6.事象
最近、おかしなことが続いている。
そもそもの始まりは、あの夢だった。見る度に怖く、切ない気分にさせられる。
克海は悪い夢ではないというけれど、本当にそうなのだろうか。個々の夢に悪い意味はなくても、複合的に見ると――などという可能性はないのか。
だって、異変はすべて、あの夢に繋がっている。
金縛りも、あの一度だけではない。二、三日に一度だから、頻繁にと言ってもいいかもしれなかった。
怪奇現象らしきものも、ある。
僧侶の列ほどのインパクトはないけれど、ふと気配を感じて振り向くと、なにかの影がサッと動く――なんてことは、ザラだった。
一番の変化は、記憶が途切れるようになったことだ。
最初は、克海と話しているとき。
なにも言ったつもりもないのに、「なんて言った?」と聞き返された。
まったく覚えがなかったので、「なにが?」と返したのだけれど。
次は、調理実習のときだ。気がついたら、トマトピューレーのビンを渡されていた。
はっきり言って、胡桃は筋力がない。おそらく、平均よりは弱かった。部活に入ってこそいないけれど、スポーツ万能な香織と比べるまでもない。
その香織が開けられなかった蓋を、開けられるか?
答えは考えるまでもない、否だ。
だからこそ香織も、ビンを渡すときに「ありがとう」と言いながらも意外そうな顔をしていたのだと思う。
案の定蓋は開かず、代わりに克海が開けてくれたのだけれど。
しかもあのとき、胡桃が野菜を切っていたという。克海には「けっこう料理、上手じゃん」と褒められたのだけれど――
その間の記憶がまったくないと言ったら、彼は一体どんな顔をするのだろうか。
覚えているのは、まな板ににんじんを乗せたところまでだ。
朝の時点で、本気で克海にお任せしてしまう気だったので、やっぱり自分でやらなきゃダメなんだとため息を吐いた。
その次に気づいたのは、ビンを渡された時なのである。
夢の内容については、愚痴めいた気分で克海に話すことができた。けれど、記憶が途切れることについては、話すことが怖かった。
しかも、本当に意識が途切れているのか、自信もない。
なんとなく前後が曖昧にはなっているが、気を失った感じはなかった。時間がものすごく経っているということもない。調理実習のときが一番長時間ではあったけれど、集中していれば時間の流れを早く感じるのは、珍しくないはずだ。
――そう、思いたい。
はう、と短いため息を吐く。
「どうしたの? なんかあった?」
我に返ったのは、隣を歩く香織に声をかけられてからだった。
香織に、夢の話はしていない。まるっきり抽象的な話で心配をかけたくなかった。
「うん、ただちょっと寝不足で」
「はっはーん」
真実ではあるけれど、半分はごまかすための台詞だった。
それでも少しは心配をかけてしまうかな、と思わないでもなかったが、反応は予想とは違っていた。なにやら目をキラリンと光らせ、口元には意味ありげな笑みが刻まれている。
「恋する乙女はツライわね?」
「えっ」
「わかるわかる、草野くんのこと考えて、眠れないのね?」
きゃーっと小さく悲鳴を上げられて、そんな解釈があるのかと驚いた。
胡桃にはそのような経験はないが、好きな人を想って夜も眠れず――などとは、漫画や小説で読んだことはある。
少女漫画の恋愛ものでも、主人公が中高生が多いから、ちょうど胡桃たちがそんな年頃なのだろうと理解もしていた。
けれど、愛だの恋だのはまだ、遠い世界の話である。
例の憧れの人にしても、本当に憧れているだけで、恋人になってみたいなどと思ってはみても、実感があるわけではない。
「いっそ告白しちゃえばいいのに。草野くんだって、満更じゃないと思うよ?」
「だからー、勘違いだって。そんなんじゃないもん」
「でも草野くん、かっこいいしいい人じゃん」
そう言われれば、否定はできない。
そもそも最初は、登下校が一緒になっただけだ。流れでなんとなく話を聞いて以降、一カ月近く経つ今でも愚痴を聞いてくれる。
しかもあまりに同じ夢が続いているからと心配して、いろいろ調べてくれてもいるらしい。こうまで考えてくれる人が悪い人のわけがない。
嫌いなはずもなく、初めからよかった印象が、今では絶対に近い信頼を抱いている。
「それは、そうだけど」
「そうでしょ?」
「――なんだけど」
恋愛感情というなら、夢で見るあの、中国風の男性に向けたものの方が近いかもしれない。
克海と一緒にいて、恥ずかしくなったりして赤面することはあっても、胸が高鳴ることはなかった。
そう。おかしな夢が原因で奇異な出来事が起こっているとしか思えないのに、あの人には会いたいと思ってしまっている。
夢の中とはいえ、傍にいてドキドキするのはきっと、殴られるかもしれない恐怖だけではなかった。
「ま、焦んなくてもいっか。今年一年同じクラスだし、まだ始まったばっかりだしね」
口ごもった胡桃を、励ますつもりなのだろう。また誤解を招いちゃったのかも、とは思うが、後の祭りである。
「じゃあわたし、ちょっと行ってくるね」
言われて、ようやく目的地に着いていたことに気づく。
貴重な昼休み、無目的に校舎内を散歩していたわけではない。五時限目が教師の都合で自習となったので、その時間にするプリントを取りに来るよう、日直に指示が出された。
その日直が香織なので、職員室まで付き添ってきたのだ。
「あ、中村さん! こっちこっち」
失礼しまーすと職員室のドアを開けた香織を、呼ぶ声がした。
目を向けると、プリントの束を抱えた小野先生が廊下の向こう側から歩いてきているところだった。
「今、ちょうど刷り上がったのよ。待たせなくてよかった」
にっこりと笑う顔が、爽やかだった。
たぶんまだ、三十歳前だろう。すごく美人というわけではないが、いつもスーツもおしゃれで、優しくて生徒からの人気もある、英語教師だった。
この先生が今年も担任でよかったと、始業の日に思ったものだ。
小野が廊下にいるのに、職員室に入る必要はない。失礼しました、と室内に声をかけて、ドアを閉じると、香織は小野の方へと歩き始めた。
見れば、小野が持つプリントはさほど多くない。もし多いようなら手伝おうとついて来たのだけれど、必要はなさそうだった。
離れていく後ろ姿を見送って、ふと、視線を外へと向ける。
職員室の前の廊下は、中庭に面していた。運動場の場所取りができなかったのか、十数人くらいの男子がサッカーをして遊んでいる。
わぁわぁと声を上げて走り回る彼らを、微笑ましく見ていた。
「――あっ」
驚いた声に、緊張の色が見えた。同時に、強い焦りも。
理由はすぐにわかった。一人の男子が蹴りそこなったのだろう、ボールが校舎の方へと飛んでくる。
窓ガラスに、直撃のコースだった。
――廊下にいる、香織にも。
このままだと、窓ガラスを割ったボールがそのまま、香織にぶつかる。
それだけではない。割れたガラスの破片が、香織を傷つけるだろう。
血まみれで倒れる姿が脳裏に浮かんで、ゾッとした。
声を上げる間もない。声をかけても、反応し、逃げるだけの時間はなかった。
――危ない……っ!
怖くて目を閉じ――その瞬間、意識が途切れた。
「――胡桃……?」
名前を呼ばれて、ハッとした。
なんだか、ボーッとする。体も、痛い気がした。
状況がわからず、ゆっくりと視線を左右へと走らせる。
視点が低い。床がすぐ近くに見える。その床に散らばったガラス片が、陽光を浴びて輝いていた。
綺麗だなと思ったのも一瞬、ようやく、本当の意味で我に返る。
「香織ちゃん大丈!?」
「大丈夫って……」
悲鳴じみた声への返事は、やけに近いところからあった。――胡桃の、真上から。
「胡桃が、助けてくれたんじゃない」
――え?
すぐ近くにある顔を見上げて、困惑した。
香織の背中にしっかりと回されているのは胡桃の手で、彼女を抱きしめた状態で床に倒れていたのだ。
元々立っていた場所からは十数メートルも離れたところにいて、ほとんど小野の足元に近い。
胡桃が助けた、と香織は言った。状況から見ても、おそらくはそうなのだろうと思う。
けれど、走って香織にとびつき、彼女の身体を庇うために反転して自分を下にして――
そのような芸当、できるはずがない。
時間をかけても無理だろうが、それをボールが窓ガラスにぶつかるまでの、ほんの数秒でなど、あり得なかった。
「……大丈夫!?」
今まで硬直でもしていたのだろうか。叫んだ小野が、慌てた仕草で膝をつく。
まるでそれが合図になったように、静まり返っていた空間に喧騒が溢れた。
ため息を吐くと幸せがひとつ逃げていく、と言うけれど、この一カ月で胡桃はどれだけの幸せを取りこぼしたのだろう。
思いながらも禁じ得ず、はう、と嘆息してしまった。
「なに、今頃疲れでも出てきた?」
「今更どころか、ずっとだもん」
くすくすと笑う克海に、むくれて見せる。
あれからが、大変だった。直撃は免れたとはいえ、ガラス片を多少は浴びている。怪我をしているかもしれないと保健室に連れて行かれ、体中確認された。
幸い、二人とも怪我はなかった。胡桃の肘と背中にうっすらと痣はあったけれど、状況を考えればやはり、これだけですんでよかったと思うべきである。
大変だったのは、教室に帰ってからだ。昼休みのことだから、クラスの中にも目撃者がいたらしい。一躍ヒーローのように騒がれて、少し泣きそうな気分になった。
これが本当に自分のやったことなら、胸を張ればいい。
もし別人の所業を胡桃の功績だと間違われたのなら、違うと正せばいい。
だが問題は、傍目に見れば間違いなく胡桃がやったことなのに、本人には記憶がまったくないことだった。
「でも意外だよな。広瀬ってなんか、運動できなさそうなのに」
至極失礼な発言ではあるが、怒る気にはなれなかった。電車を待つホームで並んで立つ克海を、じとりと見上げる。
「苦手だよ、運動。とーっても苦手」
「でも、中村を助けたとき、ものすごいダッシュかけた上にスライディングかけたって聞いたけど」
「五十メートル十秒台のあたしに、そんな芸当できると思う?」
「――え?」
面白がるように話していた克海の顔から、笑みが消えた。
言わんとすることがわかったのだろう。ごくりと息を飲む勢いの真摯な顔で、口を開いた。
「五十メートル十秒台って……遅すぎないか……?」
「そこ!?」
驚くべきところが違う。
鈍い鈍いと言われる胡桃が指摘する側に回るのは、珍しいことだった。
我に返ったのか、克海が片手で自分の口元を覆う。
「いや、ごめん。予想外の遅さでつい……」
少しでもからかう意思があればまだマシなのに、本気で驚いている様子なのが逆にショックでもある。
そんなに遅いかなと内心で傷つきながら、唇を尖らせて見せた。
「ともかく! そんなあたしにできるわけないでしょ?」
「ああ、まぁそれは確かに……」
眉根を寄せる胡桃につられたように、克海も眉間のシワを深くした。
「でもほら、火事場のバカ力って言うし。理論上だとたぶん、不可能じゃない――と思う」
「そうなの?」
たしかに「火事場のバカ力」なる言葉を聞いたことがあるけれど、それほど顕著に表れるものなのか。
「人間って、普段は全力の三十パーセントくらいしか使ってないんだって」
肩を竦めた苦笑は、どこか面白がるような色も見て取れた。
「あくまで理論上だし、単純に三倍以上には考えられないだろうけどさ。可能性としてはあるんじゃない?」
問われて、考えてみる。胡桃ではどう考えても無理そうだけれど、たとえば倍の能力がある人なら、あの場面で香織を助けるのも不可能ではないのかもしれない。
「でもね、まったく覚えてないの。危ないって思って、次に気づいたときはもう、香織ちゃんを助けたあとで」
「それは、無我夢中だったってことじゃない?」
一生懸命すぎて覚えていないというのは、あるのかもしれない。まして、通常以上の全力を出さなければならないほど切羽詰まった状況だったならば尚更だ。
けれど、疑問は残る。
疑問というか、違和感と呼ぶべきか、胸の奥にもやもやとしたものがあった。
くすりと笑う声が聞こえた。
「ま、今日はよくがんばった。助けられてよかったと思って、家に帰ったらゆっくり休めばいいよ」
お疲れさん。
ぽん、と軽く頭を叩かれるのは嬉しくて――全然よくないはずなのに、まぁいっかと思えてしまったのが不思議だった。