギゼラだった。彼女もまた青くなり震えていた。屋敷から裏庭に出る出口には執事のカウフマンとその妻であり女中頭のテレジアが出てきていた。

「奥様、いよいよ始まったようです」

「そうね、そうだわ。やつらがついにやってきた」


 エリザベートは彼らの間を通って屋敷に入った。ああ、ジークフリートなぜあなたはここにいない? 私がこの伯爵邸の代表として赤軍を迎えなければならないのか。家の中を通り、そのまま正面玄関ホールまで行くと、家にいる人たちは全員無言で集まっていた。この屋敷に正式に住んでいたのはジークフリート・フォン・リヒテンラーデ伯爵とその妻であるエリザベート・フォン・リヒテンラーデ伯爵夫人、夫妻の嫡男である3歳になるエドゥアルトであった。カウフマンとテレジアはエリザベートの実家からついてきてくれており、産後の肥立ちが悪く雇い入れた乳母ギゼラとその子カール、コックのフランツ、女中のフリーダといった面子は今日現在もこの屋敷に住んでいた。それ以外に大勢いた下僕・召使、庭師などはみんな今年に入ってから退職してしまった。行けるうちに西へ移動するためである。

 空襲で家を失った人たちを部屋に余裕のある家庭は受け入れる義務があったので、国からここを割り当てられてアイスマン夫人と息子の妻、未婚の末娘、彼らの連れてきた使用人が数人いた。近所のランバッハ夫人と娘も不安だからというので、使用人も一緒に来ていた。今全員が無言で部屋から出てきて玄関ホールにいるのだ。カウフマンが口を開いた。

「奥様、旗と絵画をはずします」

 旗を高く掲げよ、そのスローガンに沿ってこの家にはいくつハーケンクロイツがはためいていたことだろう。総統の肖像画や戦いを鼓舞する風景画もあった。カウフマンがテレジアに指示を出した。

「テレジア、フリーダと一緒に古いシーツを裂いて白旗を掲げてくれ」

 降伏の白旗、ああ、私たちは負けるのだ。巨大な敵に蹂躙され、占領されるのだ。彼女はまるで巨人が列をなして地平線の向こうからやってくるように思った。


 その後何日か砲撃の音が続き、あちこちから煙が上がるようになってきた。ドイツ軍も激しい応戦をしているようだった。ガラスの飛散を避けるため屋敷の雨戸はすべて降ろしてしまい、小さな蝋燭の火でさえ漏らさないように細心の注意を払った。

 ヒトラー総統の誕生日である4月20日、ラジオでアメリカの大統領が急逝したことなどが伝えられていたので、かのフリードリヒ大王の奇跡の逸話になぞらえて「戦況は好転する」ことをみんなが期待した。しかしすぐ近くで爆撃音がして、1キロほど離れた家が燃えているのが見えた。さらには夜には敵の照明弾の光がまぶしく見えた。神経が高ぶってしまい、戦車のキャタピラの音まで聞こえてくるような気もした。赤軍はすぐそこまで近づいている! 屋敷の中はパニックになった。アイスマン夫人の末娘ヒルデガルトは母親の腕の中で泣き叫んでいた。「嫌よ!嫌、私はまだ恋もしたことがないのに、あんな獣たちに辱めを受けるなんて!」


 やがて一か所だけ開けていた雨戸の隙間から、戦車が列をなして前の道路を進軍してくる様子が見えた。4月25日の朝のことだった。いつもはラジオを聴いている時間だったが、この日からラジオ放送まで止まってしまい、禁を犯してでもイギリスのBBSを傍受するかどうかを皆で話し合っているところだった。戦車の周りにはマシンガンを抱えた歩兵が大勢歩いていた。彼らは敵がいないか警戒しながらゆっくり進軍していた。他には乗用車やトラックもいた。そしてついに乱暴なノックが響いたのである。


長い小説ですが、よろしくお願いします。

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