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【短編小説】僕を止めてみせて

作者: 青いひつじ


狭く薄暗い階段を登っていく。

コンクリートで囲まれたこの空間は冷たく、ひどく寂しい。壁の上部にある小窓からの光で、かすかな明るさを保っている。肌にひんやりとした空気がまとわりつく。スーパーの冷凍コーナーを通る時の感覚に似ている。どこからか声が聞こえてきそうな薄気味悪い場所だ。手すりをつかむ。氷のように冷たかった。隣に誰かいれば、この先を行くのはやめようと僕を引き止めるだろう。しかしこの場所が、僕には魔法の世界へつづく路地裏のように思えた。


冷え切った壁を突き破り、大柄で髭もじゃの魔法使いが現れて、僕を連れ去ってくれたらいいのにとくだらないことを考える。しかしそのくだらない妄想のおかげで、ここはたちまち僕しか知らない愛しい隠れ道へと変化する。でかでかと張られた立ち入り禁止の張り紙を無視し、ドアノブに手をかける。わずかに開いた隙間から風の金切り声が入り込み、やめておけと押し返される。忠告を無視し、僕は体の右半分を添えて、力を込め、ゆっくりと扉を開く。錆びついた扉は苦しそうに掠れた声を上げた。

 



外に出ると、鋭い風が僕を斬るように吹いてきた。

深緑色の艶々とした地面が広がり、安全のためのフェンスが全面に張られている。昼間の雨のせいか、地面には大小様々な水溜まりがいくつもあった。

二段しかない石段を降り、水溜まりを飛び越え、足裏に意識を集中させる。いつもより雲が近い。遠くの方に浮かぶ雲は、僕とほとんど同じ高さにいるようだ。


僕は空を仰いだ。鼻から深く息を吸うと、湿土の匂いと冷えた空気が体の真ん中を通っていくのが分かった。今から雨を降らしますよと言わんばかりに鼠色で塗りつぶされた空。相変わらず朝も夕方もない。最近の天気はずっとこんな感じだ。分厚い雲がゆっくりと沈んできて、街ごと飲み込んでしまいそうである。いっそそうしてくれれば楽だと僕は思った。頭の奥で、集合を告げるホイッスルの音が聞こえる。体育館で跳ねるボールの音も。僕はまた深く息を吸う。屋上には初めて来た。



屋上があるのはこの南校舎だけだ。曇天のせいか、目の下に広がる水溜まりも遠くに見える家も山も、映るもの全てが灰色か黒に見えた。僕は視線をフェンスにうつし、その向こうにある世界を想像してみる。すぐに焦点がぼやけ、頭に何も浮かばなくなった。

一歩、二歩、三歩。

呼ばれた先へ向かうように自然と足が前に進む。体育館裏を駆け抜ける足音と黄色い声が耳の奥で響き、僕はハッと我に返った。催眠術にかけられたように、三秒前の記憶がなかった。フェンスまではあとニメートルほど。僕が進んだのではなく、フェンスが僕を迎えにきたのかもしれない。そんな馬鹿らしいことを考える。僕はゆっくりと距離を縮める。手を伸ばせば触れられるところまで近づき、歩みを止めた。

亀のように首を伸ばし、目玉を下に動かす。自然と鼻の下が伸びた。フェンスの基礎石に右膝をついて下の様子を伺おうとしたその時。強い風に背中を押され、僕は顔からフェンスに突っ込んだ。じゃりっと削られるような感覚が頬に走った。ただでさえ触れたくないそこは、濡れているせいで不快感が三割増しだった。僕は拒絶するようにつき離し腕で頬を拭った。ひどく錆びついたフェンスは風が吹くだけでへこんだり膨らんだり、ネットのように緩々になっている。鉄線と胴縁が外れているところもあり、役割を果たすのには不十分であると僕は思った。手のひらを見ると赤褐色の網目模様がついていた。


「うわ、きったな」


ゆっくりと三度太ももに擦り付けた。色は薄く残り、鉄臭さはどんなに擦っても取れなかった。手のひらを鼻に近づけた時、ふと足元の排水溝が目に入った。黒いヘドロのようなものが溜まりに溜まった地獄ような排水溝だった。ビニールのゴミと枯葉とタバコの吸い殻と泥が絡み合い、得体の知れないものへと変化したのだ。そこは全く管理されていないようだった。

誰にも気にかけられることなく、ドロドロが溜まっていく。僕とそっくりだと思った。じっと見ていると嘔吐物のような臭いを感じた。喉の奥からなにかが込み上げてきて、僕は両手で口を塞いでその場にしゃがみ込んだ。まさか、誰かに見られているとも知らず。


『何してるの?』


上から降ってきた声に顔を上げると、フェンスに、ひとりの男子生徒が座っていた。声の持ち主はフェンスの胴縁に器用に腰掛け、外に向かって足をぶらぶらと揺らしていた。彼の着ている紺色のブレザーはこの学校の制服ではなかった。片手には小さな本。灰色の風に靡く髪。少し猫背気味で、黒くサラサラと揺れるその髪は、時々青く光って見えた。屋上にはたしかに僕ひとりだったはずなのに。彼は、いつからここにいたのだろう。


『君、なにしてるの?ここ立ち入り禁止だよ』

「‥‥え‥‥君こそ‥‥そんなところでなにしてるの」

『なにって、見たら分かるでしょ』


 彼はそう言うと、ぐっと両腕に力を込めてお尻を浮かせ、前屈みになった。ぎぃんとフェンスがその形を歪ませる。その瞬間また強い風が吹いた。


「あっ!!」


咄嗟に出た僕の声は一瞬のうちに雲の中に吸い込まれた。内側から殴られているように全身に鼓動が響く。手のひらに汗が滲む。彼が顔だけをこちらに向けた。初めて目があった。目にかかる長い前髪。彼は二本の指でそれを耳にかけ、立ち尽くす僕を見てにやりと笑みを浮かべた。それからわざと激しく体を揺らし、落ちるふりをしてみせた。僕は「あっ」と声にならない息が詰まったような音を放つ。彼は胴縁に足をのせ、腕を水平に伸ばして、綱渡りをするようにフェンスの上を歩いた。僕の声を無視して、彼の悪行は続く。その度に狼狽える僕を見て楽しんでいるようだった。フェンスは助けを求めるように、ぎいぎいと音を立てる。


「あっ、危ない!危ないよ!早く降りて!」


 みかねた僕は彼に駆け寄り、ぐっと腕を伸ばし手を差し出した。


『だったら、止めてよ』

「‥‥え?」

『僕がここから飛び降りないように』

「止めてって、そんな‥‥」

『本当は今日だったんだよ。こんな天気だし、背中を押してくれそうかなって思ってここへ来た。でも、君と話してそんな気分じゃなくなった。せっかくだし、僕のエックスデーを少しだけ延長してあげてもいい。だから、僕を止めてみせて』


彼は僕に、自分がここから飛び降りるのを止めてみせろと言ってきた。彼のエックスデーとはつまり、そういうことかと、僕は一瞬で理解した。立っていた彼は、脚を折りたたみ胴縁に腰掛けた。


『こんな時間に屋上に来るってことは、君、部活やってないの?』

「一応、書道部に入ってる。幽霊部員だけど」

『じゃあ、今日から僕たちは幽霊仲間だ』

「君も部活行ってないの?」

 僕の質問に彼は、『まぁ、そんな感じ』とだけ答えた。

『屋上に来るのは今日が初めて?』

「うん」

『ここにも座ったことないんだ』

「普通ないでしょ。そんな高いとこどうやって登ったの」

『見てみる?どんな景色か。けっこうきれいだよ』


誘うように今度は彼が手を差し出してきた。僕は「いい」とその手から視線を逸らし、フェンスの向こうを窺った。しゃがんで基礎石に手を添えると、つま先に力を入れ体を持ち上げ、下を覗く。

彼は『怖いんならやめとけば?』と捨てるように言うと、『よいしょ』とフェンスに跨り、そこから飛び降りた。ふんわりと宙に浮く体。腕を少し横に広げ、脚は今にも空を駆け出しそうである。浮いた体はきれいな曲線を描き、見事な着地を決めた。その瞬間、彼が羽をしまったように見えた。





放課後、僕は教室を出るとある場所へと向かった。壁を這うようにして廊下を歩き、柱と柱の間を走って通過する。気持ちはまるでスパイである。筆箱と数冊の教科書しか入っていない鞄を抱きしめる。大金の入った袋を抱えるように。保健室の前を通り、進んだ廊下のつきあたりを右に曲がる。現れたアルミ製の扉を開くと、中庭へと足を踏み入れた。昼間は女子たちの溜まり場となるこの場所だが、放課後はしんと静かだった。天然の芝生を進むとさくさくと音がした。


彼と出会ったあの日から、僕は屋上へは行っていない。その代わり、遠くからその様子を観察することにした。彼が座っていたフェンスの真下には、この学校のシンボルである中庭があった。庭の中心に噴水があり、それを囲うように木が植えられ、いくつかのベンチが置いてある。隠れて彼を観察するのには絶好の場所だった。そのために作られた場所ではないかと錯覚するほどである。

僕は木と木の間をすり抜け、ベンチに身を隠し、背もたれの隙間から屋上の様子を伺った。フェンスの上に、彼の姿はなかった。こうして観察を続けてみたが、あの日以降彼が屋上には現れることはなかった。毎日いろんな場所から観察した。その姿に怪しんだ女子生徒に軽笑されようと、怠ることはなかった。理科室の骸骨の模型に隠れて肋骨の隙間から覗いたり、放課後誰もいなくなった三年生の教室に侵入しカーテンに隠れて見たり、移動教室へ向かう廊下で柱に隠れて様子を伺ったりもした。しかし一度も、彼の姿を見かけることはなかった。





今日の放課後の空は薄いオレンジ色で、誰かが筆でスッと書いたような雲がいくつも浮かんでいる。僕は屋上の扉を開いた。通り過ぎる風が前髪を揺らした。視線の先には、フェンスの上に座り、髪を靡かせる彼の姿があった。風で勢いよく扉が閉まり、彼がこちらを向いた。


『待ってたよー』


澄んだ空の奥に視線を戻し、彼は言った。

線の細い体。身長は175センチくらい。真っ白な肌。つやつやとした髪。体育の授業中にみつけた名前の知らない花にどことなく似ている。クラスにいれば密かに人気のあるタイプだと思う。例えるならば、教室の端で読者をするミステリアスタイプ。孤高の存在で、女子たちは遠巻きに彼を眺める。僕はその様子をさらに離れたところから眺める生徒Eといったところだろうか。ゆっくりと近づき、フェンスに背を向け膝を抱える。彼は小説のような小さい本のページをめくる。僕はその背中に尋ねた。


「どうして今日は来たの。僕が来るってどうして分かったの」

『今日は?僕はいつもここにいるよ。隠れて屋上を観察していたことも全部知ってる。僕はここで君を観察してたから』

「え!‥‥気づいてたの?」

『うん。それで、やっと止める気になった?』


 そんなはずはないと僕は思った。ここ数日、僕は常に屋上を気にかけていた。毎日だ。屋上にはたしかに彼の姿はなかったはずだ。しかし彼はここから僕の様子を見ていたという。僕は騙されるまいと反論した。


「君は嘘をついている。僕は毎日屋上を観察していたんだ。でも君の姿はなかった」

『嘘?君がベンチに隠れてこそこそとこちらを伺っていたことも、3年生の教室に侵入していたことも、通るついでに柱に隠れて屋上を見ていたことも、全部知ってる』


その時の僕の表情まで彼は詳細に話し始めた。ベンチに隠れる姿はこそ泥そのものだったと、笑いながら話した。彼の話は本当らしかった。あの情けない姿を見られたのかと思った瞬間凄まじい羞恥心に襲わられ、僕はそれから逃げるように話題を変えた。


「いや、こんなこと言うのあれだけど、別に自由にしたらいいんじゃない?」

『なにが?』

「その‥‥ここから飛び降りること」

『へぇ?ほんとに?まぁ、それもいいかもね。僕は楽になるし、君は心にこびりついた罪悪感と一生を共にすることになるけれど、僕にはそんなの関係ない』

「‥‥君ってさ、かまってちゃんだよね」

『そうだよ。だから君に止めてほしい』


彼の声に、僕は驚いて顔を上げた。首を捻り顔だけこちらに向けた彼は、笑っていた。半分泣きそうに笑っていた。その表情を、僕はどこかで見たことがあった。掠れる声にも、聞き覚えがあった。これは僕の直感だが、もしかしたら彼は、本当に僕に止めてほしいのかもしれないと、そう思った。


「‥‥じゃあさ、まずは僕ら友だちになるっていうのはどうだろう。名前教えてよ」

『それは個人情報。僕はたとえ友達であってもいい距離感を保ちたいタイプなんだ』


そう言うと、先ほどまでの彼に戻りふいっと前を向いてしまった。結局最後まで名前は教えてもらえなかった。初めて会った日、幽霊仲間と言ってきたのは彼の方だが、友達になる気があるのかないのかよく分からない。しかしどちらにせよ、手遅れになる前に彼を引き止めなければならない。でも、どうしよう。どうしたら彼を引き止められるのだろう。





六限目が終われば、僕は彼に会うために屋上へ向かった。

毎日欠かさずに。ある日は難解なクイズを出題し、彼が答えようとすると「明日答えを教えて」と逃げ去った。またある日は「おもしろいゲームを考えたから一緒にやろう」と提案し彼をそこから降ろした。こうしてなんとか彼が飛び降りることを阻止し続けた。毎日引き止めることは簡単ではなかった。

彼は頭の回転が早く、聡明な人間だ。打った球は、僕に一瞬の油断も許さずに打ち返される。彼は歩く図鑑のようになんでも知っていた。肉食のワニにはなぜ平らな歯があるのか、一円玉の後ろに描かれている木の正体、公園の回るジャングルの名前。彼はよくあくびをする。浅学な僕との会話は実に退屈そうだった。

このままでは飽きられるのも時間の問題だと、僕は考えた。

僕には計画を練る時間が必要だった。毎晩ノートに思いつく限りの策を書き出した。クイズ、豆知識、オリジナルゲーム、音楽の話、芸能人のゴシップ、手品の練習もした。しかしそれらはすぐに限界を迎えた。披露するものがなくなった僕は「君がいなくなったら悲しむ人がいるよ」と情に訴えかけてみる。彼は『うぇー、一晩考えて出たのがそんなベタなセリフかー』と顔を歪ませて笑った。



 大変なら、放っておけばいいじゃないかと思うだろう。前みたいに、自由にすればと突き放せばいいじゃないかと。しかし、それはできなかった。友達だから?違う。可哀想だから?違う。彼は、本当に飛び降りるつもりだと分かったからだ。

彼は空っぽの心で笑う。すでに限界をむかえた心を抱え、消えることもできなくて、雲の中を泳ぎ続ける。誰か気づいてくれないかと、世界から隠れながら願っている。あの日彼が見せた泣きそうな笑顔は、そうゆう人の笑顔だと思った。僕の笑顔に似ていた。毎朝、鏡の前に立って練習する。口角が上がらなくて、ピクピクと震える。うまく笑えなくて今にも泣き出しそうな僕の笑顔。きっと彼と僕が抱えているものは、同じ、重たいなにか。もし目の前に、あの頃の僕が現れて膝を抱えて泣いていたら僕はどうするだろう。彼のように助けを求めてきたら、僕はどうするだろう。どうしてあげたいだろう。想像する。頭の中で僕は、僕に手を差し出した。これが僕の出した答えだった。だからこうして今日も会いに来た。彼と僕を助けるために。しかし、努力と結果はいつも隣同士の親友ではないようだ。僕の彼を救う計画が、いつになっても達成されないのと同じように。




作戦が尽きた僕は彼の真下に座りこみ項垂れた。


「でも君がいなくなったら悲しむ人がいることは本当でしょ」


今日の作戦はうまくいかなかった。彼はまだフェンスの上で軽い風に吹かれている。白い肌を隠すように靡く髪。うっとおしそうに彼は顔を横に振った。


『じゃあ君がいなくなったら誰が悲しむと思う?』


上体がぴくりと反応した。彼は時々、嫌なところに触れてくる。指の腹でうなじを撫でられたように体がざわつき、心臓がキュッと縮む。


「‥‥さぁ、誰だろうね」


僕は広がる雲をかき消して笑う。非常に残念なことだが、この問いには答えはない。なぜそう言えるのか。数週間前にも僕は同じようなことを考えたからだ。僕がこの世界から消えて誰が悲しむのだろうと。頭に浮かんだのは白いぼんやりとした影だけ。顔は浮かんでこなかった。


「分かんない。僕、家族にも迷惑かけて、母さんのことも悲しませてばっかりだし。中学の三年間はずっと引きこもってたんだ。友達もいない。高校生になって、やっと少しだけ登校できるようになったけど」

『ふーん。じゃあ、聞いてみれば?僕がいなくなったら悲しい?って』

「誰に?」

『そんなの自分で考えて』

 彼は空から舞い降りたみたいに軽々と着地すると、『また止めにきてねー』と屋上を後にした。





帰り道は、藍色と橙色がちょうど半分。今日が幕を閉じようとしている、そんな空だった。中学生の頃、僕はこの景色を車の窓から見ていた。多分、死ぬまで一生忘れないのは、台所でひとりで泣いている母さんの背中。


 毎朝、僕の部屋の扉に向かって『今日は行けそう?』と尋ねる。僕は「ううん」と返事をする。母さんは『わかったよ。昼は焼きそばでいい?』と聞く。夕方、パートから帰ってくると、なるべく明るい声で部屋に篭る僕を呼ぶ。『買い物、荷物あるから手伝ってよ。ついでに散歩でも行って帰ってこようよ』って。だいたいいつも夕方五時半ごろ。

部屋から出て、僕はその日はじめての洗顔と歯磨きをして、ほつれたパジャマの上だけ着替えてジャージを羽織る。体を折りたたみ、左を向いてシートに座る。狭いシルバーの中古の軽自動車。車に揺られながら窓を覗くと、日が暮れて、今日が終わっていくのが見えた。買い物前に散歩する。自転車とすれ違う。僕は荷台の土で汚れたスポーツバッグを横目に見る。母さんはなにも話さない。でもなぜか少し嬉しそうだった。

河川敷を歩くふたつの影が伸びていく。帰りに母さんの勤めるスーパーに寄る。友人らしきおばちゃんが僕に声をかけてくる。僕は目を合わせずにテキトーに挨拶を返す。母さんは、なにも変わっていないみたいな顔していつも笑っていた。晩御飯の時には、その日来た変な客のことをよく話していた。何度来ても商品の場所を覚えないおばあさんの話も。


高校に入ってからは少しずつ学校に通えるようになった。

二年生になった今も相変わらず友達はいない。真っ白な校舎を見ると押しつぶされそうになって、吐き気がして家に戻る日もある。晩御飯を食べ終わると、僕はすぐに自分の部屋に篭る。布団に包まって皿洗いの音を聞く。部屋から出て台所に向かうと『石鹸入っちゃった』と母さんは慌てて目をこすった。冷蔵庫から牛乳を取り出し、部屋に戻ろうと扉を閉める手を止めた。振り返り、母さんの後ろ姿を見つめる。


僕がこの世界からいなくなったら、母さんは悲しい?

こんな僕でも、ここに居ていい?


丸い背中に問いかけてみる。もちろん答えはない。まだ少し泡の残った皿を水切りにのせた母さんは、視線に気づきこちらを見た。


『なによじっと見て』

「な、なんでもない」


 僕は急いで視線を逸らす。母さんは前を向くと、腕で頬を拭いスポンジに洗剤を垂らした。結んだ髪に白い線が混ざっていた。


「‥‥白髪だ」

『え?あぁ、ま、私ももうすぐ五十だから』

「誕生日、いつだっけ」

『再来月の十五日。なぁに?誕生日プレゼント買ってくれるの?』


母さんはすぐに『冗談よ』と言うと、束ねて洗った箸を重なる食器の間にさしこんだ。タオルで手を拭いたときに見えた横顔は、嬉しそうに笑っていた。その時、母さんの目尻から一粒の涙がこぼれたのを、僕は見逃さなかった。


母さんは絶対に“学校“という言葉を使わない。僕を思って。僕を思って、ひとりで涙を流す。僕は心に蓋をするように、扉を閉めて、気づかないふりをしてきた。母さんの嬉しそうな顔を見たのは久しぶりだった。最後に流れた涙は、今までの涙とは違う気がした。



部屋のドアノブに手をかける。

モノクロの部屋は夜になると真っ黒な世界に変わる。暗闇が僕を歓迎する。今日もまた、そこで待っているのは闇を溜め込んだ洞窟の入り口だと思っていた。扉を開き、僕は驚いた。真っ黒な世界に、白い光線が差し込んでいたから。カーテンの隙間から差し込む光だった。僕は窓に近づき、そっと手を伸ばした。光の差し込む隙間に指を入れた時、無地だと思っていたカーテンの模様に気づいた。ストライプの刺繍。後ろにはもう一枚レースのカーテン。日当たりのいい部屋だから二重にしようと、母さんはあの時も嬉しそうだった。


カーテンをひらく。縁に溜まった埃が舞う。伏せがちな瞼をあげると、窓の向こうは藍色の夜だった。そこに、黄色いまあるい月が浮かんでいる。光が差し込んだ部屋は、ほんのり色付いて見えた。僕はカーテンを開いたままベッドに腰掛け、横になった。

まるで、ここに初めてきたみたいだ。深く息を吸う。胸元まで布団を被り、背中を丸める。光がゆっくりと滲んでいく。視界が狭くなったり、少し広がったりを繰り返す。遠のいていく意識の中、洗濯機の回る音だけが聞こえていた。





「昨日さ、母さんが嬉しそうだったんだ」


今日の屋上から見えるのは、気持ちよさそうにゆらめく桃の木。街を埋め尽くすカラフルな屋根と、その間を流れる川。体育館を駆け抜けるバスケ部の足音。白い球が高くのぼり弧を描く。晴れた空によく似合うトランペットの快音が聞こえる。僕はフェンスの上の彼に声をかけた。


『へぇー。よかったね』


彼は興味なさそうに答えると、週刊の漫画雑誌を一ページめくった。

「久しぶりに話した気がする」

『なにを?』

「なんでもないこと」

 また、ペラッとページをめくる音が聞こえた。

『君の名前、なんていうの』

「え?‥‥(あさひ)だけど」

『由来は?聞いたことある?』

「うーん、たしか、太陽のように暖かく、大きな心を持った子に育ってほしいとかだったかな」

『ふーん』


彼は空っぽの返事をすると『これあげる』と僕に雑誌を投げてきた。今日もすぐに立ち去るのだろうと思った。しかし彼はフェンスの上に座ったままだった。僕も彼に背を向けたまま、受け取った漫画雑誌をひらいてみる。彼はその後も話しかけてくるわけでもなく、橙色の幕が降りる空の向こうを眺めているだけだった。どこからかカレーの匂いがして、僕は読んでいた漫画を閉じ、横に置いた。彼の背中に「そろそろ行くね」と伝え鞄を肩にかけた。彼は返事しなかった。前に屈み顔を覗いてみる。「なにを見てるの?」僕は尋ねた。『あの日の空』と彼は答えた。




植物が陽に照らされ暖かい匂いを放っている。

街を流れる川に沿って、僕は学校へ向かう。

川の水面には光が浮かんでいた。柵から半分身を乗り出すと、川底を埋める石が見えた。水は意外ときれいなようだ。川にかかる短い橋を小学生の列が手を上げて進む。曙橋。こんな短い橋にも名前がついている。

ふと、彼に名前を聞かれたことを思い出した。嬉しかった。少しは友達として認めてもらえたということだろうか。途中大きな風が吹いて、咲いたばかりの濃い桃色の花びらが僕の足元に落ちた。二週間後には終業式を迎え、僕はもうすぐ三年生に進級する。




学校に着くと僕は教室には行かずに、保健室でテストを受ける。終わりを告げるチャイムが鳴ると、半分埋めたテスト用紙を裏返し、急いで身支度をした。職員室前の階段を登り、三階の図書室の前を小走りで通過し、廊下の奥へと走っていく。クリーム色の両開きの扉を開くと、ここからは魔法の世界。屋上へ続く階段を一段飛ばしで駆け上がり、勢いよく扉を開く。その音で彼は振り返り『お、きたきたー』と手を振った。僕は返事をする代わりに、軽く右手をあげた。フェンスに背を向けて彼の斜め下に腰掛け呼吸を整える。額にはじんわりと汗が滲む。日に照らされた屋上は暑かった。出会ったあの日から、気づけば一ヶ月が経とうとしている。


『今日はなにを持ってきてくれたの』

 小説のような小さな本を片手に鼻歌を歌う彼。

「今日はなに読んでるの」

『秘密』

 僕はわざとらしくため息をこぼす。

「まぁいいや‥‥君ってさ、飛び降りるって言う割には、全然そんなそぶり見せないよね。毎日楽しそうだし」

 鞄から水筒を取り出し、少し前から気になっていたことを聞いてみた。強めに閉めた蓋をひねり中の水を一気に水を飲み干す。彼は本を閉じると顎に手を添え考えるふりをして、それからすぐに満足そうに頷いた。

『じゃあ、次で最後にしよう』

「え?」

 思わず口の端から水がこぼれて、慌てて手の甲で拭った。

『次、僕を止められなかったら、僕はここから飛び降りる』

「い、いやいや、ちょっと待ってよ!そんな、急に言われても、困る」

『でももう一ヶ月も経った。時間は有限なんだ。ちゃんと答えを出してもらわないと困る』





帰宅すると、時計の短針は2にさしかかろうとしていた。机には、コンビニでなにか買ってと大急ぎで書かれたメモと、千円札が一枚置いてあった。

テスト期間はみんな早めに帰宅し、ゲームをしたり、携帯を触っていたら夜になったり、明日に向けてテスト勉強をしたり。普段とは少し違う各々の日常を謳歌するのだろう。僕はというと、そんな気分には到底なれなかった。

机の千円札をそのままに、部屋に向かった。鞄は自然にスルスルと手から離れ、僕はベッドに倒れて仰向けになる。青天の霹靂。それはあまりにも突然やってきた。僕の些細な一言で、そこにあったはずの日々が終わりを告げようとしている。たまたま肩がボタンに触れて、穏やかに進んでいた列車を緊急停止させてしまったような。むしろ驚いているのは自分の方で、どうしてこうなったのだと憤りすら感じている。白い天井を眺めていても、もちろん答えは出なかった。そのまま、考えたり、考えるのをやめたりを繰り返した。アーティストがよくいう“降ってくる“的なことが起こらないかと待ってみる。方法は浮かばない。そんなに簡単にアイデアが浮かばないことは知っている。すでに実証済みである。僕は毎晩机に向かい、作戦を考えてきたから。彼はヒントを与えてくれなかった。だから僕は彼が好きなものを、よく観察して考えてみる。彼はいつも本を読んでいる。漫画、小説、雑誌のようななにか。次の日は漫画の話をする。僕なりの考察と、その後の展開の予想も添えて。『そうかなー』と彼は笑う。嬉しそうに。僕は安心する。今日彼は飛び降りないと。笑顔を返す。僕はこんな日常が続くのだと思っていた。彼はもうどこかで飛び降りることはやめようと決めていて、本当は僕と会えるのを楽しみにしていたりなんかして。もう少しだけこの世界を生きてみたくなったのではないかと。そう思っていたのだ。





秒針と僕の鉛筆の音だけが響く保健室。

四択問題の3に丸をつけようとしたとこで、終了を告げるチャイムが鳴った。テストを終えると僕はまっすぐ下駄箱へ向かった。今日は久しぶりの雨。青い傘を広げると、雫が散って顔にかかった。斜め下を向いて歩く。外を歩く時はどうしてもこうなってしまう。もう少しこの世界に慣れたいと思う。


家に着くと、キッチンの明かりをつけテーブルの上に鍵を置く。千円札と、ちゃんとお昼食べるのよとメモ書きがあった。部屋に入りベッドに倒れる。きぃんと軋む音が部屋に響く。それからすぐに、この部屋は静寂に包まれる。横向きに寝転んだまま、少しの間固まる。頭の中は空っぽだ。靴下は湿っていて気持ち悪い。僕はこの一週間、屋上へは行かなかった。彼は来ていただろうか。寝返りを打った瞬間、つま先になにかが当たり布団をめくった。床に落ちる音がして、大きな穴を覗くようにベッドから身を乗り出す。それは一ヶ月前、僕が作った作戦ノートだった。


表紙には太字で"大作戦ノート"と書かれていた。「センスないよ」と一ヶ月前の自分につっこんでみる。ノートを手に取り開いてみた。一ページ目は、簡単に答えられてしまった激むずクイズ集。四ページ目からは僕が考案したゲームの数々が続く。自信作だったが彼にはつまらないと言われてしまった。ノートの中盤からは、すぐに見破られた手品のタネ。彼との会話を予想したもの。これは一度も当たったことはない。しかし彼は僕の心がお見通しのようで、考えていることをよく当てられた。彼の性格、好きなものまで細かく記載されている。ひらがなに混じる書き間違えた漢字。初めて書く単語。下手くそな似顔絵。何度も書いて消した跡。ノートの中の僕は、その宿題を楽しんでいるようだった。

まるで明日を迎える理由をもらっているかのようだった。

最後のページ。端のほうまでぎっしりと埋められていた。世界のことわざクイズはまだ彼に出してないな。心の中で呟きノートを閉じた時、雨が窓を叩いた。


顔を上げると、壁にぶら下がるカレンダーが目に入った。先月のままのカレンダーには、所々にバツ印がつけられていた。

僕は、学校に行けなかった日の日付にこうしてバツを書いていた。自分にバツをつけるように。

ベッドから降りて、カレンダーに手を伸ばす。

人差し指でバツ印をなぞる。慰めるように、優しくなぞる。

だんだん線がぼやけて見えて、視界が滲んでいくのが分かった。すぐになにも見えなくなり、目に溜まりきった水が堰を切ったようにぼろぼろと流れ始めた。


「悲しかったね。辛かったね。大丈夫だよ」僕は囁く。


ベッドの中で自分の肩を抱いてそうしたように。

僕の背中をさするように。誰かにそうして欲しかったように。また涙が流れる。頬を伝った雫が床に落ちた。僕は左手を添え、点線に沿ってゆっくりとカレンダーを破った。日にちだけの真っ白なカレンダーが顔を出した。僕は破ったカレンダーを四つに折って引き出しにしまった。






街には最近、新しいものが増えた。新しい店、新しい人、新しい匂い。

少し前に見かけた桃の花はもう咲いていなかった。その代わりに桜の木が丸い蕾をふらふらと揺らしている。バトンタッチするように季節が変わっていく。彼からラストチャンス宣言を受けてどれくらい経っただろう。今日で最後のこの教室。手を突っ込んで机の中を隅々まで確認する。最後のチャイムが鳴り、生徒たちは起立する。

帰りの挨拶が終わると、教室に漂っていたしんみりとした空気はどこかに吹き飛んだ。『春休みどっか行こうよ』『次も同じクラスがいいな』『離れてもずっと友達だよ』『この後塾?』『今日部活何時までだっけ』『先輩に色紙渡すの楽しみだね』跳ねるようなクラスメイトの声が飛び交う。僕は、配られた何枚かの書類と体育館シューズと通知表を鞄の底に沈めた。教室を出ようとした時『この後職員室に来るように』と担任に呼び止められた。僕は頭を軽く前に振り、教室を後にした。僕には職員室よりも先に向かうべき場所があった。


屋上へと続く階段を、一段一段踏みしめるように上がっていく。三十段を登ったところで振り返り、周りを見渡した。はじめてここにきた時、この場所はこんな感じだっただろうか。思い出してみる。小窓から入る光は、ここを十分に照らしていた。不思議と心も少し温かくなる。この場所が変わったのか、僕が変わったのか。空気を吸うと埃とカビの匂いがツンと鼻にささる。手すりは相変わらず冷たいまま。ドアもひどく錆びついたままだ。僕は、この場所のことを心に焼きつけようと思った。もうここへ来ることはないと、なぜだかそんな気がしているからだ。そっとドアノブに手をかける。この扉を開くのも今日で最後だ。



扉の向こうは真っ白な世界だった。目が眩み、手をかざした。徐々に光に慣れてきて、手をおろす。今日が最後とは思えないくらい、いつもと変わらない調子で『やっほー』と手を振る彼がいた。僕は「やぁ」と小さく返事をすると、ゆっくり彼に近づいた。


『随分と遅かったね』

 いつものように彼の斜め下に膝を抱え座った。


「君の好きな漫画、今日新刊発売日だよ」


『知ってる』


「日本の歯医者の数は、コンビニよりも多いんだって」


『それも知ってるよ』


「駅前に新しくできたカフェの店員さん、すごい美人」


『それは知らなかった。見に行かないと』


そう言って彼は笑った。


『それで、僕を止める答えはでた?』


膝を抱えた両腕に弱い力がこもった。


「答えっていうか、これは僕のひとつの考えなんだけど、僕には君を止めることはできない。どう考えても、君の選択が悪いことだとは思えないんだ。この先の人生、何が起こるかなんて誰にも分からない。誰かが責任をとってくれるわけでもない。来世が本当にあったら、今よりもそっちの方が幸せに、楽に生きられるかもしれない‥‥って、僕自身がずっとそう思っていたから」


彼の方を見ると、水色に染まりながら、思い出を懐かしむように目を瞑っていた。


「たくさん考えたよ。でもごめん。君を止める答えは出なかった。それでも鼻の奥から血の匂いがするくらい考えた」


どれだけ探しても、確かな答えは見つけられなかった。聞きたいことならたくさんあった。君はあまりにも突然現れて、僕の生活をいとも簡単に変えてしまった。なぜ君は僕の前に現れたのか。なぜ僕を試すようなことをしてくるのか。君は一体誰なのか。なぜ僕はあの日、屋上へ行ったのか。この一ヶ月間のことをなぞっていったら、思い出したことがあった。


「あの日、こんな天気なら僕の背中を押してくれるかなって思ったんだ。だから屋上に行った。そしたら君がいた」


 僕は立ち上がり、彼の背中に問いかける。今日はどこまでも続く、青く、大きな空だ。


「僕が君を止めていたんじゃなくて、君が僕を止めていたんだよね」


 彼はなにも言わない。なにも言わず、風と呼吸をわせるように深く息を吸った。


「君は誰?」


 僕はたまらず続けた。背を向けたまま、彼は話し出した。


『僕の名前は“ゆうさく“っていうんだ、友を作ると書いて友作。お父さんが昔、なんとかゆうさくって俳優が好きで、その人みたいなビッグな男になるようにって。お母さんからは、たくさんの友達に囲まれて幸せな人生が歩めるようにって、願いを込めてつけられた名前』


「いい名前だね」


『でも。どっちも叶わなかった』


どうしてと聞こうとしてそれをやめた。

僕は彼の人生を少しだけ想像できた。

毎日をどんな気持ちで過ごしていたのか想像できた。朝目覚めると世界から逃げるように布団に隠れる。

明るく振る舞おうとする家族の声を聞く。

優しさを感じるたびに距離がひらいていく。

ゆっくりとゆっくりと。

暗い部屋で自分の肩を抱きしめる。

白い建物に押し潰される夢をみた。夜中に吐き気がしてトイレに駆け込んだ。忘れたわけではない。今もまだ、色んなことを忘れようと頑張っている最中だ。でも、急いで解決しようとしなくていい。これは、彼と出会って気づいたこと。彼と出会ったように、また別の誰かと出会って、くだらないことを話す毎日に、辛かったことも、悲しかったことも混ざっていく。忘れたようにして生きていく。だから無理に過去を消そうとも、覚えていようともしなくていい。

今の僕が導けたのは、ここまでだった。



僕は彼に伝えたい言葉があった。背中を向けたまま顔は見えないけれど、それでもいい。口を開こうとした、その時だった。

向かってきた強い風に、僕は咄嗟に腕をかざした。風は一瞬のうちに過ぎ去り、顔を上げた時には、フェンスの上に彼の姿はなかった。

「待って!」僕は駆け寄る。フェンスに顔を貼り付けて覗いてもよく見えなかった。階段を駆け下り、渡り廊下を駆け抜けていく。滑りそうになり脚がもつれる。誰かの呼び止める声を無視して、前だけを見て走り続けた。保健室の前を通り、美術室を右に曲がる。まだ彼に伝えたいことがあるんだ。どうか間に合ってほしい。脚と腕がばらばらに動く。こんなふうに走るのはいつぶりだろう。あと少し。廊下のつきあたりを右に曲がりアルミの扉を開いた。



中庭はしんと静かだった。

脚を止めた瞬間、喉が詰まるように息苦しくなった。聞こえるのは僕の乱れた呼吸の音だけ。石造の噴水は小さく水を噴き上げ、ベンチにはてんとう虫がとまっている。

茂みの向こうで、用務員のおじさんが芝刈り機を持って歩いているのが見えた。そこは、いつもの放課後の中庭だった。


『おい、たなかー。職員室来いよー』


 振り返ると、僕に向かってファイルを振る担任の姿があった。




 僕は担任と一緒に職員室へ向かった。


『まったく、三月だってのになんだよこの暑さは』


 担任は持っていたファイルで顔を仰いだ。通り過ぎる教室はみな空っぽでしんと寂しかった。

職員室へ行くと、小さなタイヤのついた椅子に座るよう言われ、僕はおとなしく腰掛けた。積み上げられた書類と段ボール。コーヒーの苦い匂い。コピー機の音。紙の上を滑るペンの音。古ぼけた机が並ぶ雑多な職員室。自身の椅子にドカンと腰掛け、担任は嬉しそうに僕を見てきた。


『二年生もよく頑張ったな。学校楽しくなってきたか』


 しかし僕の焦点は、担任の後ろの窓。その向こうにある中庭にあてられていた。


『おーい、たなかー』


 名前を呼ばれ、担任に焦点がうつる。


「先生は、友作くんという生徒をご存知ですか」


『友作?俺らの学年か?うーん。三年にもそんな奴いたかな』


 担任は『ちょっと待ってろ』と言うと、窓を開け近くを通りかかった警備のおじさんに声をかけた。彼は十年近くここに勤める、この学校の守護神のような人である。声が大きく、背が高い。体格もいい。こんがりと焼けた肌にサングラスをかけている。しかしおじさんは、その見た目と反して大変心優しい人物であった。全生徒の名前を把握しているらしく、先生たちからの信頼も厚かった。朝校門で出会うと、必ず声をかけてくれる。


『なぁおっさん、友作って男子生徒知ってるか』

『友作ぅ?何年生だ。知らねぇなぁ』

 おじさんは近づいてくると、窓の淵に腕を置いた。

『田中、特徴は』

 担任が振り返る。僕は彼の見た目をなるべく詳細に説明した。それを聞いたおじさんは、目を右に左に動かしながら記憶を遡った。僕が「あと、紺色のブレザー」と囁いた瞬間、おじさんは何かを思い出したように目を見張った。



それからおじさんが話してくれたのは、十年前のある出来事だった。坂本(さかもと)友作(ゆうさく)。彼はこの学校の生徒で、十年前に学校の屋上から飛び降り、亡くなっていた。その事件の後から、屋上にフェンスが張られるようになったという。おじさんが勤め始めてすぐのことだったらしく、今でも鮮明に覚えていると話してくれた。彼が着ていた紺色のブレザーは、新しくなる前の制服だった。


『旭くん、どこでその話聞いたんだ』


おじさんの質問に「母から」と嘘をついた。それからすぐ、担任とおじさんは最近のゴルフスコアの話へと話題を変えた。僕はこの一ヶ月間の彼とのことを話さなかった。

『その調子で三年生も頑張れよ』と僕の肩を叩く担任に「屋上のフェンス壊れているので、直した方がいいと思います」とだけ伝え、職員室を後にした。


廊下の窓からは、ポツリポツリと降り出した雨がアスファルトに滲んでいくのが見えた。






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