03.幼いころから、11歳頃までの記憶
幼い頃の、この世界での記憶はおぼろげだ。
レイナは、紅茶から立ち上る湯気を静かに見つめた。
揺れる白い筋をぼんやりと目で追っていると、意識だけがゆっくりと沈んでいく。
この5年間、触れないようにしてきた記憶の奥底へ――
細く、古く、それでいて決して切れることのない糸を手繰り寄せていく。
やがて意識は、このオルデナ国で過ごした、子どものころの記憶へとたどりつく。
国の文献では、『予言の聖女・五歳』と記されているころだ。
あの頃のレイナは、この国に対して、いくつもの感情を抱いていた。
オルデナ国は、現実の世界とは違う、甘い夢と鋭い刃が同時に存在する国だった。
レイナが滞在していた神殿は、王族所有の神殿で、まるでお城みたいな建物だった。
天井は高く、差し込む光がきらきらと落ちてきて、磨き上げられた床に跳ね返っていた。
レイナを囲む大人たちの衣装はみな煌びやかで、袖が揺れるたびに、小さな宝石がかすかな音を立てていた。
髪も目も、見たことのない色をした人たちばかりで、
そんな人たちが、自分に恭しく頭を下げるのを見るたびに、絵本の中に飛び込んだみたいで、ドキドキして仕方がなかった。
用意された衣装は、真っ白で、ふわふわと軽く、お出かけの日でさえ着たことのないような服だった。
可愛い色の甘いお菓子も、好きなだけ食べていいと言われていた。
まるでお姫様になったみたいな毎日だった。
けれど――
見た夢を話すときになると、レイナを見つめる大人たちの表情が変わり、急に怖いものに見えた。
レイナの口からこぼれる言葉のひとつひとつに、大人たちの視線がぴたりと張り付くのを感じた。
部屋の空気がぴんと張りつめ、息をするのもこわいほどだった。
細められたその目が、少しも笑っていないことだけは、はっきりとわかった。
「まあ……ね。子どものころは、良し悪しなんて分からないまま、なんでも正直に話しちゃってたから。
『あのおじさんと、聖女のおばさんが、神殿のお庭でちゅーしてたんだよ』なんて話しちゃったこともあるし」
レイナは小さく肩をすくめる。
「あのときは国で一番偉かったピサロ公爵と、当時の大聖女様を「おじさん、おばさん」呼びをした上に、公然の場で不倫を暴露するなんて。我ながら怖い子どもだったわ……」
レイナは紅茶を一口含み、ふうと息をついた。
思い返してみれば――あのときの大人たちの緊張感も、今なら理解できる。
自分たちが抱えてきた秘密が、ある日突然、子どもの口から零れ落ちるのだ。
「無邪気な子どもの言うことだから」で、済ませられるはずがない。
黙り込んだ目の前の二人も、同じことを思っているのだろう。
けれど、しょうがない。
『見た夢を全て、偽りなく話しなさい』と言われたから、正直に話しただけだ。
レイナは、二人を気にすることなく話を続けた。
「そんな感じで、プライベートな秘密を見ることもあったけれど、国に振りかかろうとしている厄災だって、ちゃんと夢に見たのよ?」
レイナは、人様の秘密を暴くだけの子どもではない。
聖女として、予知夢を告げることもあった。
「友好国からの裏切りの襲撃だって、川の氾濫や飢饉のような自然災害だって、ちゃんと予言したわ。――すごい悲惨な夢だったけどね。
燃える家屋……血溜まりの中に倒れる人……泣き叫ぶ声……蔓延する病……飢えに苦しむ人。本当に、めちゃくちゃリアルな夢なのよ」
ずいぶん昔の夢なのに、脳裏に焼き付いたその記憶は、今も鮮明に残っている。
「オバケの夢なんかより、よっぽど怖いわよ?
それなのに、「よく思い出してほしい」なんて言われて、夢の記憶を、何度も何度も話させるのよ?今でも思い出すと怖いくらいなのに、幼い子どもによ?」
古い記憶――命乞いをしながら切り捨てられる人々や、痩せこけて力なく座り込む人々を思い出して、レイナはぶるりと身を震わせた。
「だけどそれも、予知夢のおかげで現実にはならなかったけど。
でも……私の予知夢は、誰かにとっての恩人でも、他の誰かにとっては敵になってしまうから。どうしても口封じに狙われるのよ。
まあ、ね。敵国もそうだけど、ピサロ公爵は私の予知夢をきっかけに失墜していったみたいだし……。恨まれても、仕方ないのかもしれないけど」
レイナが肩をすくめると、ミラが深く眉根を寄せた。
「そんなの……完全に逆恨みじゃないですか?レイナ様は夢を見ただけで、何も悪くないのに。悪いのは、そんなことをしている相手の方じゃないですか?
全部、自業自得だと思います」
きっぱりと言い切るミラの言葉は、内心ずっと抱えていたレイナの思いだった。
『もう少し、思慮深くありなさい』
誰かの秘密につながる夢を話したあとで、そう、大神官様に言われるたびに、『はい』と答えながらも、ずっと心の中で繰り返してきた思いだ。
「え……やだ、ちょっと、ハミルトン様。ミラさん、すごくいい子じゃない!
ミラさん、本当にそうよね。予知夢に関わらず、浮気する人なんて、ロクなやつじゃないわよ。続きを聞いてくれる?」
「どうせこの世界で、私は理解してもらえない」と思っていたが、思いがけず味方と出会えた気がした。
レイナは姿勢を正し、また記憶をなぞっていった。
「友好国だった国を丸ごと敵に回して、国内でも、ピサロ公爵家や元大聖女様からも恨みを買って。国に守られてはいたけど、それでもしょっちゅう命を狙われてね」
遠い目になる。
改めて思い出すと、ひどい話ではないか。逆恨みも甚だしい。
「危険があるたびに引き戻されていたけど、7歳から11歳くらいまでは、ちょこちょここっちの世界に来てたのよ。そして、何度も世界を往復するうちに、気づいたの。向こうの世界で気を抜いたときに、こっちの世界に呼ばれるんだって」
「だから、この世界に飛ばされないように、元の世界では、決して気を抜かないようにしていたの」
――という言葉までは言わなかった。
この世界の人すべてが、レイナに敵意を向けていたわけではない。
よくしてくれる人もいた。
戻るたびに、「おかえり。また会えて嬉しいよ」と言ってくれた人もいる。
その言葉が嬉しかったのも、確かだ。
それでも――国が落ち着くまでは、夢とは思えないほどリアルで、凄惨な光景を何度も見た。
暗い部屋で一人、震えながら目を覚ます夜。
息を潜めて、ただ震え続けたあの時間は、幼い子供にとっては、恐怖でしかなかった。
19歳になった今でも、決して見たくない夢だ。
そして、元の世界に戻されるほどの殺意を向けられることにも、疲れていたのだ。
11歳になるころには、すでに気を抜かないよう意識するようになっていた。
中学に入ると、勉強も部活も、とにかく隙間ができないように詰め込んだ。
何も考えなくていい時間を、必死で作らないようにしていた。
元の世界では、レイナはただの普通女子だ。
少し冷めていて、少しガリ勉な女子――ただそれだけだ。
冷めているように見られるのは、世界を往復するうちに人生の経験が勝手に積み重なってしまっただけだし、ガリ勉なのも、気を抜かないように何かに集中していたかっただけのことだ。
〈予言の聖女〉として唯一無二の存在でいるよりも、レイナはただの普通女子でいたかった。
誰かの不幸を暴く役目のない、普通の女子でいたかったのだ。




